微笑みを数える日

青い向日葵

微笑みを数える日

 暖冬だと思って油断していたら、昨夜からの急激な冷え込みで、街は数時間のうちにすっかり凍てつき、朝になっても吹雪が続いている。

「アヤコさん。送迎とか、大丈夫ですかねえ。この雪じゃ、ろくに前も見えないっすよ」

 入社してもうすぐ一年になる若手の運転手、牧田信まきた しんが、険しい顔つきで言った。

「まあねえ、普通なら施設ごと休業するべきなんだろうけど。こんな日にこそ『預けたい』『お風呂に入れてほしい』って要望が多いのが現実なのよ。気をつけて行ってきてね、マッキー」

 管理者の宮原絢子みやはら あやこは、務めて明るい表情で何でもないことのように、いつも通り和やかに声をかけた。五十に手が届く年頃の小柄でふくよかな、おっとりとした女性だが、内面には管理者としての厳しさも持ち合わせている。

 牧田が、渋々頷く。

「はーい。うるさい所には『天候の事情で遅れます』って電話一本入れといてくださいね。本当に一々大変なんだから。お願いしまっす」

 苦笑いを残して、牧田は車のキーを掴むと駐車場へと向かった。

 午前七時四十分。


 牧田の運転するミニバンは、チェーンの音を微かに響かせながら、一夜にして出来上がった氷雪の固い地盤の上を慎重に滑り出していた。

 吹雪は未だ収まる気配すら見せず、激しく窓を叩き、視界を遮る。一人で向かう時はまだいいが、利用者を乗せてからの本番が問題だ。

 高齢者施設の送迎は、普通免許さえあれば、介護の経験もほかの資格も特に必要ないのが現状である。牧田も、ハローワークで偶然見つけた緩い条件に着目し、軽い気持ちで応募したのだった。

 宮原が面接をして、呆気なく即日採用となったものの、蓋を開けてみれば業務は多岐にわたり、一人で行う送迎は歩行介助や誘導の声かけなど、実際には多くの介護技術を必要とした。学生時代の喫茶店での接客の経験が、少しだけ役に立った。

 結局、送迎以外の部分でも全般的な手伝いをすることで、アルバイトでありながら実質フルタイムの勤務となっている。今では、日によって体操指導や入浴介助も行う。寧ろ、施設で唯一の男性職員ということで、あちらこちらで重宝される形で日々多忙を極めているのだ。


 そして今朝も、最初の業務は本来の仕事たる送迎である。既に、予定時刻より若干遅れている。気持ちが焦った。

「落ち着け。落ち着けよ、俺」

 自らに言い聞かせながら、白い車は風雪の中、真っ白な道に溶け込むようにして走った。

 午前七時五十五分。


 多少の遅れは致し方ないとして、ほぼ予定通りに、無事送迎は完了した。

「ご苦労さま。トラブルもなくてよかった。安全運転、助かったわ」

 宮原が、前髪に雪を積もらせた牧田に、労いの言葉をかけた。どちらかと言えば無口な宮原には、珍しいことだった。

「あざます。ほんと寿命が縮みましたよー」

 行きの苦笑いとは違って、安堵の表情と爽快な笑顔を見せながら、牧田は、社用車のキーを所定の位置に戻した。


 利用者が集った暖かいフロアでは、朝のおやつとともに、まったりとお茶の時間が設けられ、最年少の介護職員である荻野美保おぎの みほが、テキパキと何種類もの飲み物を作って運んでいた。

 例えばコーヒーひとつでも、ブラックか甘味か、砂糖の量やミルクの有無、アメリカンという名の薄いコーヒーを指定する人も居る。それを完全に記憶して、毎回希望に沿った物を提供するのだ。コーヒーのほかに紅茶やココア、緑茶もある。アイスという特注も、たまにある。

 まったりしているのは利用者だけで、職員は常に小走りで仕事に追われていた。

「あ、牧田さん。おはようございます」

「ミホちゃん、おはよー。手伝おっか?」

「ありがとうございます。大丈夫です。これで終わりだから」

 荻野は、最後のコーヒーカップをトレイに乗せて、この施設を茶房さぼうと呼ぶ最年長の紳士の前に置くと一礼してから戻ってきて、トレイを元の場所に置き、間髪入れずに浴室へと慌ただしく移動した。


 冬場の入浴は、暖房を使って、温度に細心の注意を払いながら素早く行わなければならない。

 浴室の温度は三十度を超え、薄いスポーツウェア一枚でも職員は滝のような汗をかく。一日に十人以上の利用者を入浴させる為、順番と段取りを考え、フロアの職員と連携して進めなければ、時間内に終了できなくなってしまう。

 入浴を拒む利用者も少なくないので、適切な声かけと、安心できる雰囲気作りが欠かせない。少なくとも「誰にでもできる簡単な仕事」ではないだろう。

 荻野は、この仕事に誇りを持っていた。地味な業務ではあるが、時折、フロアでは見られない利用者の個人としての柔らかな素顔を垣間見ることができるからだ。

 そんな利用者の微笑みは、すべての苦労を洗い流すように美しく、報われる思いがした。


 一方、荻野は入浴介助に関して、ちょっと人に相談しづらい悩みを抱えていた。特定の男性利用者の介助の際に起こるセクハラのことである。

 認知症が進行した患者の行為に、セクハラという言葉は適切でないかもしれない。介助に伴う接触とは別の、性的な意味を持つ不適切な接触行為。

 記憶の殺到、密室の空気、日頃の抑圧、様々な原因が考えられるが、そんなことはこの際どうでもよかった。入浴を、時間内に、無事に完了しなければならない。その段取りを阻害されるのが最もこたえる。


 もはや人として女性としての尊厳など二の次だった。仕事ができない職員だと思われたくない。入浴介助の業務から外されたくない。築いてきたものを壊したくない一心で、荻野は、今まで一人で抱え続けてきた。

 だが、体重が倍はある要介護4の男性に両腕で抱きつかれて以来、不安が上回るようになっていた。

 転倒させてしまったら、大事故になる。弁明は不可能だ。


 後期高齢者にとって転倒による骨折は、死因の大多数を占める脅威である。骨折によって直接死に至ることはないが、そのまま寝たきりとなり、肺炎を起こして亡くなる場合が極めて多い。感染症ではなく、筋力の衰えから起こる誤嚥ごえん性肺炎が最も多い。衰弱した高齢者に、このルートは避けられない道筋と言えよう。

 深い溜め息をひとつ、荻野は、準備の整った浴室の扉を一旦閉めて、持参した飲料水を取りに休憩室兼荷物置き場へと足を向けた。

 午前八時五十分。


「おっ、お疲れ」

 休憩室では、牧田が、コーヒーを飲んでいた。荻野が、予備としていつも約一杯分多く用意している利用者用の朝のコーヒーである。

「失礼。水筒持ってくの忘れちゃって」

「美味いよ、コーヒー。ご馳走さま」

「残り物だけど」

「福がありそうじゃん」

「そう、かな」

 気さくな牧田の物言いに、ほっと救われるような気持ちで、荻野は思わず素顔を見せてしまった。

「なんかあった?」

「えっ」

「困ったことでも」


「あの、アヤコさんにはまだ話してなくて。だから」

「わかった。浴室に行くよ」

 数秒の後、二人は暖房の効いた浴室の脱衣所に居た。

越川こしかわさんの介助って、牧田さん、できますか」

「車椅子から降ろしてシャワー浴だよね。大丈夫だよ」

「お願いしてもいいですか」

「OK」

「すみません。準備できたら、すぐにお連れします」

「あのエロオヤジ、どんな感じなの、いつも」

「えっ」

「あの人さ、ミホちゃんのこと相当好きだろ。誰も見てない所で何するか、わかんないよ」


「知ってたんですか?」

 牧田は、丸い目をぱちぱちと瞬きさせて言った。

「知ってたって言うか、気になってた。今度の会議の時までに言おうと思ってたけど、助けてあげられなくてごめん」

 牧田の申し訳なさそうな言い方に、荻野は、心底驚いていた。

「そんなに、目立ってましたか」

「いいや。誰も気づいてないと思うよ。アヤコさんには、後で俺から言っとく。このまま着替えるから、ミホちゃんは越川さん連れてきたら、体操と歌を任せるよ。頼んだぜ」

「はい。わかりました。ありがとうございます」

「あ、それから」

「はい」

「マッキーでいいよ。敬語もいらない」

「ああ。ありがとう、マッキー」

「おう」


 急遽、担当業務を交替して、慌ただしい一日が始まった。

 資格も持たない新人が、介護福祉士専用の本を見ながら体操指導を行う。歌は、学生時代の合唱の経験と、カラオケで鍛えたので、少し得意だった。

 音楽療法という認知症のケアがある。歌を歌い、声を出すことで喉や口の周りの筋肉を動かし、嚥下えんげの力を保ったり、脳の活性化に繋げる活動である。情緒面でも、感情を解放し、不安を和らげ、笑顔や落ち着きを見せる利用者も居る。


 一つ一つこなして行くうちに、越川様の入浴も終わり、牧田が、汗を拭きながら車椅子を押してフロアに戻ってきた。

「越川さん、お疲れ様でした」

 手足が強張り、半ば意識が混濁している越川様に声をかけ、車椅子を固定する。こうなると、水分補給も難しい。

「落ち着いたら水分頼むわ」

「わかりました。ありがとう」

 続けて、男性利用者に声をかけ、次々と入浴を進めてゆく牧田の実力に感嘆しつつ、荻野は、昭和歌謡の歌唱を心から楽しんだ。レクリエーション的な活動は、気をつけるべき所を踏まえた上で、利用者と一緒に楽しむことも大切な要素である。


 腹から声を出して、叙情的なメロディを歌えば、なんだかストレスが発散されるようで、心地よかった。

「思いきり歌うと、気持ちがいいですね」

「家じゃあ、こんなに歌えんもんねえ」

「ああ、苦情が来るね」

「わはは」

 和やかな時間が流れ、塗り絵や折り紙などの製作の時間を経て、やがて昼食の準備が始まる。

 入浴は順調に進み、男性利用者と、男性介助が可能な女性利用者のほぼ全員が、特に問題なく入浴を済ませていた。


「マッキー、私が掃除しますよ」

「いいよ。着替えんの面倒じゃん。ミホちゃん『いただきます』までやってよ。口腔体操も全部さ」

「いいですけど、本当にすみません」

「午後は女の人だけ、頼むね」

「はい」

 浴室の掃除を始めた牧田に声をかけ、荻野は、フロアの担当を続行した。

 感謝の気持ちで胸がいっぱいだった。同時に、今までのしんどさが押し寄せてきて、潰れそうになる。怖かった。つらかった。孤独だった。

 もう大丈夫。きっと、なんとかなる。モヤモヤを打ち消すように、自分に言い聞かせた。


 ◇


 二日後の会議では、事情を聞いた管理者の宮原が、事の重大さを知らしめるように丁重に話し、男性には必要に応じて同性介助または複数のスタッフによる介助を基本とすることで、ひとまずの解決を図る方針を示した。

 家族には、報告しないことに決めているという。信じてもらえない可能性、信用にヒビが入る可能性しか見えない。先の短い高齢者の問題点を指摘して、苦悩を増やすことに何の意味も見い出せない。これらの見解には、全員が賛成した。

 認知症のケアは、家族の理解を必要とする部分と、そうでない部分がある。現実として。


 そして宮原にも、介助を避ける特定の男性利用者が居たことが判明した。荻野にとっては、何の問題もない田中様である。二人きりになると、猛烈なアプローチが始まるのだそうだ。とても想像できない。人間とは奥深いものだと思う。

 宮原は、今まで理由を言わずに田中様の介助を避け、荻野に任せてきたのだが、密かに心配していたらしい。荻野は何も知らず、問題なく田中様に接してきた。

 そして越川様のことを聞いた時、宮原は、意外だったと驚いた。わからないものである。

「タイプが違うんだなあ。田中さんの奥さんとアヤコさんは体格が似てるし、越川さんの奥さんとミホちゃんの雰囲気が何となく似てるよね」

 牧田が、頷きながら一つの見解を述べた。


 ◇


 前途は未知数とはいえ、解決策が提示され、業務に対する不安要素は、ひとまず無くなった。

「いろいろとありがとう、マッキー」

「どういたしまして」

「お礼に今度、お食事でもご馳走するね」

「マジかよ。嬉しいじゃん」

「私なんかと、詰まんないかな」

「なんか、って言うなよ。詰まらなそうだったら喜ばないし。自分を下げちゃダメだ。ミホちゃんのこと評価してる奴と好きな奴に失礼だろ」

 牧田の剣幕にされ、荻野は目を見開いて固まってしまった。

「ごめん。とにかく、めっちゃ楽しみにしてる」

 牧田は、今日いちばんの微笑みを浮かべて、その瞳を見返した。良い笑顔だった。


 その日から、荻野は、毎日マッキーの微笑みを数えては、心のメモに記録している。仕事に、のめり込み過ぎない為に。何より、自分の小さな喜びの為に。

 一瞬先に何が起こるかわからない緊張の中、少しでも穏やかに居られることが、本当に嬉しい。

 自分を大切にすること。それは、誰かを愛することの前提なのかもしれない。毛嫌いしてきた理論の意味が、今少しだけ、わかったような気がしていた。

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