第二部 第六章 天津国 空木工廠2
「季節の移ろいは早いもので、あの事件から一年が経とうとしています。先日、第九研究棟の統括長の責務を拝命いたしました。これも過日の便所コオロギ様のお力添えがあってこそ。大変ありがたく思う今日この頃でございます」
「さて、この度、私事で大変恐縮なのですが、ご相談したいことがあり、お手紙をしたためた次第でございます。お恥ずかしいことに、先日、私が担当している猛獣が、再三の注意を無視して檻から脱走し、国外へと逃亡してしまいました」
「大変希少価値の高い猛獣でございまして、国中が大混乱となりました。私も担当者として何度も本部に呼びつけられ、高圧的な軍人から尋問を受けることとなりました」
「結局、猛獣は、遠く離れた第三階層の国で見つかりました。見つかったのは良かったのですが、どうやら、国命もないのに、個人的に戦争に加担していたらしく、ひどく手負いの状態で見つかりました」
「幸いなことに、死に直結するような傷はなかったのですが、私としては、二度と今回のような事件をしでかさないためにも、然るべき
秦津森は、そこまで言うと、歩みを止めた。
和泉小槙と対峙するように立ち、それ以上の言葉を紡がない。和泉小槙が、こちらの番なのだろうと言葉を選んでいると、どうしてか自然と口が開いた。ただ声もなく、奥歯を見せつける。
「あくびをしないっ!!」
第一助手が叫ぶ。
「…最近寝付きが悪くてな」
和泉小槙は目尻の涙を拭いながら、秦津森に向き直った。しげしげと顔を見つめて、
「どうしたんだ。おしゃれをして。素敵な化粧だ。そういうのが流行っているのか?」
「
第一助手が呻くように言ってくるが、和泉小槙はそれを無視して、自分の中に湧いて出た疑問を秦津森にぶつける。
「そもそも…、便所コオロギって何だ?いや、待て…、そうか、ひょっとしたらあれか?国津でそれらしき生物と
「
低く、かすれた声で秦津森が和泉小槙の名を呼ぶ。彼女は、怒気を含んだ声色で次いで、
「何をやっとんじゃ、お前は…」
と凄んだ。
「…中将から聞いていないのか?」
若干、残念に思いながらも、和泉小槙は『便所コオロギ』なる生物の話を切り上げる。
「聞いた。それは聞いた。概要だがな…。私が言いたいのはそういうことではない。…分かるだろう?」
「今更だな。私が命令に従わないことぐらい知っているはずだ」
「胸を張らないでくださいよ…」
第一助手が呟く。
秦津森は大きな溜息をついてから、
「発動回数の制限はやむを得ない」
「目前で部下が死ぬのを見てもそう言えるか?」
嘲笑を浮かべ、和泉小槙が言う。
「ゲームじゃないんだ。戦争は…。お前の気持ちは分かるが、それを優先してはならない。諦めろ。お前はそういう存在なんだ」
「私が弱いのは仕方がない。しかし…、あの制限が最良だとはとても思えない」
「…そう言って、多くの對精が死んでいったよ」
秦津森はそこまで言うと、目を伏せた。長いまつげが揺れる。今の今まで、妄言を吐き散らしていた人間とはとても思えなかった。
秦津森は和泉小槙よりも年長で、研究者として、あるいは医師として多くの對精に関与してきた。現在の彼女を作った要素の一つとして、對精の死が大きくして影響していることは想像に難くない。
(これ以上の言い争いは無意味だな)
和泉小槙は溜息を吐いてから、
「まぁ、いい。この不毛な言い争いも今日で終わりだろう」
「…そう簡単に行くかな」
こちらから視線を外して秦津森が言う。彼女は登場したときと同じようにゆったりとした足取りで、もと来た廊下を戻り始める。
和泉小槙と第一助手がそれに続く。
和泉小槙は彼女の隣に並ぶと、その横顔を見下ろしながら、
「概要を聞いたのだろう?」
「聞いたが、上がすんなりお前に付けてくれるとも思えん」
「まぁ、その可能性はあるが…」
言いよどんだ後、「おそらく大丈夫だろう。あいつは良い奴だし」
「………それでか」
秦津森がぽつりと
「ん?」
和泉小槙が首を
「いや、黄体形成ホルモンが平常値ではなかったからな…。さっき寝付きが悪いと言ってただろう。いつからだ?」
「うーん。國津に渡ってからだから、一週間ぐらいか…」
「…對源に会ってからか?」
「違うぞ」
「お前の嘘は直ぐに分かる」
(だから、何も告げずに行ったんだ)
和泉小槙はそう思いながら、ここ一週間の出来事を思い出した。やや時間を置いてから、結論を述べる。
「まぁ、色々、環境が違っていたからな。そのせいだろう」
「素人のお前に、お前の何が分かる」
「自分のことは自分が一番良く分かっている」
「一番、信じられるようで、そうでもないのが自分ってもんだ」
「…何を言っているか分からん」
「…薬を処方してやろう」
「薬?しかし、痛み止めはもう飲まなくて良いと聞いたが…」
和泉小槙は、今朝方の、飛行戦艦内での軍人との遣り取りを思い出す。
「痛み止めじゃない。抑制薬だ」
「抑制?何の」
「排卵だよ」
「ハイラン…?要らん。不要だ」
「持っておくと良い。睡眠薬も出してやるが…、そのうち、眠れないだけでは収まらなくなるからな」
「…どういう意味だ?」
秦津森の言葉に不穏なものを感じながら、和泉小槙は尋ねる。
「お前は雌だからな。雄の對精よりは弱いだろうが…。それでも、来るものは来るんだ。まぁ、人間の女だってあるんだ。別に何も特別なことではない」
「待ってくれ。一体、何の話を…」
「何って…」
秦津森は、そこまで言うと、和泉小槙を見上げて、
「発情期だよ」
と言った。
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