肉食の羊
小谷杏子
肉食の羊
十七歳はよく死にたがる、という持論を十七歳になってから頭の片隅に置いていたのだが、どうやらこれは僕だけの考えじゃなかったらしい。
「十七歳はよく死にたがる」
そんなことをあの子が言っていた。可愛い唇で物騒な言葉を放ち、あまつさえ僕と同じ考えでいたのだから度肝を抜かれるに決まっている。
「死にたがる」とは。それはおそらく第二次性徴期に伴う青春病であり、大人への成長に抗っているようなもので、漠然とただ絶望を感じているからだ――と思う。浮き足立つ十六歳や、緊張で余裕がない十八歳とは違い、十七歳は中途半端。だから、死にたくなる。
しかし、いくら達観して分析しても心は晴れないので、これはなかなかに厄介な病なのだ。僕たちは敏感なほど情に左右される。
この持論を僕だけのものにしておこうと胸の内に秘めていたはずなのだが、まさか他人の口を介して露呈するとは思わなかった。
それに、彼女の口から「死」なんて聞きたくなかった。ふわんとした微笑を浮かべて軽々しく言われた。それを聞いた僕は勝手に傷ついた。
彼女は僕のことなんかどうでもいいし、むしろ嫌いだろう。僕の知らないところで彼女は自分の物語を描いている。だから僕が好意を寄せていることも知らずに、あんなことを言ったのだ。
放課後、どうにかなってしまいそうに体温が高くなり、頭がパンクした。おもむくままに百貨店の屋上へ来ている。
さて、どうしよう。
屋上のフェンスに手を伸ばしているのだが――どうしたものか。
「あれ? 奇遇だね、こんなところで会うなんて」
背後から、クラスメイトの
さびれた遊覧スペース。小さな列車や電動的遊具を背景に立つ彼女は可憐な花だ。どうしてここにいるんだろう。
「
確かめるように名前を呼ばれ、僕ははっきりと心臓の高鳴りを感じた。
「君、ここから飛び降りてしまうの?」
小さなつぼみみたいな唇から残酷な言葉が飛び出し、僕は思わず怯んだ。
「え、えーっと……いや、そんなことはしないよ。八木さん」
バツが悪くなり、フェンスからすぐに離れる。
「あれ? そうなの? 飛び降りちゃうのかなって思ったんだけど、違うんだね。良かった」
良かった、とは。僕が飛び降りずに済んで良かった、という解釈でいいのだろうか。
しかし、温厚で明るく素直で、女子であることを鼻にかけない彼女の微笑みから物騒な発想が展開されるのは不気味である。いちクラスメイトの僕に彼女のすべてなど知りようはないのだが、それでも八木洋花=乙女という公式はクラスメイトはおろか学年全体が知るところであり、美少女の絶対領域を外れるような発言は極めて不審だった。昼間の「十七歳は死にたがる論」もそうだが、それとはまた違った軽さで……他人の命を軽んじるような節があった。道端で行進するアリになんの感情も抱かないのと同じような。
と、言うよりも(なんとなくで)自殺(未遂)の現場を見られたというのは、告白するよりも恥ずかしい。
「ねぇ、九重くん」
サラサラの黒髪を耳にかけながら八木洋花は言う。
「はい……」
「何をそんなに怯えているの? 私、何か気に触るようなこと、したかな?」
「してません」
「敬語なんて使わなくていいのに。同じクラスの同級生でしょ?」
朗らかに彼女は言った。抜け目がなく可愛い。
「そう、だね……うん。そうだった。僕たちは同級生だったね。あはは」
対して、僕は情けない。
「せっかく会えたんだから、そこに座っておしゃべりしない? ここ、暑いし。私、喉かわいちゃった」
セーラー服のすそをパタパタ仰いで言われると、そっちに目がいく。視線を悟られまいとうつむいたら、それを肯定と捉えたのか、彼女は僕の手首を握った。控えめな八重歯を見せて微笑う。
「じゃ、行こ?」
この遊覧スペースには、シャッターが下りて錆びた売店の横に飲料水の自動販売機がある。そこで僕は缶のエナジードリンクを、彼女はペットボトルのイオン水を買った。
ボトルの蓋を開け、ごくごくと美味そうに飲む八木洋花。その解放的な画に見蕩れてしまい、いつまでたっても缶を開けられずにいた。
「っはぁ。おいしいー」
およそ半分は飲み、幸せそうな顔で言った。
「喉、そんなにかわいてたんだ?」
「うん。まさかこんなに晴れていたなんて思っていなくて」
「今日は朝から晴れてたし、天気予報でも言ってたよ」
からからの晴天の下である。特に百貨店の屋上は、夏でなくとも陽は余計に直撃するものだ。
「私、天気予報見ないんだぁ」
照れ笑いをする彼女は、ペットボトルの蓋を固く閉めた。その間、僕はなんとなく不思議な違和感を覚えていた。
八木洋花はこんな風に対等に振る舞う人だったろうか。いや、彼女はもちろん、誰に対しても分け隔てなく接するのだが、解放的に男子と会話するような子じゃない。仲がいい女子とそのついでに男子と話をする、ような。そういう場面はよく見ていた。だから、こうして単独で存在し、僕みたいな底辺男子と会話しようなんてありえない。彼女は僕のことなど眼中にないはずだ。僕が知っている八木洋花とは、そういう女の子だ。
「ねぇ、九重くん」
室外機の音すらもひれ伏すくらいの、はっきりした声音で彼女が言う。
「どうして死のうとしたの?」
「えっ」
「だって、いかにも飛び降りますよって格好だったじゃない。見たら分かるもん」
それはごもっとも。
「人生捨てたもんじゃないよ。もったいないよ」
「そうかなぁ……」
「うん。九重くんは……死ぬべきじゃないよ」
少し言葉を濁すような言い方をしたが、僕は不審に思うわけがなく、その言葉をまっすぐ素直に受け取った。
「だって、もしかしたら好きな子に告白されるかもしれないっていう未来があるかもしれないんだよ?」
突拍子もないことを言い出す。僕のテンションはわずかに下がった。
「こんな冴えない僕に告白してくれる子なんていると思う?」
「いるよ。絶対いる。私が保証する!」
なるほど。彼女から告白されるという高望みはしないが、そういう未来を想像したら人生を棒に振るのは先延ばしにしてもいい気がする。まったく、僕の決意はやじろべえのように危なっかしく揺れやすい。
「分かった。死ぬなんてことは諦めるよ。八木さんに救われたこの命、事切れるまではフルに使う」
「やったぁ!」
彼女は嬉しそうに両腕を宙へ突き上げた。そして、そのまま僕の手首を握る。
「ありがとう、九重くん! 私は君が生きててくれたらすごく嬉しいんだ。私も救われた気分だよ」
なんだこれは。僕は彼女にお礼を言われるようなことはしてないぞ。
「でもね、まだ解決ってわけじゃないの」
彼女の息遣いが聴こえる。直に耳へ届くようで、その至近距離にめまいがする。やばい。脳が溶けそう。
「いい、九重くん。『ぎゃっこうの自分』に負けちゃダメだよ」
ぎゃっこう……逆行だろうか。それとも逆光?
「逆さの光で逆光。逆光の自分に負けると、死にたくなるから。気をつけてね」
浮ついた脳内に突如侵入する不可思議な言葉。彼女は一体どうしてしまったんだろう。僕もふわふわと曖昧な心境だが、彼女の方もいつもとは違って、なんだか……あぁ、ダメだ。意味が分からない。
「ところで、今日の夜、あいてるかな?」
その問いで、僕はもう考えることをやめた。首を縦に振って頷く。
「それじゃあ今夜、十二時に
その後、彼女とどうやって別れたのかあまり覚えていない。
***
午後十一時半。僕は家族に何も言わず、そっと家を出た。しんと静かな夜は、なんだか春の陽気さを帯びている。
楠ケ丘神社は住宅地の中にある小山に建つ小さな神社だ。なんの神様を祀っているのかは知らないし、参拝するのは地元の年配くらいだ。僕の両親もいとこの家も初詣にこの神社を選ぶことはない。自宅から徒歩でおよそ二十分の距離。また、僕は自転車を持っていないので徒歩しか手段がない。
足は軽やかで、早く彼女に逢いたい気持ちでいっぱいだ。
真夜中に女の子から――しかも好きな子から呼び出しを受けるなんて、奇跡としか言いようがない。今までずっと日陰から彼女を見てきたのに、こんなに早く急接近するなんて虫が良すぎる。異常だ。それは分かっているが、冷静に考えていられるわけがなく、可愛い女の子と話をしたというだけで半日中、舞い上がって浮かれている。この夜もなんだか優しげで、僕らの逢引を応援するかのように人っ子一人、猫一匹姿を見せなかった。
さて、今夜は黄色のフィルターがかかったような紺色で、とろみのある夜空だ。三日月の光が強い。電灯には蜘蛛の巣。溝は空っぽ。僕が歩く足音しか響かない。
もうすぐ十二時。足を速め、神社へ急ぐ。
八木洋花はどんな格好で現れるのだろうか。いつもは紺のセーラー服に白いスカーフで、黒ソックスにローファーという女子高生らしい格好なのだが、彼女の私服がどうにも思い浮かばない。女子はセーラー服とセットとして考えているし、僕には女きょうだいがいないので、同年代女子の私服など思いつくはずがなかった。
対して、僕は薄いリネンの黒シャツと灰色のTシャツ、重い色のジーンズを合わせてきたが、ださくないだろうか。鳥居を前に、そんなことを考え始めた。
山を削ったような階段をのぼる。のぼる。のぼる。遠目から見れば大したことはない小山なのだが、僕の太ももに喝を入れるように手ごわい。体育をさぼっているせいか、階段が長く感じる。森というほどではない浅い林と深い藪の真ん中で伸びる階段をひたすらにのぼる。
ようやく神社の社殿が見えてきた。立派とは言えない、簡易で古びた屋根が黄色みがかった夜に浮き上がる。
「……ん?」
社殿の前に人影が一つ。賽銭箱の上に座っている。
「こんばんは、八木さん。もうついてたんだね」
スマートフォンを出し、画面の時計を見る。現在、午前零時。日が変わった。時間ぴったり。この場合はまだ遅刻ではないだろう。
「こんばんは、九重くん。ちゃんと来てくれたんだね」
八木洋花の声がし、賽銭箱から降りてくる。
そう言えば、彼女は優等生だ。こんな夜更けに外を出歩き、人通りの少ない神社に来たがり、賽銭箱に座っているなんて奇妙なこと。普段は優等生キャラを演じているのだろうか。それはそれでギャップ萌えというやつではないか。
闇の中から人の姿がかたどられる。白く滑らかな肌は薄く陰っており、彼女は制服姿のままで何かを抱えて僕の前に現れた。両手に丸いものを抱えている。ボウルのような。投げるものではなく器という意味の、何か――
「早かったね。もう少し遅くなるんじゃないかと思ってたのに」
八木洋花はそう言った。
闇の中で、血まみれの口元をさらして。
「………っ」
僕は絶句した。声を奪われたかのように、思考を奪われたかのようにただただ立ちすくんでいた。今、視界に飛び込んできたものを脳で処理し、理解するのは不可能だった。
息を吸った瞬間、彼女は僕の口を塞いだ。赤い鉄の臭いが鼻の奥へ無理やり押し込まれる。
動けない僕に、優しく「静かに」と人差し指を立てる。こんな異常さを備えていても、声や仕草、顔はどうしても八木洋花本人だ。
「ちょっと大人しくしててくれるかな。さすがに騒がれるのは嫌だから。いい?」
むせ返りそうな血の臭いから離れたくて、僕は首を縦に激しく振った。すると彼女はにこやかに、指を一本ずつ口から離した。解放され、すぐに息を吸う。苦しさのあまり無様にひざまづいて、喉を枯らすように咳き込んだ。空気は赤い湿り気を帯びていて気持ちが悪い。
「ま、」
ようやく出た声は裏返って、およそ言葉とは言えない。でも、何か言わずにはいられなくて、僕はようやく回り始めた思考から疑問を紡ぎ出す。
「ま、ずは、その、それを説明してくれないか、八木さん」
震えながら、彼女が持っているものを指した。それは顔がえぐれ、たっぷりと濃い色の水――ではなく血で満たされている。
一体、どうやってそんなものを手に入れたのか。全神経が答えを拒んでいる。
「説明ねぇ……」
八木洋花は少しだけ声のトーンを落とした。気がすすまない素振りだ。
「今、この状況で冷静に説明してもわけが分からないんじゃないかな。どうやら君は人の死体を初めて見たようだし」
「そりゃあ、こんな、こんな死体を見たことはないよ。あるわけない」
「はぁ……『こっち』の九重くんは温室育ちなんだねぇ」
言ってる意味が分からない。しかし、控えめな八重歯を血で濡らした彼女を見て、立ち向かうことは到底無理だった。逃げることもままならない。
「あぁ、そうか。この世界では、人を食べる人はいない、みたいな?」
彼女がゆっくり訊く。
人を食べる。食べる人。そんな人間がこの世に存在するのだろうか。いや、いるのかもしれない。でも、それはフィクションの世界であって、そんな人がそうそういるわけがない。あってはいけない。でも、いるのかもしれない。
「この世界ではって、そりゃそうだろ」
後光のように、八木洋花の頭に月光が差す。逆光の彼女は狂った獣だ。
「自分の世界だけで、ものごとを決めつけるのは良くないよ。『私の世界』では、そこまで深刻なことじゃないんだから」
私の世界、と彼女は強調する。一体、彼女は何者なのだろうか。世界が二つあるような言い方をするけれど、そんなことはありえない……いや、人喰いを相手にしている時点で、僕の世界はすでに色々と破綻している。
「この世界での九重くんは私が見る限りじゃ、量産型ロボットみたいな人工的思考で、平均的な男子高校生だよね。病気のことも知らずに、うっかり死んでしまいそうな危うさがある。現に一歩遅かったら、君はこの夜を生きていなかった」
「病気? それは一体……」
「死にたがりの病気。別名、ドッペルゲンガー症候群」
なんだ、それは。そんなもの聞いたことがない。
「聞いたことないかな。ドッペルゲンガーって」
「ドッペルゲンガーは、なんとなく知ってる」
思考がうまく働かないが、どうにかこうにか脳内を引っ掻き回して探し当てる。
確か、自分と同じ姿かたちをした者だ。それに遭った場合、死んでしまうとか。そういったオカルト的現象。
「それとどう関係あるんだよ」
「関係は大いにあるよ」
自信たっぷりな返答に言葉が出ない。彼女は続けてこう言った。
「君が死にたがった理由はね、もう一人の九重摂が同じ世界線上に存在したからなんだよ。その場合、君は助かるはずがなかった。でも、こうして私が助けたの」
彼女が抱えたものに目を向ける。考えたくないが、これはつまり……
「そう。彼はあなたを殺しにきた九重摂」
僕の想像を肯定してくる八木洋花の口は無残にも呆気なかった。その軽々しさに飲まれる。
「世界を終わらせるのは簡単なんだけれど、実は自分の世界が終わっても他の世界では終わってない。無限の確率によって世界は枝分かれしている」
彼女は持っていた頭部を大事そうに地面へ置き、スカートの裾を太ももと膝の裏で挟んでしゃがんだ。僕の目を覗き込む。
「この世界の九重くんを例えば『ルートB』と仮定して、私は『ルートA』からやってきた。屋上で会った八木洋花は私、『ルートA』の八木洋花。あぁ、まだ分かってないみたいだね。こっちの八木洋花を無理やり引っ張ってきたら良かったかな? でも、同じ世界線に同一人物が存在すると歪みが生じて死にたくなるから、これを証明するのは不可能なんだよね」
そうか。だから、僕は本来の八木洋花とは違った何かを感じ取っていたのか。
いや、それでも信じられない。この八木洋花はただ単に多重人格者なのかもしれない。表の彼女は可憐でしとやかでみんなに愛される美少女だが、裏では人肉を貪る悪魔で悪辣な美少女なのかもしれない。世界がどうとか言っているが、それもすべて彼女の妄想じゃないのか。
「ありえない、と勝手に決めつけているだけかもしれないよ? この世に当然はない。みんな自然に生きてるから気が付かないだけ、かもしれないよ?」
「そんなことは……そんなこと……」
そんなことを言われたら反論できない。彼女の言葉や思考も否定できなくなる。
これは、僕が悪いんだろうか。人間を食べている女の子を目の前にして、いつまでも腰が抜けて思考はもぬけの殻でいて、逃げ出したいのに逃げ出せずに絶望を感じているのは、僕が悪いんだろうか。
あの時。なんとなく死のうと思ったあの時、いさぎよく死んでしまえば良かった。そうすれば、この気持ち悪さを覚えずに済んだだろう。あの時、僕は八木洋花に救われなければ良かった。
***
翌日。あんな衝撃的な出来事が起きたにもかかわらず、朝は自然にやってきた。まだあの赤い臭いが鼻の奥にこびりついている。
学校を休むことにし、部屋に閉じこもっている。やがて父が仕事へ行き、母がパートに向かった。一人きりになったその直後。
ピンポーン――
玄関のチャイムが鳴った。
ピンポーン――
間をあけずに再びチャイム。
だるい体を起こし、二階の自室から降りて、けたたましい玄関を一瞥。そして、居間にあるドアホンを見た。
「うわっ」
モニターに映るのは、少女の微笑だった。
どうして八木洋花が僕の家を知っているのか。
彼女はにっこり笑い、僕をじっと見つめている。正確にはカメラを見つめているのだろうが、僕がそこにいるということを認識しているかのようだった。
「おーい、九重くーん! こ、こ、の、え、くーん! あーけーてー!」
玄関を叩かれ、僕は急いで玄関を開けた。開けるべきではないと分かっているが、開けなかったらまた別の恐怖があるかもしれない。それに、近所迷惑だ。
こわごわドアを細く開けると、彼女の手がスルスルと侵入してくる。
「おはよう。今日は休むの? 一緒に学校行きたかったのに」
「か、帰ってくれないかな、八木さん。それに、学校にも行ってほしくないんだけど」
「えぇ? なにそれぇ。あ、もしかして、僕と一緒にいてって意味だったりする?」
「はぁ!?」
この驚きには決してやましい気持ちはない。まったくない。微塵もない。昨日のあれを見せられて、どうやったら恋愛対象に見られるって言うんだよ。
人喰いの同級生とは恋人にはなれない。絶対に。どんなに可愛くてもだ。
「あぁー、なるほど。九重くんって人の目を気にするタイプなんだね。急に付き合うことになっちゃったら、みんながびっくりしちゃうもんね」
「いやいやいや、そもそも付き合うって承諾してないし、僕と君があんまり仲良くないっていうことも含めて、どうやっても君とは付き合えないし、もう関わらないでほしいんだけど」
たとえ命の恩人だろうと人喰いだろうと、僕は「好きな子のために死ねる」とか「どんな君も愛している」とは言えない、平凡で気弱で卑怯な男だ。
それなのに、
「照れ屋な九重くんもかわいい」
「………」
僕は説得を諦めた。
「――昨日は気が動転して話ができなかったじゃない?」
彼女は嫌がる僕を家から無理やり引きずった。とっくに始業だが、彼女は急ぐ気がなく、ゆっくりとした足取りで学校への道を歩く。傍目から見ると、学校をさぼる恋人同士かもしれない。脅されて連行されているなんて誰が想像するだろうか。
「きちんと説明をしなくちゃと思ったんだ。ほら、私も興奮してたから支離滅裂だったわけで」
「人は興奮したら人を食べるの?」
「食べるよ」
僕は割と慎重に訊いたのだが、彼女はあっけらかんと軽く答えた。
「だって、好きな人が自分の血肉になるんだよ。興奮しないわけがないよ」
あぁ、やだなあ。その口から「死」なんて聞きたくないほど憧れを押し付けていたのに、今やすっかり慣れてしまっている。
そんな僕の憂鬱を知る由もなく、彼女は自由奔放に口を開いた。
「まぁ、私もいろんな世界を走り回ってきたから、倫理観が崩壊してるんだと思うんだよね。この世界じゃ、人は人を食べない。それがよく分かったよ」
分かってくれたにしても、もうすでに一人喰ってるだろ。とは言えない。
僕は話を変えることにした。
「昨日、言ってた話だと世界はすべて並行で、選択肢一つであらゆる確率を生み出すんだったよね?」
「そうそう。さすが九重くん」
褒められても嬉しくない。
「別世界の同じ自分が悪意なく正義のまま殺しにやってくる、なんて可能性もゼロじゃない」
八木洋花は口をすぼめて、可愛らしくこちらを見る。僕はごくりと喉を鳴らした。
「自分が自分じゃないような現象は、同一人物が同じ空間にいるから。本当は迷い込むはずがないのに、ごくたまに迷い、紛れてしまうんだって。それは本人にとって恐るべき脅威。だから『九重くん』は別世界線の自分を排除することに決めたんだよ」
陽が照りつける五月。誰もいない路上で立ち止まる。僕の視線も自然と上に向かう。
「でも、それだと別世界の九重くんたちが全滅しちゃう……私が九重くんと一緒にいられない可能性が増えてしまう」
あぁ、喉が渇く。
とても理解できる内容ではない。理解したところでこの理屈に頭が拒否反応を示している。良くないと本能的に感じている。そんなファンタジーがあってたまるか、と。
「十七歳はみな迷える子羊なのよ。迷子の子猫じゃなく、子羊。大人になりきれない、子供でもない。中途半端。自分が見えなくなって、迷っちゃうことはよくあるんだって、九重くんはいつも言ってた」
陰影を浮かべていた目から涙が一筋落ちた。
迷っているのは彼女もなんだろう。迷子の子猫ではなく、迷える子羊らしい。
肉食の羊。狂った可愛い獣。
「私の世界の九重くんは私のことを嫌ってた。大好きなのに、見向きもされなかった」
悲しそうな唇がぽつぽつと言葉を続けていく。そこには絶望的な色があり、昨日の僕と同じだった。
「ままならないから死にたくなるんだよ。だったら、上手くいくように世界を変えたい。それを実証したのが九重くん。君であって君じゃない人。私は彼を追いかけて見つけた。そして、君を助けた。今度こそ私は九重くんと一緒にいられる」
姿形は八木洋花でも、別人の八木洋花だ。分かっているのに、あぁ、喉が渇く。
「九重くん。私はね、今から八木洋花を殺しに行くの」
「え?」
「君に悪影響を及ぼす九重摂を殺した。あとは私に悪影響を及ぼす八木洋花を殺す。そうしないと私たちは、ここにいる私たちは、幸せになれないんだよ」
彼女の中に倫理はない。別世界の、逆光の人間だから。
あぁ、ダメだ。飲まれるな。
「……そんなの間違ってるよ」
いくら別世界の人間でも、世界を我が物顔で操作しようなんて間違っている。
「間違ってる? じゃあ、私が九重くんと一緒にいられないのと、君が八木洋花と一緒にいられない世界が正しいの? せっかく、両思いな私たちが揃ってるのに、これは間違ってるって言い張るの?」
それは……そう言われてしまったらなんと答えたらいいか分からない。
ダメだ。僕のためにここまでしてくれた、なんて思っちゃダメだ。ダメなのに、何故か彼女のことを好きだと再認識している。システムに組み込まれているかのように自動的に欲が走る。八木洋花が堪らなく好きで、目の前の彼女に見蕩れている。理性と感情がバラけている。僕はまだ病気が治ってない。
「このままだと、私と君はいつまでたっても平行線。実際、私は君にとって好条件なんじゃないかな。私は君のことが大好きなんだよ?」
彼女は物欲しそうに、指の腹で僕の頬をなでた。甘やかな香りの中、昨夜の赤い臭いが混ざる。
「あの……一つ、訊いていいかな」
彼女はこくりと頷く。
僕は覚悟を飲み込んで言った。
「もし、別の九重が僕を殺しにやってきたら、また僕を助けてくれる?」
その質問に、八木洋花は微笑みを返した。
「勿論。私の狂愛を君に捧げるよ」
胸焼けしそうなほど愛情が重たい。
さて、僕はどうしたらいいんだろう。「僕のことが嫌いな八木洋花」と「僕のことが大好きな人喰いの八木洋花」。果たしてどちらを選ぶべきか、どのルートが正しいのか。
彼女が知る九重摂はもう存在しない。それでも「九重摂」を手に入れようと同じことを繰り返すだろう。そして、もし僕以外にも好条件な九重摂が現れたら、彼女は僕をあっさり食べるだろう。そんな可能性もゼロじゃない――
「……分かった。降参する」
気だるく顔を上げると、八木洋花は目と口を真ん丸に開いていた。可愛い。中身はどうあれ、彼女は魅力的だ。
「まだ、僕の病気は治ってないから、治してもらわないと」
「ありがとう!」
嬉しそうに両腕を宙へ突き上げる。そして、そのまま僕の手首を握る。
「一緒に幸せを謳歌しようね、九重くん」
彼女の息遣いが聴こえるほど至近距離。
結局、僕は最初から彼女に抗えない。理想の相手とは程遠いのに、何故か惹かれ合っている。それは彼女も同じなんだろう。
愛なんて、そんなものだ。
【完】
肉食の羊 小谷杏子 @kyoko
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