船
山で泊瀬部を見かけてからひと月が経った。鞍を作り終えた止利は、印刀を手にして作業場の隅に座り込む。この時間であれば槻の下がいちばん明るい。作り残していた増長天を彫るにはうってつけだった。
あの戦の後、少しずつ彫り進めていた増長天は随分と完成に近づいた。しかし、どうしても刀を握る手が止まってしまう箇所があった。紛れもない、顔である。見よう見まねで覚えたというのもあろうが、父にコツを聞いても一向に上手くならない。布の弛みや指先の滑らかさはある程度型を覚えてしまえばスルスルと彫ることが出来た。しかし、顔だけは何度彫っても何度彫っても納得がいかない。
厩戸の屋敷で初めて仏像を目にしたあの日に眩いほど感じた光。あれが全く感じられない。新羅の仏も百済の仏も高句麗の仏も見た。それぞれ顔が違うようなので、一つ一つ真似をして彫ったりもした。しかしどれを試しても頷くことは出来なかった。手本にした各国の仏像はやはり眩いのだ。ところが止利が真似した途端光は消える。自分が何に納得していないかも分からぬまま、今日も掘りかけの増長天と見つめ合っている。そんな時間がしばらく続いたような気もした。
「やぁ」
突然背後から光が翳った。慌てて見上げれば、長い髪を覆いかぶせるようにしながら河勝が微笑んでいる。
「びっ、くりさせないでください」
「ふふふ、良い反応」
満足気に笑った河勝は、止利の横にしゃがみこんで手元を覗いてくる。
「増長天だ」
「ええ、あの時の残りです」
「意外だね。君ならとっくに彫り終わってるかと思ったのに」
「顔が納得いかないのです」
「他の四天王はすぐ彫れたのに?」
「はい」
「ふーん」
河勝はやはり何を考えているのか分からぬ瞳で増長天を見ていたが、しばらくして「まだ出会えていないんじゃない?」などと笑ってみせる。
「······どういうことです?」
「君が彫ってくれた他の四天王像、どことなく赤檮くんや大臣に似ていたからね。皇子さまもそれを感じてあんな渡し方したんじゃないかな。でも、増長天だと思える人にはまだ出会えていない」
意外な言葉だった。誰かを意識して彫っていたつもりはなかったので、河勝を見つめたまましばらく静止してしまう。
「君は観察眼がある。案外、仏を彫るというよりも誰かの顔を思い浮かべて彫るつもりでいた方が上手くいくかもしれない」
河勝はそんなことだけ言って止利の肩を叩くと、辺りを見渡しながら立ち上がった。
「福利くんいないかな。ちょっとお誘いに来たんだけど」
「福利さんなら今出かけてます。もうすぐ帰ってくるかと」
「そっか。じゃあ馬具だけ受け取って少し待とうかな」
「ちなみに何のお誘いです?」
河勝は何やら楽しげな間をあけると、傾いた西日を見つめながら淡い笑みを浮かべた。
「船に乗らないかってね」
「船?」
止利は目を瞬かせた。
「百済にね、留学者を送ることになったんだ。それこそ、仏法や学問を学んで来るための人材。福利くん、語学に興味あったでしょう。どうかなと思ってね。向こうの陸にいけば色んな言葉を聞くことが出来る。百済のものも、高句麗のものも、もっと西の言葉もね」
「百済や高句麗よりもっと西······」
「そう。あの陸地は広いよ、きっと僕や君が思っているよりずっと広い」
見上げた河勝の表情に止利はおやと目を止めた。どこかで見たような顔をしている。いつもの胡散臭さが薄れ、青年らしい色が顔を覗かせていた。初夏の風に馴染むような自然な笑みは、先の戦で未来を語った時の彼を彷彿とさせる。存外優しい顔をするものだ。止利はこの顔が好きだと思った。
「いつかね、この国も真正面から見るべきだと思うよ。そういう果てしないくらいに広い世界をね」
「百済への船は第一歩ですか?」
「そう。向こうと渡り歩くには仏教の素養が必要なんだ。だからまずは向こうの当たり前を身につけなきゃいけない。知恵を交わすための言葉も覚えなきゃあいけない。でもただで教えてもらうわけにもいかないから、同時に彼らのための仕事や財を作ってあげなくちゃいけないし、こちらから迎えにもいかなくちゃ」
「留学させるだけではなくて、呼ぶのですか」
「そう、まだこの国にはいないような人を呼ぶんだよ。ここにいる鞍作部や鍛冶部だってそうでしょう? それはもう何百年としてきたことさ。技術を持つ人を招いて、この国で生まれた子達に受け継がせていかないと。でもそれだけじゃ足りないから、今度はこちらから顔を売りに行くんだよ」
河勝はそんなことを言うと、またいつも通りの飄々とした笑みに戻った。
「それが上手いのが蘇我大臣ってわけ。だから僕は彼に期待してるんだ。大臣と皇子さまは戦勝祈願の通りに寺を建てようとしてるでしょう。それだって、技術者や僧侶を呼び込むにしてもこちらから学ばせに行くにしてもうってつけなわけさ。付いてきたのはただの戦意の向上だけじゃない。大臣がそれを分かってやっているのか、自然にやっているのかは分からないけどね。彼の強みはそこだと思う」
そこでやっと、河勝が蘇我に付き従ったこと。そして馬子が仏教に拘っていることの理由が見えてきた。思想や学問というものにも流れがある。かつて河勝が見せてくれた武器の流れのように、大きく広く巡り巡る果てしない流れだ。
止利は改めて仏像を抱え直すと、愉快そうな河勝を見上げて心の底から呟いた。
「やっぱり、河勝さんって不思議な方ですね」
対する河勝は「ん〜?」と目を細めると、小首を傾げて笑うばかりであった。
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