ハイドランジア・マクロフィラ
さかたいった
雨と傘
幾千の水玉が地面にぶつかり、弾け飛ぶ。
短い命を儚く散らし、近くの者と融合する。
空から大地までの僅かな旅路。
旅の中で見るそれぞれの景色。世界。
一つ一つ色が違う。
ひとときの忘却。甘美な夢。
そのために他者を求め、願いを乞う。
己の運命を知りながら。
逆らえないことを知りながら。
抗うことに意味を見い出す。
そこに真実があるという幻想を抱き。
やがてそれは一つとなり、空へと還る。
いつかまた訪れる出会いを祈り。
「どうして雨が嫌いなの?」
「だって、濡れるだろ?」
「濡れるのが嫌なの?」
「濡れるよりは、濡れないほうがいい」
「じゃあ、一生シャワー浴びないでね」
陽花がぴしゃりと言い、夕輝は何も言い返せずに口を噤んだ。
降り止まぬ雨の中、二人は歩く。
傘を差し、お互いに適度な距離を保って。
空は分厚い雲のフィルターで覆われ、雨はせっかちな者から順に地上へと降り立つ。地面を打つ小さな音は重なり合い、単調な雨音となって耳に届く。普段の街の喧騒は鳴りを潜め、どこか秘密めいた雰囲気が辺りに漂う。
「私は雨が好き」
陽花が囁くように言った。雨音に消え入りそうな声だったが、夕輝の耳にはしっかりと聞こえた。
夕輝は、前を向いて歩く陽花の横顔を見る。ここではない、どこか遠くを見つめるような彼女の瞳。
「雨は、優しい」彼女は言った。
「優しい?」
「隠してくれる」
「隠す? 何を?」
「見られたくないものを」
彼女の瞳が一瞬彼を向いた。瞳は何かを探すように動いた後、また前を向く。
雨の中、二人は歩いた。どこかに向かおうとしているわけじゃない。左右に見える景色も重要じゃない。大事なのは、こうやって二人でいられる時間。二人だけの、閉じた世界。
「あのさ」夕輝は口を開く。
陽花は視線だけを彼に向ける。
「一生シャワー浴びなかったら、体臭くなると思うけど」
「はあ!?」おっとりを演じていた陽花の表情が、急に攻撃的になった。
「それでもいいの?」
「バカなの?」
「バカじゃない。それに、シャワーは浴びたい」
「変な人」
陽花は夕輝を見て、クスッと笑った。夕輝は彼女のその笑顔が見たかったのだ。
いつまでも、見ていたかった。
小さな隕石のような雨粒がガラスを打ち、跳ね返る。外は灰色の世界。世界の色を照らす太陽は雲の向こう。今日の太陽は照れ屋さんだ。
美空は急に勢いよく振り返り、携帯ゲームに勤しんでいる弟の
「晴斗。外に行くよ」
「うん。行ってらっしゃい」晴斗はゲームから目を離さない。
「違う。晴斗も行くの」
「えっ、行かないよ」
「行くの。行くったら行くの」
「どうして?」
美空は晴斗のその問いかけに、すぐには答えられなかった。美空は晴斗よりはお姉ちゃんだが、それでもその質問に答えるには幼すぎた。
「わからないけど、でも行かないと」
「うん、わかった」
晴斗に一体何がわかったのかはわからないが、美空は聞き分けの良い弟に感謝した。
紫陽花。アジサイ。雨の日にも、力強く綺麗に咲く花。
夕輝と陽花はいつしかアジサイ畑を歩いていた。
青、紫、ピンク、白。様々な色彩のアジサイが咲き誇る。雨に打たれても下を向くことなく、自身の存在を誇示している。
「あなたはアジサイに似てる」陽花が言った。
「そう? どこが?」夕輝は訊いた。
「強がりなところが」
二人は立ち止まって、アジサイ畑を眺める。傘に雨粒が当たり、ポツポツと音が鳴る。
陽花が次を話した。
「本当は弱い。弱くて、とても傷つきやすい。それなのに、気丈に振る舞う。苦しい時ほど、明るく振る舞う。全然平気な顔して。それはどうして?」
「そう、かな? でもたぶん、それは、怖いから。本当の自分を見せるのが。弱い自分を知られるのが。だから仮面を被って、隠れるんだ。僕は臆病だ」
「そう。でもね、それは、本当は、弱さじゃない。あなたは、自分の弱さを知っている、強い人。他人の心を理解できる、理解しようとできる、優しい人」
「そうだといいな」
夕輝は陽花を真っ直ぐに見つめる。彼女も真っ直ぐに見つめ返す。体は離れていても、二人は繋がっている。目に見えない何かで。
「あのさ」夕輝が口を開く。
「なに?」
「いつまでも一緒にいたい。きみと」
その夕輝の言葉で、陽花の表情が陰った。聞いてはいけない言葉を聞いてしまったかのように。
彼はそうなることを知っていた。知っていながら、言わずにはいられなかった。
もう戻れない。あのころには。
雨が、急に冷たく感じた。
晴斗は水溜まりを見つけるたびに、無邪気にジャンプして両足で飛び込んだ。周囲に水しぶきを撒き散らす。晴斗はレインコートを着て、長靴を履いていたが、転んで頭打っても知らないよ、と姉の美空は何度も注意した。
美空は傘を差していた。自分が差している傘の他に、もう一本傘を持っていた。それは、大きくて重い大人用の傘だ。
危なっかしい弟を見守りつつ、美空は雨の街を歩いた。
この雨は、誰かの涙。きっと誰かが泣いている。そんな気がした。
夕輝は雨に打たれていた。差していたと思った傘は、いつの間にか消えている。
彼の正面には陽花が立っている。彼女は傘を差していた。
夕輝は陽花から目を離さなかった。少し目を離しただけで、まばたきをしただけでも、彼女がいなくなってしまう。そんな気がして。
「そろそろ帰ろうか」夕輝は言った。
陽花は何も言わなかった。
「ほら、雨だし」
彼女は何も言わない。黙って彼を見つめている。
「どうしたの? お腹でも痛い? また賞味期限切れの牛乳でも飲んだの?」
彼女を笑わせようとして夕輝は言ったが、陽花の表情は動かない。
「じゃあ、早く帰らないと。その辺でしたくないでしょ? 紙もないし」
「あなたは優しい人」
「えっ?」
「もういいの。誤魔化さないで」
「誤魔化してなんか」
「ありがとう」
「嫌だ」
「あなたには帰る場所がある」
「きみも一緒に」
「あなたと会えて、よかった」
「嫌だ、やめろ!」
夕輝の叫びをかき消すように、雨音が鳴る。
いつまでも、雨は降り続く。
夕輝はその場で立ち尽くす。
彼の視線の先に、彼女はもういない。
彼女の言った通りだ。雨は隠してくれる。彼の悲しみのしずくは、雨に洗い流される。
彼は陽の無い空を見上げる。その方向に、彼女がいるような気がして。
雨が降る。幾千の雨粒が、大地目指して降り注ぐ。
彼の体に当たる雨粒も、彼の憂いを溶かしてはくれない。
周囲には雨にも負けず花を咲かせるアジサイたち。
本当にアジサイに似ているのは、彼女のほうだった。
彼女は最後まで、笑顔だった。ひた向きに、生き続けた。
彼女が示した道を、閉ざしてはいけない。その道を、自分たちは歩いていかないといけない。
「あ、やっぱりここにいた」
背後から聞き馴染みのある声が聞こえ、夕輝は振り返った。
見えたのは、彼の二人の子供。夕輝と陽花の、子供。
「風邪ひいちゃうよ。ほら」
美空が持っていた傘を彼に差し出した。彼はそれを受け取る。
「お父さん。お母さんに会ってたの?」
晴斗が訊いてきた。
「違うよ。ただ一人で散歩してただけ。傘忘れちゃったんだ。ありがとう」
夕輝は美空から受け取った傘を差した。ボン、と音を立て、花のように傘が開く。
夕輝が傘を差すと、娘と息子は夕輝の傘の下に避難してきた。美空は自分の傘を閉じ、夕輝に抱きつく。
「わっ、お父さん濡れてる! ベッチョリ!」
晴斗も濡れたレインコート姿で、夕輝に抱きついてきた。二人とも濡れているので、お互い様だ。
親子三人で寄り添い、アジサイ畑の中を歩き出した。
夕輝はいつの日かの記憶を思い返す。
その日も雨だった。
夕輝と陽花が両端で傘を差し、真ん中に美空と晴斗。
四人で手を繋ぎ、二つの傘で、彼らは歩いた。
雨の日は、彼らの距離が縮まった。
自分たちは、一人じゃない。
手を繋ぎ、助け合って、歩いていく。
いつまでも、変わらずに。
ハイドランジア・マクロフィラ さかたいった @chocoblack
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