湖冬と翡翠

葉原あきよ

雪の庭

 雪が降っていた。水気の多い雪である。地面に落ちると自分の重みでぺしゃりとつぶれてしまう雪だった。

 一匹の三毛猫が古い民家の軒下にいた。黒の部分が多めのその三毛猫は、寒がる様子もなく雪を見ていた。

 民家は半ば朽ち果てていて、明らかに人間の手を離れて久しい風情であった。ときおり近所の子どもたちが冒険に訪れるのか、小さなプラスチックのスコップが墓標のごとく、葉の落ちた紫陽花の根元に突き立っている。新しいとは言い切れないスコップだったが、その黄色は、色彩に乏しい庭の中では十分に鮮やかで目を引いていた。

 いや、もうひとつ、色があった。

 山茶花の赤である。山茶花は深い沼のような緑の葉に点々と雪を載せ、しっとりとした赤い花を咲かせ、また散らせている。家が捨て置かれてから剪定されることもなかったのだろう、好き勝手に枝を伸ばしていた。

 三毛猫は山茶花を見上げた。雪がその視線を逆に辿るように舞い落ちる。

 ふ、と三毛猫は笑う。

「翡翠」

 山茶花の向こうに声をかけた。

「いるのでしょう?」

「ああ、いる」

 猫以外には誰もいない庭から声がそう答えた。低い男の声だ。驚いたようだった。

「なぜわかった?」

 男の声がそう聞く。

「なんとなく。風が動いたので、もしかしたら翡翠かと思っただけですよ」

「なんとなく?」

「ええ、なんとなく」

 く、と男の声は笑う。

「返事などしなければよかったな」

「それは困りますね」

「ほう、困るか」

「私の独り言になってしまうではないですか」

「はは。ますます返事などしなければよかったな。お前が困るところなど滅多に見れるものではない」

 からかう声に、猫はしっぽをぱたんと揺らした。しっぽは二つに割れている。

「翡翠、出てきませんか? 寒くはないんですか?」

 猫に答えるように、山茶花のすぐ隣りに和装の男が現れた。向こうが透けている。半透明だった。

「特に寒くはないな」

「そうですか」

「そうだ」

 翡翠と呼ばれた男はゆっくりと軒下に入る。歩く音はしない。彼は曇ったガラス戸に寄りかかったが、戸や壁が軋むことはなかった。

「湖冬、お前はどうなのだ? 猫は雪が嫌いなのではないのか?」

「私は嫌いではないですよ。雪は何もかもを真っ白に覆い隠してくれますからね」

 湖冬と呼ばれた猫は翡翠を見上げる。

「なんだ。隠したいことでもあるのか」

「あなたにはないのですか?」

 翡翠は一瞬ふと口をつぐみ、

「あるな」

 笑った。

「でしょう」

 湖冬は言って、山茶花を見る。翡翠も湖冬にならう。

 降り続ける雪が落ちた花びらを塗りつぶしていた。赤を白がゆっくりと隠す。

「酒が欲しいな」

 翡翠が言う。

「贅沢ですね。雪だけで十分でしょう」

 湖冬が笑う。

 朽ちかけた庭は真新しい白に生まれ変わりつつあった。


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初出:2008年1月

(2018年12月改稿)

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