さらば夏の光(Kiss the summer goodbye)

おちよ

 僕の愛すべき友人、アクタこと芥川龍之介が、先日手痛い失恋をしてからというもの、すっかり自棄になっていて、似合いもしない不良ごっこに興じているらしい。悪所で肉体の純潔を放擲したのを皮切りに、連日の居続けに朝帰り。その挙句に慣れない遊蕩で体調を崩し、

「結核菌をもらってきたかもしれない……」

 とか何とか、手紙を貰ったときは流石の僕も青くなったが、けっきょくただの風邪だった。

「大げさなやつめ」と小突いてやりたいと思ったが、要するに気持ちが弱っているんだろう。高等学校の時分のように、毎日学校や寮で顔を合わせているのなら、手をとって慰めるなり、肩を抱き合っていっしょに泣くなりしてあげられるのだけれど、大学進学のために僕は京都、彼は東京と、遠く離れてしまったいまでは、手紙のやりとりが精いっぱいだ。

「何とかして、彼を元気づける方法はないだろうか?」

 そこで僕は一計を案じ、学校の夏休みを利用して、僕の故郷、美しい水郷、松江に彼を招くことにした。遥かに望む山々のみどりと、夏の陽射しに青く輝く湖水、水路の上を渡る風に、柳の枝が揺れるさまは、傷心を癒すにはうってつけだ。僕はそう手紙に書いてやると、

「こちごちのこゞしき山ゆ雲出でて驟雨するとき出雲に入らむ」

 と、はしゃいだ様子の歌が返ってきた。

 しかし、このはるばる東京からやってくる客人をもてなすために、母と弟妹が暮らすわが家では、些か手狭だ。そのため僕は、わが松江が誇る千鳥城の西濠のほとりにささやかな空き家を見つけ、そこをひと月ほど借りることにした。

 食事やなんかの世話は、母に協力を要請することにして、基本的には僕と彼、二人ッきりの生活だ。だから何も気兼ねはいらない。ここで存分に羽根を伸ばせば、いまはしょんぼりしている彼も、きっと元気を回復するだろう。


 かくして八月に入ると間もなく、芥川から旅の予定を報せる葉書が届いた。

「三日 午後三時五分東京発

 五日 午前九時八分城崎発 午後四時十九分松江着……」

 その葉書を見た僕は、四日の早朝、車中の彼に電報を打って、城崎での乗り換えを昼過ぎに発つ汽車に変えるようにいった。

 ここ松江は、夕日が美しいことで名高い。長旅の列車から下りて最初に目にするのが、夕べの光に包まれて金色に輝く宍道湖や、みどりの影を濃くする峰々のプロフィルであったなら、そのfirst impressionで、このまちの美しさをしんから理解してくれるに違いない。

 僕は夕映えの湖で芥川をボートに乗せて、件の失恋の顛末や、東京の友人たちの近況、大学生活の感想、最近読んだ本のこと、エトセトラエトセトラ、四方山の話をしながら、つと彼が手を伸ばし、夕日を映してきらきら光る水面に指先を触れて、「ねえ井川、美しいね」と囁く——そんなromanticな場面を想像していた。

「あとは、当日の天気に嫌われさえしなければ」

 と、思っていたのだが……。

 四日は昼間にパラパラッときたが、夕方には城山の森に綺麗な虹が出た。

「これなら大丈夫」と安心していたら、夜が明けるとバケツをひっくり返したような大雨だ。

 僕は濠川の淀んだ水を大粒の雨が叩くのを、恨めしく眺めながら、芥川がくれた葉書の歌を思い出していた。

「驟雨するとき……なんて君が書くからだぜ」

 僕は彼に会ったら一番にそういってやろうと決意して、縁側の硝子戸をばらりと閉めた。


 夕刻、まだ止む気配もない雨の中、蝙蝠を持って駅まで迎えにいくと、定刻より少し遅れて汽車は着いた。

 僕は待合室のベンチに座り、汽車を下りる人々のざわめきをそわそわと聞きながら、懐しい友人の、痩せ型のsilhouetteが過るのを待った。すると間もなく、白い半袖の襯衣に薄灰色の下服と、学生の夏服らしい服装で、支那鞄を重そうにぶら下げた芥川が、改札口の狭さにやや難儀しながら出てくるのが見えた。

「アクタ!」

 と僕は声を上げて手を振ると、

「——井川!」

 と低いが、よく通る声がいらえた。夏帽のひさしの下で、切れ長の目元が一瞬くるりと丸くなった。

「参ったよ、今朝起きたらこの土砂降りだろう。汽車が遅れるかと思ってヒヤヒヤしたぜ!」

 僕は芥川のそばへ大股に歩み寄り、歓迎のhugをした。彼は支那鞄を足元に下ろし、僕の背中を力強く抱き返した。

「長旅で疲れたろう。うちはここから歩いて二十分くらいだ。雨の中悪いけど」

「いやァ、ずっと座り通しだったからね。ちょうどいいさ。——おい君、僕の鞄」

「東京と違って道が悪いから、慣れないと足を取られるよ。ここは僕に任せたまえ。はい傘」

「ええ?……」と芥川が不本意そうに口唇を尖らせるのを、僕は知らないふりをして、彼の鞄を持ったまま、サッサと先に歩き出した。

 駅は湖のほとりに位置していて、周辺はもと湿地帯のため、こんな雨の日は道がひどくぬかるむのだ。都会育ちの彼には、重い荷物を持って歩くのは難儀だろう。現に彼は、駅前の道が舗装されていないのを見ると急に大人しくなり、洋服に泥が跳ねるのを恐れてか、そろそろと注意深い足どりで僕のあとを従いてきた。

「ねえ井川。僕のために家を借りたって、手紙に書いてあったけど……」

「ああ、お城の濠端の、小さな家だよ。三間きりっきゃないが、なかなか情味があるぜ。朝は庭にかわせみが来るんだ。可愛いよ」

「そう? 気を遣わせちゃったみたいで悪いな。せっかくの家族団らんに水を差しちゃった」

「悪いこたないさ。皆んな君に会うのを楽しみにしてるよ。今日はこの雨だしするから明日、母や弟妹の処にいって、皆んなを紹介させてくれよ。母が昼食をつくって待ってるって」

「もちろんさ! 君のご家族に会うのははじめてだな。君はうちの家族と何度も会ってるけど——うわッ!」

「あッ、アクタ、危ない!」

 僕は反射的に芥川の方を振り向くと、薄い躰がどっと胸に飛び込んできた。

 芥川は医者に肺病を疑われるほど痩せているが、背丈は僕とそう変わらない。そのため僕はぬかるみの中へ尻餅をつかないために、両足にぐッと力を込めて踏ん張らねばならなかった。

「ほら、言わんこっちゃない! 気をつけないと、今度こそ転ぶぜ」

「あ……あ、吃驚した! ありがとう、助かった」

 芥川は僕の首ッ玉にかじりついたまま、ほうと安堵のため息をした。ぴったりと重なった胸から駆け足のような鼓動を感じて、僕はちょっと心配になった。

 芥川はよく転ぶ。歩きながら本を読んだり、お喋りに夢中になったりして、つい注意が疎かになるんだろう。しかし彼は僕の心配をよそに、今度は僕の肩越しに何か気付いた様子で、「あッ」と鋭い声を出した。

「どうしたの?」

「川に街の灯が……」

 抱き合うような格好になっていた躰を離し、僕は芥川と同じ掘割の向こうに向き直った。

 雨雲のために普段より早く暗くなった街は、ぽつり、ぽつりと人家の明かりが灯り、その光が雨に潤みながら、波紋の絶えず生まれては消える水鏡のおもてに揺らめいていた。まるで川底にもう一つの街があるような、水郷、松江の夜景色だ。

「美しいね」

 芥川はそう言って、視線を其方に向けたまま、僕の肩にかるく手を触れた。

 僕は「そうだろう」という代わりに、右眉をくっと持ち上げて微笑した。それから僕たちは少し歩調をゆるめて、雨の散歩を楽しむように、濠端の家へ向かう道を歩いていった。

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