秋の夜

 塀の上を三毛猫が歩いていた。黒の部分が多めの三毛猫だ。

 寝静まった街。人の気配はない。虫の声だけが途切れずに夜を彩っていた。

 ふと甘い香りが鼻を掠め、猫は立ち止まる。そこにぱらぱらと小さな花が降ってきた。金木犀だ。辺りを見回しても木はない。花が飛ばされるほどの風もない。

「翡翠」

 猫は虚空に声をかけた。ぱたぱたと動く尻尾は二つに割れている。

 返事の代わりに、今度は一握りもありそうな塊で花が降ってきた。

「翡翠」

 頭を振って小山になった花を落とし、猫は再度呼びかける。険のある声音だった。

 彼を知っている者が見たら「珍しい」と驚くだろう。しかし元凶は彼の不機嫌を気にも留めなかった。

 笑い声とともに和装の男が宙に現れる。男は半透明で、背後の夜空が透けて見えていた。

「湖冬、愉快ななりだな」

「誰のせいだと」

 落としきれなかった花をつけたまま恨めしげに見上げる湖冬に、翡翠は片手を挙げる。

「ああ、私が悪かった。謝ろう」

 全く悪びれずに言う。

「集めたんですか、これ」

「もちろん」

「暇なんですね」

 湖冬はため息を吐く。

「ああ、暇すぎてな。だから誘いに来たのだ」

 翡翠はにやりと笑った。

「さあ飲むぞ」

「これが肴ですか」

「悪くないだろう?」

「ええ、いいですね」

 音もなく猫と男はかき消え、残された花が舞う。甘い香りは彼らの後を追うように、するすると霧散していった。


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初出:2019年10月

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湖冬と翡翠 葉原あきよ @oakiyo

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