第2話



 思わずシュンは後ずさりましたが、よくよく見ればその子は大きく目を見開いて、驚いたような表情を浮かべていました。余りにも人間らしいその表情にシュンはなんだ、おばけじゃないのか、と胸をなでおろしました。



「おーい、そんなところで何してるの?」



 シュンがそう言うと女の子は、下を向いて、モジモジと恥ずかしそうに、手を両手で握りしめました。



「危ないからこっちにおいで!」



 そう言うと、女の子は少しずつシュンの方に近寄ってきます。近づいてくるたびに、どんどん女の子の顔が見えるようになってきました。その女の子は今までシュンが見たことのないくらい可愛くてシュンはドキッとしてしまいました。身長はシュンとより少し高いくらいでしょうか、長い前髪の中から見えるまんまるな目がこちらをおどおどと見つめています。



「どうしてあんなところにいたの?」



 シュンがそうきくと、女の子は首を傾げます。シュンはもう一度、どうしてあんなところにいたの? って聞いたんだよ、と言いました。すると、また女の子は首を傾げたのでした。



「もしかして喋れないの?」



 こくん、と女の子は頷きました。口はあるけれど、声が出ないようです。



「僕の言ってることはわかるの?」



 こくん、とまた頷きます。



「文字はかける?」



 ふるふる、と今度は首を横に振りました。



「名前はあるの?」



 すると、こてん、と首を傾げました。どうやら、名前がわからないです。お父さんとお母さんは? と聞くと、またこてん、と首を傾げました。シュンはその様子に一つだけ思い当たることがありました。どうやら、記憶喪失のようです。シュンは、記憶喪失について詳しくは知りませんでしたが、昔、名前や自分のこと、周りの大切な人のことがわからなくなってしまった人のことだよ、とおばあちゃんに教えてもらったことがありました。



「じゃあ僕が名前をつけてあげる!」



 シュンは、うーん、と考えると、少し悩んで彼女をじっと見ました。女の子の髪や真っ白なワンピースは、海の深い青とよくあっていました。



「じゃあ海ちゃん! 海から来たから、海ちゃんね!」



 そう言うと海ちゃんは少し目を見開いて、こくこくと何度も頷いたあと、緩やかに弧を描いて笑いました。



「あ、海ちゃんが笑った!」



 自分が笑っていたことに気がついた海ちゃんは、恥ずかしそうに下を向いてしまいました。それから、シュンと海ちゃんは二人で砂浜の上に座って、お話しました。とは言っても、シュンがひたすら話し、海ちゃんはそれに頷くか、首をふるか、どちらかになりますが、それでもシュンは凄く楽しくてたまりませんでした。



 話をしていると、唐突に海ちゃんが立ち上がります。じっと砂浜の端っこの岩が連なる場所を見つめます。その岩の先の方にはポツンと家が立っています。もしかしたら、海ちゃんの家はそこなのかもしれません。



「もう帰るの?」



 こくん、と海ちゃんは頷きます。まだ、数十分しかたっていないようにシュンは、思っていました。シュンは、なんだか寂しくなってきて、ふとポッケを触りました。シーグラスを拾っていたことをシュンは思い出したのです。そっとポケットからシーグラスを取り出し海ちゃんの手をとって、シーグラスを握らせました。海ちゃんは、一瞬目を真ん丸に開いたあと、またこてんと首を傾げました。



「また次もここで会えますようにっていうお守りだよ」



 海ちゃんは、少し微笑んでそのシーグラスを受け取り、傾き始めたお天道様にかざしました。シーグラスが海ちゃんの真っ黒で大きな瞳に映ってキラキラと輝いていました。大切そうにぎゅっとシーグラスを握ると海ちゃんは、シュンに手を振って岩の連なる場所の方へ歩き出しました。



「明日もここに来るね!」



 シュンがそう叫ぶと海ちゃんは、こくん、と頷くのでした。海ちゃんが岩で見えなくなりました。一人で残されたシュンは途端に寂しくなって、お家に帰ろう、と思いました。そして、シュンは明日もとっておきのシーグラスを用意しよう、と意気込み、防波堤の上に登りました。行きとは違う場所を通って、シュンはお家に帰りました。気がつけば、青かった空はすっかり赤くなっていて、太陽はもう半分ほど見えなくなっていました。







「シュンちゃん、おかえりなさい」

「おばあちゃん、ただいま」



 おばあちゃんは洗濯を終え、夕食の準備をしていました。どうやら今日の夕飯は唐揚げのようです。ぱちぱちといい音が台所になっています。おじいちゃんは居間でのんびりと新聞を読んでいました。こういうまったりとした空気感がシュンはすごく好きでした。



「シュンちゃん、もしかして海に行ったのかい?」



 冷蔵庫から瓶の牛乳を出して飲んでいると、突然おばあちゃんはそんなことを言ってきました。シュンは驚いて、牛乳瓶を落としそうになりましたが、落ち着いて一呼吸して、なんでー? と訪ねました。



「海の匂いがするよ」

「そんなのこの街のどこだってするじゃん」

「ふふ、それでもわかるんだよ。まぁ無事ならいいさ。海であったことは誰にも言うんじゃないよ」

「どうして?」

「悪い大人にバレたらどうなるかわからないからね」



 おばあちゃんはそれ以上何も言いませんでした。きっとおばあちゃんは全部わかっていたのでしょう。あれだけ口を酸っぱくして、海に行くな、と言っていたのに、怒られなかったことにシュンはとても驚きましたが、これでまた明日も海に行ける、海ちゃんに会えると嬉しくなりました。









 シュンは次の日もまた次の日も海ちゃんに会いに行きました。誰にも見つからないようにこっそりと。海ちゃんは、シュンが話すと嬉しそうに聞いてくれます。時折、寂しそうに苦しそうに顔を歪めることもあったけれど、シュンが笑顔で大丈夫? と聞けば海ちゃんは激しくうなずきます。一緒にシーグラスを探して交換したり、砂でお山を作ったりしました。でも、砂浜から出ようとすると海ちゃんは凄く嫌がりました。悪い大人にあったら海ちゃんは酷い目にあってしまうのかもしれません。シュンは、僕が海ちゃんを守るぞ、と意気込みました。だから、シュンたちの遊び場はずっと砂浜でした。





 それから5日ほどたって、いつものように朝家を出ようとするとおばあちゃんが、今日は用事があるから遊びに行けないよ、と言ってきました。おばあちゃんの仲が良い人のお孫さんのお墓参りをするみたいです。よく考えれば明日はお盆の最後の日でした。おばあちゃんのお友達のお孫さんはシュンより少し年上で今年に入ってすぐに亡くなってしまったようです。



 シュンはおばあちゃんに連れられて、まずその人のお家に行きました。そのお家は海のすぐそばのお家でした。おばあちゃんのお友達は、シュンを快くもてなしてくれました。



「先にお線香をあげに行こうか」



 おばあちゃんがそういうので、仏間に向かいました。シュンはそこで遺影を見た途端驚いて、石のように固まってしまいました。その写真に写っていたのはこの一週間毎日見ていた顔だったのです。自然とポロポロと涙がこぼれ、口の中が塩っぱくなりました。



「どうしたんだい、シュンちゃん」

「もしかしたら、この子にあったことがあるのかもしれないねぇ」



 シュンは、えぐえぐと嗚咽を漏らしながら、海ちゃんのことを伝えました。話すと、おばあちゃんもお友達もみんな涙流していました。しばらくの間、みんなで海ちゃん―本当の名前は海ちゃんではないけれど―のことを話し、お線香をあげ、無事に天国へ帰れますようにと願いました。そろそろお暇しましょうか、とおばあちゃんがいい、立ったので、シュンも立ち上がりました。立ち上がったときポロッとシーグラスが落ちてきました。昨日海ちゃんと交換したものです。シュンは大切に拾い上げると、それをお供え物と一緒に仏壇に置いて、仏間を出ました。



「シュンくん、ありがとうね」



 おばあちゃんのお友達がそう言ってくれたので、シュンは嬉しくなってまたお線香をあげに来ます、と元気よく返事をして、別れました。





 次の日、シュンはまた海に行きました。風もなく、波もひどく静かです。待てども、待てども、やっぱり海ちゃんは来ませんでした。シュンはひたすらぼうっと、岩の連なるところを見つめていました。

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