隠れ家


 厩戸と言葉を交わすようになってから、竹田は少しずつ頬の赤みを取り戻していった。柔らかな眼差しと勤勉な性格、そして人々に寄り添う姿は皇子としても申し分ない。母である額田部ぬかたべは我が子の健やかさに心底ほっとすると同時に、皇子としての竹田に晴れの日を迎えさせてやりたいという気持ちがじわじわと滲み出していくのを感じていた。

 同時に、馬子も柔らかな糸を手繰るように厩戸への敬愛を募らせていた。聡明で機知に富み、時に丁寧に、時に大胆に人々の未来を描いている。そんな厩戸だからこそ、娘のことも国のことも、そして蘇我の繁栄をも全て預け得ると思っていた。大人になりゆく厩戸は、この国を導く大王おおきみとして誰よりも申し分ないと確信している。

 そんな二人の眼差しを、周りの豪族たちも機敏に感じ取っている。物部が弱体化した今、蘇我につくか、はたまた蘇我を出し抜くか、そんな選択を迫られている。様子見したげな視線が交錯する飛鳥の春は、静かに静かに流れて行った。

 一方で、大王たる泊瀬部はつせべは冷たい冬の名残を感じていた。任那みまな復興の件についても、東国整備の件についても、仏教の受容の件についてさえ、豪族たちが素直に頷かない。大王がかように孤独だとは知らなかった。大王として歩むことを熱く目指していた兄・穴穂部あなほべは常に前向きであった。大王になればこの世の全てを照らし出せるのだと、灼熱の太陽に白い歯を見せていた。影を好んでいた泊瀬部にとって、大王というのは兄の笑顔の中で語られる遠く眩いシルエットである。それゆえに、それが逆光の中でどんな顔をしていたのかなど知る由もなかった。知ろうとも思っていなかったのだ。大王になど、なるつもりは無かったのだから。


「······なんだか人が多いな」

 父・多須奈たすなの元へ楠木を取りに行った帰り道、伴をしていた赤檮いちいが呟いた。この辺りは彦人ひこひとの別荘があるので、赤檮の方が詳しいのだ。ちょうど山菜が出始める頃だったので、ついでに採ってこいとくりやの番人のような老婆に放り出されたところである。

 鳥は周りを見渡すが、赤檮が何を言っているのか分からない。人など何処にもいないではないか。そう耳打ちすると、赤檮は「ん」と上を向く。

「木の上だの木の裏だのに色々いる。俺たちを害する感じでは無いが、かといって彦人さまんとこの奴らでもないな。隠れるのは下手じゃないが上手くもない」

 鳥は困惑して周りを見渡す。やはり分からないものは分からなかった。

 すると山の上の方から誰かが歩いてきた。その途端、鹿でも歩くかのような軽い音がいくつかそちらへ向かっていく。赤檮が言う奴らとはこの足音の主らしい。

「······あれ、誰だっけ。見たことあるな」

 赤檮が頭を掻きながら言う。上から降りてきた人物のことらしい。鳥は始め興味本位で視線を向けただけだったが、慌てて赤檮の腕を掴んで草陰にしゃがんだ。

「おいおいおい、何だよ」

「何だよじゃないですよ! は、はつっ······いや、大王ですよっ、赤檮さん!」

 間違いない。泊瀬部である。何故か忍ぶかのような服装でこそこそと山をおりていく。となると、周りの気配は大王の護衛か。まだ皇子だったとはいえ、以前にもこんなことがあった。確か、あの時の泊瀬部が向かっていたのは······。


「やぁ、久しぶりだねぇ赤檮」

 一か八かで訪ねた山神の館。出迎えた彦人はにこやかに笑っていた。やはりこちらの隠れ家に居たか。泊瀬部の行き先として思い浮かぶのは、もはやここしかなかったのだ。









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