二日後、出来上がったはみを厩戸のもとへ届けに行った止利であったが、屋敷の手前で足を止めた。門のところで調子麻呂が誰かと立ち話をしている。その時の彼が見たことの無い表情をしていたので隠れて様子を伺うことにした。なんてことは無い好奇心である。

 彼はいつも穏やかで柔和な佇まいをしている男だが、周りに不運なことがあれば心配そうに眉を下げるし、厩戸に何かあれば真剣な顔で守りに入る。それゆえ表情に乏しいという印象はないが、あからさまに感情を噴出することもないと思っていた。

 ところが、今遠目に見えている彼は随分と楽しそうに肩を揺らしている。目の端を指で押えているということは、涙が出るほど笑っているのか? 止利は少し周りを見た後、気づかれない程度に近づいてみることにした。

「──、────」

「──? ────、──」

「────!」

 抑揚は分かるが倭の言葉ではないようだ。そういえば、調子麻呂は百済の生まれだと言っていた。音の響きからして百済の言葉らしい。

 相手は一体誰なのか。後ろ姿を見る限り僧侶のようで、綺麗に剃髪された頭を見ても色白だと分かる。鳥よりは少し背が高そうだが、細身の調子麻呂と比べても遜色ないくらいの痩せ型で、どことなくしなやかな背筋をしていた。

 話が落ち着いた頃合いを見て、とことこと近づいてみる。しばらくしてこちらに気づいた調子麻呂は、「止利さんちょうど良いところに!」と倭の言葉で笑った。

「とりさん?」

 調子麻呂と会話をしていた人物が振り返った。倭言葉になった途端、百済言葉で話していた時よりも声が柔らかく高くなる。その響きと顔立ちを受けて止利は仰天した。目の前の人物は女性であった。

「まあ、あの止利さん? こんなに大きくなって······!」

「え?」

 彼女の口から出た言葉はまるで昔馴染みのようだった。しかしいくら考えても顔を合わせた覚えはなく、疑問だけが募ってゆく。止利の表情で察したのか、彼女は「ごめんなさいね。突然」と眉を下げた。

多須奈たすな兄上の御嫡男よね?」

「兄······上?」

 多須奈は確かに止利の父だが、兄上だと? つまり、目の前の尼は止利からみて叔母······ということになるのか。それにしては歳が近いが、確かに目元のあたりが父や福利にも似ている。

「ちょうど止利さんの話をしていたのです。しまさんは一度しか会ったことがないと言うから」

「こんな小さな時にね、一度だけ」

 赤ん坊を抱き抱えるような仕草をしながら、嶋と呼ばれた彼女はにこにこと目尻をさげた。

「でも覚えてるわけないわよね。改めまして、嶋と申します。でも今は出家をした身ですから、善信尼ぜんしんにと名乗っております」

 善信尼······善信尼? はて、どこかで。

蘇我大臣そがのおおおみの先生ですよ。この国で初めて仏門に入られました」

 それで思い出した。物部が蘇我の寺を焼いた時に連れ去られたという尼の一人か。あの時の海柘榴市つばいちの喧騒を思い出して身震いする。随分と凄まじい体験をしたのだろうと鼻を啜りつつも、そんな彼女が身内であったことに未だ驚きを隠せなかった。

「兄上とは話しているの? 貴方には家の事を何も語らずにフラフラと山へ籠ったようだから、心配していたのです。貴方や福利が鞍作部たちに馴染めるだろうかって」

「馴染むと言いますか、鞍作部として生まれて鞍作部として生きてきただけなので、正直何も······」

「あら、仏師になるかもだなんて話を聞いたから、てっきりもう話されているのかと思っていましたわ。福利からも何も?」

「······は、はい。ええと、何のことでしょう」

 嶋は少し困ったように調子麻呂を見た。彼は心得たように苦笑すると、「よろしければどうぞ」と止利と嶋を屋敷へと招き入れた。





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鞍作鳥の飛鳥日記 鹿月天 @np_1406

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