その男コインを握りしめ自販機の前で悩む者なり

さいとう みさき

その男コインを握りしめ自販機の前で悩む者なり

その男コインを握りしめ自販機の前で悩む者なり



 いつもここで迷ってしまう。



 自動販売機の前で普通にてんぷらにするか、はたまたちょっと豪華に月見てんぷらにするか。

 そんな葛藤かっとうが続く。


 たかが卵、されど卵。


 卵一個の値段なんてたかが知れている。

 しかし今それを食うのと食わないとではその後の仕事のモチベーションが変わってくる。

 もたもたしていると次の客の邪魔になる。

 急いで決断をしなければならない。



 意を決して今日は月見てんぷらそばにする。



 店のカウンターに食券を置いてついでにコップに水を汲む、セルフサービスだ。

 いつものおばちゃんが食券を受け取って「月見てんぷらそばですね。少々お待ちください」と言って作業に入る。


 そばの玉をゆでかごにいれて煮釜にがまにお湯に通し、湯切りと同時に器にお湯をかけ温める。

 そばを器に入れておたまで出汁だしのきいたつゆをかけ、てんぷら、ネギ、そして生卵を割って入れる。


 そのいつも通りの動作に心地よさを感じながらお待ちかねの月見てんぷらそばが目の前に出される。


 「お待ちどうさま、月見てんぷらそばです」


 おばちゃんがいつも通りのセリフでここまでの工程がが終わる。



 俺は口に割りばしをくわえながらカウンターから器を受け取る。


 そして七味唐辛子を軽くかけてから割り箸を割って器の端に乗せて「いただきます。」と言って手を合わせる。


 飽食の日本、しかしこうしていつも通りに飯にありつけることに感謝を忘れてはならない。

 俺はこの儀式を行わないと食事を始められない質である。



 早速つゆを味わう。

 

 ほど良い温度のつゆは熱すぎず、ぬる過ぎずでかろうじて卵の白身が変色している。

 

 そばにはしを立て麺を引き出してすする。

 

 立ち食いそば独特のやわらかめの麺、しかし朝の忙しい時にはこれが助かる。


 てんぷらにつゆを染み込ませ少し崩してから口に運ぶ。


 安っぽい味だが逆にそれが安心させる。

 ほとんど野菜しか入っていないてんぷらだがこれが胃にもたれないからいいんだ。

 

 次いでねぎをつゆによくひたしてから麺とてんぷらにからめながらすする。


 たまに卵の白身を麺にからませすするが、いよいよクライマックスが近づく。


 そう、あの月見だ。


 これを割ってしまいつゆやてんぷら、麺にからませて食うもよし。

 そのままつゆと一緒に口に運んで黄身の濃厚な味を楽しむのもよし。


 まさしくこれ一つで味に変化が起こる。


 今日の気分はつゆと一緒に黄身の味を楽しむこととする。


 残りわずかな麺とてんぷらを黄身が割れないように早急にかっ込む。

 そして器に残った黒いつゆに浮かぶまっ黄色な月見卵を見てからつゆと一緒に口の中に流し込む。


 プチっ


 黄身が口の中で割れ、濃厚な味わいを広がせる。

 一緒に口に含んだつゆがこれまたいい塩梅あんばいだ。


 そして最後にその味を流し込むかのように一口つゆを飲む。



 さすがに毎日食うのでつゆを最後まで飲み干すことはしない。

 これでも一応は健康に気遣きづかっているのだからな。


 器にまだつゆが残った状態だがカウンターのおばちゃんに返却する。



 「ごっそうさん!」


 「ありがとうございました」


 

 おばちゃんの声に送られながら出勤する。

 さあ、今日は卵食ったから栄養満点だぞ。

 心なしか歩く速度も上がる。




 * * * * *



 雨が降っていた。



 そういえばもうじき梅雨か。

 いつもの自販機の前で俺は何となく月見そばを注文した。

 カウンターに食券を置いてセルフの水を汲み、出来上がるのを待つ。


 「はい、月見そばね。少々お待ちください。」


 いつもながらの手際で作業を始めるおばちゃん、でも月見そばの時だけは最初から器をよくあたためている。

 立ち食いそばなのにこういったところはやっぱり職人なんだな。

 感心していると月見そばが出来上がってカウンターに置かれる。


 「はい、月見そばお待ちどうさま。」


 俺はいつも通りに儀式まで済ませそばをすすり始める。

 器の中で白身から黄身が離れコロンと回る。


 ‥‥‥


 その黄身を俺はいらだち紛れにはし刺し潰さしつぶす。



 そう、月見に八つ当たりしているのだ。

 

 とたんに黄身は黒いつゆに混ざり始める。

 にごったつゆだがそれは今の俺の気持ちをうつしているかのようだった。

 


 昨日は仕事で失敗してしまい、上司に散々どやされた。

 

 確かにあんな初歩的なミスをするとは俺らしくもない。

 しかしこのプロジェクトは俺だけではないだろうに。

 他の奴だって最後まで気付かず、上司に至っては目暗めくらでハンコウまで押している。



 ふう、とため息をこぼしてから残りのそばを食う。

 にごったつゆを飲み、最後に水でその味を洗い流す。

 器をカウンターに返す。


 「‥‥‥ごっそうさん」


 「ありがとうございました」


 自分で自分のほほたたき気合を入れる。

 今日はミスしないぞ!

 俺は店を後に歩き出した。

 


 * * * * *


 

 今日は熱いな。

 まだ朝だというのに気温はどんどんうなぎのぼり、ご丁寧ていねいにセミまで鳴いている。

 

 いつもの自販機の前に立つ。

 先客がいたがよくよく見ると後輩の菊池じゃないか。


 「おう、おはようさん。お前もここで朝飯か?」


 俺の声に気づいた菊池はゆるい感じで 「おはうようございま~す」 と返事を返してくる。


 「いやあ、あんまり暑いんで冷たいそばでも食いたいかなって。先輩もっすか?」


 朝食限定サービス冷やしタヌキの食券を買いながら聞いてくる。


 「ばか言え、朝から冷たいそばなんぞ食ったら余計に後がつらくなるぞ。それにここの店は夏場はつゆがぬるめだからそんなに苦にならんぞ。」


 言いながら俺はてんぷらそばのボタンを押す。


 菊池と並んでカウンターに食券を出すが、冷やしタヌキは朝サービスで温泉卵がついているのを思い出す。

 ちょっと悩んだがおばちゃんに追加の温泉卵を俺も入れてもらうことにした。


 「おばちゃん、悪いが温泉卵追加ね、はいこれお金」


 そう言って追加トッピング代を置く。


 「はい、ありがとうございます」


 おばちゃんはお代を受け取りかごに入れ、ちゃんと手を洗ってから作業に入る。

 いつもの手際の良さを見ながら菊池と話す。


 「今日はお前の行く客先に俺も同伴どうはんだったよな?資料ちゃんとまとめてあるのか?」


 「やばっ! 忘れてました!!」


 「おまえねぇ、昨日も注意してやったろうに、会社行ったら速攻でまとめろよ」


 「ういっす、そんなに手間かかるもんじゃない資料なんで一時間ください。それでまとめますから」


 俺は口に割りばしをくわえながら菊池にくぎを刺す。


 「わかった、一時間だぞ、それ以上は時間が間に合わなくなるからな」


 言い終わるころに俺のてんぷらそば温泉卵トッピングがカウンターに置かれる。

 と、ほぼ同時に菊池の冷やしタヌキも置かれる。


 「はい、お待ちどうさまでした。てんぷらそば温玉トッピングとサービス冷やしタヌキです」


 冷やしの方が手間がかかるのにちゃんと同時で出すあたり流石さすがだ。



 いつもの儀式をしてからそばをすすり始める。


 夏場はつゆがぬるめなので月見はあまり食ってなかったが、はしで白身を割った温泉卵は中から半熟の黄身をのぞかせる。


 てんぷらを黄身につけ口に運ぶ。


 まろやかさが増して食が進む。


 温泉卵は作り置きで冷やされているのでその冷たさがちょっとしたアクセントになってさらにてんぷらそばを食べやすくする。


 夏場はこれもありだな。


 そう考えながら食べ終わった器を返す。



 「ありがとうございました」




 「ごっそーさん、菊池、急いで会社行くぞ!」


 「は、はいっ。ごちそうさまでした~」

 

 後輩を引き連れ俺たちは店を後にする。



 * * * * *



 さらりとした風が吹いた。


 夏場の湿気を取り去る様に。

 背広の上着を着ていてももう暑くない。



 

 秋だなぁなんて思いながら自販機にたどり着く。

 お金を入れて、さて、たまにはキツネそばでも食うかとボタンに手を伸ばしたが、ふと中秋の名月ちゅうしゅうのめいげつなんて言葉が頭のはしをよぎった。



 俺は月見そばのボタンを押していた。



 店に入りカウンターに食券を置く。


 「はい、月見そばね、少々お待ちください」 


 セルフで水を汲んでからおばちゃんの作業を眺める。


 いつも通りの手際だが器はいつも以上に温めている。

 ゆでたそばを入れつゆ、ネギを入れてから生卵を割って入れる。


 この時に中央ではなく、ネギと対角線上に卵を落とすあたりが美的センスも考慮こうりょされている職人業しょくにんわざだ。


 たかが月見そば、されど月見そば。

 その小さな心配りに夜空の月を思い浮かべる。


 「はい、おまちどうさま、月見そばです」


 カウンターに置かれる器を受け取りながら、俺はいつもの儀式をする。

 しかし月見そばの時だけはちょっと違う。

 最初から七味唐辛子は入れない。


 「いただきます」


 見るとちょうどいい感じに白身が白く変色して固まり始めている。


 俺はそれをはしで軽くかき回す。


 この時に黄身を割らず白身から少し離れるようにするのがポイントだ。

 出来上がったそれはまさしく黒いつゆの夜空の満月にうっすらと雲がかかった風景に見える。

 その様を楽しんでから俺はおもむろに七味唐辛子を入れる。


 そばをすすりつゆを楽しんで、最後まで取っておいていた黄身をもう一度見る。

 ぷかぷかと浮かぶそれはまさしく満月。


 たまには夜空でも見上げるかと思いながら黄身とつゆを一緒に口入れる。


 プチっとした濃厚な味を味わい、最後に一口つゆを飲む。

  

 器をカウンターに戻す。


 「ありがとうございました」


 「ごっそーさん」


 おばちゃんの声に送られながら店を後にする。

 さて日も短くなる、今日も頑張ろうか。

 


 * * * * *



 寒くなってきた。



 そういえば忘年会の予約入れなきゃな。


 そんな考えを持ちながら俺はいつも通りに自販機の前に来る。



 先客が食券を買っている。

 珍しく女性だ。



 あまり近付きすぎない様にちょっと距離をとるが、向こうの女性がこちらに気づいた。


 「あれ? おはようおございます」


 よくよく見れば同じ会社の事務にいる前田さんじゃないか。


 「おや、前田さんか、おはよう。珍しいねこんなところで朝食なんて」


 「だって今朝はとても寒いし、昨日は晩御飯抜いちゃったんでお腹減ってるんですよ。」



 確か入社二年目くらいで事務のマドンナとうわさされている彼女はわざとらしくお腹のあたりをさすっている。

 ボディーランゲージは女性の方が上手だ、その動作がかわいらしく見える。



 「はははっ、ダイエットでもしてるのかな?」


 そう言いながら俺はてんぷらそばのボタンを押したつもりが間違って月見てんぷらそばにしてしまった。


 おつりと食券が自販機から出てきて一瞬どうしたものか考えたが、すぐにあきらめそのまま前田さんと店に入る。


 カウンターに食券を置く。

 次いで二人分の水を汲んで前田さんの前にコップを置く。


 「あ、ありがとうございます」


 「いえいえ、どういたしまして」



 特に俺も狙っているわけではないが、やはり女性には優しくしておいた方が何かといい。


 「はい、月見と月見てんぷらそばね、少々お待ちください。」


 おばちゃんが食券を確認してから作業に入る。



 おや?



 月見そばとは意外だな。



 「へえ、前田さんって生卵大丈夫なんだ」



 なんとなく独り言に近いつぶやきだったが前田さんにはしっかり聞こえていたようだ。


 「え? 大丈夫ですよ。私卵かけご飯とかも普通に食べれますもん」


 「そうなんだ、結構けっこう生卵が苦手っていう女性聞くからね、ちょっと意外だった」



 「はい、月見そばと月見てんぷらそばお待ちどうさま。」



 おばちゃんがカウンターに器を乗せる。


 最近の女性は平気なんだな、なんて思いながら出来上がった月見てんぷらそばをカウンターから引き取る。

 いつも通りの儀式をしてそばを食べようとしたら前田さんが小さく笑っていた。



 「?」



 「いえ、意外とお行儀がいいんだなって、ちゃんと手を合わせていただきますだなんて」


 「まあ、くせというか、儀式みたいなもんかね、これやらないと食べ始められないんだよ」


 そう言うと前田さんも俺と同じように手を合わせて「いただきます」と言ってからそばを食べ始める。



 ちらっと彼女がそばを食べる様子を見ると、最初から月見を割って麺に絡ませて食べていた。

 俺は自分の器の月見卵を見ながら今日の食べ方を一考いっこうする。



 口元がちょっとにやける。



 俺は冬場は熱めにしているつゆに月見卵を割って食べることにした。

 てんぷらや麺、つゆにまろやかさが増す。

 今日は月見の黄身を割るという心配はもうないのでいつも通りに平らげる。


 と、さすがに女性は男性と違い食べるスピードが遅い。


 まあ、ゆっくり食べてもらおうと思い器をカウンターに戻し、前田さんに先に行くとよと言ってから店を出る。



 「ありがとうございました。」



 おばちゃんの声をきながら店を出るときに前田さんもなんか言っていたようだが、店を出たとたんに街の騒音悪意にその声は途切とぎれて聞こえなくなった。


 あとに残された彼女は軽い溜息失望を器に吐きながら崩した月見の卵を見てぼやいた。



 「脈ないのかなぁ」




 * * * * *


 

 今日も自動販売機の前に立つ。


 いつも販売機につく前に大概何を食うか決めているが、やはりこいつだけは最後まで悩む。



 月見の卵を入れるかどうか。



 しかしいつもその迷いは俺の口元に小さなみをもたらす。

 


 「よし、今日は月見卵入れるか!」


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