第3話

「ひ、ひぃ、やめてくれ、ごめんなさい、謝るから、謝るから食わないでくれ……!」



 醜いニンゲン、可愛そう。きっと食べてもまずい。そう思い、私はため息をつく。小さなコドモを襲って、食い物にするこのニンゲンは、コドモのなりをしたワタシに食われるのは怖いらしい。くだらない奴め、とっととワタシの餌になれ。そのニンゲンの手を取る。確か、しゃるうぃーだんす、ってこういうポーズのときは言うのだっけ。借り物の体がそんな記憶を持っていた。ニンゲンは手を振り払おうとするが、ワタシの手をそう簡単に振り払えるはずもなく、情けない声をあげながら汚く泣いている。面倒くさくなったワタシは牙のたくさん生えた大きな口を開けてパクり、と腕を食べた。



『美味しくない』



 ワタシの声ならざる声が洞窟の中に響く。バキバキ、バキバキ、と音を立てて食べる。ニンゲンは腕を食べられたショックでもう気を失っていた。気を失っている方がきっと幸せだろう。食べ終わって、ケプッとゲップをする。ワタシの入れ物はゲップに恥ずかしさを感じるみたいだがワタシ自身はそんなもの感じない。洞窟の中の水溜まりを除く。ワタシの口の周りがあの男の鮮血で赤く染まっていた。適当に水をすくって洗うと、元通り純粋無垢で可愛らしい顔が現れた。ついこないだ――とはいっても半年以上たっているが――殺されたコドモの姿を借り、ワタシはこの海に潜んでいた。お盆の時期、海の水位があがると、ワタシは海の底から登ってくる。そして、一年間分の食事をするのだ。



『可愛そうなコ』



 頬を撫でる。このニンゲンはある日海の奥底にゆっくりと沈んできた。だから、ワタシはその体に入ってこの時期まで海の底にいたのだ。入った刹那、このコドモの記憶という記憶が嫌というほど私に入り込んできた。まぁ、この記憶のおかげでワタシは、ニンゲンに擬態することができるのだが。先程食べたニンゲンにこの可愛そうなコドモは殺されたのだ。これでこのコドモの想いも報われるだろう。それくらいのことは身体を貸してもらっているのだからしなくては、と思ったのだ。今まで身体を何度も変えてきたが、この身体は人間の油断も誘えるし、軽いし、お気に入りだった。



 ぽちゃん、っと音を立ててシーグラスが水溜まりの中に入る。慌てて拾ってワタシの荷物が置いてあるところにそっと置く。シーグラスと一緒に今のこの借り物の身体より少し小さい、あのコドモのことを思い出す。最初は食べてやろうと思った。凄く美味しそうだった。――けど、食べれなかった。なにせ、アノコに似ていたから。何十年も前に出会ったアノコに似ていた。目が声が、そして名前を名付けるセンスまで一緒だった。海ちゃん、とワタシを呼んでワタシは喋らないのに嬉しそうに話をする。かつて出会ったアノコも、そうだった。





――どうして喋れないの?



『喋れるよ、でも口を開けたらオマエは怖がるだろう? ワタシの口の中にはオマエラを食うための大量の牙があるんだ』



――声も出せないの?



『声を出してもオマエには聞こえないんだ。声を出したらオマエの鼓膜は破れるよ』



――シーグラスあげるね!



『それじゃあこれに免じてオマエを食べるのをやめてやろう』





 会話は通じないのに、アノコはずいぶん楽しそうだった。昔のワタシは、今みたいに借り物の身体もなく、ただぐにゃぐにゃした影のようなものだったのに、あのニンゲンは、黒真珠のようなキラキラとした瞳でこちらを見てきた。最初に出会ったときは、アノコを襲おうとすらしたのに、アノコは平然とお腹空いてるの? スイカ食べる? と赤い実をワタシに差し出したのだ。その笑顔にワタシの食欲はみるみる失せて、初めて感じるむず痒い優しさが広がった。どの珊瑚よりも、あのニンゲンの心は美しかった。

 かつてのワタシは、無機質で何も感じていなかった。いつの間にかこの海にいて、いつの間にかニンゲンを食べていて、何百年もたった。この海と砂浜から出られないし、自分が何者かもわからない。ただ、生きるため、満潮で海と陸が一番近いとき海に近づいたニンゲンを食らっていた。それなのにアノコと出会ってからというものニンゲンとの邂逅は楽しく、いつの間にかニンゲンのことを好きになってしまったらしい。だから、海の底に時折落ちてくるニンゲンの身体を借りるようになった。借りればニンゲンの記憶が知れるのも興味深かった。感情を知った、味を覚えた、音を、匂いを、この狭い海よりも広い世界があることを知った。だから、きっとこの海のどんな生物よりもニンゲンの真似がうまいだろう。ニンゲン、というかアノコが好きなのだ。だからワタシは、ニンゲンを選ぶことにした。悪いニンゲン、穢れたニンゲンだけを食べた。ちっとも美味しくなかったが、美味しそうなニンゲンは皆、優しいアノコと同じように瞳に優しげな炎を灯していることに気がつくのは容易かった。それを見るとワタシは、食欲が失せてしまうようになったのだった。不味くても食べれれば生きていける。一年、また一年、と歳を重ねるごとに、アノコはワタシに会いに来なくなったけれど、時たま迷い込んでくるコドモを眺めたり、アノコのようなコドモ達にとって、害になるニンゲンだけを食べていれば気がつけば、アノコと出会って数十年のときがたっていた。



 そして、なんの因果か、またアノコみたいなニンゲンのコドモに出会った。黒真珠の瞳を爛々と輝かせて、カラコロと笑って、どんな魚よりも軽快にその小さい身体を動かす。美味しそう、食べてしまいたい、そう思うと同時に、食べてはいけない、という思いがごちゃまぜになって苦しかった。嫌われたくなくて、絶対に口を開けなかったし、できるだけコドモの遊びに付き合った。また、来年会えるおまじないだよ、そんな言葉を投げかけられ、シーグラスを渡されたとき、ワタシのあるかどうかわからない心は確かにじんわりと暖かくなった。それなのに、どこか苦しくて、寂しく感じた。身体の中の臓器を絞られているようだった。こんな思いをするなんて、ニンゲンは随分と大変な生き方をしている。古びたシーグラスと新しいシーグラスを撫でる。人は成長すれば忘れるというのに。来年に楽しみと不安を感じている自分がいた。ふっ、と鼻で自分のことを笑う。



『来年など来なければいい』



 そんな言葉を吐き捨て、シーグラスを大切に持って、海へ足を踏み入れた。







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海ちゃんのシーグラス 志賀福 江乃 @shiganeena

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