大王おおきみは来ていないよ」

 懐かしい香りのする冷たい板の間。止利とり赤檮いちいを案内した彦人ひこひとはそう言った。

「しかし、先程確かに······」

「うん、見かけただろうね」

「お会いにはなったのですか?」

「難しい質問だね。君たちが見かけた人に会ったかと聞かれれば、確かにこの部屋で会ったよ」

「う、ん? では来ていないというのは······」

 彦人は一口水を飲むと面白そうに目を伏せる。

「大王は来てないよ。泊瀬部はつせべくんなら来ていたけどね」

 困惑する止利をどこか揶揄うような素振りがあった。

「彼は泊瀬部として僕に会いに来たと言っていたし、泊瀬部として意見を聞いてきた。だから、ここに居たのは大王ではないし、僕は大王に会ったつもりは無い」

 彦人が食べ終わった高麗物の菓子の皿を舎人が下げにくる。別荘にこれほどの菓子があるということは、前々から泊瀬部が来るのは分かっていたのかもしれない。しかし、止利たちにも一つずつ配られたところを見ると泊瀬部は口を付けなかったようだ。

「彼も赤檮と同じで帰りたがりだねぇ。でもね、今度は少し心持ちが変わっていたみたい。もう少ししたら、ここに隠棲させられるかもしれないねぇ。でも彼不器用だから。そう心を決めた頃には周りに嗅ぎつかれて隠棲どころじゃ無いかもしれない」

 一体どんな話をしたのだろう。彦人は世間話でもするかのようにゆるりとした声音をしていたが、ちらりと一瞬、こちらを窺うかのような視線を感じた。ハッとして意識を向けた時には既にいつも通りの彦人がいる。しかし、河勝かわかつがたまに見せるような眼光を感じた。人を観察し、見定めるような河勝の商人の目。それと同じものを確かに見た気がしてならない。

「君はもう厩戸うまやどくんに雇われたのかな」

 彦人が話題をかえて止利に話しかけてくる。雇われたというには曖昧な関係なので、まだ鞍作部として生きていると伝えた。

「厩戸くんと蘇我大臣そがのおおおみがね、寺を建てると言っていた。てっきり君が仏を彫るのかと思っていたよ。いや、それともまだ離しているのかな。大切にされているね、君は」

 彦人は勝手に話を進めてうんうんと一人頷いている。

物部もののべも憐れだねぇ。いやぁ、僕は物部は好かないけれどね。偏りが出るのも疲れるよ。これは僕の話ではなくて、蘇我の話だけれどね。大臣も大変だし、大后も大変だ」

 ふと、赤檮に目が向けられた。赤檮は背筋を伸ばすと、やはり犬のような瞳で彦人を見つめ返す。

「赤檮、君はもう厩戸の舎人だ。新しい主人は如何だったかな。彼はそろそろ守られる歳でもなくなってきた。しかしね、守られるべき立場でもある。君は厩戸を守りたいかい。それとも、飛鳥そのものを守りたいかい」

 不思議な二択だと思った。赤檮も問いが飲み込めずに困ったような顔をしたが、彼はやはり真っ直ぐな男で、しばしの逡巡の末に背筋を伸ばした。

「俺は厩戸皇子さまを御守り致します。それが彦人さまとの約束です」

「うん、よく出来たね」

 彦人は満足そうに微笑む。

「二人ともお帰り。日が暮れる」

 その一言で外へ出された。赤檮は一度だけ屋敷を振り返ると、綺麗に頭を下げて止利の後をついてくる。

「彦人さま、やはり不思議な御方ですね」

「昔からそうだ」

「赤檮さんはいつから彦人さまを慕うようになったのですか?」

「忘れた。でも、拾われたから仕えたんだ。気持ちの理由を考えるのは苦手だ」

 仰ぎみた赤檮はやはり言葉が出なくて困ったような顔をしていた。止利はそんな赤檮を少々好ましく思いつつ、「そうですか」と答えて並んで帰った。山菜を採るのはすっかり忘れていた。


 それからまたいつも通りの日々が続いた。止利が今一つ掴みきれない彦人の言葉を理解するには、今しばらく。これから五つほどの夏をこえ、秋の香りが落ち着く頃まで待つことになる。












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