ソロキャン男と猫憑き少女

藤屋順一

ソロキャン男と猫憑き少女

 心地よい潮風に吹かれながら海岸沿いの街道をキャンプ道具満載のチャリンコで走る。快晴の真っ青な空、陽の光をキラキラと反射させる穏やかな海、久々の連休が絶好のアウトドア日和になって幸運だ。

 辺鄙な田舎の小さな港町から離れて海沿いを走ってそろそろ二時間、ぐぅと腹が鳴ったところで丁度良さげな防波堤のある砂浜が見えてきた。明日も晴れの予報でキャンプするには持って来いといったところか。


「ここにすっかな」


 チャリンコを路肩に停めて荷物を背負い、防潮堤を超えて降りてみると、防波堤と岩場に挟まれた三百メートル位の間に朽ちた漁業用倉庫が建つだけの小さな浜辺だった。


「おー、良い感じ。やっぱ今日はツイてるわ」


 聞くやつなんて誰も居ないのに、嬉しくなってつい声に出してしまう。悪かったな、俺は外に出るタイプのインドア派なんだ。何をするにも一人で十分だぜ。畜生。

 背負った荷物のうちテントと寝袋だけを砂浜に投げ出して防波堤に登り、先端まで歩いて界面を覗き込む。深さは五メートルくらい、海底の砂紋まではっきり見えるほど水は澄み、小魚の群れがキラリと光り、大きめの魚の魚影まで見える。


「さてっと、まずは火からだな」


 リュックの中から小型の折りたたみコンロを出して組み立て、着火剤のパックを置いた上に豆炭を適当に並べてマッチ擦って放り込む。後は放っておけば良い。

 それから釣り竿を組み立て、仕掛けを付けて、防波堤の端に座って足を投げ出す。スーパーの半額のシールが張ってある魚肉ソーセージの袋を破り、ビニールを剥がして一口かじり、一センチほどちぎって針に付け、水面に落とす。

 釣りは好きだが、釣り方にこだわりなんてない。金をかけずにうまい魚が釣れりゃそれでいい。釣り方にこだわって結局釣れないんじゃ意味がないからな。


「ほれほれ、お前らの成れの果てだぞ」


 魚肉ソーセージの原料なんて知ったこっちゃないが、魚だということだけはわかる。

 そしてコンクリートの上に寝転んで雲一つない青空を見ながら、欠伸なんかしたりして、ぼんやりアタリを待つ。

 五月の風が最高に気持ちよく、ウトウトしはじめた頃に一発目のヒット。軽い手応え、竿の先が小さくしなって揺れ、浮きが沈み水面に吸い込まれる糸がランダムに曲線を描く。


「あー、小アジか」


 力を入れることもなく竿を上げると、案の定手のひらサイズの小アジが海中から姿を現す。


「お前の食った魚肉ソーセージは出世払いで返せよ」


 衣でもつけて油で揚げれば美味いんだろうが、生憎そんな面倒なことはしない。針を外してポイと海に投げて帰してやり、もう一度魚肉ソーセージをちぎって針につけ、水面に落とす。傍らを見ると、コンロの着火剤は燃え尽き、豆炭がぱちぱちと音を立て、ほんのり赤く輝いている。

 また寝転がって暫くアタリを待っていると、防波堤の外海側から微かに何か聞こえてくる。


――にゃおーん、にゃおーん


 ウミネコ、じゃないな。この鳴き声はオカネコだ。ただの猫ともいう。どうせ釣り人のおこぼれ狙いの野良猫だろう。


――にゃおーん、にゃおーん


 めっちゃ鳴いてるな。なんかさっきより鳴き声がでかくなってるし、しょうがないから相手しにいってやるか。

 針を水から出して竿を置いて一段高くなった防波堤の向こう側を見に行くと、防波堤沿いに並ぶテトラポットに打ち付ける波の音が一層大きくなる。


「あれ? いないな……」


 端から端までコンクリートの灰色でまっ平らな面に影一つなく、いつの間にか鳴き声も聞こえなくなっている。


「おーい、どこいったー?」


 確かに聞こえたんだけど、呼びかけてみても波の音が返ってくるだけだ。気のせいだったかと釣りに戻ろうとすると、テトラポットにくすんだ赤い輪っかみたいな何かが引っかかっているのを見つけた。

 どうせゴミなんだろうけど、ちょっと気になって釣り竿を取りに行き、海に落とさないように気をつけながら先に引っ掛けて拾い上げる。

 見てみると赤い合皮でできた細いベルトに錆びた鈴と金具。ベルトの内側を見ると何か書かれていて、かろうじて読めるのは子供の筆致で一際大きく書かれた『くろ』という文字だけだった。

 持って返っても仕方ないし、海にゴミを捨てるのは良くない。とりあえずその辺に置いといて再び釣りを続けることにした。


「お、きたきた。結構でかいぞ」


 水面に針を落として暫く待つと、次のアタリはすぐに来た。強い手応え、竿の先端が大きくしなり、ピンと糸が張って水面で暴れている。今度はどうやら大物だ。

 バレないように力を加減しながら竿を引いてリールを巻くと、すぐに海面下にキラキラ光を反射しながら暴れる魚影が現れる。二十五センチオーバーのアジだ。


「よし、昼飯ゲット」


 水から上げて暴れる魚体を掴み針を外す。それからキッチンハサミをエラから差し込んで頭を落とし、ワタを抜いて海に捨てる。実にエコだ。

 コンロに赤々と燃える豆炭を並べなおして網を敷いた上に惨殺死体になったアジを乗せる。これは絶対美味いやつだわ。

 晩飯用にあと二匹は欲しいところ。時間も惜しいので焼いてる間にも釣りを続け、しばらくすると小さなアタリがあって引き揚げる。また小アジだ。針を外して海に投げると、コンロから香ばしい匂いが漂い、火に脂が落ちるジュージューいう音が微かに聴こえてくる。

 丁度良い頃合いかと振り向くと、気配もなく女の子がしゃがみこんで網の上のアジを見つめていた。


「うわっ! びっくりした!」

「にゃ?」


 思わず出た声に女の子がこちらを向き、目をまんまるにして首を傾げる。

 艶やかなショートボブの黒髪、赤いラインの入った黒いセーラー服に黒い靴下、ちなみにパンツは白だ。

 背格好からは中学校一・二年生といったところだが、明らかに中学生ではない。と言うか人間ですら無いだろう。

 頭の上にはとんがった黒い三角の耳、楕円形の瞳孔を持つ金色に光る瞳、スカートの裾から覗く耳とおそろいの長くしなやかな尻尾。そして左手首には金色に光る小さな鈴がついた赤い首輪。どう見てもさっき拾ったのと同じやつだ。

 女の子はすぐに俺への興味を失い、香ばしい匂いを放つアジを見つめて目を細める。

 黒猫の耳と尻尾を持つその女の子は妖怪や幽霊と言うよりはあやかしか妖精といった感じで、邪悪な存在ではなさそうだ。まぁ、悪事を働くとすれば魚泥棒くらいか。


「くろ」

「にゃ?」


 試しに呼びかけてみると、こちらを向くことなく返事をする。やっぱりそうか。

 そうしている間にもアジの尻尾の先が黒くなって煙が立ち始めた。竿を置いてコンロを挟んだ向かい側に立つと、くろは逃げることなくじっとこちらの様子を観察し、危険がないことを理解すると興味を失ったように再びアジを見つめる。

 アジをトングで挟んで裏返してやると、こんがりときつね色の焦げ目の付いた皮からじゅわっと脂が滲み出す。

 くろはまんまるにした目を輝かせながらその様子を眺め、何かを訴えるように顔を上げて俺の目を見つめてくる。猫らしいというかなんというか、さっきまで俺に興味を示していなかったくせに、現金なやつだ。


 アジがすっかり焼きあがり、こんがりきつね色の表面から白い湯気が立ち、辺りには香ばしい匂いが漂う。ちらりと視線を上げると黒猫の女の子が物欲しそうな目でこちらを見つめている。


「うん、うまそう。さて、食うか」

「にゃーん」


 くろは耳をぴんと立て、尻尾をゆっくり左右に振り、目をまんまるくして、文字通り猫なで声で俺に訴えかけてくる。


「さて、食うか」

「にゃーん」

「やらんぞ」

「にゅーん」


 割り箸を割ってアジを紙皿に移し、視界から隠すように背後に置くと、くろは耳を寝かして尻尾をだらんと地面に垂らす。

 俺は知っている。これは人間を良いように操るための演技だ。猫というのはそういうふうに進化した生き物なのだ。こいつは生き物じゃないけど。

 しかし、まぁ、いちいち反応が面白いから、ちょっとからかってやるとするか。


「しょうがないな。ほれ」

「うにゃ」


 手元の魚肉ソーセージのビニールを半分剥いて渡そうとすると、ふいっとそっぽを向く。猫のくせに贅沢なやつだ。


「はいはい、半分やるからちょっと待ってろ」

「にゃあ!」


 まぁ、元々そのつもりだったんだけど。

 くろは耳と尻尾をピンと立ててお行儀よく座ってじっと待っている。人間の言葉は喋らないみたいだが理解はできるらしい。

 割り箸で骨の付いてない半身を切り分けて紙皿に移して渡してやると、ちょっと匂いをかいで端っこからちょっとずつ齧っていく。やっぱり猫舌だったか。

 はぐはぐと熱さを我慢しながら一所懸命食べる様子を見ながら、俺も骨の付いた方の半身から尻尾と背骨を外して身をほぐし、一口ほおばる。


 美味い。


 程よく脂がのって臭みもなく、炭火の香ばしい香りと潮の香りが口の中に広がり、淡白だけど味はしっかりしていて、まさに至福。

 酒をキャンプ道具と一緒においてきてしまったのは失敗だったな。くろの方は程よく冷めたところを幸せそうに目を細めて皿の端からガツガツ食べている。

 そうしてお互いあっという間に食べ終え、また釣りに戻る。くろはお腹がいっぱいになったようで、防波堤を行ったり来たりした後、俺の横の近くも遠くもない位置で丸まって寝息を立てている。

 また小アジが釣れて、糸にぶら下がってピチピチ跳ねているのを寝ているくろの目の前に持っていってやったら迷惑そうに顔を背けて手で払う。どうやら雑魚には興味ないようだ。


 幾つか小アジのアタリが続き、太陽は西に大きく傾き始める。ぐぅと腹が鳴り、アジを分けてやったことを後悔しながら魚肉ソーセージをコンロで炙って一口齧る。これはこれで美味い。気持ちよさそうに寝ているくろを睨んでも腹が立つだけだな。


「くろ、起きろ。お前も釣りしてみるか?」

「にゃあ?」

「こっちこい」

「うにゃーん」


 くろは大きな欠伸をして起き上がり、もそもそと這い寄って隣にちょこんと座り、俺と同じように防波堤の端から足を投げ出す。こいつに人間的な動作がどのくらいできるのかは謎だが、とりあえず釣り竿を持たせてみよう。


「はい、これ、こうやって持って……」

「にゃ?」

「そうそう、そうやって持って、あのウキをしっかり見張ってるんだぞ」


 釣り竿を渡して持ち方を教えてやると意外と様になっていて、耳をピンと立てて尻尾を左右にゆっくり振り、金色の瞳でじっとウキを見つめている。


「にゃ!」

「ん、来たか」


 ウキが沈んで竿がしなると、くろが声をあげて尻尾を立てる。このアタリは小アジだな。手を取って一緒にリールを巻くと、すぐに自分から巻き始める。知性はよくわからんが釣りはできるらしい。

 小アジが海面から上がると、糸にぶら下がってピチピチ跳ねているのを俺の目の前に持ってくる。自分で釣り上げても、やっぱり雑魚には興味ないようだ。


「はいはい、今外してやるからな」


 小アジを外して海に投げて返し、針に魚肉ソーセージをつけて再び水面に落とす。

 しばらくすると久しぶりの大きなアタリ。ウキが勢い良く沈んで糸が走り、竿が大きくしなる。


「ふぎゃーっ!」

「おっ、大物だな」


 牙を剥き毛を逆立てて尻尾を太くしているくろから竿を奪い、一度鋭く竿を立てて合わせ、キリキリとリールを巻いていくと海面下にキラリと光る黒い影。


「おー、大当たり、チヌだぞ。良かったな、くろ」

「にゃーん!」


 釣り上がった三十センチぐらいのチヌを見せると目を細めて喜んでいる。

 アジと同じようにハサミで頭とワタを取りヒレも落として海に捨てて、残った身をレジ袋に放り込む。これは晩飯用だ。


「にゃ! にゃ!」

「わかってるよ。ちゃんと食わせてやるから安心しろ」


 そろそろテントの準備をしないといけない。釣り竿はくろに任せておけば見張りくらいの役には立つだろう。

 荷物を背負い、火の付いた炭を移した缶とコンロを持って防波堤を降り、ベンチ代わりになりそうな流木があるちょうど良い場所を見つけてテントを組み立てていると、そう遠くない距離に見える防波堤で釣り竿を持ったくろが大騒ぎしだした。

 どうやらアタリがあったらしい。

 急いでくろのところに戻ると、丁度中くらいのサイズのメバルを釣り上げたところだった。


「おっ、お前が釣ったのか? えらいえらい」

「ふにふに」


 頭を撫でてやると満足気に目を細め、鼻を鳴らす。こうしているとなかなか可愛いやつだ。断っておくが、俺はロリコンではないので変な意味はない。

 もう一匹ぐらい釣りたかったが、その後は小アジばかりが続き、日が沈む前に釣り道具を片付けてテントに引き上げた。



◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



 くろをテントに連れてくると随分気に入ったようで、周りをうろうろ歩き回った後テントの中で丸まって眠ってしまった。

 俺はと言うと晩飯の準備で飯盒に持ってきた米とペットボトルの水を入れて白だしを加え、鱗を取ってぶつ切りにしたチヌの半身を入れてコンロの火にかけ、炊き上がるのを待つ間、くろが釣ったメバルも下処理しておいた。

 飯盒から立ち上る湯気が減って美味そうな匂いが漂い始めると、テントからくろがごそごそと這い出してきて何も言わずに俺の膝の上に座ってくる。

 傍から見れば犯罪だが、こいつは人間じゃない。見た目はコスプレをした女子中学生でも正体は黒猫の妖怪的な何かだ。料理をするのに邪魔なんで「あっちいけ」と頭をぽんぽんするとちょっと嫌そうに耳を倒して向かいにある流木に移っていった。

 暫くして湯気が出なくなった飯盒を火から下ろし、代わりに網を乗せて塩を振っておいたメバルを焼くと、夕焼け空を写したくろの瞳がキラキラと輝き始める。

 それからメバルがこんがり焼きあがってチヌの半身も焼いている間、くろは皿に置いたメバルを前にそわそわしている。


「もう少しの我慢だぞ、くろ」

「にゃっ!?」


 大人しくしているかと思ったらこっそり手を伸ばそうとするから油断ならない。声を掛けるとビクッと背筋を伸ばして尻尾を太くする。

 間もなくチヌも焼きあがって半分ずつ皿にとりわけ、飯盒の中のチヌの鯛めしもしゃもじでかき混ぜ、紙皿に盛ってくろに渡す。


「熱いから気をつけろよ」

「ふにぃ」


 言ったそばから渡した鯛めしに鼻をつけて匂いをかぎ、耳を後ろに倒して情けない声を出している。そんなくろは放って置いて、ほんのりおこげの付いた鯛めしを頬張る。


 美味い。


 ただでさえ美味いのに、しょんぼりしているくろの目の前で食うとなお美味い。ワンカップの瓶を開けて一口呑んでメバルの塩焼きにも箸をつけると恨めしそうに睨みつけてくる。


「ははは、そろそろ食えるんじゃないか?」

「にゃーん」


 くろは恐る恐るメバルの匂いをかいで、はぐはぐと端の方からかじり始めて目を細める。

 太陽が海に沈みはじめ、西の空が紅く染まる中、幸せそうに食事しているくろを見ながら呑む酒も格別に美味かった。


「なぁ、お前、ずっとここにいるのか?」

「にゃ?」


 一心不乱に魚をかじっているくろに話しかけると、ちらりと視線を上げて金色の瞳で俺を見つめて首を傾げ、チリンと左手首の首輪についた鈴が鳴る。そしてすぐにまた魚をかじり始めた。


「ま、猫だからしゃあないか」


 適当に後片付けを終え、砂浜に寝転んで満天の星空をしばらくぼんやり眺めて過ごす。空気がひんやりしてきたのでテントに戻ってみると、くろが大の字になっていびきをかいていた。本当にこいつ、いつまでこうしている気なんだろう?

 とりあえず邪魔だったから足でちょいと横に転がしてスペースを開け、寝袋を広げて潜り込むと、すぐに眠りの世界に落ちていった。



◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



「おーい、寧々子。父さんはここで釣ってるから、危ないとこには行くんじゃないぞ」


 釣り竿を持った父娘が防波堤を歩いている。


「はーい、わかってるって!」


 釣り竿とキャリーケースを持ったショートボブの女の子が元気よく返事をする。


「くろ、出てきていいよ。危ないとこには行っちゃダメだからね」


 赤い首輪をつけた金色の瞳を持つ黒猫がコンクリートの上に置かれたキャリーケースから出てにゃーんと返事をする。

「ふっふっふー、ここがよく釣れるんだよね。お父さんをびっくりさせてやろ」


 女の子がテトラポットの上に立って釣り竿を振る。


「もー! 今日は小アジばっかり。くろー、全然大物がかからないよー」


 黒猫は女の子の言葉を無視するように防波堤の上で丸まっている。


「あっちの方が釣れるかな? 行ってみよ」


 少女が隣のテトラポットに飛び移ろうとした瞬間、足を滑らせ、海面に水しぶきが上がる。


「にゃおーん! にゃおーん! にゃおーん!」


 飛び起きた黒猫が女の子がしがみつくテトラポットに跳び移り、大きな鳴き声を上げる。


「くろ! どうした!? 寧々子はどこだ!?」


 鳴き声に気づいた父親が黒猫のもとに駆け寄る。


「寧々子! 大丈夫か!? すぐ助けるからな!」


 父親がテトラポットを伝って女の子を引き上げる。それと同時に一際高い波が防波堤に押し寄せる。



◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



「くろ!」


 自分の叫び声に驚いて目が覚めるのは初めてだ。ふぅと息を吐き、動悸を抑える。

ふと気づいて隣を見ると、くろが寝ていた場所には何もなく、がらんと小さなスペースが開いているだけだった。

 そして胸の上に何か重たい物が乗っているかのような圧迫感。いや、乗っているかのようではなく、実際に乗っている。そっと寝袋を開いてみると、赤い首輪をつけた黒猫が寝袋に潜り込み、俺の胸の上で丸まって小さな寝息を立てていた。


「お前、飼い主を守って海に落ちちゃったんだな」

「ふにふに」

「……うん、えらかったな」


 夜空のように黒くビロードのように柔らかい艶やかな毛で覆われた小さな背中を優しく撫でて頭をぽんぽんすると、くろは金色の瞳でこちらを見つめて「にゃ」と小さな鳴き声とともに首を傾げ、チリンと首輪の鈴が鳴る。


「ん? あぁ、そうか。お前の望みは……」


 くろの首に手をかけ、首輪の金具を外してベルトを抜くと、真っ黒なくろの身体が闇に溶けていく。


「にゃーん」


 くろは満足気に鳴いて暗闇に浮かんだ金色の瞳を閉じると、胸に乗っていた圧迫感と存在感がふっと消えていった。

 目を瞑って胸に手を当て、くろがいなくなったのを確認し、起き上がってランタンのスイッチを入れて首輪のベルトをかざし、内側の面を確認する。


「やっぱりそうだ」


 ベルトの裏には子供の文字で書かれた拙い『くろ』の文字。そして、拾ったときには読めなかった住所が大人の文字で小さくはっきりと書かれていた。


「ちゃんと飼い主さんに会わせてやるからな。くろ」


 その時、返事をするように鈴がチリンと鳴った。



◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



 翌朝になって荷物を片付け、海岸沿いを自転車で走る。首輪に書かれていた住所は浜辺から三十分ほど走ったところにあった。

 住所と表札を確認し、チャイムを押す。


「はーい! どちら様ですかー!」


 元気な女の子の返事と、ぱたぱたと廊下を走るスリッパの音がドアの内側から響く。


「すみません。桜宮寧々子さん…… くろちゃんの飼い主の方にお届け物がありまして」

「えっ、なんで!?」


 驚く声とともにドアが勢い良くバタンと開かれ、夢に出てきたくろにそっくりな女の子が飛び出してくる。

 くろ違うのは背と髪が伸びて大人っぽくなり、耳も尻尾もなく瞳の色も真っ黒なところで、今は丁度高校生くらいか。


「あっ、ごめんなさい。くろって聞いてびっくりしちゃって。 ……お兄さんがなんでくろのことを?」

「実は、これを届けに来たんだ」


 ポケットから首輪を取り出して寧々子ちゃんに見せ、はい、と渡すと、奪うように俺の手から受け取る。


「これっ!?」


 寧々子ちゃんは首輪のベルトを指でなぞり、『くろ』の文字を確認すると、その大きな瞳が潤み出す。

 そして、嗚咽を漏らしながら首輪を抱きしめ、後から後から溢れ出す涙がほんのり紅く染まった頬を伝って流れ落ちる。


「くろ…… おかえり……」

「君に、伝えることがあって…… 良いかな?」


 そんな姿を見るのは辛く、心苦しいが、あの浜辺であった出来事をちゃんと伝えなくてはいけない。すぐにでも立ち去りたい気持ちを押し止め、寧々子ちゃんが泣き止むのをじっと見守る。


「ううっ…… ひっく…… お兄さん、待たせちゃってごめんなさい…… 中に、入ってもらえますか?」

「うん、お邪魔します」


 泣いてる女の子に招かれて部屋に入るのは気がひけるけど、これは仕方がないんだ。と自分に言い聞かせつつ、初めて入る女子高生の部屋に鼓動が高鳴る。


「どうぞ、散らかっていてちょっと恥ずかしいですけれど……」

「いえいえ、お構いなく」


 むしろ散らかってくれていたほうが嬉しいかもしれない。と思うのは不謹慎か。通された寧々子ちゃんの部屋は散らかっているというより、猫グッズで溢れかえっていた。


「えへへ、お別れが辛いから、もう飼えないけど、やっぱり猫はかわいいから……」


 少し腫れた目を細めて照れ笑いを浮かべながら言い訳する寧々子ちゃんを直視できず部屋を見渡すと、棚の上にある写真立てに目が止まる。

 傍らにはお香立てと未開封の猫缶がはいった餌皿、写真には笑顔の花咲く黒いセーラー服を着たショートボブの女の子と、女の子に抱かれる赤い首輪をつけた金色の目の黒猫の姿。


「大好きだったの。くろのこと。小さい頃からずっと一緒で…… 私の命の恩人、ん、恩猫かな?」

「うん…… 知ってる」

「……お兄さん、伝えたいことって?」

「信じられないかもしれないけど……」


 写真を見つめながら、昨日浜辺で出会った猫耳の女の子の話をするうちに、寧々子ちゃんがまた嗚咽を漏らし始める。


「やっぱり、くろだ。あそこにはお父さんに連れられて、よく釣りに行ってたの。くろも一緒に。あれから、もう釣りはやめちゃったけど……」

「そっか……」

「ねぇ、お兄さんっ!」

「うわっ! どうしたの?」

「私を釣りに連れて行ってください! あの浜辺に!」

「えーと、キャンプはダメだけど、一緒に釣りするくらいなら……」


 寧々子ちゃんの悲しみを隠した元気な声に気圧され、思わず返事をしてしまう。


「やった! えへへ、くろも一緒だよ!」


 振り返ると寧々子ちゃんは小さく飛び跳ね。見ている前で持っていた首輪をブレスレットのように左手に巻き、金具を止めると、まんまるに開いた目が金色に光りだす。


「これでずっと一緒だにゃ ……にゃ?」


 寧々子ちゃんの頭からとんがった三角の耳がぴょこんと飛び出し、スカートの裾から長い尻尾が伸びる。


「にゃーん!」

「なんじゃこりゃー!」



◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



 それから俺達は時々一緒にあの防波堤に釣りに行くようになり、寧々子はくろを死なせてしまった罪滅ぼしと助けてもらった恩返しをするために獣医になるんだと勉強に励んでいる。


 そして――


「やった! 誰もいないよ。首輪つけちゃお!」


 荷物を持たされた俺の前を行く寧々子が防波堤の上に登り、嬉しそうにぴょんと飛び跳ねてポケットから取り出したくろの首輪を腕に巻く。


「うにゃー! いい気持ちにゃ」


 五月の清々しい青空の下、猫耳を後ろに倒して両手と尻尾を伸ばし、寧々子は気持ちよさそうに大きく伸びをする。


「それ、絶対呪われてるぞ」

「む、そんなわけ無いにゃあ! くろはそんな悪い子じゃないもん!」

「はいはい、知ってるよ」


 例の猫耳と尻尾は首輪を身に着けている間だけ生えてきて、周りに誰もいないときはたいてい身につけるようになっている。どう見ても呪いのアイテムだが、寧々子的には気に入っているらしい。


「ほら、早く! お魚が逃げちゃうにゃー!」


 青く穏やかな凪の海に伸びる防波堤の先に向かう寧々子に続いて防波堤に登ると、待ちかねたように振り返ってこちらに首輪を巻いた左腕を伸ばす。


「魚焼く準備してるから、先に釣ってていいぞ」

「にゃーん! どっちが多く釣れるか競争ね。私が勝ったらお魚一匹貰うにゃ」

「おー、俺が勝ったらその尻尾、もふらせてもらうからな」

「うにゅ、絶対負けられないにゃあ!」


 張り切る寧々子を見送ってコンロを準備して火をおこし、俺も寧々子から少し離れた場所に腰を下ろして釣り糸を垂らす。

 日が真上にくる頃、ぐぅとお腹がなるのを合図に針を水から上げて寧々子に声をかける。


「おーい! ねここー!」

「にゃ」


 バケツを持って寧々子のところへ行くと、猫耳をピンと立て尻尾をゆっくりと左右に振り、ウキをじっと見つめながら返事をする。


「こっちはアジがとメバルが一匹ずつだ。ねここはどうだ?」

「うにゅ…… メバルが一匹…… 今日は小アジばっかりにゃ」


 釣果を報告すると猫耳と尻尾をだらんと垂らす。わかりやすいやつだ。


「はっはっは! 今日は俺の勝ちだな! よし、もふらせてもらうから覚悟しろよ」

「むっすー!」


 今度は怒って尻尾を太くする。かわいいやつだ。


「にゃっ! 来た! このアタリはチヌの大物かにゃ!?」

「なにーっ!?」

「ふっふっふー、今日は私の勝ちにゃあ!」


 寧々子は大物のチヌを釣り上げると満面の笑みをこちらに向け、猫耳と尻尾を嬉しそうにピンと立て、金色の目を光らせた。

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