第二部 第六章 天津国 2

 四月の第一土曜日

 天津国

 再びの和泉小槙邸にて


「午前十時に本部に集合せよとのことです」

 朝食後、入れてもらった緑茶に視線を落としながら、片桐は、小夜に向かって、昨日の伝令を伝えた。和泉小槙には昨日のうちに伝えてあるので、重ねて伝えることはしない。


「お戻りの時間はお分かりになりますか?」

「そこまでは聞いておりませんが…」

「昼食の心配はしなくて良い」

 片桐の言葉に和泉小槙が続く。

「適当に食べる。夜は二人分頼む」

「分かりました」


 和泉小槙の話では、小夜は住み込みではなく、仕事(主に和泉小槙の身の回りの世話であろう。)があるときのみ、和泉小槙邸にやってくるとのことなので、その都度、確認が必要なようだった。


 小夜は和泉小槙に向けて頷いた後、片桐に会釈をしてから部屋を去った。


 約束の時間まではまだ二時間以上ある。

 湯呑の中身に視線を落としたまま、和泉小槙が口を開く。


「片桐…補佐官か。階級はどうなるんだろうな」

「天津国の階層序列は二等兵からですか?」

「そのはずだ。だが…、上がそこから始めさせるとも思えん」

「しかし、それでは他の兵への示しがつきません。若い者なんかは特に…」

「元曹長らしい発言だな」

 和泉小槙はそこまで言うと、顔を上げて目を細めた。腫れの目立つ顔が痛々しいが、それでも彼女の笑顔は美しい。

 和泉小槙は茶をすすってから、

「軍部は『特例』という言葉が好きだからな。まあ、しばらく放っておこう。そもそも、このような形での入隊は前例が無いだろうから、事務方は大騒ぎだろう」

「またあなたが叱られるのですか?」

 冗談めいて言ってやると、和泉小槙は口の端を持ち上げてから、

「事情を知らん奴らには文句を言われるだろうが…、上の様子を見るに、その点について私が叱られることはないだろう。私が上に叱られるとしたら、もっと別の…無許可で出国した件とか…だな。あと…、更に別の件で叱られる予定もある。今から」

 和泉小槙は肩を落として、顔を斜め下に傾けた。痣の目立つその表情は暗い。


「どなたにですか?」

 発言の意図が組めず、片桐が尋ねる。

「この部屋にいる生物は私とお前だけだ」

「私はあなたを叱れるような立場にないでしょう」


 官職は様々だろうが、基本的に『補佐官』というのは、理不尽な命令にも、諦めても溜息を吐くぐらいのことしかできない雑用係だ。怒鳴り散らされたところで、反論の機会が与えられることはない。不公平な間柄なのだ。



「その件だが…、別に私が上官である必要性はない。本部で階級のことを言われなかったか?」

「言及されなかったわけではありませんが…」

 片桐はそこまで言ってから記憶を探った。『将官に』という声が脳裏に響くが、この話をこれ以上展開させるつもりもなかったので、発言まではしない。


 そもそも、國津での経験から、片桐は能力を伴わない出世を憎んでいる。家柄偏重主義が横行していた國津では、能力のない上官達の命令によって、多くの兵が命を落としていた。


(くじのようものだ)

 そして、片桐がそのくじに外れる確率は高かった。仕方のないことだ。あとは適当に同僚や部下に愚痴をこぼしながら耐えるのみ。そうやってこれまでやって来た。

 しかし―

(自分で選択したからには、愚痴もこぼせないか)

 そう思うと、苦笑いが浮かぶ。


「何がおかしい?」

「いいえ。…私にあなたの上官が務まるとも思えませんので、私が『補佐』で構いません」

遠野とおのたちばなか…。やはり悪い噂を吹き込まれたな」

 猫と戯れている場合では無かった、と言って和泉小槙は湯呑を口元へと運ぶ。

 一口飲み込んでから、こちらを見据えて、

「…本部で今後の衣食住の話が出なかったか?」

「いいえ。それについては何も聞いていません」

 和泉小槙の問に片桐は首を左右に振る。そして、昨日の和泉小槙とのやり取りを思い返す。


「当面、こちらでお世話していただけるということでしたが…」

「ああ。昨日、確かに私はそう伝えた。伝えたんだが…。どうか、あの言葉は撤回させて欲しい」

 和泉小槙はそう言って、頭を垂れた。銀髪がするすると滑り落ちて、毛先が畳へと届く。

 照明に輝く銀色のつむじを見つめながら、片桐が尋ねる。


「…理由を聴いても良いですか?」

「う…、うん。ええと…」

 和泉小槙は下げた頭を元の高さに戻しながら、


「昨夜、色々と考えたんだが、やはり良くないと思ったんだ。我々は、ほら、分かってしまうだろう?別の部屋にいても、お互い、室内での動静が…。だから、その…、何というか…」

 和泉小槙はそこまで言うと、顎に手を当てて、難しい表情で畳に視線を落として沈黙した。心なしか顔に脂汗のようなものが浮かんでいるようにも見える。


「つまり…、落ち着かないと?」

「そう!」

 片桐の言葉に、和泉小槙は勢いよく面を上げた。

 髪の先が彼女の頬の辺りまで跳ね上がり、元へと戻る。その表情はどこか強張っていて、どうやら和泉小槙は緊張しているようだった。


(…何か隠しているな)

 気づくが問い詰めることはしない。


 実のところ、和泉小槙の申出は片桐にとっても歓迎すべきことだった。理由は今しがた和泉小槙が述べたとおりで、ただ、身一つで國津から来天した片桐にとって、到着早々、それを言い出すことが、躊躇ためらわれたというだけだった。


 元来、片桐は國津でも敵地でも上官と寝食を共にすることが多かったため、集団生活自体には慣れている。

 しかし、ここ数日の経験で、気配が読める他人が、四六時中、一つ屋根の下にいることがどれほど居心地悪いことか知った。


(しばらくの辛抱と思っていたが…。渡りに船だな)

 本心では、直ぐにでも膝を打ちたいところではあったが、来天のくだりの仕返しとばかりに、片桐は暫く和泉小槙を困らせてやろうと決意する。


「しかし…、それでは有事の際に都合が悪いのではありませんか」

「天津本土が直接攻撃される可能性は、現状そう高くないはずだ。それにこれから本土の防衛体制は改善されていく。戦争が始まったし、鷺宮さぎのみや…。序列一位の對精の名だが…、まあ、そいつが不在だからな。そう思うと、昨日の私の行動は、もっと評価されても良いと思わないか。あの程度の迎撃では、私一人抑えることすら出来ないことが露呈したのだから」


「それについては良く分かりませんが…」

 天津本部も和泉小槙こんなものが下階層から飛んでくることは想定していなかっただろうが、片桐は、それについては言及しないでおいた。

 訓練において、想定外の出来事が起きることは決して悪いことではない。改善して、本番に繋げる契機となる。


(訓練だったかは知らないが)

 そう胸中で付け加えてから、片桐は口を開く。


「私はあまり気になりませんが…」

「私が未熟なのは百も承知だ。だからほら…、殴っておいた」

 和泉小槙はそう言って、腫れた頬を差し出した。

「自傷行為は程々にしてください」

「対話と言ってくれ」

 和泉小槙はそう言って、顔を元に戻した。

 次いで、

「…近所に私が昔、暮らしていた家があるからそこに移って欲しい。小夜が定期的に掃除をしてくれているから、使うのに支障はないはずだが…。駄目か?」

 こちらの表情を伺いながら、和泉小槙が尋ねてくる。


 仕返しには若干もの足りなかったが、これ以上ごねると何か別の思惑を勘ぐられそうな恐れもあったため、片桐は大人しく引き下がることにする。


「仕方ありませんね」

 居候の分際で偉そうに頷いてみせると、和泉小槙は安堵したようだった。緊張を緩めながら、

「私が移っても良かったんだが、あっちの家では茶々が飼えないからな。断られたら、片桐に茶々の世話をお願いするところだった」

「…そういう条件は、最初に言っていただけると助かります」

「そうか?以後、善処しよう」

 和泉小槙はそう言って、両腕を高く上げ、体を伸ばした。寛いだ様子の彼女を見ながら、片桐は口を開く。


「しかし、前線や兵站では、落ち着かないなどと言っていられませんが…」

「それは仕方ない。お互い、妥協できる点を探っていくしかないだろう。それに…まぁ、実際そんなことに構っていられるほど平穏ではないだろうし」

「まぁ、そうでしょうね」

 片桐はそう言って、湯呑を手に取った。


「見えてる方が気にならないんだな…」

 ぼそりと和泉小槙が言う。

「は?」

「いや、何でもない。まぁ、そう心配しなくても良い。私も飲み忘れないように気をつけるから」

「何をですか?」

「…え?」

「『飲み忘れる』とおっしゃいましたので、何をか、と尋ねています」

「うん…。ええと………、薬だ」

「睡眠薬ですか」

「う…ん。いや、違…わないか。うん。そう。眠り薬」

「對精というのは、そんなに睡眠が大切なのですか」

「うん…。そう」

 和泉小槙は言葉少なにそう言ったきり黙り込んだ。

 視線を明後日の方向に向けて、眉間に皺を寄せ、両手で湯呑を握りしめている。

 意図的に何かを隠しているのは明らかだったが、片桐はそれ以上の追求を避けた。


「貸しですよ」

「…助かる」

 和泉小槙はそう言って、湯呑を手にしたまま頭を下げた。

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雷の従者 詳細 未定 @38syousai-mitei

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