芥川は彼女との結婚を諦めたが、その代償に、養父母や伯母さんへの反逆を企てた。悪所へ通って女を買い、もともと頑丈ではない躰を壊すほど放逸な生活をして、ついには床に就いてしまった。咳が止まらないので、肺病でも貰ったのかと思って医者に診せると、肺は正常だが体力が大分低下している。そのせいで風邪が治りきらないのだ。あるいは心因性で喘息に似た症状が出ることもある。神経衰弱の気味があるのじゃないか、という診断だった。

 芥川は遊蕩も満足にできない自分の体質の虚弱さに落胆したが、その一方で「このまま咳で窒息して死んでしまえばいい」と、捨て鉢な気持ちもあったという。芥川が病床から僕にくれた手紙には、彼の懊悩が克明に綴られていて、それで僕は事件の顛末をかなり詳細に知ることができた。親友の危機を感じた僕は、環境を変えて静養することを勧めた。そして心の平安を取り戻すためには僕の故郷、松江の風土がうってつけだと、何度も繰り返し手紙を書いた。

 芥川の体調が落ち着いたのは、梅雨冷えの六月が過ぎて、夏の太陽が輝き出した頃だった。七月も終わる頃、ようやく医者から旅行の許可が下りると、彼は飛び立つように此処へやってきた。この夏を僕と過ごすために——たぶん順当にいけば、学生時代の最後になる夏を。


「結婚式の日どりは決まった?」

 芥川は僕の肩に凭れたまま、伏し目がちにそう言った。

「いや、まだ日にちまでは……。卒業したら院に残るか、京都か大阪で講師の口があれば一番良いのだけれど、いずれにせよ進路がはっきりしないとね」

「それもそうか。……一年先のことなんか分からないよな、実際」

 僕はなるべく肩を動かさないように意識しながら、息を深く吸ってため息をした。

 暗闇に目が馴れて、海の向こうに山々の連なりがぼんやりと見えるようになった。海は静かに凪いでいる。カーブを描く海岸線。アルファベットのCの字型の、間口の狭い入り江の先に広い海原が広がっているんだろう。漁火の群れは、そちらに向かってゆっくりと動いている。

「君は? 卒業したら……」

「分からない。どこかの高等学校の教師の口でもあればね」

「小説は? 書いてるんだろ、いまも」

「……うん」

「書けよ。僕も楽しみにしてるんだぜ。五月の新思潮に出たのも良かった。君は才能がある」

「井川、」

 と、不意に僕の浴衣の衿元をぐいと掴んだ芥川が、あの目でジッと見つめてきた。

 あの目——僕を落ち着かない気持ちにさせる目だ。滴りそうな潤みを湛えた黒い眸が、磨き抜かれた鏡のように僕自身を映している。そこに移った僕の顔は、痛みに耐えているような、苦しいような、急いているような表情をしている。

 芥川は長い睫毛を手招きするように動かしながら、何度か目瞬きをした。少し顎を仰かせ、ぐっと互いの顔を近づけて——雛人形のように整った貌の中で、そこだけ仄かな肉感を感じさせる、ぽってりした赤い口唇が、薄く開いて言った。

「君はフィアンセを愛しているの……?」

「もちろん」と僕は口を開きかけ、少しの間口籠った。

「……そのつもりだよ。少なくともそうするつもりでいる」

「ふん。手くらいもう握ったか? 口づけは?」

 芥川は皮肉っぽく鼻を鳴らしたが、顔はちっとも笑っていない。それどころか、僕の衿元を掴んでいる手が小さく震えている。

「アクタ!……」

僕は押し止めるように彼を呼んだ。

 アクタ。なんて顔をしているんだ。それじゃまるで、……

「ふ、——君には出来ないよな。出来る立場じゃない。恒藤のお義父さまに知られたら」

 芥川はそこで言葉を切り、くしゃりと顔を歪めた。笑顔をつくろうとして失敗したような、いまにも泣き出しそうな表情だ。

「あっ」と思ったその刹那、口唇の上を柔らかな熱が掠めた。

 柔らかな、吸いつくような、粘膜の潤み。彼の体温。

 それは一瞬で、すぐ離れていこうとした。そんな気配がした。そのため僕は露台の手すりを握っていた手を引き剥がし、彼の頭を両手で押さえつけた。

 そして口を大きく開き、彼の口唇を食むようにして自分の口唇を擦り付けた。

「う、……!」

 芥川はぶるりと戦慄いて、浴衣の衿を握った手に力を込めた。しかし、自分から従順に口を開き、粘膜を擦り付け合う動物染みた接吻を、拒みはしなかった。戸惑った様子で縮こまっている舌を、こちらの舌で弾いてやると、芥川はびくりと全身を強張らせ、それからおずおずとその舌を差し出した。

 僕はそれを捕らえようと躍起になった。ぬるつく舌は絡めてもすぐ解けてしまう。小さな頭と薄い背中をかき抱いて、躰ごと逃げを打てないようにしてやると、ギシリと露台の手すりが軋んだ。いつの間にか、僕は露台のきわに芥川を追いつめる格好になっていた。

 芥川もまた僕の衿を掴んでいた手を肩口に回し、縋り付くように僕の躰を抱き寄せた。二人の胸がぴったりと重なって、早鐘を打つように速く、強く、互いの心臓が脈打つのを感じた。

「たぶん——」

 と僕はその間、考えを巡らせていた。肉体と別のところで、思考が妙に鮮明になっている。

「僕たちが友だちだったことなんて、はじめから一度もなかった!」


 はじめて言葉を交わしたとき。午後の教室で、僕は大学の図書館で借りた本を読んでいた。

「井川君は仏語も分かるのか」

 独り言のような低い声。僕が顔を上げると、彼は「しまった」という風に顔を赤くした。

 どういうきっかけで親しくなったか思い出せない、なんて嘘だ。覚えている。全部、昨日のことみたいに。

 はじめて二人で出掛けた日のこと。神田の古本街で、足がクタクタになるまで歩き回った。

 はじめて彼の家に招かれた週末。彼の実父が経営している牧場で、生まれたばかりの小さな仔牛を抱かせてもらったら、あんまり重くてなかなか持ち上がらなかったっけ。へっぴり腰の僕を見て、彼ときたら腹を抱えて笑っていた。

 何度も二人で休日を過ごした武蔵野の森。僕の下手くそなスケッチに、何と感想を言ったものか、困った様子の彼の顔。そういえばあのときも、急な雨に降られて弱ったことがあった。

 はじめて外泊したのは、横浜にサロメを観に行った夜。あの夜のサロメは素晴らしかったけれど、あの公演を観に行った他のクラスメイトたちと、宿の部屋がいっしょだなんて聞いてなかった。まるで僕たち二人きり、みたいな言い方でアクタの方から誘ってきたんだから、僕はちょっと期待したんだぜ。

 そう、僕はあのとき、期待してたんだ。あのときだけじゃない、初雪の降った朝、寮の部屋を抜け出して、上野まで二人で歩いたときも。ニコライ堂の藤棚の下で、日の暮れるまで話し込み、ふと見上げた空に一番星を見つけたときも。

 いつだって僕は、こんな風に君に触れてみたいと思ってた。


「井川ァ、……」

 ちゅっと濡れた音を立てて口唇を離し、鼻先を触れ合わせながらほうと息を吐くと、芥川が鼻にかかった、少しくぐもった声で囁いた。

「あと何回そう呼べるの? 来年の秋にはもう『井川』じゃなくなっちまうんだろ。『恒藤』なんて舌噛みそうじゃないか。井川のばか! 井川なんかもう知らない」

 僕は返す言葉もなかった。目を伏せたまま、何度か小さく頷くと、芥川はもう一度ちゅっと音を立てて僕の口唇を啄み、それから僕の肩に額を伏せた。

「——どうして僕ら、ずっとこのままでいられないんだろう」

 その答えも、やはり僕は持ち合わせていなかった。

 僕たちは長い間、その露台の上で立ったまま抱き合っていた。二人が黙ってしまうと周囲はひどく静かで、潮騒の音だけが妙に鮮烈だ。

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