三
「風が気持ちいいね、井川! まったく水の都とは言い得て妙だ!」
芥川は嬉しそうにそう叫んで、大河を渡る涼しい風に目を細めた。
芥川が来て幾日めか、ようやく雲の切れ間に青空が見えたので、僕たちはこのチャンスを無駄にすまいと、汽船に飛び乗り、古浦の海水浴場へと足を伸ばしたのだった。
島根半島は四十二浦といって、県の北側一帯が海に接している。松江市は内陸だが、宍道湖東岸から恵曇まで、約八キロメートルの水路をどんぶらこと北へゆけば、日本海に出る。
汽船は三十人乗りの小型船で、うねうねと蛇行する人工河川を天竺鼠のように器用に進み、急カーブを曲がったり、木橋の下をくぐったりする。芥川はその度に「わあ」と歓声を上げて船室の窓から顔を出し、子どものようにきらきらと眸を輝かせた。
「僕、川蒸気なんて子どもの頃以来だ。昔は大川にも汽船が通っていたんだよ」
「いまどきはたいてい電車だものな。こっちはいまでも、水運が交通の中心なんだ。御一新の前からずっと変わらない」
「松江の人たちは賢明だよ。変わらない方がいいこともある。日光みたいに、赤い鉄橋なんかぞっとしないぜ」
芥川の言うように、松江市内を流れる川に悉く朱塗りの鉄橋が掛かり、その上を電車がガタゴトいいながら通るところを僕は想像して、思わずぐッと顔をしかめた。
「……たしかに」
「あっ、桟橋。向こうの開けた方が海だね? 僕、日本海は初めてだ」
芥川は顔だけでなく上体を半ばまで乗り出し、目蓋の上に手をかざして、遥かに見える海に目を凝らしているようだった。
芥川は見た目こそ弱々とした青白い貌をしているが、登山だの水泳だの、持久力の要る行楽が好きで、ことに水泳は、隅田川で古式泳法の手ほどきを受けたというくらいだから、相当な自信をもっていた。しかし僕といっしょには、登山は高等学校の卒業旅行で赤城に登ったが、海水浴は出かけたことがなかったから、僕としてはここで一つお手並み拝見、というわけだ。
「——しかし」
と、僕は入り江を囲む低い山脈に目を遣った。山際にくらい、灰色の雲が迫っていた。
「ひと雨来そうだね」
どうやら、芥川は雨男らしい。
本人は否定するけれど、芥川が来てからというもの、最初の日のようなものすごい降り方こそしないものの、降ったり止んだりのぱっとしない天気が続いていた。
なにしろ芥川は辰年、辰の日、辰の刻に生まれたために「龍之介」と名付けられた、というくらいだから、生まれつき龍神さまのご加護があるのに違いない。
僕がそういってやると、芥川は「そんなの迷信だよ」と鼻先で笑った。普段なら僕も同意見だが、芥川が到着した日の暴風雨。あれは山陰地方には、実に一ヶ月ぶりの雨だったのだ。
芥川が雨を連れてきた——昔の人なら、きっとそう言ったろう。なにしろ出雲は、いにしえの神々が住まう土地だ。
実際いまも、二人で船を下りて、砂浜の方へぶらぶら歩いていくうちに、空には重たげな雲が低く垂れ込め、風もじっとりと湿り気を帯びてきた。
その灰白色の曇天の下に、恵曇の漁師の家々の、赤瓦の屋根が連なっている。道の両側に、黒っぽく変色した板塀が続いていて、影になった足下に、野生のなでしこの花が、紫がかった薄紅の花冠を項垂れるようにして咲いている。
日は翳っていても気温は高く、ひどく蒸し暑かった。
僕と芥川は口々に「暑いなあ」と言いながら、砂混じりの坂道を、覚束ない足どりで下っていった。だらだら坂だが、昨日までの雨を含んだ砂地に下駄の歯が沈んで歩きづらい。
「裸足になった方が速そうだな」
「しかし熱いよ、砂が……」
そして突然、ぱッと視界が開けると、二人の前に一面の砂浜が広がった。
「——すごいや」
と、芥川が気を呑まれたように呟いた。
昏い、鈍色の日本海だ。
西からの風に、八月にしては珍しいような荒波だった。曇天を映して黒々と油を流したように底光りしながら、浪と浪が互いに揉み合い、どうと低い唸りを上げていた。
「昏いね! 海の色が」
「波が荒いな。風があるから」
「雨が降りそうだ」
「降る前に泳ごう」
「……泳げるかしら」
「なに、わけないさ」
僕はさっと着物を脱ぎすて、打ち寄せる波へと向かっていった。そのままざぶざぶと水中に飛び込むと、渦を巻くような波が僕の躰を砂浜に押し戻そうとした。それに逆らって抜き手を切り、なんとか沖に出てしまえば、存外穏やか、とは言わないが、うねる波に四肢を委せて、浮いたり沈んだりするのが心地いい。
「井川ァー!」
浜辺で僕を呼ぶ芥川の声が聞こえた。
僕は水のおもてに顔を出し、手を振って芥川を呼んだ。しかし芥川は衣服も脱がないまま、おろおろと心配そうに波打ち際を行ったり来たりするばかりだ。
「アクタもおいでよ、気持ちいいよ!」
「で、でも……」
芥川はしばらく海に浮かんでいる僕の格好と、空を流れる雲の様子を交互に眺めていたが、そのうち意を決したように襯衣と下服を砂の上に脱ぎ捨て、下駄を蹴って、敏捷な動作で波間に身を躍らせた。
獲物を狩る水鳥のように、一瞬のうちに姿が見えなくなったと思うと、潜水したまま此方に向かって真っ直ぐ泳いで来たらしい。あッと気付いたときにはもう僕に追いついて、胸をぐんと反らしながら水上に伸び上がり「井川のばか!」と僕を詰った。
「井川のばか! いつもそうやって一人で先に行っちまうんだから……」
そして芥川はヒラリと身を翻した。
芥川の見事な泳ぎ振りについ見惚れていた僕は、それでようやく我に返ると、芥川のあとを追っかけて泳ぎだした。
芥川は時おり僕をからかうように方向を変えながら、泳ぐというよりは水の中を飛ぶように進んでいくのだった。僕はその爪先を捉えてやろうと水を掻くが、あと少しというところで、届きそうで届かない。
すると芥川は突然くるッと旋回し、僕の鼻先を掠めて反対方向に水を蹴った。
水面にぱッと飛沫が上がり、僕はそれを真正面から顔面に受けて、思わず目を瞑りながら、躰ごとぶつかるようにして芥川の胴回りに飛びついた。
「うわあっ!」
と芥川は声を引っくり返し、すっぽりと僕の腕に収まって全身の力を抜いた。下手に暴れると溺れる、と思ったんだろう。
「急に危ないじゃないか、井川!……」
僕は芥川の肩に額を擦りつけ、くっくと笑いながら「アクタが一人で先に行くから……」と言い訳した。
「ばか!」
と芥川はもう一度いって、呆れたようにふっと吹き出した。
それからまもなく雨が降り出したので、僕たちは慌てて海水から上がった。そのとき僕は、砂に混じっていた小石の角で、足の裏を切ってしまった。濡れていたせいか、傷が浅いわりに派手に出血したため、芥川が大層驚いて、大げさにハンカチで縛ってくれた。
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