海ちゃんのシーグラス

志賀福 江乃

第1話



 濁っった水、灰色と黄土色の混ざったの砂、唐紅のお天道様、丸くなったガラス。それらは、シュンにとって、この時期おなじみの光景です。この時期の子どもたちは、成績表というあの忌々しい紙をもらう代わりに、夏休みという天国を手に入れます。成績表を見た親たちが鬼になる前に皆出掛けるのです。シュンも、そのうちの一人でした。シュンは、夏休みになると毎年、大好きなおばあちゃんとおじいちゃんのところへ行きます。おじいちゃんはその昔、漁師をしていて、海にとても近いところに住んでいます。おじいちゃんと船に乗って一緒に釣りをしたり、おばあちゃんが川で冷やしてくれたきゅうりを齧ったり。小学3年生になったシュンは、今年も海の見える街にお父さんとお母さんに連れられてやってきました。もう毎年来ているシュンは街の隅から隅まで知っていました。一人でどこへでも探検に行きます。でも、お盆の時期の海だけは、一人で近づいちゃいけないよ、ときつくおばあちゃんに言われていたのです。なんで、と聞くと海坊主が出て、海の奥底に連れて行かれちゃうから、とおばあちゃんは言うのです。毎日毎日おばあちゃんは怖い顔でそんなことを言ってきたので小さい頃はシュンもその話を信じていました。でも、もうシュンだって小学3年生。ランドセルを背負って。自分の何倍もある大きな木だって登れるし、本も何冊も読めるし、算数も体育もなんだってできます。だから、シュンは夏の海は海坊主が出るなんて噂、これっぽっちも信じていなかったのです。今年こそお盆の時期にこっそり行ってやろう、と意気込んでいました。しかし車の中というのはやっぱり眠たくなるもので。シュンはお家からおばあちゃんの家までの間にすっかり寝てしまったのでした。



「シュン、ついたわよ」

「はぁい」



 眠たげに返事をすると、お母さんはねぼすけさんねぇ、と優しく笑いかけます。シュンはこうやって車の後ろの席で寝ることが大好きでした。窓の外を見ると、海が下の方に広がっているのが見えました。おばあちゃんのお家は海の波が届かない、高台に作られていますから、そこから海一面を眺めることができるのです。海が太陽に照らされてキラキラ輝いています。真っ青な海ではなく、濁った海だけど、それでもシュンはいつも綺麗だと思うのです。



「シュンちゃん、いらっしゃい」

「おばあちゃん、ただいま。でももう僕シュンちゃんじゃないよ、もうちゃんはいらないよ」

「はいはい、スイカ、食べるかい?」

「食べる!」



 顔いっぱいにシワを作って笑うおばあちゃん、その奥でおじいちゃんが早く入れ、と急かしてきます。おじいちゃんはせっかちさんで、少しでもシュンがノロノロしていると早く早く、と急がせるのでシュンはおじいちゃんのせっかちなところが少しだけ嫌いでした。でも、一緒に釣りをしたり、川遊びをしてくれるから大好きです。シュンは、家族のことが何よりも大切です。だから、みんなが揃うこの夏休みが毎年楽しみなのです。



「よし、あとでじーちゃんとカニ取りに行くか」

「行きたい!」



 わしゃわしゃとシワだらけの手でシュンを撫でてくるおじいちゃんにニカーっと笑いかけると、おじいちゃんもシュンと同じようにニカーっと笑うのでした。



 おじいちゃんとカニを取りに行ったり、おばあちゃんと料理を作ってみたりしている間に、お父さんとお母さんはお仕事があるから、とシュンたちが普段暮らしているお家に戻っていってしまいました。シュンの家はおじいちゃんたちの家から車で2時間ほどかけたところにあります。お父さんたちのお仕事の邪魔にならないように、こうして夏休みの間はおじいちゃんたちの家で過ごします。もちろん、お父さんたちも度々こっちに来てくれるのですから、ずっと会えないわけではありません。少しだけ寂しかったけれどシュンはもう三年生です。一人でもう何でもできます。お父さんやお母さんがいなくたって、おじいちゃんとおばあちゃんの役に立つことはシュンにとって簡単なことです。はりきってシュンはなにか手伝うことあるか、おばあちゃんに聞きました。でもおばあちゃんはないよー、遊んでおいで、というだけです。おじいちゃんは釣り仲間のところに行ってしまったしおばあちゃんは忙しそうにせかせかと洗濯物を取り込んだり、掃除をしたりしているのに、手伝って、と声をかけてくれません。



――おばあちゃんはやっぱり僕のこと子供扱いしてるんだ。



 シュンは少しだけ悲しくなって、遊びに行ってくる、と家を飛び出しました。海には近づいたら駄目よー、と後ろから大きな声が聞こえましたが、シュンは返事をせず、駆け出しました。しばらくの間、川で遊んでいましたが、ずっとカニを眺めているのも飽きてしまって、シュンは、あたりを見渡しました。少し遠くのところにいたカニが海藻を持ってブンブン振り回していたのです。そのそばまでしゃがんでカニを見つめました。きっとこのカニは海のそばまで行って、海藻をとってきたんだろう、とすぐにわかりました。カニはどうだ、すごいだろう、と見せつけるように振り回しています。シュンは、とても悔しくなりました。



「ぼくだって一人で行けるもん!」



 シュンはいきおいよく立ち上がって、もう一度あたりを見渡しました。でも、海には海坊主という恐ろしい化物が出るとおばあちゃんが言っていたのを思い出しました。それならば、なにか武器がほしいな、とシュンは思ったのです。近くの木の根本に、太くて長い枝が落ちているのを見つけ、それを拾いました。



「海坊主なんて、これでたおしてやる!」



 これでもう大丈夫。シュンはまっすぐ海に向かって歩き出しました。退屈な気分から、一気にやる気に満ち溢れ、まるでゲームの中の勇者のような気持ちでいっぱいになりました。





 ざぶん、ざぶん、ざーざー、ざぶん。

 何層にも重ねられた緑を抜けた先に、美しい青が広がりました。それは空の青さです。近くで見ると海は灰色に濁っていて、そんなに青くは見えません。この海はいつも灰色です。砂浜も真っ白じゃないし、おとぎ話に出てくるような色じゃありません。シュンはいつか真っ青で透き通るような海が見てみたい、と常々思っていました。それを見るためには、どこか遠くの外国か、南の方の海に行かなくては行けません。けれどシュンはそれがどこにあるのかも、どうやって行くのかも、何も知らず、何もできません。



「早く大人になりたいなぁ」



 シュンの声は海の大きな波の音に吸い込まれていきました。大人になればもっとどこへでも行けるといつもシュンは思っていました。海は今までに見たことのないくらい波が高くて、シュンはあまり近づかないように波の届かない遠くの砂浜から海を眺めていました。海というのは不思議なもので、遠くの方の海は青いのに近いところの海はなぜか灰色です。遠くは青い、とは言っても、深くて濃くてそこの見えない不気味な青で、それを見るとなぜかシュンは寂しくなるのでした。きっと海の底に住んでいる魚達は空の透き通る青さを知らないんだ。深い闇の中で、彷徨って、家族でひっそり身を寄せ合っているのだろう。そんなことを考え、自分のことではないのに、胸がきゅう、と締め付けられるのでした。ふと、自分の座っているすぐ横に、シーグラスと貝殻が散らばっているのが見えました。どうせ、海には近づけないし、シーグラス集めでもしよう、とシュンは立ち上がり、自分だけの宝物を探しに歩きはじめました。シュンは、シーグラスは好きでした。しかし、貝殻や珊瑚はあまり好きではありません。貝殻も珊瑚も、落ちているものはみんな屍だからです。海の中で生活していた、貝や珊瑚たちが死んじゃってここに今いるだけなのです。それならば、勝手にたくさん持ち帰るのはいけないことだと思っていました。



 真夏の暑い日だというのに、シュンの周りには人が誰もいません。大人たちは海坊主が出る、という噂をまともに信じているようです。シュンは自分以外の大人が酷く臆病者に見えて、にまり、と笑いました。シーグラスを一つ拾って、空に掲げます。シーグラスは空の青さと重なって溶けて消えてしまったように見えました。



――そうだ、これを勇気の証にしよう。毎日一回持って帰って、大人たちなんかより、勇敢なんだって、見せつけてやろう。



 そう思って、ポケットに大切にシーグラスをしまい込みました。ポケットを意識するだけでシュンの勇気ややる気はみるみる湧き上がってきます。シュンは意気揚々と歩き出しました。その時です。激しく波立つ海の方から、何か白いものがフラフラと歩いてきました。よく見ると、それは白いワンピースを着た女の子でした。真っ白なワンピースをふわふわ靡かせ、真っ黒な髪を携えた女の子は、シュンの好きな心霊番組に出てくる幽霊のような姿で、シュンは恐ろしくて、思わず、わあっ、と声を出してしまいました。すると、そいつはばっ、と顔を上げました。ひぃ、と口から情けない息が漏れると同時に、真っ黒な瞳と目があってしまいました。

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