狼少女の恋わずらい
青柳朔
狼少女の恋わずらい
わたしの恋は、嘘で塗り固められている。
それは、色づいた葉がはらりはらりと落ちる秋の日だった。
放課後の科学準備室。部屋のなかに染みついた、残り香のような薬品のにおいが鼻をつく。たくさんの本や書類で埋もれた机に向かうひとりの男を見つけてわたしは笑った。
「せんせい」
わたしの呼び声に、せんせいはちらりともこちらを見ない。
「せんせい、すきよ」
窓の向こうからは運動部のかけ声が聞こえて、西日が部屋のなかを赤く染めていく。わたしの声は確かに先生に届いて、眼鏡の向こうの黒い瞳が呆れたようにわたしを見た。
「――うそ」
くすりと笑ってそう告げると、はぁ、と溜息が部屋に響いた。
「もう少しマシな嘘をつけよ。俺の首を飛ばす気か」
「なかなかスリリングで素敵でしょ?」
おかしくてくすくすと笑っていると、苦々しい表情でおまえな、と先生は吐き出した。
「
がりがりと頭を掻きながら先生は『先生らしく』お説教する。先生は不真面目なふりをして、根はどんな先生よりもしっかりした先生だ。イマドキ、好きなんてどこでも大安売りしているのに。
軽くていいのだ。わたしの恋は、伝わってはいけないのだから。
「……暇ならプリントをかさねてホチキスでとめてくれ」
先生が指さした先には、積み重ねられたプリントが山盛りになっていた。先生のことだ、資料を作って印刷したところで力尽きたんだろう。
「先生、わたしに労働させるんですか? 高いですよ?」
「どうせ缶ジュース一本だろ」
実のところ、こういう手伝いははじめてではない。
先生とこうしてよく話すようになってからは、週に一、二回のペースで頼まれる。その度にいつも先生は缶ジュースを奢ってくれた。
くしゃりと頭を撫でられると、少し照れくさい。でも照れてるなんて先生に知られたらいけない。
その無骨で大きな手がわたしに触れるだけで、心臓は驚くくらいに悲鳴を上げているなんて。
「もー髪がくしゃくしゃになるじゃないですか。女心がわかってないんだから!」
「はいはい、じゃよろしく」
何クラス分あるんだろう、という量のプリントを受け取って、わたしは隣の化学室に入る。プリントをかさねてホチキスでまとめるともなれば、狭くて散らかった準備室ではできない。
*
それは、太陽の日差しが眩しい夏の日だった。
わたしと先生がお互いを認識するようになったのは、三ヶ月前のことになる。
わたしはそもそも文系で、化学は選択してないので先生の授業を受ける機会もなかった。
時折校内ですれ違う程度で、わたしはかろうじて名前を知っているくらいだった。
「この大嘘つき!」
パンッと強く頬を張られた。
典型的すぎるだろっていうくらいにわかりやすく、校舎裏に連れ込まれて同学年の女子三人に囲まれている。まさか自分がこんな目に遭うとは考えるはずもない。
「
人の頬を思いっきり引っ叩きながら、自分が被害者だとでも言いたげにさめざめと泣いているのが、なんとも鬱陶しい。こんな茶番に巻き込まれたことがたいへん遺憾だ。
「何もないけど? 付き合ってもないし友だちでもない、かろうじて元クラスメイトってところじゃない」
彼女たちの言う『尾木くん』と同じクラスだったのは高一のときだ。もう二年前になる。そのときだって、まともに会話した記憶なんてない。
「でも彼は、あなたが好きだからあたしとは付き合えないって……!」
――知らないわよそんなこと。だからってなんでわたしが殴られなきゃいけないの。馬鹿馬鹿しい。
小さく溜息を吐き出してわたしはこの茶番はどうしたら早く終わるのだろう、と考えた。この人たちに日本語が通じるだろうか。通じないと思う。
「あんたが思わせぶりなことしたんじゃないの?」
「いっそあんたがさっさと振ってよ」
告白もされてないのに、どうしてそうなんのよ。
頭の中では間髪入れずに言い返すけど、こういうときにやり返してもいいことはない。だからおとなしくだんまりがいちばんだ。
「黙ってないで、なんとか言いなさいよ!」
顔色ひとつ変えずに黙り込んでいるわたしに腹を立てたのか、勇敢なオトモダチは苛立ちながら手を振り上げた。
「おー。ガキのくせに一丁前に色恋沙汰か。やるならもっと見つからんとこでやれ」
突然割り込んできた大人の男の人の声に、振り上げられた手はぴたりと止まる。
喚いていた女子生徒たちは驚いて肩を震わせた。そりゃ校舎裏といえどもこれだけ大声出していれば気づかれるだろう。
季節は夏。窓を開けているところも多い。
「
――見たことがある。その程度の認識しかない先生だった。廊下で気だるげに歩く姿を何度か見かけた。
「おもしろそうだから聞いてみてりゃ、おまえらのそれは逆恨みっていうんだよ。多勢に無勢、見てて胸糞悪い」
ほー。思いっきり切るなぁ、とわたしは心の中で笑う。
昨今、生徒相手に暴言を吐いたなんて言われて揉めることも珍しくないだろうに、オブラートに包まない物言いは小気味いい。
「ひど、カオリは本気で尾木くんこと――」
「本気で惚れてるってんだったら正々堂々勝負しろ。恋敵の横っ面引っ叩く暇があるなら少しでも自分を磨いてイイ女になれっての。男は女のそういう醜悪なところ嫌うぞ」
それは性根の問題だから、もう更生の余地はないんじゃないかな。内面のうつくしさは一朝一夕で磨かれるものではない。わたしも腹の中は真っ黒だから人のことは言えないけれど。
「ひどい先生! 教育委員会に訴えてやる!」
「それなら俺はおまえらが三人でやってたことを公表するぞ。三年のこの時期にやらかすと、大学受験で不利だろうな」
先生がスマホを操作すると、さっきの会話が再生される。
――うわぁ鬼畜。ちゃっかり録音してたんだ。
三人は当然、顔を真っ青にしている。
「わかったらとっとと帰れ。茶番に付き合うのも馬鹿馬鹿しい」
しっしっ、と犬っころを追い払うように手を振っている先生を睨みつけると、三人はびくびくしながら去っていった。
……さて、わたしも帰るか。
「こら、おまえ」
「はい?」
わたしは先生に怒られるようなことはしておりませんけれども。立派な猫を被った優等生なんで。
「頬、見事に手形ついてるぞ。冷やしたほうがいい」
「……はぁ。忘れなきゃやっておきます」
「アホか。こっちこいって言ってんだろ」
「いいです、別に」
「めんどくせぇ性格だな……ちょっと待ってろ」
舌打ちしたあとに先生は窓の内側に消えていった。今のうちに帰ってしまおうか。きっと名前は知られていないんだから、逃げてしまえばこっちのものだ。
「おい」
しかし思った以上に早く先生は戻ってきた。
「ほら、これで冷やしとけ」
大きなてのひらが伸びてきて、わたしの頬に冷たい何かがあたる。男物のハンカチだ。惜しげもなく濡らされている。
「無いよりマシだろ。……気をつけて帰れよ」
「これ」
「めんどうだから返さんでいい」
先生の見た目に反してハンカチはしっかりと洗濯されてアイロンもかけられているようだった。それがいまや、ぐっしょり水に濡らされ絞られ憐れな姿になっている。
「……ありがとうございます」
ぺとりと頬にハンカチを押し当てる。ひんやりとしたそれは、妙に沁みた。
わたしも年頃の女子の例に漏れず、単純な生き物だ。
けれど、恋に落ちるのにこれ以上のきっかけなんて必要ない気がした。
*
――ぱちん。
最後の一束をホチキスでとめて、わたしの任務は終了だ。
「おつかれさん」
気だるげな低い声に、わたしは振り返って成果を見せつけた。机の上には綺麗に仕上がった資料が積み重なっている。
「先生。ちょうど終わったところですよ」
「そろそろだろうと思って、賄賂買ってきたとこだ」
賄賂なんて言い方よりは、ご褒美って言ってほしい。それに、自販機に行くまでのわずかな間だけでも先生と話す時間ができるだろうと目論んでいたわたしにはがっかりな情報だ。思わず頬を膨らませる。
「ちょっとぉ。人のリクエストも聞かずに?」
「おまえはいつもミルクティーだろ」
ほら、と手渡されたそれは、間違いなくわたしがいつも買ってもらっているミルクティーだった。
「……ありがとうございます」
「飲んだら帰れよ。もう日が暮れるのも早くなったからな」
残暑と呼べるような気候はいつの間にやら消え去って、すっかり空気は秋そのものだ。そろそろ木々の葉も色づいて落ち始めるだろう。
「それに、おまえも受験組だろう。こんなとこで油売ってていいのか」
「手伝ってくれた生徒にそういうこといいます? まぁ、ご心配なく。ちゃあんと受かりますから」
ふふん、と胸をはると、先生はくしゃりと笑った。
「たいした自信だなぁ」
「勝算のない戦いは挑まない主義なんです」
――だからいつも先生に嘘をつく。
先生は、教師と生徒の線引きをしっかり引いている。だからわたしも、ちょっと困らせる程度の生徒でいい。
好き、が言葉にすればするほど軽くなるなら、どんどん軽くなって重みなんて消えてしまえばいい。その言葉に含ませた本当の気持ちに、先生が気づかないように。
空になったミルクティーを持ち上げて立ち上がる。
「じゃあ帰ります、先生」
ああお疲れさん。先生がそう言うよりも早く、わたしは微笑んで『嘘』をつく。
「好きですよ」
「……大上」
「嘘です。先生のその渋い顔、おっさんくさいですよ」
くすくすと笑って、さようならの代わりに息するように愛を告げる。
嘘で塗り固めた、それがわたしの恋。
この大嘘つき。
今なら彼女たちの言葉に頷くだろう。わたしは嘘つきだ。ほら吹きだ。好きだ好きだと冗談のように告げて、それらをすべて嘘にして。
そしていつか、本当の意味で好きだと言ったときに、信じてもらえないように。
ちゃんと洗ってアイロンもかけたのに、結局返さぬままのハンカチは、いつも持ち歩いている。
*
それは、はらはらと雪がちらつき始めるようになった冬の日だった。
わたしの嘘は嘘のまま、いたずらように今も続いていたけれど、曲がりなりにも受験生。恋にうつつを抜かしている場合でもなかった。
先生に夢中で受験に失敗しました、なんて――ちっとも笑えないし。
「おまえ、もうここに来るなよ」
「……なんでですか」
「片思いごっこはもう十分だろう。残りわずかな高校生活を楽しめばいい」
片思いごっこ。
先生はわたしの嘘に気づいていて、けれどわたしの本気には気づいてなかった。わたしは恋に恋している。叶わない先生という大人の男を相手に高校生活にスパイスを加えた。その程度の恋なのだと思っている。
「……馬鹿にしないでください、先生」
だから、わたしは嘘を貫き通す。
それがわたしのちっぽけな守るべき矜持だ。
「わたしね、先生みたいなひと、大っ嫌いなんです。大人ぶって、余裕ぶって、いっつも自分の方が
はっと吐き捨てるように笑い、わたしは続けた。
「あーあ。女子高生にめろめろなって馬鹿みたいねって笑ってやるつもりだったのに台無し。もういいや」
先生は、何も言わなかった。
ちょっと困らせるくらいの生徒でいい。間違っても先生に高校生らしく『恋』をしていたなんて思われたくない。
何年かして、ああそういえば困った奴がいたなって、そう思い返してもらえるくらいの、くだらない存在でいい。
幾度も告げた『好き』が、わたしの全身全霊の恋であったなど、知られたくない。
「おじさんなら誰だって、可愛い女子高生に献身的に尽くされたら普通ころっといくじゃない? 先生ったら手にも触らないんだもん。ホントつまんなかった」
くるりとセーラー服のスカートを翻し、わたしは科学準備室の扉を開ける。
「それじゃ先生、さよーなら」
小悪魔みたいな笑顔で最後を彩って、わたしの恋は終わる。
嘘だらけの、わたしの恋。
*
そしてそれは、冬のおわり、春のはじめの、旅立ちの日だった。
卒業式に桜のイメージを植え付けたのはいったいどこのどいつだろう。まだまだ冬だと主張するような厚い雲が空を覆っていて、ちっとも晴れやかじゃない。
「大上」
低くて少しかすれたその声に名前を呼ばれるのは、 久しぶりだった。
卒業生は式を終えて、同級生や後輩たちと別れを惜しんでいる。
「……西町先生」
着納めのセーラー服が風に揺れた。きゅっと締め付けられる胸の痛みを無視しながら、わたしは笑顔を作る。
「どうしたんですか、先生。まさか最後の最後にわたしに魅了されちゃいました?」
おどけてみせると、先生は渋い顔になる。だからその顔、おっさんくさいからやめたらいいのに。
「――おまえ、そうやって嘘ばっかり言うの、いいかげんやめろよ」
締め付けられた胸が、怯えるように震える。一瞬だけ貼り付けていた笑顔も消えた。
「……なんのことですか?」
すぐににっこりと笑ってみせたけど、先生はわたしのことなんて見ずに別れを惜しんでいる生徒たちを見ていた。こんな風景、毎年三月には嫌というほど見るだろうに。
「おまえさ、狼少年の結末は知ってるか」
目を合わせないまま、先生はぽつりと問いかけてきた。
狼少年。確かイソップ寓話のひとつだっただろうか。
「狼が来るぞって嘘をつきすぎて、本当に狼が来た時に信じてもらえなくて食べられちゃったんでしょう」
大人はだから子どもに嘘をついてはいけないよ、と教えるのだ。大人は嘘つきばっかりなのに。
先生はくすりと笑い、そうしてようやくわたしを見た。眼鏡の向こうの黒い瞳がわたしをじっと見下ろす。
「だから、おまえも嘘ばっかり言ってるとぱっくり狼に食べられるぞって話」
「……どういう意味ですか?」
大嘘つきのわたしは、確かに狼少年にそっくりだ。けれど日本に狼はいない。そもそも、狼がくるなんて嘘はついてない。わたしはただ、好きという言葉を嘘で隠していただけだ。
「さて、どういう意味だろうな」
わたしを見下ろしながら笑う先生から、目が離せなかった。
「知ってるか。おまえらは卒業しても、形式上は三月いっぱい高校生なんだ」
「……知ってますよ」
高校生じゃなくなるのは、四月一日から。エイプリルフールじゃないか、とわたしは笑った。
「狼の答え合わせしたきゃ四月に来い。教え子のままだと口説けないからな」
思考が止まる。
止まりかけた息を吸って、わたしは先生を見上げる。黒い瞳は、今までとは違う色をしているように見えた。
「……嘘ですか?」
震える声で問うわたしに、先生はくすりと笑う。
「さぁ、どうだと思う?」
狼少女の恋わずらい 青柳朔 @hajime-ao
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