「美しいね……」

 芥川は水面に浮いたり沈んだりしながら、輝かしい落陽の輻射に目を奪われていた。太陽が水平線に潜り込んでいった場所から、一条の光がまっすぐに伸びて、桟橋のように芥川のもとまで続いていた。濡れた白い肩が、返照によって、火をつけたように真ッ赤に染まっていた。

「ああ、……美しいね」

 僕もまた、半ば放心のうちに呟いた。

「Elle est retrouvée,

 Quoi? ― L'Éternité.

 C'est la mer allée

 Avec le soleil.」

 いつか読んだ仏語詩の一節を、僕は声に出さずに口唇の動きだけで暗唱した。

 ヴェルレエヌが愛し、憎んだ若い才能。

 少年詩人が見つけた永遠は、こんな一刹那であったろうか?

 日の入りが深くなるほどに、逆光となった芥川の背に落ちる影が、contrastを強くする。

 やがて太陽と海が完全に一つのものになり、橙色の光の帯が紫に色を変えるまで、夕暮れの色彩を映すカンヴァスのようなこの友人のプロフィルを、僕はずっと見つめていた。


 いつしか夜の闇に包まれた海に、漁火が点々と灯りはじめた。

 地元の魚尽くしの晩食を腹いっぱいに収めた僕たちは、露台の手すりに凭れ、その光の連なりを眺めていた。湯上りの火照った頬に、夜風の涼しさが心地いい。

 今夜は新月らしく、真ッ暗な夜空に満天の星がきらめいていた。月明かりのない夜は、空と海の境界が曖昧になる。水面に浮かぶ漁火が、まるで空から落っこちた星のようだ。

「海の底にもう一つ街があって、その灯りが水面に映っているようだね」

「順番に灯っていくところを見ると、おいでおいでと手招きされてるみたいじゃないか?」

 僕たちは好き勝手な感想を言っては、顔を見合わせてくすくす笑った。お互いに、救い難いロマンチストだと思ったんだろう。食事のとき、少し麦酒を飲んだせいかもしれない。

 芥川は酔うとすぐ赤くなるたちで、コップ一杯だけで胸のあたりまで桃色に染まっていた。緩く合わせた浴衣の襟元が、ちょっと悩ましい。……僕も幾分、酔っているのかもしれない。

 僕はさり気なく海へと視線を移すと、不意にどんと温かな重みが肩に加わって、

「ねえ井川、……ありがとう」

 と、芥川がくぐもった小さな声で言った。

「君がいてくれなかったら、僕は今頃どうなってたか知れない。一時は本気で、もう死んじまいたいと思っていたんだよ」

 僕は思わずぐるッと頸を巡らせて、芥川を見返した。

 僕の肩にこめかみを預けた芥川は、上目遣いに僕を見つめて、微かに眉を寄せた。

「そんなに彼女を愛していたの」

「さァ……。愛ってなんのことだか、この頃僕はすっかり分からなくなっちまった」

 芥川は具合の良い姿勢を探すように身動ぎした。僕は反射的に、彼の背中に腕を回して支えてやろうとしたが、思い直して、そのまま手すりを掴んだ手にグッと力を込めた。

 今度の旅のきっかけになった芥川の失恋——その相手の女性は、芥川にとって幼馴染だったらしい。家がご近所同士だった関係で、子どもの頃はよくいっしょに遊んだそうだ。お転婆で利発な「彌ぁちゃん」は、駆けっこも、カルタ取りも、「僕に負けてはいなかった」という。しかし二人が長じるにつれて、男女七歳にして席を同じうせず……でもないが、それぞれ学校友だちができると、自然と疎遠になっていった。

 ところがつい昨年、ある美術展でばったり再会したのをきっかけに、二人の間に今度は若者同士の交際がはじまった。お転婆だった「彌ぁちゃん」は、見た目こそ女らしく成長していたが、男勝りは相変わらずで、青山女学院出の才媛だけあって、英文学に造詣が深く、帝大英文科で次席の芥川とも互角に議論するのだと、僕も芥川自身から聞いたことがあった。

 もっともその頃は、まだ芥川も恋愛感情を認めていたわけではなかった、と思う。女友だちに対する多少華やいだ気分はあったにせよ、漠然とした好意以上のものは、少なくとも自覚してはいなかった。

 芥川の気持ちに変化が生まれたのは、この春、彼女に縁談が持ち上がってからだ。顔も知らない、親が勝手に決めた許婚に嫁ぐという彼女に、芥川は突然冷水を浴びせられたように、躰の芯まで滲み入るような冷え冷えとした悲しみと、燃え上がる嫉妬を感じたのだという。

「彼女だって知らない男といっしょになるより、僕の方がずっと良いって言ったんだぜ」

 芥川はそう言うが、彼女がどんな意図でそのように口にしたのかは分からない。本当に芥川を愛していたのか、それとも、単なる幼馴染に対する親しみであったのか。

 芥川にしても、彼女への愛情がどの程度育っていたのか、僕には正直なところ疑問だった。少年時代のnostalgiaを、loveに転嫁しようとしているだけではないか。……

 実際のところ、彼に痛手を負わせたのは破恋そのものよりも、その過程で明るみになった、彼の家族の問題であったろう。

 芥川と彼の両親は、実の親子ではない。芥川が生まれてまもなく、実母が病に伏したため、赤ン坊の彼は母の実家に預けられた。母親はそのまま、彼が八つのころに亡くなったそうだ。

 しかし、養子とはいえ叔父叔母の関係でもあり、芥川と養父母の仲は良好で、三人が並んでいるところを見ると、まったく実の親子としか思えなかった。僕は彼の実父にも会ったことがあるが、正直にいって養父の道章氏の方がよほど本当の父親らしい、と思ったほどだ。当の彼自身も、実父よりずっと、養家の方にidentityを感じているらしかった。

 ところが今度の結婚騒ぎで、養父母の思わぬ本音が露わになった。

「彌ぁちゃん」が縁談に乗り気でないと分かると、芥川はさっそく彼の両親に、彼女に正式に求婚したい旨を伝えた。彼の両親は突然のことに驚き、そして烈しく反対した。

 反対の理由は、一つには、すでに縁談が進行している最中に、新たに結婚を申し込むのは非常識だというのであった。そのため芥川は、その縁談がまだ内々の交渉があっただけで、正式の見合いの日すら決まっていないこと、なにより彼女自身が、その縁談に不承知であることを説明した。

 すると隣で聞いていた伯母さんが、同い年の妻は御し難い。彼女の性格からいっても、才気煥発といえば聞こえは良いが、勝気な娘だから、芥川が尻に敷かれるに決まっているという。この伯母さんは結婚せずに芥川家にずっと残っている人で、甥っ子の芥川を実の子ども以上に溺愛していた。芥川にとっては、いわば第三の母だ。芥川は負けじと、彼女の気性は幼馴染の自分が一番よく知っている。よく知った上で、彼女といっしょになりたいのだ、と反駁した。

「……しかしねエ、結婚というのは家と家の繋がりだからね。当人同士がよければというわけにはいきませんよ」

「家風の合わない嫁を貰うと、お互いに不幸だよ。なんでもあの娘の両親は、正式の夫婦じゃないってえじゃないか……」

「私は厭ですよ。そんな育ちの悪い娘と暮らすのは」

「士族でないのはこの際目を瞑るとしても、ちゃんとした家のお嬢さんでないとねえ」

「なに、別に所帯をもつから良いだろう?——馬鹿なことをいうんじゃない!」

「なんという親不孝者だろう。高い学費を出して大学まで行かせてやったのに」

「一人で大きくなったような顔をして……」

「何のためにおまえを引き取ったと思っているんだ!」

 何のため?

 その一言が、芥川を打ちのめしたのだった。養父母にとっては、売り言葉に買い言葉でつい言い過ぎただけなのかもしれないが、貰われてきた子どもの立場では、それまでに培ってきた家族の愛も信頼も、根底から揺るがしかねない言い方だ。

 何のため?——家のため。跡取りのため。父母に孝に、家名に恥じぬ働きをして、養親の気に入る娘を娶り……。

「それじゃ、……僕の意思は……?」

「龍ちゃん。私たちは、おまえのためを思って言っているんだよ」

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