第二部 第六章 天津国 空木工廠2

 はた津森つもりは、視線を動かすことなく、ゆったりと近づいてくる。足が一歩出る度に文章の一節が始まり、まるで演劇を鑑賞しているようだと和泉小槙は思った。


「季節の移ろいは早いもので、あの事件から一年が経とうとしています。先日、第九研究棟の統括長の責務を拝命いたしました。これも過日の便所コオロギ様のお力添えがあってこそ。大変ありがたく思う今日この頃でございます」



「さて、この度、私事で大変恐縮なのですが、ご相談したいことがあり、お手紙をしたためた次第でございます。お恥ずかしいことに、先日、私が担当している猛獣が、再三の注意を無視して檻から脱走し、国外へと逃亡してしまいました」


「大変希少価値の高い猛獣でございまして、国中が大混乱となりました。私も担当者として何度も本部に呼びつけられ、高圧的な軍人から尋問を受けることとなりました」


「結局、猛獣は、遠く離れた第三階層の国で見つかりました。見つかったのは良かったのですが、どうやら、国命もないのに、個人的に戦争に加担していたらしく、ひどく手負いの状態で見つかりました」


「幸いなことに、死に直結するような傷はなかったのですが、私としては、二度と今回のような事件をしでかさないためにも、然るべきしつけを施す必要があると思っている次第なのです。そこで、親愛なる便所コオロギ様にお伺いしたいのは、あなたならば、このような猛獣をどのように躾けるか、ということなのでございます」


 秦津森は、そこまで言うと、歩みを止めた。

 和泉小槙と対峙するように立ち、それ以上の言葉を紡がない。和泉小槙が、こちらの番なのだろうと言葉を選んでいると、どうしてか自然と口が開いた。ただ声もなく、奥歯を見せつける。


「あくびをしないっ!!」

 第一助手が叫ぶ。

「…最近寝付きが悪くてな」

 和泉小槙は目尻の涙を拭いながら、秦津森に向き直った。しげしげと顔を見つめて、

「どうしたんだ。おしゃれをして。素敵な化粧だ。そういうのが流行っているのか?」

くまです。大尉殿…。ここ一週間ほど、まともに寝ていないと言ったでしょう」

 第一助手が呻くように言ってくるが、和泉小槙はそれを無視して、自分の中に湧いて出た疑問を秦津森にぶつける。


「そもそも…、便所コオロギって何だ?いや、待て…、そうか、ひょっとしたらあれか?国津でそれらしき生物と邂逅かいこうしたような」

正由まさよし…」

 低く、かすれた声で秦津森が和泉小槙の名を呼ぶ。彼女は、怒気を含んだ声色で次いで、

「何をやっとんじゃ、お前は…」

 と凄んだ。


「…中将から聞いていないのか?」

 若干、残念に思いながらも、和泉小槙は『便所コオロギ』なる生物の話を切り上げる。

「聞いた。は聞いた。概要だがな…。私が言いたいのはそういうことではない。…分かるだろう?」

「今更だな。私が命令に従わないことぐらい知っているはずだ」

「胸を張らないでくださいよ…」

 第一助手が呟く。


 秦津森は大きな溜息をついてから、

「発動回数の制限はやむを得ない」

「目前で部下が死ぬのを見てもそう言えるか?」

 嘲笑を浮かべ、和泉小槙が言う。

「ゲームじゃないんだ。戦争は…。お前の気持ちは分かるが、それを優先してはならない。諦めろ。お前はそういう存在なんだ」

「私が弱いのは仕方がない。しかし…、あの制限が最良だとはとても思えない」

「…そう言って、多くの對精が死んでいったよ」

 秦津森はそこまで言うと、目を伏せた。長いまつげが揺れる。今の今まで、妄言を吐き散らしていた人間とはとても思えなかった。


 秦津森は和泉小槙よりも年長で、研究者として、あるいは医師として多くの對精に関与してきた。現在の彼女を作った要素の一つとして、對精の死が大きくして影響していることは想像に難くない。


(これ以上の言い争いは無意味だな)


 和泉小槙は溜息を吐いてから、

「まぁ、いい。この不毛な言い争いも今日で終わりだろう」

「…そう簡単に行くかな」

 こちらから視線を外して秦津森が言う。彼女は登場したときと同じようにゆったりとした足取りで、もと来た廊下を戻り始める。

 和泉小槙と第一助手がそれに続く。


 和泉小槙は彼女の隣に並ぶと、その横顔を見下ろしながら、

「概要を聞いたのだろう?」

「聞いたが、上がすんなりお前に付けてくれるとも思えん」

「まぁ、その可能性はあるが…」

 言いよどんだ後、「おそらく大丈夫だろう。あいつは良い奴だし」

「………それでか」

 秦津森がぽつりとこぼす。廊下には、三者の足音が反響している。


「ん?」

 和泉小槙が首をかしげる。

「いや、黄体形成ホルモンが平常値ではなかったからな…。さっき寝付きが悪いと言ってただろう。いつからだ?」

「うーん。國津に渡ってからだから、一週間ぐらいか…」

「…對源に会ってからか?」

「違うぞ」

「お前の嘘は直ぐに分かる」


(だから、何も告げずに行ったんだ)

 和泉小槙はそう思いながら、ここ一週間の出来事を思い出した。やや時間を置いてから、結論を述べる。

「まぁ、色々、環境が違っていたからな。そのせいだろう」

「素人のお前に、お前の何が分かる」

「自分のことは自分が一番良く分かっている」

「一番、信じられるようで、そうでもないのが自分ってもんだ」

「…何を言っているか分からん」

「…薬を処方してやろう」

「薬?しかし、痛み止めはもう飲まなくて良いと聞いたが…」

 和泉小槙は、今朝方の、飛行戦艦内での軍人との遣り取りを思い出す。


「痛み止めじゃない。抑制薬だ」

「抑制?何の」

「排卵だよ」

「ハイラン…?要らん。不要だ」

「持っておくと良い。睡眠薬も出してやるが…、そのうち、眠れないだけでは収まらなくなるからな」

「…どういう意味だ?」

 秦津森の言葉に不穏なものを感じながら、和泉小槙は尋ねる。


「お前は雌だからな。雄の對精よりは弱いだろうが…。それでも、来るものは来るんだ。まぁ、人間の女だってあるんだ。別に何も特別なことではない」

「待ってくれ。一体、何の話を…」

「何って…」

 秦津森は、そこまで言うと、和泉小槙を見上げて、

「発情期だよ」

 と言った。

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