黒助さま

上丘逢

第1話

 今宵お話させていただきますのは、何百年も昔のお話、江戸時代のこと。哀れな振売りの男の話でございます。振売り。お嬢さん方はご存知で? 

 ありゃ。そこのお兄さんは、しきりに頷いておられますな。振売りといいますと、今では何と申しましょう。竿竹屋。わかりますかね?

 たあーけやぁー、さおだけぇーっていう、あれですね。私、なかなかいい声でございましょ。声には自信あるんですわ。で、なんでしたっけ? あ、ああ、竿竹屋さん。そうです、そうです。とんと、物忘れがひどくて。堪忍です。

 振売りというのは、竿竹屋さんみたいな商品を売り歩く人のことでございます。行商人、と言えば聞こえはいいですが、当時は子どもや老人、体の不自由な者たちが働くための職業でございましてね。

 この男、名前を巳之助と大層な名前がついておりましたが、この巳之助も不運なことに手を悪くしましてな。それまでは、親から譲り受けた田んぼでようよう生活しとりましたが、手が使えなくなってはどうにもなりません。田んぼを親戚にゆずりまして、自分はその親戚から安く売ってもらった農作物を売り歩くということをしておりました。

 齢はというと、30ともなるやもめの男。娶る話はいくつかありましたが、どうにも上手く収まらず、独り身を通しておりましてね。

 なんというか、陰気が深かったんでございます。みのさんの近くにいるとなにやら寒くなる、とひそひそ囁かれることもありました。とはいえ、巳之助は勤勉で真面目な男でございまして、多少愛想がなくとも、振売りとしていくつか出入りするお得意さまを持ち、少なくとも食べることには不自由することなく暮らしておりました。

 ある日のこと、というのはこれまた便利な言葉でございますね。なに分昔のことで、詳しい日はわかりません。雨が降りそうな、どんよりした雲を野菜の入った籠と一緒に背負っているような日だった、ということだけお伝えしておきましょう。

 その日巳之助は、得意先で少ししくじりました。これは巳之助にとっては珍しいことでございまして、陰気だとは言われても真面目な人柄ゆえ、そういった不和を起こすような男ではありませんでした。何をしくじったかといいますと、番頭さんの不興をかってしまったんです。普段は、巳之助を相手にしてくれるような方じゃないんですが、その日はたまたま、いつもやりとりしているお屋敷の小屋に番頭さんしかおりませんでした。

 虫の居どころが悪かったんでございましょう。巳之助にとったら、不運でございました。

 お屋敷には離れたところに小屋がありまして、だいたい誰か奉公人が──何のためかはわかりませんが──小屋の中におりまして、振売りでございます、とお伺いすれば、いつもはそれで話が通じるんでございますよ。それが、やい、そんな薄汚い野菜を売るとはどういう了見だ。失礼千万、番屋に突き出すぞ、とこれまたひどい言いがかりでございました。

 終いには、火かき棒まで振り回されて、巳之助もあっちこっちを打たれながらほうほうの体で逃れました。泥まみれになりながら火かき棒を避ける巳之助を番頭さんは嗤ってましたよ。そんなやりとりの折に、本当に野菜は薄汚くなってしまいましてね。とても人様に売れるものではなくなってしまいました。

 食べるにしても、ほとんどは捨てるしかない有様です。巳之助は、意気消沈しました。強かに打たれた左手が痛むわ、逃げる折に捻ったのか、足首もなんだか調子が出ずに、とぼとぼと歩くしかありません。

 ところで、小屋の奥には川がありましてね。そこから、丘を登ると原っぱに出ます。丈の長い草が無造作に生えてるような場所で、虫も憩いの場とばかりに飛んでいるんですが、巳之助はその原っぱが好きでした。

 整然と建てられたお城の後ろで、なあんにも手入れされずに取り残されている原っぱでございました。すぐ下には、喧々とした人の世が繰り広げられているのに、ここではそんなのお構いなしにゆらゆら草が揺れている。そんな様子が、巳之助にはなんとも癒される場所に映りました。

 

 嫌な目にあった。今日は商売もできない。なら、サボっちまおう。


 誰に雇われているというわけでもありません。巳之助は、クサクサした気分を踏みしめながら、痛む足をおして丘を登りきりました。

 手慰みに手頃の棒をそこらでひっつかんで、草を左へ右へとなぎ払います。その度に驚く虫たちが面白くて、そうれこっちだ、今度はそっちだと草を突き回します。


 あの禿げ天頭の骸骨野郎が。ひっくり返って首の骨でも折っちまえ!


 無心に草を払ううちに、心の内に先ほどの番頭への呪詛が浮かびあがってきます。気持ちは晴れず、むしろ胸の中にムカムカしたものが募るばかりです。そうしていくらか草を払いのけているうちに、何かこう、黒いものが横切るようになりました。

 最初はヤモリかなんかだと思ったんですが、それにしては大きい。猫ほどの大きさがあるんですが、すばしっこくてね。ひょいといなくなるんですわ。だから、猫じゃあない。

 よし、捕まえてやろう、なんて巳之助は思ったんですな。さっきよりも慎重に、そして執拗に草を薙ぎ払っていきました。

 一心にそうしていますとね、ようやく黒いものの姿を捉えられるようになったんですが、これがやっぱりなんだかわからない。動物のようにも見えますが、目を凝らしているとさっといなくなっちまうもんだから、あれやっぱりヤモリか? 違うちがう、これはでっかいトカゲだ。そんなわけあるか、と一人で首を捻ってばかりでございました。

 あっちから顔を出せば、そらこっちだ。こっちから顔を出せば、それあっちだと延々繰り返しても黒いものの正体はとんとわかりません。

 そうしていると、不思議なもんでね。だんだん、その黒いものにおちょくられているように感じてきました。

 こっちが追い詰めているとばかりに思ったのに、そいつはなんだか意気揚々と姿を見せては隠れて、自分を嗤っているんだ。

 そう、思うとね。

 巳之助も、棒の扱いが乱暴になり、草を分けるんじゃなくて、その黒いものめがけて振り下ろすようになりました。

 そいつがどうやら生き物じゃなさそうだ、ということも巳之助の良心を殺ぎ取るのに功を奏しましてね。それでは何なんだ、というわけではあるんですが、単に黒いだけのモノです。巳之助も怖がりようがありません。


 そら、どうだ。このすばしっこい根性悪め。

 逃げるだけしかない能無しめ!


 棒を振り下ろしているうちに、いつのまにか、その黒いものが、巳之助を嗤ったあの番頭に見えてきました。そうすると、巳之助の棒きれを振り下ろす右手にも力が入ります。


 やい、お前はいばりんぼうのイジワル虫だ!

 おいらが退治してやるぞ!


 何度も何度も棒きれを叩き下ろしていますうちに、いくつか黒いものに枝があたるようになりました。当たると、ビクッとするんですよ。ちょっと縮こまって、さっきまですいすい草の間を移動していた黒いものが、怯えるようにそこにうずくまるんですわ。

 もう、巳之助には、その黒いものは番頭の顔にしか見えません。バンバンバン、と叩き潰すと、その黒いものは体といいますか、途中の部分がぐねっとしましてね。そのまま、体を引きずって草の中へと隠れてしまいました。


 どうだ、見たか!


 巳之助は高笑いすると、すーっと、本当にすーっと心が晴れていくのを感じました。

 その日は、むしろいつもよりも良い気持ちで床についたそうです。


    


    

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

黒助さま 上丘逢 @ookimg

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ