Unnamed Memory/番外短編「眠り姫の終わり」-03
「――時と場所を選べ」
呆れたような夫の言葉にティナーシャは舌を出した。
そう言われても、彼の少年時代や子供時代に興味があるのは確かだ。見せかけだけなら魔法で弄れるが、果たして弄らせてくれるだろうか。
その時、不意に夫に強く手を引かれた気がして彼女は足を止める。
「何だこれ」
「オスカー?」
ティナーシャは、半歩後ろにいるはずの彼を振り返り――
けれどそこにオスカーはいなかった。途端に繋いでいた手の感触が消える。
「……しまった」
いくらティナーシャが精霊魔法を使えるといっても、純潔ではない彼女はこの聖域ではあくまで侵入者だ。知らぬうちに条件を破ると発動する枷がかけられていたとしてもおかしくない。
おそらくその条件は――「彼を振り返らない」ことだったのだろう。
それを知らないまま夫と引き離されてしまった魔女は、声を張り上げる。
「オスカー! 聞こえますかー!」
叫んでみて、だが返事はない。
ティナーシャは左手に灯した白い光を二つに分けると、空中に打ち出した。
闇を照らすように滑り出した光は、けれどすぐに闇にのまれて見えなくなる。単なる暗闇ではないのだから、当然と言えば当然の結果だ。魔女は肩を竦めて空の両手を広げる。
「完璧にはぐれましたね……。まあ、あの人には迷子紐がついてるんで大丈夫だとは思いますが」
こういう事態も想定して、魔法を使えない彼の方に命綱を渡したのだ。ティナーシャは深く息をついた。
「あとは……私は強引に出られますし」
広げた手の中に光が溢れる。
それは膨大な魔力と、そこから紡がれる構成だ。
つい先日、北の平原にて行った実験。それを元に更に改良された構成が、またたくまに組み上げられていく。
「他国のことですし、できるだけ穏便に行くつもりでしたけど、あの人とはぐれた以上は多少の反撃をしましょう」
作り上げられた構成が広がる。その意味するものは、領域の力場の書き換えだ。
聖域にあらかじめ存在した古き構成を、そして今、歪んでしまった力場を、強制的に上書きしていく魔法。
苔に覆われていた床に、別位階の景色が溢れ出す。
水晶を思わせる透き通った花がティナーシャの立つ場所に生まれ、四方に広がり出した。宙を舞う金色の粉が、明確な流れを作って渦巻く。
別位階の具現化と固定。
圧倒的な構成力によってそれを為しながら、ティナーシャは笑った。
「この聖域は、もともと位階的に不安定な場所だったんでしょう。それを精霊術士を核に置くことで更に不安定化させた。精霊術士一人を誘蛾灯に、別位階の恩恵を汲みだそうとしたんですね」
そうであることは、門扉に彫られた壁画で分かった。
何本も並ぶ波打つ横線は、暗黒時代に位階構造を説明するためによく用いられたものだ。波線の間に書かれた植物や動物は、別位階から与えられると踏んだ恩恵だろう。それが期待した通りの効果を及ぼしたとは思えないが、迷信が今に至るまで続けられていたことは事実だ。
「別位階に触れても、それが人に幸福をもたらすわけではありません。むしろ人間階より下層に触れれば毒されることさえある」
ティナーシャが一歩を踏み出すと、足元の水晶花が砕け散る。それらはまるで最初から何もなかったかのようにさらさらと消え去ると、また彼女の足元に新たに出現した。
正面の闇が晴れていく。
その奥に見えるものは、無数に絡み合った大きな蔦の塊だ。
枝葉に閉ざされた鳥籠。巨大な糸紬に似て直立しているそれが、この聖域の揺り籠だろう。ティナーシャは嫣然と笑って蔓の檻に手を差し伸べる。
「だから……出てきなさい、眠り姫」
夢の終わりを宣言する言葉。
そうして伸ばされた魔女の白い手に、だが次の瞬間――無数の緑の槍が襲いかかった。
※
鈍い振動音が門扉の向こうで響く。
魔法の紐を手に主君を待っているドアンは、魔力の揺れに顔を顰めた。
「ティナーシャ様か」
中はどうなっているのか気になるが、今のところ魔法の紐に変化はない。
サレズが恐怖を滲ませた顔で問う。
「大丈夫でしょうか……」
「あのお二人は大丈夫です。むしろまずいのは私たちの方ですね」
「え?」
その言葉の正しさを証明するように、螺旋階段から何人かの足音が近づいてくる。
どたどたと粗野さを隠しもしない気配に、サレズは青ざめドアンは溜息をつきたそうな顔になった。
まもなく現れたのは、身なりのよい服に身を包んだ三人の男だ。
うちの一人を見て、サレズが身を竦める。
「父上……」
「そんなところで何をしている! お前が聖域に向かったと聞いたから来たものの、そいつは何者だ!」
「貴様、何者だ! ここをどこだと思ってるんだ!」
三人は、ドアンを見るなり口々に罵り始める。その勢いにサレズは顔色を失くし……だがドアン本人は平然としたままだ。
何も言わないままの魔法士に、三人はいきり立つ。
「何をしているかと聞いているんだ!」
「――昨今のご領地での異変について、魔法的な調査を頼まれてまいりました」
「何だと⁉ まさか貴様、聖域に踏み入ったのではあるまいな!」
「いえ、私はずっとここにおりますが」
白々しく答えるドアンに、サレズは唖然とした視線を向ける。
だが嘘は言っていない。中にいるのは、彼の主人たちだ。
飄々とした態度を崩さぬ青年に、うちの一人が詰め寄ろうとする。けれどドアンはそれを、軽く手をかざして留めた。
「申し訳ありませんが、結果が出るまで今しばらくお待ちください。そう長い時間はかからないと思われますので」
「結果だ!? 何をしてる!」
言いながらドアンに手を伸ばそうとした男は、だがその手を何かに阻まれぎょっと足を止めた。
――魔法士以外には見ることのできない、不可視の壁。
それを越えるには、術者以上の力量がなければ不可能だ。ドアンは慇懃に一礼する。
「私は、事態の収束までこの場を保つことを任されております。ですから、どうぞ最後までお待ちのほどを。それまでどなたもここを通すつもりはありませんので」
※
オスカーに絡みつき、締め上げようとしていた無数の蔓枝たち。
腰を覆うほどに茂っていたそれらは、だがアカーシアを突き立てられた瞬間、ばらばらと床の上に散らばった。
魔力を断つ刃に斬られて、それ以上動く気配がないということは魔法で動いていたのだろう。
オスカーは顔を上げる。
何が見えたわけではない。ただ――そこにいる、と思った。
だから彼は闇の中に声をかける。
「そんなところで何をしている?」
誰か、と問うことはしない。この聖域にいるのは、妻の他には一人だけだ。
少しの間をおいて、幼い声が響く。
「……魔女を見てみたかったの」
少し疲れたような少女の声音。オスカーはそれに、当然のように返した。
「なら来ればいい。俺の妻だ。紹介してやる」
「もっと色んなものを見てみたかった」
「ここを出れば見られるだろう」
「どこか別のところに行きたかったわ。遠くに、あちこちに、旅をしてみたかった」
少女の声は、ひどく遠くから響いてくるようにも、すぐ真後ろで囁いているようにも聞こえる。
まるでオスカーの言葉が届いていないように、彼女はただ嘆いていた。
「ファルサスで不思議な『夜』を見たわ。世界が生きているみたいに動いていた。きっと誰かが魔法を使っていたんだわ。わたしの知らない魔法。わたしも、あんな風に別の世界に触れてみたいと……思った」
ぶぅん、と耳障りな音が響く。
虫の羽音に似たそれは、オスカーのすぐ左側から聞こえた。
彼が一瞥すると、音に引きずられるように暗闇に裂け目が生まれている。中に見えるのは……赤黒い肉に似た何かだ。
それらは不気味に蠢きながら裂け目を広げていく。
少女の声がまた謳った。
「どこか別のところに行きたいわ」
裂け目は、徐々にオスカーの方へ迫ってくる。
彼はそれを横目に見たまま――アカーシアを振るった。
全てを断つ王剣の一閃に、赤黒い裂け目は音もなく四散する。
「なるほど、これらを呼んでいるのはお前か」
――別の場所に行きたいと願う精霊術士。
その思いが閉ざされた聖域に別位階を呼んでいる。周辺に訪れている異変は、どこにも行けない少女が「どこか」を呼んで生まれたものなのだ。
オスカーは王剣を握りなおすと踏み出した。
「ならお前は、ここから出ていけばいい。どうせ他に誰も入れない場所だ。お前がいなくなったとしても気づかない」
闇の中を歩いていく足が、不意に硝子を踏むような音を立てる。
いつの間にか彼の足元には、透き通る水晶の花が道を照らすように咲いていた。それらは緩やかに蛇行しながら、闇の向こうへと続いている。
「……魔女を見てみたかったわ」
「見られるさ。お前がそう願ったから――魔女が来た」
オスカーは空中に手を差し伸べる。
その手に、闇の中から白い手が重なった。
空気が変わる。混濁した世界が塗り替えられていく。
何もない宙から現れる長い黒髪は、闇よりも深い夜色だ。小さな爪先がふわりと空を踏む。
大陸最強と言われた魔女。古き国を継ぐ、彼の妃。
稀有なるその美貌が淡く微笑んで彼を見つめた。
「お待たせしました。貴方の魔女です」
宙に浮かぶティナーシャは、音もなく彼の隣に降りると優美に一礼する。
オスカーは妻の額に口付けて笑った。
「はぐれたから怒られるかと思ったぞ」
「怒りませんよ! ……多分私の不手際なので」
「何だそれ。何をやらかしたんだ、お前」
「何もやらかしたつもりはなかったんですよ! いつの間にか制限がかかってたというか! 普通振り返ったら駄目とか思わなくないですか!? だったらあらかじめそう言っといてくれないと!」
ひとしきり叫んで、ティナーシャは深呼吸する。
「さて、ではおしまいにしましょうか」
そうして彼女は周囲の闇を見回すと、ぱん、と両手を鳴らした。
途端、周囲の闇は自ずから急激に退いていく。
現れたものは緑に覆われた、ただ広いだけの地下室だ。
「どうぞ、あちらです」
ティナーシャは軽く膝を折ると、オスカーに部屋の奥を示した。
そこにあるものは、巨大な紡錘に似た枝蔓の檻だ。
魔女の手を取ったオスカーは、自然の檻の前に歩み寄る。
蔓と枝で作られた緑の籠はあちこちが蔦に覆われていて中がどうなっているのか分からない。だが蔦が絡み合うほんの隙間の向こうに、やせ細った小さな手がちらりと見えた。
少女の手は動く気配がない。
だからオスカーは自ら背に左手を回すと、そこにつけられた魔法の紐を取った。
そしてそれを、隙間から白い手に握らせる。
「ここを出ればいい。それが、鍵だ」
少女の嘆きは聞こえない。
そうして長く思えた沈黙の後、小さな手がそっと紐を握るのを……オスカーは微笑して見つめていた。
※
「いい加減にしろ! これ以上待たせるというなら、お前の首は胴の上に乗っていられないと思え!」
激しくなっている脅しに、サレズは思わず身を竦める。
だが隣にいるドアンはなんら気にした風もない。処刑をほのめかされても平然としている魔法士に、サレズは声を潜めた。
「このまま待っていて本当に大丈夫ですか」
「大丈夫です。これくらいの脅しは恐いうちに入りませんし」
人を食ったように見える反応だが、それが彼にとっては平常なのだろう。魔女の下で働いているような男だ。これくらい肝が据わっていなければ務まらないに違いない。
そんな風にサレズが感心していると、背後で白い門扉が動いた。
音もなく開きだす門扉に緊張した直後、ファルサス国王とその妃が中から現れる。
サレズの父たち三人は、二人の姿を見てぎょっとした。
「魔女……?」
「まさか、ファルサスの――」
「あら、皆様お揃いですね。お待たせしましたか」
ティナーシャは、白い指でとん、と扉をついて閉じると、にっこりと三人に笑いかけた。花のような笑顔は毒気を抜かれる美しさだ。オスカーが、頭を下げるドアンに言う。
「ご苦労。紐はもうちょっと持っててくれ。あとこれも」
言いながら王がドアンに手渡したのは、手のひらに収まるほどの純白の小鳥だ。
両手で小鳥を受け取ったドアンは、自分の保持していた紐の端が、小鳥に繋がっていることに気づく。
「陛下……これは」
「大事に持っとけ。謝りたいんだろ」
「……かしこまりました」
二人がそんなやりとりをしている間に、ティナーシャは詰め寄る三人へ、穏やかな笑顔を見せていた。
「――というわけで、私も精霊魔法が使えますから、不安定になっていた中を直しておきました。これで外の異変もなくなると思います」
「い、イリィは……」
「きちんと務めを果たしていらっしゃいましたよ。と言っても、玉座で眠りにつかれていたままでしたが。外にお連れしてもいいのなら呼んできますよ。彼女がいなくても不都合のないように、私が調整しましょう」
「そ、そんなことをされては困る!」
あわてる三人に、ティナーシャが一瞬見せた目は氷のように冷ややかなものだ。
だが彼女はすぐに愛らしく微笑みなおした。
「では、これで失礼してもよろしいでしょうか。急ぎの案件と伺い、筋も通さずにあわてて参りましたこと、お詫び申し上げます。ああ、わたくしの為した処置については、あの方が監視なさっていましたので、気にかかっていらっしゃるならご確認をどうぞ」
ティナーシャに言われて、三人はオスカーに視線を移す。
魔女を従える男。それが誰かは周知のことだ。特にサレズとその父親は、ファルサス国王の結婚式に出席している。
ただ相手が自ら名乗らぬ限り――問わぬ限り、その身分は確定されないままだ。
たとえ王剣アカーシアを佩いていようとも、気づかなかったと言ってしまえばいい。そんなことを考えてしまうくらい……今ここにファルサス国王が来ているという話は、お互いにとって都合が悪い。
オスカーの関与が明るみに出れば、話はセザルの城にまで舞いこむ。
だが宮廷にはノシエイの風習を知らぬ者も多いのだ。この話が外部に流れれば、何と謗られるか分からない。
三人は顔を見合わせる。
意見は無言のうちにまとまった。
サレズの父親が一歩歩み出て、おずおずとオスカーに問う。
「問題は解消された、ということでよろしいでしょうか……」
「ああ。こちらは精霊術士とその監督で来ただけだ。特に何を要求も吹聴もしない」
「では全てそのように……お力添えありがとうございます」
頭を下げた彼らの前を、オスカーは苦笑して行き過ぎる。その後にティナーシャとドアンが続いた。
ファルサスの若き王は、螺旋の石段に足をかけると振り返る。
「ああそうだ。お前の息子を罰したりするなよ。サレズの知らせがなければノシエイは丸ごと別位階にのまれていたかもしれないからな」
「も、もちろんでございます!」
「そうか。邪魔したな」
軽く笑って王の姿が階段の向こうに消えると、残された者たちはようやく息をついた。薄暗い地下室に安堵の空気が広がったのは、今まで少なからず、魔女を連れた王の存在に委縮していたせいだろう。
サレズはそうして白い門扉を振り返り、目を丸くする。
意味の分からぬ壁画が刻まれていたはずの扉。
それはいつの間にか傷一つない真白い岩板となっていた。
※
「めちゃくちゃ大ごとになってませんか、それ!?」
悲鳴じみたラザルの声にオスカーは肩を竦める。
ノシエイから数時間で戻ってきた王は、幼馴染に他国で起きた異変の顛末を話したのだ。束の間の外出を経て執務机に戻された王は頬杖をつく。
「と言っても、向こうも他言はしないだろ。黙ってて損はないし、話しても揉め事の種になるだけだ」
「そうは仰いますけど、みんながみんな普通の考え方をするとは限らないんですよ!」
ラザルの悲鳴に、黙っていたティナーシャが苦笑する。
「その時は私が動きますよ。相手が魔女と分かっていながら揉め事を起こす度胸を、買ってあげましょう」
「ティナーシャ様……」
王妃にまでこう言われては引き下がるしかない。長椅子に寝そべって欠伸をしているティナーシャに、ラザルは同情混じりの目を向けた。
「ずいぶんお疲れになったみたいですね……件の少女を脱出させたからですか?」
「それは別にー。あの子がいたから不安定さが増してただけですからね。出しちゃえば異変も収まります」
そう言われる当の少女は、今は城下の一屋敷でドアンが様子を見ているはずだ。
ティナーシャによって白い小鳥に変化させられ、聖域を連れ出された少女のことをオスカーは思い起こす。
「結局、あの娘が別位階を呼んでああなってたわけか」
「ですね。どうやら彼女、北の平原で私が実験してた構成を見たらしいんです。おそらくはそれが無意識に残っていて、聖域での眠りについた後、別位階へ力を広げ始めたんでしょう。元々位階が不安定な土地ですから、そういうことをしてしまうと覿面です。ただ一度見ただけでそれができるって、精霊魔法において天賦の才があるのかもしれませんね」
「と言っても、精霊魔法自体が子供の特権なんだろう?」
「です。彼女も大人になって純潔を失えば、ただの人間になるでしょう」
それもあって、二人はイリィをあの聖域から連れ出してきたのだ。
特異な力であっても、やがて失われる力だ。ならば限られた時間をできるだけ本人が望むように生きさせてもいいだろう。
どの道聖域は、人の立ち入らない場所だ。一生をそこで過ごすはずの娘がいなくなっても、誰が知るわけでもない。トゥルダールの二代目王も、そうして自ら隔離領域から外へ出たのだ。
ティナーシャは口元を手で押さえて、くあ、とまた欠伸をする。
「私が疲れてるのは、聖域とやらの位階構造を綺麗すっぱり直してきたからです。厳重に整えてきましたからね。二度と別位階の混濁なんて起こりませんよ。ざまみろです」
「異変を解消しに行ったわけだから、対策としてはあってるな」
もしこれをノシエイの人間が聞いたなら異論を唱えるかもしれないが、位階の混濁から人が得られるものなど何もない。しょせん物知らずな人間が始めた因習だ。それを人知れず終わらせたとして、誰も損はしないだろう。
疲れ果てているティナーシャの代わりに、ラザルがお茶を淹れ始める。
「でも聖域を無効化しても、また何十年か後には誰かが生贄にされちゃうんじゃないですか?」
「あ、大丈夫です。入口の扉、十年くらいで開かなくなるように細工してきました」
「どうせなら三十年くらいであの城を破壊しに行くってのはどうだ?」
「お二人とも……」
他国の城に対して自由すぎる主君に、ラザルはげっそりした顔になる。だがすぐに彼はふっと微苦笑した。
「けど、よかったですね。そのお嬢さんが助かって」
幼馴染の言葉に、書類に署名をしていた王が顔を上げる。オスカーは秀麗な顔に若干の苦みを浮かべて笑った。
「助けた、というつもりはないさ。ただ選択肢を与えただけだ」
眠り続けるか、歩き出すか。
後者を選んでも、幸せになれるとは限らない。何が待っているかは分からないのだ。
だから結局、自らに道を作るのは自分でしかないのだろう。
そんなことを言う王に、ティナーシャは顔を綻ばせる。
「貴方は、私にもそうしてくれましたね」
高い塔の頂から彼女を連れ出したように。
人と交わらずに生きてきた彼女を、妻に望んだように。
オスカーが彼女に差し伸べた手もまた同じだ。ティナーシャは愛情に満ちた目を夫に向ける。
「ありがとうございます。……愛していますよ」
一生の想いを誓う言葉。永遠に足るだけのそれにオスカーは目を瞠る。
そして彼は妃の告白に、「それは俺も同感だな」と嬉しそうに笑った。
※
目が覚めてまず最初に感じたものは、全身の痛みだ。
一日中全力で走り回った翌日のように、どこもかしこも痛くてたまらない。
そうして寝台でうつぶせになって一人呻いていると、部屋に誰かが入ってくる気配がした。枕元に小さな瓶が置かれる。
「痛み止めを作ってきましたよ。人の魔法で変化をさせられると、全身が痛むそうですから」
「……あなた」
その一言を口にしただけできりきりと肺が痛む。
イリィはあわてて瓶を手に取ると、泣きたくなるような苦痛を堪えて中の液体を飲み干した。
薬を持ってきた男は、その間に寝台脇に椅子を引いて座る。
前に一度だけ会ったことのある彼は、イリィに薬が効いて落ち着くと書類の束を差し出してきた。
「とりあえずはこの屋敷を拠点にするといいでしょう。学校に行きたいなら手配ができますし、それ以外の場所に行きたいのならそれも自由です。ノシエイに戻ることはお勧めしませんが、お望みなら可能です」
淡々とした説明を聞きながら、イリィは渡された書類をめくる。
そこには彼女の新しい名前をはじめとして、別の場所で生きるために必要なもろもろが彼女に用意されると記されていた。
そのおおよそを眺めて、イリィは顔を上げる。
「あなた、何者なの? 前にファルサスの平原で会ったわよね」
「ええ。ファルサスの宮廷に所属する魔法士の一人でドアンといいます。この度、あなたの後見人として任じられました」
「後見人?」
「一番適役というか、他にいないというか。なので、とりあえず希望があったら言ってみるといいですよ。それが叶うかどうかは、あなた次第です」
「希望って言われても……」
何がなんだか分からないのだ。聖域に入ったはずの自分がどうして見知らぬ屋敷にいるのかもわからない。長い夢を見ていた気がするが、それらは夢だけあってずいぶん茫洋だ。あちこちを旅していたようにも、どこにも行けずにいたようにも思える。
ただ残っているのは焼けつくような焦燥感だけで――
イリィはすっかり痩せてしまった自分の体を見下ろした。
そうして黙りこんでしまった彼に、ドアンは苦笑する。
「やはり記憶はないみたいですね。では一からちゃんと説明しましょう」
「……魔女を見てみたいわ」
ぽつりと零した言葉は、自分でも無意識のものだ。
だがそれを聞いた瞬間、思い出した。
自分はずっと、魔女に会ってみたかったのだ。そのことが忘れられない心残りだった。
何百年も生きてきた女たち。絶大な力を持つ、時代を象徴する強者。
そして彼女は……ひどく美しい女なのだという。
まるで御伽話のような魔女を、だから一目見てみたかったのだ。
今まで誰に言っても、笑われるか叱られるかしかしなかった望み。
それを聞いたドアンはけれど、優しく微笑んだ。
「いいですよ。ご紹介しましょう」
「……え? 本当に?」
「俺の主君の妃ですからね。あなたをここに連れてきたのもお二人ですよ。――と言っても個人的な意見を言わせてもらうなら、あの方は優しくはありますけどやはり魔女です。深入りしないことを勧めますよ」
一息にそう言って青年は立ち上がると、イリィに手を差し伸べた。
「あの時は嘘をついてすみません。請うて機会を頂きましたので、埋め合わせをいたしましょう」
世慣れて、てらいのない言葉に少女は息をのむ。
一瞬の間を置くと、自由になった彼女は声を上げて笑い出した。
「あなたってやっぱりうそつきね」
「よく言われます」
イリィは男の手を取る。
それは夢ではない、確かな感触を持っていた。
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