翌る朝、僕たちは今度は汽車に乗って宍道湖の西、出雲大社に向かった。

 失恋した芥川に新たな出会いがあることを祈って……というわけではないが、島根県に来て出雲大社を見ずに帰るのも尻の座りが悪いだろう。ついでだから稲佐の浜まで足を伸ばして、雨のせいで不完全燃焼に終わってしまった海水浴の続きをする計画だった。

 松江から出雲大社まで、汽車で一時間余りだ。朝の車内は人影も疎らで、僕たちはシートの上に足を伸ばしてすっかり寛いでいた。軽い疲労の残る躰に、ガタゴトいう揺れが心地いい。

 芥川は僕の足の傷を頻りと気にして「痛まないか?」と訊き、絆創膏を貼った土踏まずを指の先で突っついた。

「平気さ、これくらい、怪我のうちにも入らないよ。田舎じゃ生傷がない方が珍しいんだ」

 僕はくすぐったさに笑いながらそう説明し、窓枠に肘をついた。

 車窓から真山、蛇山、澄水山といった峰々の稜線が遥かに見える。手前には温泉街の宿が、湖を背景に並んでいる。湯町の駅を過ぎると、キャベツ畑が広がる農村地帯だ。

 この簸川の平原一帯は、僕にとって思い出深い場所だ。僕が小学生の頃、父が仕事の関係で今市を第二の生活拠点にしていたため、学校が夏休みになると、ひと夏をここで過ごす慣いになっていたのだ。

 父は家の外では洒脱で磊落な、誰からも愛される人だったけれど、やはり封建時代に生まれ育った人だから仕方がないのかもしれないが、家の中ではまるで専制君主のようだった。僕はそんな父とは性格も考え方も合わず、とくに中学を卒業してからの数年間は、僕は家の離れに起居して、ほとんど口も利いたことがないくらいだった。

 それでも少年時代には、夏の夕暮れ、湯屋の帰り途に川縁をゆっくりと歩きながら、上機嫌の父が低い声で詩を吟ずるのを、こそばゆいような気持ちで聞いたこともあったのだ。

 その父も、いまから五年前——僕が二十二才のときに亡くなった。

 そして僕は上京し、かねて念願の一高に入学した。そこで芥川と出会い、進路を違えたいまでも、こうしていっしょに夏を過ごしている。

「この辺りの煤けた家並みは絵になるね。古くなって黄ばんだ土壁がもの寂びていて……」

 芥川は僕の伸ばした足をひょいと通路の方に退け、窓枠を掴んだ指の背にこめかみを付けて外の景色を眺めていた。長いまつ毛が、夏の午前の陽射しに縁取られ、白い光を湛えていた。その横顔に僕は自然と目を留めながら、一高の寮で起居をともにしていた頃のことを思い出していた。

 あの頃の彼も、いまも、ちょっと見には少しも変わったところが無いけれど、白皙にすっきりとした鼻梁、潤みを帯びた黒い眸、雛人形のように整った貌の中で、そこだけほのかな肉感を感じさせる、ぽってりした赤い口唇を具えた彼は、当時、文科では評判の美少年だった。

 どういうきっかけで言葉を交わしたのが最初だったのか、いまとなっては思い出せないほど自然とうまが合った僕たちだが、ひところは硬派の連中から随分やっかまれたものだ。

 しかし、僕たちの関係は、決して彼らが想像するようなものじゃあない。

 たしかに僕は進学が遅かった分、中学を卒業してすぐ一高に入った級友たちに比べると——芥川もその一人で、しかも彼は早生まれだから、都合四ツも僕の方が年上になるけれど、彼を子ども扱いしたことは一度たりともないつもりだ。僕は彼の聡明さや、鋭敏な感性を尊敬していたし、ものの感じ方や考え方が似ていたから、共鳴する部分も多かった。だから彼をお稚児さんにしようなんて、はなから僕には思いもよらないことだったのだ。

 第一、もし僕がそんな了見だったとしたら、彼の方で僕を遠ざけていただろう。彼は上級生から「シャン」だの「メッチェン」だのと揶揄われることが大嫌いで、とくに寮の風呂に行くと、脱衣所で口笛を吹かれたり、「お嬢さん、ここは女湯じゃないぜ」と野次られたりするのが悔しいといって、僕に泣きついてきたこともたびたびあった。

「井川、聞いてくれ、僕は悔しいっ。南寮の連中、皆んなで僕を女扱いして笑うんだ!」……

 あの頃の彼は、まだ恋も知らない少年だった。その彼が、いまや結婚を考えた女性との恋愛に破れ、肉体の純潔も喪って、しかしあの頃とまるで変わらない貌をして僕の目の前にいる。考えてみれば、なんだか不思議なsituationだ。


 数年前に開通したばかりの大社駅は、青銅製の改札を四ツも設えた立派な駅で、出雲大社の参道のちょうど入り口にある。なだらかな上り坂が一キロメートルほど続く一本道をゆっくりと進んでゆけば、やがて大鳥居が見えてくる。そこからはゆるやかな下り坂で、松の梢が強い陽射しをやさしく遮っている賽路は、あの巨大な〆縄のかかった拝殿に通じている。

 僕の足の傷のために、二人はゆっくりとその賽路を下っていった。

 拝殿の前には参拝の人が短い列を作っていた。芥川はふだん無神論のようなことを言っているくせに、長い時間をかけて熱心に手を合わせていた。今日に限って、一体何を祈っていたんだろう。

 僕は形だけの参拝を終えて、一足先に石段を下りかけていくと、後ろから追ってきた芥川が「せっかちだな、井川は」と口唇を尖らせた。

「下で待ってるさ。賽銭箱の前にいたら、次の人の邪魔だろう」

「それァそうだけど」

 江戸ッ子らしい巻き舌が出たのに僕はくすりと笑いながら、社の裏手へと歩を進めた。

 拝殿の西に回り込むようにしながら頭上を振り仰げば、弥山の尖った巓が見える。大国主命がその国造りの構想を練ったと伝えられる聖山に些か不敬だが、絶頂にぬっと突き出た巨木がちょっとhumorousだ。正面には大社の御神体、八雲山の山裾が、穏やかに手を差し伸べて、僕たちは緑濃やかな山の懐にいま抱かれんという格好だ。

「しかし出雲はまったく山海の景勝地だね……」

 と、芥川が周囲の景色を見回しながらため息をついた。

「こんなとこで暮らしてたら、身も心もすっかり洗われそうだ。僕、このままこっちに住んじまおうかしら」

「そうしたらいい」と僕はすぐにいらえた。「歓迎するよ。君が来れば毎日楽しいだろうな」

「……ヘン、何いってんだい、君は休暇が終われば京都だろ」

「あ、そうか」

「チェッ、暢気だなあ。それでわが文一乙の首席かい。君は大学を卒業したあとも院に残るんだろ。そして学位を取って、将来は大学教授……。それじゃ、島根に帰る宛てなんてないじゃないか。お爺さんになって隠居するまで、都会に縛り付けられる運命さ」

 芥川は皮肉屋らしくツンと顎を上げ、早口の東京弁でひと息にまくし立てた。

「ハハ、運命か、辛辣だなあ」

「だって実際そうじゃないか。僕たち、来年の今頃は卒業だろ。そしたら君は——」

「あっ、アクタ、あれ何だろう」

 と、僕たちは道の途中で立ち止まった。

 ちょうど神楽殿の前に来たところで、この暑いのに盛装した一団が、整列して写真を撮らせているのだった。集団の中心には、夏の薄ものとはいえお引きずりをきちんと着付けた、まだ娘々した婦人と、紋付袴の若い男が、やや緊張した面持ちで立っており、その両側に、各々の両親らしい初老の夫婦がそれぞれ並んで、写真屋にああだこうだと注文をつけていた。

「結婚式か」

「……来年には、君もああなるんだな」

 芥川はちょっと眉をひそめ、眩しいような表情になった。

「ああ、でも、君の場合、お式は教会なのか。和装じゃなくフロックコートで……お姉さんが牧師先生の奥さんだし、お母さんもクリスチャンだし」

「いや、向こうの家に合わせるよ。僕は入り婿の立場だからね……」

「フーン、そう。そういうものか」

 と、芥川は小さく鼻を鳴らして、目の前の道を再び歩きはじめた。

 僕は「しまった」と内心で舌打ちしながら、芥川のあとを追って歩き出した。

 芥川は好きな女性との結婚を家族から反対されて、泣く泣く彼女のことを思い切ったのだ。その傷心を癒やす目的ではるばる東京からやって来たというのに、これでは傷口に塩を塗ったようなものだった。 

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