五
僕の結婚は来年の秋、僕が大学を卒業したら、すぐ式を挙げる約束になっていた。
約束の相手は、僕の母と同郷の資産家、恒藤氏の姉娘だ。親戚筋の紹介で、一高を卒業した直後に縁談が持ち上り、一応お見合いもしたけれど、僕は会う前から「この話を受けよう」と決めていた。
父を亡くした僕は、学資を自分で稼ぐ必要があった。上京前に貯めた金も底をつき、アルバイトをしながら何とかやってきたけれど、本気で学究生活に邁進するつもりなら、二重生活をいつまでも続けるわけにはいかない。
僕は一高を卒業する少し前から、学資問題を一挙に解決する手段として、結婚を考えるようになっていた。跡取りのない資産家の婿養子になることは、手っ取り早いStrategyだ。幸い僕は次男だし、僕の姓が変わることに、母も大きな抵抗は示さなかった。
大阪の姉夫婦に相談すると、次々に見合い写真と釣書が送られてきた。すでに一高の学生寮を引き払っていた僕は、新宿の芥川の家に厄介になりながらそれらを検め、実際にいくつかの家を訪ねた。中でももっとも条件が良かったのが、恒藤家だったということだ。
お嬢さんは、僕より八ツ下の十九歳。おっとりした、素直な、良家のお嬢さんらしい人だ。芥川も写真を見て、「綺麗な人だね」と言っていた。
「清純そうな……でも芯の勁そうな……君にぴったりの奥さんだ」
僕はそのとき何と答えたんだったか、たぶん「ありがとう」とか何とか言って、芥川に冷やかされたんじゃなかったか。……
稲佐の浜は本来、静かな、明るい海だが、僕たちが着いた頃には、例によって厚い雲が空を覆いはじめ、海も泥を混ぜたように黒く、山のように高く盛り上がっては崩れる浪が、どおんと恐ろしげな音を立てていた。波打ち際の弁天島に、波が強く打ちつけるたびに、白い飛沫がぱッと舞い散り、岩山が砕けてしまいやしないかと心配になるほどだ。
「これはさすがに……泳げそうもないな」
と呟くと、芥川が「ああ!」と溜息をして、崩折れるようにその場に座り込んだ。
「もう嫌んなっちまう! 本当に僕、雨男なんだもの」
立てた膝に両肘をついて頬杖しながら、荒れる海をジッと見つめる芥川の眸は憂鬱そうだ。浜の北端の岩場には、悪趣味な青いペンキ塗りの水族館か何か建っており、場末の安カフェーでも来たような、索漠とした気分に僕もなった。数年前に来たときは、あんな建物はなかったはずだが……。
「島根は雨が多いんだよ。ちょっとからかうつもりでそう言ったんだ。ごめんよ……」
僕は芥川の隣にしゃがんで、彼の顔を覗き込んだ。彼の機嫌が悪くなったのは、そのことが原因じゃないと分かっていたが、もし僕のつまらない冗談を間に受けたのだとしたらすまないと思ったのだ。
「分かってるよ。……日本海は暗いな」
芥川は横目でちらりと僕の顔を見返して、首を縮めるようにしながら小さく言った。
「こうして見ると海の涯てまで来ちまったってな気がするぜ。なんだか心細くなっちゃった」
僕はそこへしゃがんだまま、少しの間思案した。
今日は新聞の天気予報でも終日晴れになっていたから、大丈夫保つだろうと思っていたのだけれど、勇んで出かけるとやっぱり昨日と同じ、いまにも降り出しそうな空模様だ。
いったい芥川が来て六日になるが、毎日雨や曇りばかりで、僕が見せてやりたかった美しい夕陽も、まだ一度も姿を現していなかった。
京都から西へは来たことがないという芥川を誘い出すため、「黄金色の夕べ」を手紙で散々称揚していた僕は、彼にすまない気持ちと、人の思いどおりにならない自然にじりじりして、このまま時化の海をぼんやり見ているのは堪えられない気持ちだった。どこかで仕切り直しがしたい。どこか——爽快で、景色がよくて、結婚式場なんか無いところ……。
「石見方面なら、晴れてるかもしれない」
「えっ?」
「こっちが雨でも、西側の海は晴れることが多いんだ。ちょうど先月、太田まで汽車が通ったので行きやすくなったし……」
僕は新しく開通した山陰本線の路線図と、その地形的特徴を砂地に描き、山を越えた先には雨雲が到達していない可能性が高いことを説いた。
芥川は僕の説明には納得したらしいが、億劫そうに地べたに胡座をかいたまま、上目遣いに僕を見上げた。
「……いまから行くの?」
「まだ三時にならないよ。日暮れ前には着くさ。今市から汽車で一本だ」
僕は立ち上がり、砂のついた手を払って芥川の前に差し伸べた。
「行こう、アクタ! 君に本当の日本海を見せたいんだ」
二人は再び車中の人となった。今市で太田行きに乗り換えて、目指すは石見の波根海岸だ。波根は山陰本線の開通に合わせて新しくできた海水浴場で、まだ客が少ないので、自然のままの美しさを保っているという。じつは僕自身まだ行ったことがないのだが、弟が先月、中学の友だちと行ってきたというので、浜の様子や辺りの地理は、だいたい話に聞いていた。
山陰本線は崖の中腹を通っている。断崖は急カーブを繰り返し、車窓からはゴツゴツとした岩肌と、黒松の森が交互に見える。こんな険しい場所に、よく線路を通したものだ。カーブを曲がるたび、僕と芥川の膝頭が打つかった。
僕たちはしばらく黙ったまま向かい合っていた。芥川は出雲大社で買った恵比寿大黒のお守りを雑嚢から取り出し、手慰みに弄っていた。お守りは片手で握れるほどの大きさで、木箱の中に、ニッコリ笑った恵比寿さまと大黒さまが並んで収まっている。お守りというより玩具のような、無邪気な可愛らしさだ。
列車は神西湖をあとにして、小田の駅を過ぎると、まもなく海岸線に抜けていく。しかし、道路の向こうに海が見えたと思ったのもつかの間、トンネルが視界を塞いでしまう。田儀から先は短いトンネル続きだ。夏の麻地の下服の膝に、光と影が交互に落ちた。
いつしか太陽は西の空へ傾きはじめていた。その温かな黄みを帯びた光の中で、海は夕凪の水面に黄金の輝きを讃えていた。
僕たちは言葉もないまま、同じように顔を上げ、息を呑んで窓を見つめた。また暗闇に遮られても、垣間見たきらめきは目蓋の裏から消えない。そして最後のトンネルを抜けると、車窓いっぱいの海を背景に、赤瓦の屋根が連なる波根の漁村が現れた。
「黄金の町!……」
夢見るような声で芥川が呟いた。
綺麗に晴れた夕べの光だ。漁師の家の黄色く煤けた土壁が、琥珀色の西陽に華やいでいた。
真新しい駅舎は清潔で、駅前通りには、海水浴客を当て込んだ旅館がずらりと並んでいた。
僕たちは新聞広告で見た水月亭とかいう家に宿をとった。素人下宿のような小さな家だが、その分静かなのが良い。しかも、縁の先はすぐ砂浜だ。
僕たちが通されたのは一番東側の、海に面した部屋で、眺望は最高だった。露台に出て海を望めば、足下に波打ち際が迫って見える。僕と芥川は顔を見合わせて頷いた。たぶん、お互いに同じことを考えていると分かった。
そして次の瞬間、二人は荷物をその場に放り出し、露台の手すりを飛び越え、競って砂浜を駆け出した。
急がなければ、日が沈んでしまう。背後でお上さんの呆れ声がしたが、構っていられない。
早々に下駄を脱ぎ捨てた芥川は、白い踵を閃かせながら、下服を蹴やり、襯衣を投げ出して裸になると、そのまま勢いよく海に飛び込んだ。僕も同じように服を脱ぎ、ざぶざぶと波に分け入っていった。興奮して熱をもった躰に、水の冷たさが心地いい。芥川の泳ぎはやはり上手で、水鳥がスーッと水面を掠めて飛んでゆくのを見るようだ。
「ああ! 美しいね……」
そのとき、ちょうど太陽があかあかと燃えるような強い光を放ちながら、空と海の裂け目にゆっくりとその身を沈めていった。
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