Unnamed Memory

古宮九時/電撃文庫・電撃の新文芸

Unnamed Memory/番外短編「眠り姫の終わり」

Unnamed Memory/番外短編「眠り姫の終わり」-01

 魔女。

 それはこの大陸において、絶望であり厄災を意味する。

 神代から千年を軽く越える年月において、大陸に現れた魔女はたった五人。


 閉ざされた森の魔女。

 呼ばれぬ魔女。

 水の魔女。

 沈黙の魔女。

 そして、最強と呼ばれる青き月の魔女。


 人であり人ではない彼女たちは、それぞれの誕生から数百年を過ぎても健在だ。

 気まぐれに国を滅ぼし、人々に死と畏怖を振りまく女たち。

 歴史の影に佇み続ける力そのもの。

 だから人は彼女たちを畏れ、今の世を「魔女の時代」と呼ぶ。

 ――否、魔女の時代と呼んだ、だ。



            ※



「オスカー! この服歩きにくいんですけど!」


 叫びながら王の執務室に入ってきた女に、部屋の主人であるオスカーは笑い出す。

 彼女が着ているのは長く裾を引きずる黒ドレスだ。

 深い黒の髪と瞳にあわせた漆黒のドレスは、裾に行くほど銀糸の刺繍が複雑に施されており、女の凄絶な美貌をよく引き立てている。

 だが当の彼女は形のよい眉を少し潜めた不満顔で、それがオスカーの目には愛らしく映った。


「たまにはそういうドレスも着せてみたい。城下の店だと着せられないからな」

「動きにくいんですってば! 正装以外でやめてくださいよ、こういうの」

「浮いて移動すればいいんじゃないか?」


 身もふたもない王の言葉に女はますます眉を寄せる。

 この大陸に一定の割合で生まれる魔法士たちは、確かに己の魔法を使って宙に浮くこともできる。だがそれは、それなりの詠唱と集中を必要とする高等魔法だ。宮廷魔法士であっても全員ができるわけではない。

 そんな魔法をドレスを着るためだけに使えという彼に、女は溜息をついた。

 長い黒髪がふわりと広がる。華奢な体が音もなく宙に浮かび、白い手が優美な仕草でドレスの裾を引いた。闇色の瞳が悠久を湛えて細められる。


「――魔女にそんなことを言う人なんて、貴方だけですよ、オスカー」


 二十歳そこそこに見える、ただ奇跡のように美しい女。

 だがその正体は四百歳を越えて生きてきた魔女だ。

 この大陸最強の魔法士と呼ばれる「青き月の魔女」。個としてはティナーシャという名を持つ女は細い両膝を抱えて王を見下ろす。

 ――そして彼女が、この国の王妃でありオスカーの妻だ。


 長く続いていた「魔女の時代」が終わったのは、僅か三か月前のことだ。

 五人の魔女のうち、一人の死と一人の婚姻によってもたらされた時代の変革。

 それは大国の王太子であったオスカーが、五歳の頃かけられた呪いに端を発している。

 魔女の一人である「沈黙の魔女」が彼にかけた呪いは「子孫を残せない」というもので、あまりにも強力過ぎて解呪の手立てがなかった。

 だからこそ彼は十五年かけて己を鍛え上げ、「青き月の魔女」の試練に挑戦したのだ。そうして最強の魔女であるティナーシャを守護者として連れ帰り、紆余曲折の末、彼女自身を妃として迎えた。


 それは一年間の契約内での出来事だったが、振り返るとあっという間のことに思える。呪いを解き、ティナーシャの過去にまつわる一件を終わらせ、襲いかかる外敵を打ち払った。

「魔女の時代」を終わらせた王――歴史に残るであろうそんな高名は、だがオスカーにとってはあくまで副産物だ。ティナーシャに惹かれて、彼女を妻にするまでのささやかな事件の結果。

 だから彼にとって大事なのは彼女と共に生きるこれからの時間で、毎日に退屈しないのは幸福の証拠だろう。


 宙に浮いたティナーシャは、音もなく執務机の上に降りるとその縁に座った。

 彼女が何もない空中を掴むと、そこに一枚の書類が現れる。ティナーシャはそれを夫に差し出した。


「これ、許可ください」

「城外での魔法実験か。確かに北の平原なら何かしても周りに影響は出ないな」

「希望者を募って連れてきますよ。夜には帰ります」

「構わんが、あまり地形を変えるなよ。地図職人が大変になる」

「そこまでやらないから! やっても戻してくるから!」


 魔女はむきになって叫ぶと署名された書類を受け取る。そのまま机から離れようとする妻を、オスカーは手招きで呼び寄せた。子猫のように首を傾げて身を乗り出したティナーシャを彼は膝の上の抱き取ると、滑らかな頬に口付ける。


「夜には帰ってこいよ。来なかったら迎えに行くからな」


 温かな愛情の言葉。ティナーシャはそれを聞いて嬉しそうに微笑んだ。


「貴方を城外に出さないよう、ちゃんと帰ってきますよ」


 滑らかな頬を夫に摺り寄せて魔女の姿は掻き消える。オスカーはそんな妻の自由さに頬を緩めた。



            ※



 城の談話室にいるのは、ファルサス宮廷に仕える魔法士たちだ。彼らの休憩時間に顔を出したティナーシャは、軽い調子で問う。


「今から北の平原に魔法実験に行きますけど、一緒に行きます?」

 王妃の軽い誘いに、そこにいた魔法士たちは目を瞠った。

「城外なんて珍しいですね。大規模なものなんですか?」

「んー、そうですね。自動修復、自動変遷を組みこんだ構成を試してみたくて。これ、実際試してみないと分からないんですけど、複数位階に影響が出そうなんですよね」

「げ……マジですか」


 顔を引きつらせたのは、次期魔法士長と言われるドアンだ。

 宮廷魔法士の中でも頭一つ抜けた実力を持つ彼は、「人の身に余る力には深く関わらない」という主義の持ち主だ。そのため王妃に対しても「人を越えた魔女」だという意識を崩さないままなのだが、むしろティナーシャは彼のそんな判断力を高く評価していた。

 一方他の魔法士たちは程度の差こそあれ興味津々の顔だ。恐いもの知らずのシルヴィアが真っ先に手を挙げた。


「わたしも行きます! 面白そうですもん!」

「あ、おれも行きます」

「私も参ります」


 次々魔法士たちが手を挙げ、これで残るはドアンだけだ。ティナーシャは彼に微笑んで見せる。


「ドアンはどうします? 城に残っててもいいですよ。実験が失敗した時に誰かが残ってないとまずいですし」

「失敗するような実験なんですか」

「実験に必ずなんてありませんよ。今回は、成果によっては新しい魔法法則の証明になるかもしれませんし。オスカーに言うと怒られそうだから伏せてますけど、一時的に大陸に位階の不安定な領域を作り出すと思ってください」

「……それ陛下にばれたらめちゃくちゃ絞られますよ」


 言いながらもドアンは立ち上がると椅子をしまう。


「俺も行きます。その話を聞いて行かない魔法士はいませんよ」


 魔女は彼らを見返して、泰然と微笑んだ。



            ※



 魔女。御伽噺にしか聞かない存在。

 とてもとても恐い存在。普通に生きていれば一生会うこともないもの。

 けれどそんな魔女が、人の前に出てきたのだという。


『嘘みたいに綺麗だったよ。みんな驚いてた』


 そんな風に言ったのは、ファルサス王の結婚式に出ていた従兄の言葉だ。

 自分も行きたかった、と駄々をこねたが、従兄のサレズはセザル王家の直系だ。傍系である自分とは立場が違う。そもそもファルサス国王は大仰な式を嫌って、本当に限られた要人しか式に招かなかったのだ。

 だがそうして集まったどの人間よりも、自分の方がずっと魔女に会いたかった――今年十歳になったイリィはそう思っている。


「ファルサスの城に行けば魔女が見られるんでしょう?」

「そうですけど、いけませんよお嬢様。他国の城ですし……相手は魔女です。何をされるか分かりません」


 乳母がイリィに釘を刺すのは何度目のことか。もうその内容も覚えてしまっている。くどくどと説教をした後、彼女は最後に必ずこう言うのだ。


「イリィ様のお体は、ご自分お一人のものではないのですから」


 ――ああ、つまらない。



            ※



 ファルサス城都の北に広がる平原は、魔法実験をするにはもってこいの土地だ。

 更に北に向かえば小さな町があるが、そこから人がやってくることもない。行き来のための街道はもっと東を走っている。

 だが、そうでありながらこの平原は今まで魔法実験に使われたことはない。年に数回、行軍訓練に使われるくらいがせいぜいだ。

 それは今までここまでの広さが必要な魔法を使う者がいなかったからで……けれどティナーシャが嫁いできた以上、これからは変わっていくだろう。


 風のない草原の中心で魔女は細い両腕を広げる。


「定義せよ。始原の海より波は来し。混濁せし実体の外延を広げよ――」


 詠唱の始まりと共に緻密な構成が広がる。彼女に付き従ってきた魔法士たちが息をのんだ。

 そうして永い詠唱と共に構成が組まれていき……しばらくの後、ティナーシャは詠唱を中断すると、彼らを見回す。


「これで土台部分が完成です。効果としては範囲内の事象把握、つまり結界と似た効果を持ちます。が、この魔法の本分はここからです。別の効果を持った構成を重ねて多重構造にすることで、領域内の天候統制と魔力濃度の調整を可能にします。加えてこの構成の肝は、それを自動で変遷するよう設定できることです。言ってしまえば疑似的な異界化ですね」


 淡々とした説明に返ってきたものは、全員の沈黙だ。

 魔法史上でも類を見ない魔法。それを可能にする魔力と構成力。

 絶大なそれらは全て、ティナーシャという一個人に帰すものなのだ。


 まるで時代の変わり目に立ち会っているかのような構成。それを前にして彼らはすぐには何も言えない。

 しばらくの沈黙の後、ようやくドアンが手を挙げる。


「ティナーシャ様、天候統制ってアレですよね」


 彼が言葉を濁したのは、ティナーシャが魔女になるに至った因縁を作った男が、まさに数か月前にやろうとしていたことがそれと同じだからだ。

 当の男が「大陸全土の監視と天候統制を実現する」と豪語してオスカーとティナーシャに撃破されたことはまだ記憶に新しい。必然的に緊張する彼らに、ファルサスの王妃は笑って見せる。


「大丈夫です。あれは天候をねじ伏せる類の構成でしたが、これは精霊魔法の技術を使って天候予測を元にしてます。予測ができれば初期の段階で干渉できますし、その分反動も少ないです。どちからというと多くの可能性の中から比較的好ましい状態を引き寄せる、って感じですかね」

「それも充分前代未聞ですよ……」

「農地が収穫期に嵐で駄目にならない、という効果を見こんでます」

「そのためにここまでやりますか……」

「嵐が来てから結界を張るのって、不測の事態に対応しきれないじゃないですか」

「そうかもしれませんが」


 脱力しながらも納得するドアンに代わって、魔法士のカーヴが手を挙げた。


「魔力濃度の方はなんなんですか」

「副産物です。できそうだなって思ったんで試しにやってみました」

「試しに」

「ただこれ、突き詰めると複数位階に干渉できそうなんですよね。魔力階の引き寄せ固定をするとどうやら他の位階もある程度引きずられるみたいで……」


 顎に指をかけて考えこむ魔女は、いたっていつもの様子だ。研究を手がける魔法士たちに共通することだが、この手の新規構成は「できそうだからやってみる」のであって、そこに善悪も明確な目的意識もない。


 ――ただそれを踏まえても、位階干渉は前代未聞だ。


 この世界には人間が存在する人間階の他に、魔力階や魔力構成階、概念存在階、負の海など無数の位階が重なっているが、それらは人の手が及ばぬ領域だ。唯一魔力階のみ魔法士が視認可能だが、それ以外の位階は本来的には認識さえままならない。


 にもかかわらず、この魔女は別位階への干渉を試そうというのだ。緊張を漂わせる彼らに、ティナーシャは鮮やかに笑ってみせた。


「まあ、試してみましょう。何か起きても何とかしますし。それに、私がファルサスの王妃になる以上、ここから先ファルサス王家には強力な魔法士が生まれ続けます。ならば貴方たちにはそれを支えるだけの力が必要でしょう?」


 闇色の目が魔法士たちを見回す。

 その目にこめられた威と言葉に乗せられた重みに、全員が打たれたように立ち尽くした。


 これからの時代を形作るもの。ティナーシャを妃としたことで古き魔法大国の血脈をも王家が継いでいくならば、そこに仕える魔法士たちにも相応の力と知識が求められる。

 そのためにも彼女は、今ここから彼らを鍛え上げようというのだ。かつてそうやって王を、「魔法士殺し」として鍛え上げたように。

 

 己に課せられたものを理解して全員の表情が変わるのを、ティナーシャは微笑んで見回した。

 そして彼女は再び両手を広げる。


「では、始めましょう。――学びなさい」


 平原いっぱいにみるみる新たな構成が広がる。

 そうして草がさざめき、周囲に急速な「夜」が訪れていくのを――魔法士たちはまばたきもせず見つめていた。



            ※



 一歩進んだら夜になった。

 何が起きたか分からない。イリィは呆然として後ろにいる侍女を振り返った。


「ファルサスっていつもこうなの?」

「い、いえ……」


 屋敷内でもっとも若い侍女の顔に、困惑と恐怖が浮かんでいるのを見て、イリィは口をつぐむ。

 空を仰ぐとそこは既に暗く、かといって月が浮かんでいるわけでもない。振り返ると今まで自分たちが歩いてきた草原は変わらず明るいままだ。


『ファルサスに行って、魔女を見てみたい』


 そんなイリィの願いは、当然ながら皆に却下された。

 だから彼女は親しい侍女に頼みこんで、こっそり彼女の里帰りについてきたのだ。

 侍女の生家があるファルサス北部の街までは転移門で移動し、そこから更に馬車でこの草原にまで来た。「晴れていれば城が見えるから、それで我慢してください」と言われ、それでもいいと思って期待に胸を膨らませていた。


 だが草原に足を踏み入れてすぐに、この「夜」だ。

 空は暗く、草はざわざわと揺れている。


 空気が違う。まるで夢の中のように違う世界だ。

 明確にどこが違うかは分からない。ただうっすらと流れてくる風に魔力が混ざっていることにイリィは気づいた。濃い金色の髪を揺らして、彼女は侍女を見上げる。


「誰かが精霊魔法を使ってるわ」

「え? これ魔法なんですか?」

「たぶん」


 ただ、これほど大規模であれば普通の術者がやっているとは思えない。大規模な構成を幾人かの術者で分担しているのか、それともイリィの知る「聖域」のような空間が存在しているのか。


 恐怖よりも好奇心が先に立って、彼女は先に進もうとする。

 一歩踏み出すだけで濃密な魔力にむせそうになる。イリィは思わず口を手で押さえた。夜の中に、うっすらと膨大な構成が浮かび上がる。


 イリィはその構成を読み解こうとして――そこに、見知らぬ男の声がかかった。


「こんなところで何をしているんです?」


 草原の先に、いつの間にか若い男が立っている。

 冷徹な文官を思わせる印象の彼は、しかし服装からして魔法士なのだろう。紺一色の魔法着の胸部分には、白い糸で何かの紋章が刺繍されていた。好奇心に囚われたままのイリィは臆せず聞き返す。


「あなたがここで魔法を使ってるの?」

「俺じゃありませんね。ただ結界内に人の侵入があったんで見に来たんですよ。今日ここは立ち入り禁止です」

「立ち入り禁止? 精霊術士が集まってるの? これ、精霊魔法よね」


 男はそれを聞いて軽く目を瞠る。彼はまじまじとイリィを見つめ、そして後ろに立つ侍女を視界に入れた。まだ若い侍女がびくりと身を竦める。

 男は表面上は愛想よく笑った。


「どこかのご令嬢と女官でいらっしゃいますか? ご令嬢は魔力をお持ちのようですね。ですが、この先にはお進み頂けませんし、内容もお教えできません。お帰りになる手段がないというのなら、近くの街まで転移門を開きますよ」

「……あなた、腕のいい魔法士なのね」

「上には上がいますが」


 否定も肯定もしない口ぶりは、自信の裏返しだ。

 イリィは唇を噛んで男の後方を睨む。

 そこに城は見えない。ただ得体の知れない空間と、複雑すぎる魔法構成が広がっているだけだ。

 これが何なのか、知りたい気持ちはあるが、目の前の男はそれを許さないだろう。

 そしてイリィは他国の魔法士と揉めることはできない。彼女は心からの溜息をついた。


「ファルサスの城が見たかっただけなの」

「お忍びでなく正式な許可をお取りになれば、城は受け入れるでしょう」

「無理よ。わたしにそんな自由はないもの。これが最後の機会だったの」


 肩を落としたイリィに、男は軽く眉を寄せる。

 だが彼が何かを言うより早く、イリィは男に背を向けると歩き出した。消沈した彼女を、侍女があわてて追いかける。


「イリィ様、お待ちください……!」


 数歩歩けばそこはもう、元の昼の草原だ。

 イリィはふと足を止め、首だけで男を振り返る。

 そして、尋ねた。


「あなた、魔女を見たことはある?」


 子供の純粋な疑問に、男はまた目を瞠る。

 彼はその時初めて苦笑して、彼女に返した。


「ありませんね」


 その答えを聞いて、イリィは「うそつき」と思った。



            ※



 ドアンが戻った時、魔女の周囲は真夜中に近かった。

 闇の中、ティナーシャは草の上に敷布を置いて座りこんでいる。それだけでなく全員で円になって座っている彼らは、持ちこんだらしい茶器でお茶を飲んでいた。

 のんきすぎる彼らの様子に、ドアンは溜息をのみこむ。


「なんでお茶飲んでるんですか。ティナーシャ様まで」

「だってこの構成って自動ですから。それより、侵入者はどうでした?」

「十歳くらいの少女でしたよ。多分貴族。で、魔法士でした」

「へー、珍しい」


 魔力を持つ人間は、血筋に関係なくある一定の割合で生まれてくる。

 だからこそ貴族の家に魔力持ちが生まれることもあるのだが、魔法士となれるほどの魔力があり、なおかつそれを訓練している人間は珍しいのだ。

 おそらくは暗黒時代、魔法士が人として扱われていなかった時代の名残だろう。貴族階級にとって魔法士は「人に仕える人種」という意識が根深く残っている。


 ティナーシャのもっともな感想に、ドアンは苦笑しながら皆の中に加わった。


「あれは他国の人間でしょうね。俺の所属に気づかなかったみたいですから」


 彼の魔法着に刺繍されている紋章は、ファルサスの宮廷魔法士であることを示すものだ。国内の貴族であれば彼が何者かすぐに分かっただろう。


「どうもその子、ティナーシャ様に興味があったようですよ」

「ああ、御伽噺に聞く魔女を見たかった、とかですか」

「おそらくは」


 ドアンは頷きながら、この王妃を紹介してやればよかったかと少しだけ思う。あの少女は「これが最後の機会だった」と言っていたのだ。最後に見た、悔しそうな、それでいて全てを諦めているような、少女の目を思い出す。

 ――魔女を見たことがあるか、と。

 それだけの問いに、あの少女は何を込めていたのだろう。


 ただだからと言って、ドアンにとってティナーシャはあくまで主君の妻だ。正体の知れない相手を会わせることはできない。それが小さな少女であってもだ。


 無言になった彼に、ティナーシャは怪訝そうな目を向ける。


「ドアン? どうしました?」

「……いえ、何でもありません」


 彼は僅かな逡巡を割り切ると、闇につつまれた周囲を見回した。


「ところで、周囲の魔力濃度がまるで波みたいに動いているんですが。これが自動変遷ですか」


 辺りは真夜中のように暗いだけでなく、気温も移り変わっているようだ。

 草の表面が薄く凍っているのが見える。その隣には先程はなかった小さな花が咲いており――けれど不意に地面の全てがぐにゃりと歪んだ。草原がねじ曲がったようにぼやけ、生まれた亀裂の向こうに満開の花園が見える。


「な……!」

「何が見えました?」


 ぎょっとするドアンに、ティナーシャの落ち着いた声が問う。

 彼はその声に冷静さを取り戻すと、同僚たちと魔女を見回した。


「たくさんの花が……幻覚ですか?」

「別異階ですね。貴方の目にはそういう形で可視化されたんでしょう」


 ティナーシャは足元の草をむしると、ふっと息を吹きかける。

 宙を舞う草は、彼女が周囲に張った結界を出た瞬間、金に眩く輝いた。光の粉を撒き散らしながらふわりと浮いて宙を流れ、だが突如凍りつくと粉々に砕け散る。

 他の魔法士たちが愕然とするのを見て、王妃は苦笑した。


「複数位階が混濁していると、それぞれの位階によって在り方は変わりますから。今のは貴方たちの目にはそう見えた、というだけです。ただ、生きてる人間なんかは存在の在り方が強固ですから、ああはなりませんよ」


 魔女の説明にほっと皆の空気も緩む。ティナーシャはこめかみの横で白い指を鳴らした。


「とは言え、私の傍を離れない方がいいですね。迷子になるかもしれません」

「ティナーシャ様……それでなんで俺を人払いに行かせたんですか……」

「貴方なら平気でしょう?」


 さらりと返す王妃に、ドアンは内心の言葉をのみこむと恭しく頭を下げる。

 彼がふと空を仰ぐと、そこには四角い星が流れていた。



            ※



「実験はどうだった?」


 日付も変わろうという時間、王の寝室は本物の夜に浸されていた。

 広い寝台の上でうつ伏せになっていた魔女は、顔を上げて隣に座る夫を見やる。


「特に問題なく終わりましたよ。新しい試みだったんで、もうちょっと形になったら報告します」

「どんな試みだったんだ? 地形を変えてないだろうな」

「変えてないですよ、多分。まだ実用化にも至りませんし」


 ティナーシャは敷布に頬杖をつく。長い黒髪が滑らかな裸の背に広がった。


「魔法実験って、初期の段階だと『できるかな』ってことをやるだけですからね。何に使えるかはさっぱりさっぱり」

「お前はやれることが多いからな。魔法士たちはなんだって?」

「色々刺激になったみたいでしたよ。彼らが新しい発想を生み出せば、実用化の方向性も見えてくるかもしれません」


 くすくすと笑う彼女は、悪戯好きな少女のようだ。

 彼女のそんな印象は出会った頃から変わらず、ただ艶が増したのは妃となってからだろう。

 恋を知らなかった魔女に、その感情と人肌を教えたのはオスカーだ。純潔であることが条件の精霊術士として四百年以上を生きてきた彼女は、そうして彼の妻となった。


 彼は隣合うティナーシャの額に口付ける。

 魔女は嬉しそうに目を細めた。そのまま「撫でて」とすりよってくる辺り、猫によく似ている。

 オスカーは上に乗ってくる彼女の頭を撫でながら、ふと別のことを思い出した。


「そういえば、南部の領主から舞踏会の招待状が来てるぞ」

「私はいいです」

「言うと思った。向こうも聞いただけだろうから欠席で返しておく」


 この王妃は、あまり人目に触れるところに出たがらないのだ。それは単純に「魔女だから」という理由だろうが、オスカーにとっては彼女を着飾らせる機会が減るのも事実だ。

 彼は自分にべったり抱き着いている魔女を見下ろす。


「仕方ない。また城で着せ替えさせるか」

「歩きやすいのがいいです。着ますけどね。あと貴方、時々よく分からない服持ってきません? この間のあちこち細鎖で止める服なんだったんですか? 下着みたいでしたし」

「あれは旅芸人の踊り子の衣裳だ。この前、招待された宴席で見かけた」


 招待主である豪商が余興の一環として踊り子たちを呼んだのは、彼女たち自身が貢物の一部であるからだ。

 旅芸人たちが擁する踊り子が娼婦を兼ねているのはそう珍しい話でもない。肌を見せる煽情的な衣裳もそのためのもので、だがオスカーはそれを着ている踊り子より、衣裳に興味を持って新しいものを買い上げてきた。その時ついてきていた従者のラザルにはさすがに「陛下……ちょっとどうかと思います……」と苦言を呈された。


 ただ彼女を着せ替えるのは激務の中の気晴らしだ。件の踊り子の衣裳も寝室で一度着せただけなのだから、そう問題視されるほどではないと思う。

 感想としては「倒錯的ではあるのだが、彼女には上品な衣裳の方が似合う」というもので、もしラザルがそれを聞いたなら「先に気づいてください」とまた苦言を呈されただろう。


 一方、夫がそんなことを考えているとは知らない魔女は、無垢な笑顔を見せる。


「踊り子の衣裳だったんですか? 道理でやたら薄着だと思いました。彼女たちはちゃんと体を鍛えてますから、それが映えるようにああいう服なんですよ。私じゃ似合わないです」

「似合ってないわけじゃなかったんだが、人さらいをしたような罪悪感を覚える」

「なんで人さらい」

「まあ、次に生かそう」


 小さな頭をくりくりと撫でると、彼女は幸せそうに眼を閉じる。

 そうして彼の胸にもたれかかったままうとうとと眠りだす妻に、オスカーは代わりのない充足を覚えて自身も目を閉じた。

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