二
濠端の家は、城山の西の外れ、亀田橋のたもとにひっそりと佇んでいる。
この一帯は昔、薬草畑が広がっていたことから、地元の人はみな「お花畑」と呼んでいる。いまは住宅地になっているが、城山の森に臨む通りは昼も夜も静かで、ときおりカイツブリやかわせみのピロピロと鳴く声が聞こえる。
家は六畳、四畳半、三畳の三間に台所だけの平屋で、家というより庵といった方が正確かもしれない。六畳を居間に、四畳半を寝室に、三畳を母や弟妹が来たとき用の客間として、学生二人の生活には三間きりでも事足りる。一室に十二人が雑魚寝していた一高の寮に比べれば、「贅沢すぎるくらいだ」と芥川は笑った。
お濠に面した縁の先は、紫陽花や水草の茂る土手がそのまま庭になっている。勝手口の井戸端に、川に下る石段があり、そこへ舟を着けられる仕組みだ。
市街は堀川が縦横に通っていて、人々は舟に乗って移動する。地上は細い道が多く、自動車の往来はほとんどない。東京や京都のように電車も通っていないので、舟と俥が日常の足だ。僕も芥川をあちこち案内するため、小型ボートを借りる算段でいたのだが、雨のせいでご破算になってしまった。
雨は芥川が着いた日からしばらく続いて、僕たちは蝙蝠を片手にしとしと降りの松江の街を歩いて回った。内中原、外中原の水路に面した家々の灘門。封建時代の名残を留める、城見畷の家老屋敷。河鹿蛙が可愛い声を聴かせるヘルンの旧居……。
芥川はとりわけ市中の川に架かる橋が、昔ながらの木橋であることにいたく感心していた。カラコロと響く下駄の音を「カルメンの舞踏のようじゃないか?」と笑って、大きく足を踏み鳴らしてみせた彼に、釣り込まれて僕も笑いながら、宇賀橋、めがね橋と渡ってゆくと、松江のsymbolとも言うべき千鳥城の、天守閣へと通じる裏道に入る。
お城の正面口にあたる大手門広場は、いまは県庁だの刑務所だのがごたごたと建っていて、城山や蓮池の古式ゆかしい風情はすっかり破壊されてしまったが、この脇虎口の裏道は、時が止まったように静かだ。苔むした石垣、やぶ椿が鬱蒼と生い茂る小径は、八月の真昼だというのに、空気が冷んやりとしている。
おそらくは家老屋敷から登城する際、近道として使用されていた通路だろう。馬洗池を左に曲がり、ギリギリ井戸の傍の細い道を通って石段を登ると、すぐ目の前が北ノ門、その奥には天守閣が見える。
「ギリギリ井戸って何だい?」
「ああ、ギリギリっていうのはね、出雲弁で頭のてっぺん、つむじのことさ。昔この城を築城したとき、あの場所の石垣が何度積み上げても崩れてしまうというんで、調査のために土壌を掘り返してみたら、槍にぶっすり貫かれたしゃれこうべが出てきたんだ。そいつを供養して、もう一度石垣を積むと、今度は崩れなかった。掘った穴は水が湧き出て、井戸になった」
僕が説明すると、芥川は「へえ!……」と眼をぱちぱちさせ、石段の上から何度もその井戸あとを振り返った。
芥川は幽霊だの妖怪だのの話が大好きで、人から聞いた話や、本で読んだのを、ご苦労にも逐一日記に記録して、蒐集しているのだ。一高時代は夜な夜な寮で同室の僕たちを相手に、
「知ってるか。夜に不忍池を俥で通ると、髪の長い女が……」
などと、一人百物語をやっていた。
芥川の話術はなかなか巧みで、気が弱いやつは「夜半に後架へいけない」と青くなっていた。
「何だい、男のくせにだらしがないな」
芥川はいたずら好きな子どものようにくふふと笑いながら、突然、蝋燭の火を消して部屋を真ッ暗にしてみたり、「わッ!」とさも恐るべきものを発見したような声を上げてみたりと、怖がる相手を揶揄うのがまた、楽しくてしょうがないらしかった。
松江はかの小泉八雲の『怪談』に描かれているとおり、mysticな伝承が多く伝わる街だ。芸者の幽霊が出るので有名な清浄院や、大亀の石像が夜中に動くと噂される月照院、子どもを遺して死んだ母親の霊が飴を買いに出るという大雄寺——市街の中心に聳える千鳥城の天守閣に上れば、それらを眼下に一望できる。
僕が子どもの時分には、天守閣は松江藩二十万石の栄華もはかなく、屋根瓦がところどころ剥げ落ち、いまにも倒壊しそうな有様だったが、現在は綺麗に修復され、松江市の風致を代表する観光施設となっている。
最上階の望楼からは、晴れているときは宍道湖の向こうに大山が見えるのだが、雨にけぶる松江の街は、急に近眼になったみたいに何もかもが淡く、ぼやけて見える。今日は湖にしじみ漁の舟も出ていず、雨を嫌ってか、登楼の客足もまばらだった。
「寂びしいね。いい句ができそうじゃないか」
「夏草や?」
「ちぇッ、まぜっかえすない」
芥川は膨れながらすぐ傍の柱に軽く凭れ、少しの間、芭蕉よりもっとこの場に相応しい句を考えている様子だった。しかし途中でまた別の考えが浮かんだらしく、ふと顔を上げると、
「井川はこういう土地で育ったんだなあ。今度ぁ僕、君という男が本当に分かってきたような気がするよ」
と、妙にしみじみした表情を眸に浮かべて僕を見た。
少し首を傾げながら、相手をジッと見つめる仕草は、芥川がときおりする癖だ。何も特別な意味はないんだろうが、僕はなんとなく落ち着かない気分にさせられる。
芥川の眸は月の出ない夜のような暗黒色で、いつも潤みを帯びている。睫毛が西洋種の仔犬みたいに長い、奥二重の切れの長い目蓋で、ゆっくりと瞬きをしながら、此方の出方を窺っている。そんな目つきを芥川がするとき、僕は自分が試されているような気がするのだ。
「……まだ来たばかりじゃないか」
いまも僕はうなじのあたりがソワソワするのを感じながら、わざとぞんざいにそう返すと、
「そう。一番いいとこはまだ見てない。晴れたら夕日が綺麗なんだろ?」
芥川は柱をぐるりと回って再び窓に向かい、腕を伸ばして、手のひらで雨の雫を受け止めるようにした。
肉の薄い手のひらに、針のような雨がはたはたと降り頻り、僕は思わずその腕を掴んで引っ込めてやりたい衝動に駆られた。しかし、さすがに思い直して芥川の隣に立ち、そのままいっしょに窓の外を覗き込んだ。
「すぐ見られるさ。それに君、八月いっぱいいるんだろう」
そう、時間はたっぷりあるのだ。これから二人でどこへ行こう?
美保関の白亜の灯台。湯の花香る玉造温泉。僕の祖父の家があった津和野まで、足を伸ばしてみてもいいけれど……と、僕は思いつくままに行き先を並べてみた。
すると芥川も、同じことを考えていたらしい。
「そうだな。せっかくだから二、三日、泊りがけで遠出してみても良いかな」
と此方を振り向き、こぼれるように微笑した。
「松江は川も湖もあるけれど、海が無いから。石見潟はここから遠い?」
「いや、こないだ鉄道が通ったからね。朝早く出れば、昼過ぎには着くよ」
「そう?」
芥川はなおも右手を雨の中に遊ばせながら、「つらけれどひとにはいはず石見潟……」と、拾遺集だったかの歌を低く口ずさんだ。
つらけれどひとにはいはず石見潟うらみぞ深き心ひとつに。
僕は思わずギクリとした。しかし何も言わぬまま、素知らぬ風で芥川の肩を小突くと、芥川はようやく腕を引っ込めて「何だヨ」と僕の肩を小突き返した。
僕は猶もにやにやしてそれに応じながら、「どうやら事態は思っていたより深刻だぞ……」と、内心ひそかに考えを巡らせた。
芥川は明るく振舞っているが、やはり「神経衰弱気味」だというのは本当らしい。彼を元気付ける方策を、もっと真剣に考えなくては……。
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