「私が能力に目覚めたのは、今みたいな衣替え前の五月で、真夏みたいに暑い日だった」

 少し高めの乾いた声で、千比呂が語り始めたとき、夕焼け色の理科室が、まばゆい青色に照り輝いた。壁も、床も、天井も、境界線がみるみる薄くなっていき、澄んだ蒼穹そうきゅうが宇宙のように拡がった。間違い探しの絵本から巨大なスクリーンに移された祐希は、足元が灼熱のアスファルトに変わったことに驚いて、顔を上げてさらに驚いた。

 千比呂の手には、大きな菊の花束があったのだ。

「その日は、私の大切な人の命日だった。毎年お墓参りに行くんだよ」

「……その人は、どうして死んだの?」

 理科室の変質よりも、不吉な菊の花束よりも、ろうより白い幼馴染の顔色よりも、それを訊くのが正しい気がした。線香に火を灯すように、千比呂の無表情にほのかな笑みが、ぽうっと咲いた。正解を選んだはずなのに、もの悲しさが胸を打った。

「暴力で死んだ。小学生のときに。その人の母親は、その人を上手く愛せなかった」

「……そっか」

 祐希は、ぎこちなく頷いた。本来であれば、この理科室のてっぺんで輝く太陽に引けを取らないほど明るい千比呂に、死をいたむ存在がいたなんて、初耳だ。心の表面がざらついたが、知らないはずの千比呂のかおに、どこかで納得している自分もいた。

「その人のいない世界で高校一年生になった私は、この日、能力に目覚めたの。鉄棒の逆上がりを、あるとき突然できるようになるみたいに。『大切な人』を時間遡行そこうで救う自分をイメージして、その人が生き延びられた世界を強く願い続けた私は、世界を歪めることを代償に、世界を創りかえる能力に目覚めたんだ」

「世界を、歪める?」

「そう。歪めてしまう」

 千比呂は、ふっと何かを諦めたような顔で笑うと、菊の花束を宙に放った。千比呂の髪に負けない鮮やかさの黄色が、幻の太陽に吸い込まれて、打ち上げ花火のように散っていく。虹色の流星が止んだとき、理科室に拡がった初夏の景色は、祐希たちの一年一組の教室に変わっていた。

 朝のHRホームルーム前なのか、クラスメイトたちは緩い喧噪の中で歓談している。遅刻魔のはずの旭もいた。一人の女子生徒と小鳥のように肩を寄せ合い、親密に会話を交わしている。出し抜けに見せられた日常の風景に当惑した祐希は、やがて息を呑んだ。

 そのとき、間違い探しの絵本のページを捲るように、教室じゅうのカーテンがひとりでに動いてぴたっと閉じて、風景に闇色の幕が下りた。泡を食った祐希の耳朶じだを、千比呂の淡々とした声が打つ。

「今のが〝一番目のセカイ〟だよ。でも、ここは私の願いが叶っていない世界だった」

「……君の願いは、何?」

「大切なあの人の『母親』を、世界から消し去ること」

 ――空間に蔓延はびこる闇にひびが入り、ガラスが砕けるような音がした。無数に散らばる闇の破片は、理科室の宇宙から剥落はくらくして、暗黒のひょうとなって降ってくる。冷酷な声を受けて絶句した祐希へ、千比呂は静かに語り続けた。

「世界を創りかえる能力で〝一番目のセカイ〟を構築した私は、あの女を『あの人の母親』というポストから追い出すことに成功した。〝一番目のセカイ〟で、二人は『他人同士』になったの」

「二人の親子関係を、変えた? そんなこと、できるわけが」

「できるんだよ。祐希」

「君は……間違ってる。そんな世界、いびつだ!」

「歪でも構わない。私の立場から見たら、『あの人』がいなくても続いていく世界のほうが間違ってる。その間違いを正すためなら、世界のことわりだって変えてみせる」

 気圧された祐希は、黙った。闇ががれた空間をだいだいの光が包み込み、頬の輪郭に輝きをまとう千比呂の表情の決死さは、小学生時代に気分が悪くなった祐希を保健室まで支えてくれた時とよく似ていた。あんまり必死な顔をされたから、昔を思い出すのだろうか。

「だけど、私は甘かったの。二人を『他人同士』にしても、『あの母親』は私たちのそばにいた。その気になれば、いつでも『あの人』に危害を加えられるくらいに。もちろん『母親』だった記憶は失っていたけど、安心できなかった私は、この教室の真ん中で能力を使った。今度こそ『彼女』が存在しない世界を創るために、平和な〝一番目のセカイ〟を、あっさり捨てた。……今なら、軽率な行動だったって、分かるのに」

 理科室を満たす光が、急速に強くなる。その刹那、足元に落ちた闇色の破片の一つ――〝一番目のセカイ〟の切れ端から、猛烈な視線を祐希は感じた。

 ぞっとして振り返った瞬間に、清冽せいれつな川の匂いが鼻腔びこうに流れて、血のように赤い紅葉もみじが、はらはらと理科室に舞い始めた。身体が、この空気を覚えていた。祐希は、弾かれたように辺りを見回した。

 先ほどの〝一番目のセカイ〟のように、新しい情景が目の前に映し出されていた。川沿いの通学路を、数人の高校生たちが歩いている。祐希とあさひ、それに千比呂も、冗談を言い合って笑っていた。他人事みたいな記憶のパズルに、ピースがまた一つぴたりと嵌まる。みんなでどこに向かっているのか、なぜかすんなりと想像できた。

 ――担任教師であるアイラの結婚祝いを、みんなで買いに行ったのだ。

「アイラは教師仲間との結婚が決まって、私たちは心から祝福してた。この〝二番目のセカイ〟の祐希だけは、内心複雑だったかもしれないけどね」

 千比呂は、曖昧な笑い方をした。祐希は気まずくなったが、やはり何度考え直しても、現在の祐希はアイラに恋をしていない。

 つまり――この世界も、千比呂は創りかえたのだ。

「この私は、みんなと明るく笑ってるでしょ? でも、本当は震えるくらいに怖かった。『あの人の母親』は、まだこの世界にいたんだから。私がどんなに『消えて』って念じて世界を歪めても、彼女の存在という『間違い』を、私はどうしても正せなかった。……そして私は、世界をやり直した代償を、ここで知ることになったんだ」

 舞い散る紅葉もみじが、突如として数を増した。くれないの嵐は、悲喜こもごもを内包した同級生たちの笑顔を隠していき、理科室が完全な赤色に覆われる直前に、銀杏いちょう色のカッターナイフを振るう誰かの手が垣間見えた。

 しっとりと濡れた赤色が、紅葉もみじに紛れて雫を散らせた。高校生のうちの一人が、小さく呻いてうずくまる。恋心以外にはほとんど引き継げなかったいびつな記憶の全貌ぜんぼうは、愕然とした祐希が叫ぶ間もなく、紅葉の海に攫われるように押し流されて、間違い探しの絵本のページは、また一ページめくられた。

「待って、さっき一瞬、見えたのは」

「私の能力は、世界を少しずつ歪めている。私が世界を創りかえるたびに、世界を構築する部品が位置を変えて、正したい『間違い』以外の要素も変わってしまう。その所為で――〝一番目のセカイ〟の記憶を、引き継いでいる人が出てしまったんだ」

「待ってってば、僕の質問に答えて……えっ?」

 千比呂が、祐希をじっと見た。祐希も、千比呂を凝視ぎょうしした。

 記憶を――引き継いでいる? 花の種子のように埋め込まれた、密やかで初々しい恋の記憶が、急に腐敗してただれた果実のように感じられた。背筋を、冷や汗が伝い落ちる。

「記憶を、引き継いでいる人って……もしかして」

 冷えた秋風が、紅葉もみじもてあそびながら吹き飛ばした。赤色がひらけた空間を、菖蒲あやめ色の夕景色が埋めていく。理科室の黒板がある辺りには、川沿いの通学路がびていた。今度は何を見せられようとしているのか、さすがに祐希にも予測できていた。

 ――〝三番目のセカイ〟だ。

「〝一番目のセカイ〟を覚えていた人は、世界を捨てた私のことを恨んでた。消えない『母親』のことで思い詰めていた私に、『その人』は血走った目で襲い掛かってきて……そのとき、私をかばってくれた人が怪我をした。それが、さっき見せた〝二番目のセカイ〟の出来事。助けられた私は、死に物狂いで能力を使って……〝三番目のセカイ〟で、またこの道を歩いたんだ」

 川沿いの道に、高校の制服を着た一組の男女がいた。オレンジ色の髪の少女は、千比呂だ。その隣には、気弱そうな表情を真剣に引き締めた少年がいる。こんな顔の自分を見ても、照れる余裕はなかった。

「〝三番目のセカイ〟の私は、学校をよく休む問題児って設定だった。消えない『母親』と『〝一番目のセカイ〟の記憶保持者』が現れた衝撃が、こんなふうに世界に反映されたのかもしれないね。ああ、アイラは担任じゃないけど、この世界でも教師だよ。でも祐希、君が恋した相手は、アイラじゃない」

「うん」

 見れば分かる。アイラに恋した世界よりも、しっくりとに落ちる眺めだった。幻のスクリーンに映し出された二人は、男子のほうから女子と手を繋いで、二人のペースで歩き出した。

「この世界の祐希は、私をすごく心配してた。その気持ちを、恋だって錯覚したのかな。何回も世界を変えた所為で、私はきっと知らないうちに、祐希を苦しめたよね」

 千比呂の切ない懺悔に、祐希は返事をできなかった。〝三番目のセカイ〟の祐希は、このとき何を考えていたのだろう? 千比呂に対して幼馴染以上の想いを抱きつつも、その幼馴染の手によって消し去られた〝一番目のセカイ〟の記憶も抱えていて、愛憎と呼ぶにはあまりに未熟で、それでも持て余してしまうほど巨大に膨れ上がった感情の狭間はざまで、煩悶はんもんを育てていたのだろうか。すでに『何もなかったこと』にされた苦悶くもんに思いをせても、何の手応えも得られない。

 ――祐希は本当に、千比呂を恨んだのだろうか?

 ――だとしたら、世界を創りかえた千比呂の手を、それでも取ったのはなぜだろう?

「私は、揺れたよ。もう世界を創りかえるのはやめようかな、この世界で、私も祐希と幸せになってもいいのかな、って。……でも結局、『彼』は私の命を狙った。〝一番目のセカイ〟を覚えていた『彼』は、〝二番目のセカイ〟のことも覚えていたんだ」

 千比呂は、目を伏せて囁いた。ああ、と祐希も息を吐いた。

 祐希は、葛藤に負けたのだ。負けて、千比呂を狙ったのか――。

「正確には、『彼』は私を狙ったんじゃない。私を傷つけるために、私の大切な『あの人』を狙ったんだ。そうすれば、私は必ず能力を使うから」

「……。え……?」

 諦観で満たされたフラスコに、言葉の劇薬が投じられ、酸でしゅわしゅわと溶かされて色を変えていく感情を、理性がすぐに処理できない。

 ――何かが、おかしい。千比呂が語る真実と、〝セカイ〟の変遷へんせんをたどった祐希の理解が、両親と今朝交わした会話のように、違和感まみれで噛み合わない。

 すうと首筋が寒くなり、祐希は俯く千比呂を見た。その千比呂の背後で、今も理科室のスクリーンで手を繋ぎ合った〝三番目のセカイ〟の千比呂と祐希が、こちらを振り向いて、目をみはり、はっと顔を強張らせている。

 視線の先に、殺人鬼を見つけたかのように――二人の視線を追った祐希も、ぎこちなく振り返り、息が止まった。そんな祐希の隣へ歩を進めた千比呂は、この展開をどこかで予想していたのか、りんまなじりを決していた。理科室の引き戸の前に現れた人物へ、戦いを挑むように言葉を畳みかけていく。

「――私が『あの人』のために世界の変化を望んだように、引き継いではいけない記憶を引き継いだ『彼』も、世界の変化を望んだんだ。私が初めて能力を使って生み出した〝一番目のセカイ〟……『あの世界のやり直し』こそが、『〝一番目のセカイ〟の記憶をずっと引き継いできた彼』の、真の望みなんだ。……そうでしょう? 堂島旭どうじまあさひくん」

 まやかしの夕景色が、ぱきんと澄んだ音を立てて割れた。〝一番目のセカイ〟がこの理科室で一度、闇に塗り潰されて砕けたときと同じように。

 崩落ほうらくする〝セカイ〟の欠片かけらの雨の向こうから、悠然と理科室に入ってきた長身痩躯そうくを認めた途端、ぶわりと初夏の青い風が、それこそ世界を変えるような鮮烈さで吹き荒れた。カーテンがひるがえり、日差しの閃光に瞳の奥までかれたとき、祐希もまた『彼』のように――千比呂によって連綿れんめんと創りかえられてきた〝セカイ〟の記憶を、取り戻した。

「……〝三番目のセカイ〟の僕は、千比呂を説得していた。高校に全然来なくなった千比呂は、久々に登校したかと思えば、僕にも学校には行くな、なんて言うから。千比呂は誰かに狙われていて、そいつは僕のことも狙ってる、なんて言うから」

 あの川沿いの道で、千比呂は決死の顔で言ったのだ。戸惑った祐希は、とにかく大丈夫だと千比呂へ必死に言い聞かせた。酷く怯えた幼馴染を、安心させたかったのだ。

「だから、言ったんだ。『千比呂は、僕が守る』って。君も聞いていたよね、あさひ

「……で? どうやってそいつを守るんだ? 〝四番目のセカイ〟の祐希さんよ」

 堂島旭は、不敵に笑った。長めの髪と、着崩した学ランの裾が風に揺れる。学校の風紀を無視した出で立ちは、他の〝セカイ〟と共通のものだったが、瞳には危うげな光がギラギラと獰猛どうもうみなぎっている。祐希の悪友としての仮面は、とうに捨て去っているようだ。祐希は旭を睨みつけると、慣れないながらも啖呵たんかを切った。

「僕が、千比呂を庇えばいい。〝二番目と三番目のセカイ〟のときみたいに」

 声音に、どうしても自責じせきの念が滲んだ。もっと早く、旭を疑うべきだったのだ。今朝『クラスが変だ』と訴えた祐希に対して、旭は『普通』だと断言したのだから。――真に『普通』の人間ならば『何が変なのか』と訊ねるはずだ。祐希の後悔が伝わったのか、旭はくつくつと暗鬱あんうつわらい出した。

「〝二番目のセカイ〟では、俺も油断したな。三倉みくらを始末するくらい、カッターナイフ一本で事足りると思ってたんだけどなあ? 祐希、意外とやるじゃねえか。お前が急に三倉みくらの前に飛び出してきたから、うっかりお前を切っちゃったじゃねえか」

 憎悪に燃えるゆがんだ笑みから、千比呂は嫌悪を露わに目を逸らした。祐希は千比呂の前に立ち、負の激情を放つ旭から、小柄な幼馴染を隠した。

 千比呂の大切な『あの人』が亡くなったという〝ゼロ番目のセカイ〟なら、祐希と旭は友達のままでいられただろうか。食堂であんかけ炒飯チャーハンを食べたり、たまには一緒に遅刻したりして、楽しい学園生活を送っただろうか。そんな〝セカイ〟の可能性だけを胸に留めて、祐希は眼前の人間を『敵』と見做みなすことにした。

「旭。〝二番目のセカイ〟では千比呂を狙った君が、〝三番目のセカイ〟では迷わず僕を刺しにきたのは、なぜだ」

「お前が死ねば、三倉は必ず世界を創りかえるからだ。〝二番目のセカイ〟で三倉をかばったお前を見て、即座に〝セカイ〟を捨てやがったこいつを見てりゃ分かったよ! 祐希! お前は三倉にとって、ずいぶん大切な存在らしいな!」

 大切な存在――予感の電撃が走ったが、そのしびれをあえて無視して「とにかく!」と祐希は言い返した。

「僕は、千比呂を守る。その間に、千比呂は世界を創りかえる。君の負けだ、旭」

「それはどうかな」

 陰鬱な笑みと余裕の態度を変えないまま、旭は立ち位置をゆらりとずらした。長身痩躯の陰から歩み出てきた人物を見て、今度こそ祐希は呼吸の仕方を忘れて、千比呂も小さな悲鳴を上げた。

 ――その人物は、女子高生だった。

 祐希が教室で今朝けさ見かけた、本来はクラスメイトではない少女。

〝一番目のセカイ〟の教室で、堂島旭と仲睦まじげに話していた少女。

 そして、本来は――少女ですらない存在。

 千比呂だって、言っていたではないか。大切な『あの人』の母親を、能力で『他人』に変えた、と――。掠れた声で、祐希は彼女の名を呼んだ。

「アイラ先生」

 千比呂と同じ制服姿で、旭の隣に並んだアイラの顔には、聖母のような慈愛がたたえられていた。誰に向けた愛なのか、祐希は全てを了解した。そして、了解してしまったからには、この悲しい〝セカイ〟の連鎖を生み出してしまった責任を、千比呂に代わって負うために、どんなに残酷でも言うべきだ。

「……千比呂の能力で創りかえられた〝一番目のセカイ〟で、僕たちの『同級生』になったあなたは、旭の恋人だった。だけど〝二番目のセカイ〟のあなたは『教師』で、〝一番目のセカイ〟は『なかったことにされた』から、旭と恋人だったことを忘れていた。〝一番目のセカイ〟の記憶を引き継いでいた旭は、あなたに忘れられたことが、悲しくて、辛くて、許せなくて……教室で能力を使って〝一番目のセカイ〟を消した千比呂を恨んで、命を狙うようになったんだ。さらに創りかえられた〝三番目のセカイ〟でも、あなたの立ち位置は『教師』だったけど、この〝四番目のセカイ〟で再び僕たちの『同級生』になった。……あなたはずっと、僕のそばにいたんだ。千比呂が震えるくらいに怖いと思うほどに、僕のそばにいたんだ。本当のあなたは、僕たちの『同級生』でも『教師』でもなく、〝ゼロ番目のセカイ〟で、千比呂の大切な『あの人』を――幼馴染の、僕を。林祐希を殺した、『犯人』だ。――母さん」

「馬鹿を言うな!」

 旭が、目をいて激昂げっこうした。殺意と紙一重かみひとえの絶望が、青ざめた顔を埋め尽くす。固められたこぶしだけでなく、声までもが激しい動揺と怒りで震えていた。

「アイラが、お前の母親だと? 認められるか、そんなこと!」

「事実だ。〝一番目のセカイ〟では旭の彼女だったアイラは、千比呂が世界を創りかえた所為で、僕たちの『同級生』になってしまった存在だ。〝一番目のセカイ〟の一つ前の世界……〝ゼロ番目のセカイ〟のアイラは、僕の……」

「だったら、お前が〝ゼロ番目のセカイ〟を覚え間違えてるんだ。それを、今すぐにアイラが証明する」

 旭の瞳に宿る狂気の光が、爛々らんらんと膨れ上がっていく。祐希は焦り、千比呂を振り向き――幼馴染の目に溜まった涙に気づくと、すとんと落ち着いて覚悟が決まった。

「千比呂、世界を創りかえよう」

「だめ、もうできない。私の能力は、世界を歪めてきたんだもん。現にこの〝四番目のセカイ〟では、〝記憶を保持する能力〟に目覚めた人が二人もいる。祐希が〝セカイ〟の記憶を取り戻したように、アイラだってきっと、何かの能力に目覚めてる」

「その通りだ!」

 旭がアイラの肩に腕を回して、勝ち誇ったように絶叫した。

「このアイラは〝一番目のセカイ〟の俺を覚えてねえけどな、俺たちよりも遙かに強い能力があるんだ! 〝セカイのゆがみを修復する能力〟らしいぜ! 三倉、お前が世界を創りかえても無駄なんだよ! ここは行き止まりで、どこにも行けないお前らごと、全てはアイラの能力で、〝ゼロ番目のセカイ〟にかえるんだ!」

「旭……!」

 叫んだ祐希は、歯噛みした。全てがゼロに還るなら、アイラに愛されなかった祐希は、暴力で命を落とすだろう。千比呂が蒼白な顔で「私の所為だ」と囁いた。

「この世界が、ラストチャンスだったんだ。今までの方法で次に能力を使ったら、世界を構築する大事な螺子ねじが弾け飛ぶ。どんな歪みが、世界を襲うか分からない。そうなったら、もう新しい世界は生まれなくて、誰も生き残れないかもしれない。でも、アイラに能力を使わせたら、祐希は……。ごめん。私、祐希を助けられなかった」

 理科室に、白いもやが立ち込めてきた。アイラの能力が発動したのだ。アイラは祐希を見つめていたが、次第に顔が般若はんにゃのように歪んでいった。

 かつての家族だからだろうか、祐希にはアイラの心理が読めてしまった。――死んだはずの我が子が生きているという、あり得ない〝歪み〟が許せないのだ。異様ないきどおりにかれた母を見ていると、切なさが胸を締めつけた。

「……几帳面で真面目なタイプで、規範から外れた人間も許せない。〝歪みを修復する能力〟は、母さんらしい能力だ」

「え?」

 驚く千比呂へ、祐希は無理やり笑みを見せた。

「そんな母さんだから、僕を上手うまく愛せなかっただけなんだ。……千比呂。僕は、母さんをこんなふうにはしておけない。千比呂は僕に、『母親』という『間違い』を正せなかった、って言ったよね。でも、母さんの立場から見たら、世界を勝手に創りかえてしまった僕らのほうが『間違い』だ。たとえ母さんがどんな人でも、世界から存在を消し去るなんてこと、できちゃいけなかったんだ」

 それをそうとした所為で、〝ゼロ番目から一番目〟に変わった世界で、旭はアイラに恋をしてしまった。正しさとは何だろう? 間違いとは何だろう? 一度失っておきながら、この期に及んで命の重みは、十六歳の祐希にとってあやふやだった。

 だが、ここで決断を違えるわけにはいかないのだ。

 これは、祐希たちが『間違い』を『正す』ラストチャンスなのだから。

「千比呂。『今までの方法ではできない』ってことは、今までとは違う方法なら、能力を使えるってこと?」

「……方法は、一つだけ。今まで私は、祐希とアイラに気を配りながら能力を使ってきた。それをやめて、世界そのものに気を配りながら能力を使えば、世界は壊れずに済むかもしれない。でもその場合、祐希も、みんなも……私も、記憶や立ち位置が、どう変わるか分からない。三倉千比呂として、林祐希として生まれるかどうかも分からない」

「いいよ」

 即答で、祐希は受け入れた。

「誰のもとに生まれて、どんなふうに生きるかなんて、僕たちが分からなくて当然だから」

 また死ぬかもしれない。あるいは、生き延びるかもしれない。不透明な未来を生きることは、誰しも等しく平等で、理想の世界を選べないことを、リスクとは決して呼ばないはずだ。祐希は少し躊躇ためらってから、千比呂の手を握った。願わくば、次の〝セカイ〟でも、大切な幼馴染の手を握っていられるように。

「この決断だって、傲慢ごうまんで、間違ってるのかもしれない。それでも僕は、母さんの存在を肯定したい。旭の存在も、千比呂の存在も、それに――〝ゼロ番目のセカイ〟では生きられなかった、僕の存在も」

 この決断は、祐希の我儘わがままでもあるのだ。ただ幸せに生きたくて流れ着いた、めぐる世界の行き止まりから、未来に希望を託したい祐希の我儘だ。千比呂は、〝ゼロ番目のセカイ〟の祐希を救ってくれた。その奇跡を、ゼロに還したくなかった。

「――分かった」

 千比呂が、決然と顔を上げた。清らかな突風が白いもやを吹き払い、まるで台風の目のように千比呂の立ち位置を起点として、純白の光が膨れ上がる。理科室を呑み込む輝きが、世界じゅうに溢れんばかりに拡がった。眠気を伴う既視感が、祐希を温かく包み込む。千比呂は、ずっとこうやって、一人で世界を創りかえてきたのだ。

 形あるものをまっさらに蹂躙じゅうりんし、再構築していく圧倒的な光の洪水に、旭の怨嗟えんさが呑み込まれる。ごめん、と祐希は唇を動かして見届けた。千比呂が繋いでくれたこの命が、誰かを手酷く傷つけた。それだけは、この記憶を手放す最後の瞬間まで忘れない。

 悪友に寄り添うアイラの姿も、またたく間に見えなくなった。消えゆく世界をどんな顔で見つめていたのか、分からないまま先に行ってしまった。ひたすらに白く分解されていく理科室の宇宙で、祐希は美しい声を聞いた。――あいしてる、ゆうき。

 空耳だろうか。真っ白な虚空に向けて微笑みを返した祐希は、腰を抜かしそうなほど安堵あんどして、「千比呂」と小声で呼んでみた。

「ありがとう。僕に、生きるチャンスをくれて」

 あざだらけの身体で世界から消えた幼い子どもは、世界を創りかえた少女のおかげで、高校生になれたのだ。思い出を手放すのはもったいないが、満ち足りた気分だった。もう目を開けていられないほど眩しい光の中で、ふわりと微笑わらった千比呂の顔を、祐希は最後に見た気がした。

「私がどこにいても、必ず見つけてね」

 きっと、必ず、絶対に――頷いた祐希は、この世界が消える寸前まで、強く願い続けようと心に決めた。

 そうすれば千比呂のように、いつか二人が再び巡り会える能力に目覚めるような、そんな奇跡が起こるかもしれない。


<了>

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廻る世界の行き止まりにて 一初ゆずこ @yuzuko

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