Unnamed Memory/番外短編「眠り姫の終わり」-02

 ――女の子供は、二人必要だ。

 一人は次の姉妹を産むために。もう一人は聖域に座す者として。


 そしてイリィは、後者として生まれた。

 だからもう僅かに与えられていた自由の時間もない。

 旅立つ時が来たのだ。この土地に生まれた姫として。


「わたし、もっとたくさん色んなものを見てみたかった」


 門扉を前に、そうぽつりとこぼすと、傍にいた侍女が震えた。振り返ると、教師であった老女が微笑む。


「イリィ様は、これから他の誰も目にすることのできないものをご覧になれるのです」


 ――そんなもの、と言いかけてイリィは言葉をのみこむ。


 自分が何をすべきかなど分かっている。ただ少しだけ不満が残っただけだ。

 自分が知りたいと思ったことの、百分の一も知ることができなかった。つまらない人生だった、というとまるでこれから死にに行くようだが、もう生まれ育った屋敷に戻ってこないことは確かだ。


 イリィは再び門扉に向き直ると、淡い息を吐く。


「魔女を見てみたかったわ」


 それは叶わなかった好奇心だ。

 ざわざわと体の中が音もなく揺れる。一度だけファルサスに足を踏み入れたあの日、夜の草原に立ってからずっと、イリィの魔力はざわめき続けている。まるで何かと呼応しているかのように。


 このざわめきが何かもまた、一生分からないものなのだろうか。


 イリィは顔を上げると門扉に手をかける。

 そして彼女は、聖域へと踏み出した。



            ※



 執務室の天井に立つティナーシャは素足だった。

 白い膝丈のドレス姿の彼女は、魔法で逆さになったまま伸びをする。


「こうして上下反転して世界を見ていると、気づくこともありますね」

「たとえば?」

「天井には空いた空間が多いな、とか……。机でも置きます?」

「俺の執務室を面白空間にするな」


 第一天井に机を置いてもティナーシャしか使えないし、彼女は机の必要な執務をあまりしない。

 報告のため執務室にいたドアンが苦笑する。


「常時机を置くには、それなりの固定構成が必要でしょうね」

「一番手っ取り早いのは、天井に構成紋様を刻んでしまうことですよ。その上に置いたものは強制的にずっとくっつく、みたいな」

「本当やめろ。呪いか」

「ただその場合、机自体にも同じ構成をかけておかないと、机に置いたものが落下しますね。ぼろぼろと。かといって全部くっつけると今度は机から持ち上げられなくなるので、自動判定させないと」

「一度押すことで接着と分離を切り替えるというのはどうでしょう。軽く押し付けて置き、軽く押し付けて取る、という風に」

「ああ、いいかもしれませんね」

「具体的に話を進めるな」


 オスカーが魔法士二人を制すると、ティナーシャは天井で肩を竦める。

 その時、執務室にラザルが入ってきた。王の従者であり幼馴染でもある青年は、困り顔で天井の王妃を仰ぐ。


「ティナーシャ様、よろしいですか」

「え、私ですか。何でしょう」


 反転して降りてきた魔女と王に向かって、ラザルは困り顔のまま口を開いた。


「セザルの一領地であるノシエイで今ちょっとした問題が起こっているようでして、妃殿下に助けて頂きたいと秘密裡に要請が来ました」

「魔法絡みなんですか?」


 ティナーシャを名指しして来る要請は大抵がそうだ。ただ今までは国内からのものばかりで、他国からというのは珍しい。書類を受け取ったオスカーが眉を寄せる。


「何だこれ。セザルからの公的要請じゃないのか」

「そうなんです。セザル直系ではあるのですが、王位継承権自体は第七位のトジェス公爵のご子息からの要請でして」

「式に来てたやつだな。ティナーシャに何の用だ? 俺のだからやらないぞ」


 主君の戯言に、ラザルは嫌そうな顔になる。


「さすがにそんな失礼な話を持ちこみませんよ……なんでも『従妹の様子を見てきて欲しい』って話なんです」

「従妹の様子? 何があったんです?」


 ティナーシャが問うと、オスカーが読み終わった要請書を回してくる。そこに書かれていたのは以下の内容だ。



 かつては独立した小国であったノシエイは、暗黒時代の終わりごろ、王家の姫がセザル国王に嫁いだのを機にセザルの一領地となった。

 その後のノシエイ家は王家と濃い血の繋がりを持ちながらも、辺境の土地を平穏に治めていたのだが、どうやらそこには秘された風習というものがあるのだという。


 ――ノシエイ家に生まれた姫は、十歳になると聖域へ向かう。

 そして一生をそこで過ごし、平和への祈りを捧げるのだ。


 ただ、その風習通りに彼の従妹であるイリィ・ラント・ノシエイが聖域に旅立ってから一週間、ノシエイには、謎の幻影が見えたり鐘の音が鳴り響いたり不思議な現象が起きるようになったのだという。



 そこまで目を通したティナーシャは顔を上げた。


「え、この話、突っこみどころが多すぎないですか?」

「お前から見てもそうなのか。聖域ってなんだ?」

「私が聞きたいですよ。一生をそこで過ごして祈りを捧げるってほんと何なんですか。しかも十歳」

「お二人とも、お気持ちは分かりますが話が脱線していくので……」


 ラザルの苦言に小さく舌を出したティナーシャは、そこでドアンの表情に気づいた。いつもはこの手の変わった話に進んで関わらない彼が、今は目に見えて眉を寄せている。ティナーシャは首を傾いで王の臣に声をかけた。


「ドアン? どうかしたんですか?」

「……そのノシエイの姫、心当たりがあります。おそらく北の平原での実験時に侵入してきた少女です」

「あれ、そうなんですか?」

「名前が同じでしたし、間違いないと思います」

「他には? 気づいたことを全て教えてください」

「外出は最後の機会だと言っていました。あとは……ティナーシャ様の構成を精霊魔法であると指摘していました」

「精霊魔法?」


 彼女はそこで考えこむ。美しい顔に険が寄るのを、他の三人はそれぞれの表情で見やった。

 ティナーシャはそうしてしばらく無言でいたが、顔を上げるとドアンに問う。


「これ、結構面倒な案件です。非公式の要請ですし、場合によっては他国の因習に踏みこむことになるかと」


 そうなれば、一筋縄ではいかない問題になる。

 魔女の言葉に、オスカーは軽く眉を上げ、ラザルは硬直した。ドアンの目に逡巡がよぎる。

 王は魔女の言葉に、つまらなそうに頬杖をついた。


「なら触らない方がいいか?」

「迷うところですね。私じゃなくて貴方宛に来たなら無視をお勧めするところですよ。立場に障ります。――ドアンはどう思いますか?」


 話を振られてドアンは目を丸くする。

 この中でイリィを直接知っているのは彼だけだ。ならば面倒をのみこんでも関わるべき相手か否か、彼の判断を参考にしようというのだろう。

 だが、そんなことを聞いてくるということは、ティナーシャにとって助けられない相手ではないということだ。

 ドアンは彼女の意図を察して苦笑する。


「可能なら、彼女には嘘をついたことを謝罪したいですね」

「あれ。嘘なんてついたんですか?」

「ティナーシャ様のことを知っているかと聞かれたので。ただ、あくまで私事ですから、それが許されるのなら、ですが」


 あの少女は、いたって普通の少女に見えたのだ。少なくとも十歳で全てを絶たれてしまうと聞いて、それを疑問に思うくらいには普通だった。

 だから、ティナーシャにとって苦でないのなら、手を伸ばしてやってほしい。

 ドアンの返答に、ティナーシャは花のように微笑む。彼女は軽く指を鳴らした。


「なら介入しましょう。要請を出したのは向こうですし」

「好きにやれ。あとは俺が何とかしてやる」


 そう言って笑う王の言葉に、魔女は優美な仕草で膝を折った。



            ※



 黒の魔法着を着たティナーシャは、腰に細身の長剣を佩き、腕や足にもいくつかの魔法具を装備していた。

 そんな戦闘装備は、普段着でも他を圧倒できる彼女には珍しい。

 オスカーは暗い螺旋階段を降りながら、隣の妻に問う。


「で、お前は今回の一件、見当がついてるのか?」


 彼の言葉に、ランプを手に先導している青年がちらりと振り返る。身なりのよいこの青年が、今回ティナーシャに要請書を送ってきたトジェス公爵子息のサレズだ。

 彼の案内で「聖域」に向かっているのは、オスカーとティナーシャ、そしてドアンの三人だ。要請書へ返答を送ってすぐに転移で訪ねてきた彼らは、サレズの案内のもと人目を避けてノシエイの古城の地下へと降りていた。


 ティナーシャは手袋を嵌めた手で己の髪を払う。


「ついてますよ。ドアン、その子は私の構成を見て『精霊魔法だ』って言ったんでしょう?」

「はい。さすがに構成規模からして複数の精霊術士がいると思ったようですが」

「それ、単純な理由です。彼女自身も精霊術士だった。だから私の構成を見て精霊魔法だと分かったんですよ」

「ああ……」


 精霊術士は魔法士の一種ではあるが、生まれながらの素質を持った少数の人間しかなれない。

 そのため未だ解明されていないことも多いのだが、同胞であればある程度は理解が及ぶのだろう。

 ティナーシャはサレズの背を一瞥した。


「おそらく、私を名指しで依頼したのも、私が精霊術士だったからじゃないですか?」


 問われてサレズは肩越しに魔女を振り返る。彼は気まずそうに頷いた。


「仰る通りです。恥ずかしながら僕は他に精霊術士の方を存じ上げておりませんで」

「なんだ、魔女だからこいつに要請を出したわけじゃないのか。けど、こいつの精霊術士は元だぞ。俺の手がついてる」

「そういうこと周知の事実でも人前で言わないでくださいよ! あと今でも精霊魔法使えるから!」


 叫ぶ王妃にオスカーは笑って、小さな頭をぐりぐりと撫でる。

 ティナーシャは頬を膨らませながら話を元に戻した。


「ともかく、件の彼女が精霊術士であると分かれば、ノシエイの風習も、今起きている異変も、ある程度推察はつきます」

「ほ、本当ですか!?」


 サレズが振り返って叫ぶ。石壁に反響するその声に、はっと顔色を変えたのは彼自身だ。青年は「失礼しました」と頭を下げる。


「ノシエイ家は、代々直系に二人以上の女性を必要とします。一人は後継を産むための女性で、一人は聖域の守り人としてです。この風習を時代錯誤過ぎると思う人間もいるのですが、血族の手前なかなかそれを口にすることもできないのが現状でして……」

「精霊術士は普通の魔法士と違って、子供もほぼ精霊術士として生まれますからね。それを知っていて土地の統制に使っていたんでしょう」


 ティナーシャは暗い天井を仰ぐ。

 この古城はノシエイの高地にある岩山に沿ってぽつんと建てられたもので、辺りには人里もなく普段は城にも誰も立ち入らないのだという。

 実際今も、転移してきた彼ら以外、城内に人はいない。ただ「聖域」に繋がる場所のせいか、床にも窓枠にも少しの埃もなく、人の気配だけがないその内部はまるで非現実な空気で満ちていた。


 オスカーが降りていく階段の先を見たまま問う。


「土地の統制? 何だそれは」

「ちょうど同じ話がトゥルダールにも残ってたんですよ」


 その国の名に反応したのは、オスカーとドアンだけだ。

 古き魔法大国トゥルダール。四百年前に滅びた、かの国の唯一の継承者であるのがティナーシャだ。彼女は自国の歴史を簡単に紐解く。


「トゥルダールの二代目の王って、建国王の親友だった人なんですけどね。その人はやっぱり精霊術士で、物心つく頃から隔離領域に幽閉されてたんです。彼の一族は代々、もっとも強力な精霊術士を隔離領域に置くことで、その土地の安定を図りました。理由としては、元々位階的に不安定な土地だったからとも、土地を豊かにするためとも言われてますが、真偽のほどは分かりません。おそらくはノシエイの風習もそういった由来のものでしょう」

「精霊術士は自然物を操ることに長けているから選ばれた……ということですか」


 ドアンの声にティナーシャは微笑んで頷く。


「純潔が条件であり、自然物に融和しやすい精霊術士は、その性質がゆえに同胞である魔法士たちからも要らぬ迷信を押し付けられてきました。彼の例もその一つで、けど彼が隔離領域を自ら出てトゥルダールの人間となったことは、その迷信を払拭する第一歩だったんです。――ただ、その経緯はトゥルダールの滅亡によって忘れ去られてしまいましたが」

「ノシエイの件は取りこぼされた迷信、というわけか」


 先頭を行く青年がびくりと身を竦める。それを見てティナーシャは苦笑した。


「聖域に精霊術士を置くことに、まったくなんの効果もない、というわけじゃないでしょうけど。それが一人の人間を犠牲にするだけの価値があるかは、調査の必要があるでしょうね。実際、異変が起こっているわけですし」


 彼女の言葉に呼応するように、天井で強い光がまたたく。

 四人がそちらを見上げると、何もない空中に切れ目のようなものが横に広がっていた。

 まるで鋏で切りこみを入れたような亀裂。大人が両手を広げたくらいの大きさのそこからは、金色の光が溢れ出している。

 ――けれどそれはすぐに、幻のようにふっと掻き消えた。

 サレズの重い溜息が聞こえる。


「あのようなものが近隣の村にまで出現するようになりまして……。大人たちが相談しているのを漏れ聞き、ようやく僕はイリィの実情を知りました」

「それまで貴方は彼女の役目について何と聞いていたんです?」

「この城で一生を過ごし、土地の平和を祈るのだと聞いていました……。先代の守り人が聖域に入ったのは三十年前ですし、その詳細はノシエイ家の一部の人間のみが知っていたようです。無知でお恥ずかしい限りです」

「なるほど。そういうものは大抵口伝ですしね。書物にも残しません」


 さらりと相槌を打つ魔女は、口元だけで笑っている。それが何となく不吉なものに思えて、ドアンは口にしかけた言葉をのみこんだ。


 やがて階段の終わりが見えてくる。小さな石作りの広間の奥には、白い門扉が見えていた。

 サレズが門扉を指さす。


「あの先が聖域です。門の向こうは神の領域に繋がっていると言われていますが、選ばれた娘以外は立ち入りできないので、どうなっているかは分かりません」

「いかにもな感じですね」


 白い門扉には、波のような横線がいくつも平行に刻まれている。それら線の間には木々や鳥の絵が刻まれ、一番下には沼のようなものが、更に一番上には人の手から零れ落ちる花びらが描かれていた。


「……なるほど」


 門扉の壁画を見たティナーシャが軽く顔を顰める。

 その向こうはどうなっているのか。ドアンが固い声を漏らした。


「まさか本当に神の領域とかいうものがあるんですか?」

「さあ、どうですかね。種明かしはすぐにできるでしょう」


 サレズは門扉の前に立つと三人を振り返った。

 その目には躊躇いと縋るような意志が混ざり合っている。彼は門扉に触れようとして、けれど何かを畏れるようにその手を引いた。


「イリィは一週間前にこの門扉の向こうに旅立ちました。それはノシエイにとっては当然のしきたりですが……彼女が今どうしているのか、突然の異変と関係しているのかを知りたいのです」

「構いませんが、私を呼んだ以上、貴方の望むような解決にはならないかもしれませんよ」

「承知の上です。たとえ今回の件で一族の者に謗られるとしても、いずれは誰かが同じことをするでしょう。……僕自身、異変が起こらなければ、イリィの真実を知らないままでしたし」


 サレズの表情には悔恨が漂っている。

 彼は従妹の現状を知るために、いわば一族を裏切ってティナーシャを呼んだのだ。結果次第では彼の立場はなくなるだろうし、下手をしたら国同士の問題にまで発展するかもしれない。

 それを知りながら助けを求められるのは若さかもしれないが、悪くない、とティナーシャは思う。


 彼女はサレズから視線を外すと、隣の夫を見上げた。


「で、本当に貴方も行くんですか?」

「当たり前だろ。むしろどうして俺が行かないと思った」

「立場を弁えてくださるかと思いました」

「お前一人を行かせるより確実だろ」


 オスカーは言いながら腰に佩いた長剣の柄を叩く。

 ファルサス王家に伝わる王剣アカーシア。それは絶対魔法抵抗を持つ大陸でただ一振りの剣だ。

 魔女をも殺せる剣であり、なおかつ持ち主である彼は大陸屈指の剣士だ。実際そうして魔女の時代を終わらせた王に、ティナーシャは溜息をつく。


「貴方の代わりはいないんですけどね……」

「それを言うならお前も同じだ」


 当然のように言うオスカーが譲らないことは、ファルサス城の人間なら皆知っている。王妃は諦めてドアンを振り返った。


「おそらくこの先は、魔力的に不安定な状態になってます。打合せ通り魔力で紐を作るので、その端を貴方が持ってここにいてください。異常を感じたら手繰り寄せて構いません」

「かしこまりました」

「不測の事態が起きたら貴方の裁量で動いてください。あとはなんとかしますので」


 言いながらティナーシャは、無詠唱で白く光る紐を生み出す。彼女はその片端をぺたん、と夫の背に張り付けると、もう片端をドアンに渡した。紐は伸縮自在のようで、オスカーが試しに二、三歩歩くとその分伸びる。

「面白いな。命綱か?」

「どちらかというと迷子防止紐ですね。万が一はぐれたら貴方一人で戻ってくるの大変でしょうから」

「留意しよう。はぐれないようにする」


 あっさりとした王の了承をきっかけとして、ティナーシャは白い門扉に触れる。

 彼女は深い息をついて、己の額に門扉に預けた。


「トゥルダールを滅ぼしたのは私です」


 囁くように、謳うように魔女は囁く。


「そのせいで取りこぼされたものは――私が贖いましょう」


 ゆっくりと、音もなく白い門扉が奥へ開き始める。

 その先は見えない。まるで黒い塗料に塗りつぶされたような闇だ。

 けれどオスカーは臆さずに一歩を踏み出す。彼は振り返ると、ティナーシャに左手を差し伸べた。


「さて、行こうか」

「ええ」


 魔女は王の手に自らの手を重ねると、指を絡めて握る。

 そして二人は、闇の中へと踏み出した。



            ※



 門扉は開かれたままだ。

 にもかかわらず、その先に数歩進むともう背後には何も見えなくなった。

 不思議な現象に、オスカーは隣にいる妻に問う。


「ここはどういう仕組みなんだ? 真っ暗で何も見えないぞ」

「視界遮断をかけてあるんでしょう。一応聖域ですからね。外から見られないようにとの処置ですよ。先に進めば自然に晴れます」


 ティナーシャは右手に彼の手を引いて、左手に白光を灯して進みだす。その言葉通り、数歩進んだところで暗闇はふっと晴れた。


 ――そうして見えるものは、苔むした地下の部屋だ。

 正面には地下に降りる階段が見える。蔦が壁にも床にも生い茂っているそこを、オスカーは首を斜めにして眺めた。


「まだ降りるのか。大体地下なのになんでこんなに植物があるんだ?」

「精霊術士の居城だからですよ」


 ティナーシャは苦笑する。美しいその横顔は、歴史上最強の精霊術士のものだ。


「精霊術士は、魔法的に言ってしまえばこの大陸において、普通の人間以上に世界の一部なんです。全て人間の魂は、位階という区切りを越えて世界に繋がっていますが、精霊術士はその傾向が特に強いです」

「よく分からないんだが」

「魔法士にする講義みたいな内容ですからね……。たとえば、上位魔族なんかは精霊術士を《精霊の子供》なんて呼んだりしますけどね。純潔の彼らは未成熟な、守るべき自然の末端とみなされています。だから少ない魔力でも多くの自然と融和し、それを操ることができる。いわば精霊術士の力とは、子供が長じるまで無事に生きられるよう与えられたものなんです」

「ああ……そういう性質のものなのか」


 今まで単純に、「純潔であれば使える魔法」と思っていたが、説明を聞けばその理由にも納得できる。オスカーの嘆息に、妻は苦笑した。


「だから本来的には、力を保つために純潔のままでい続けるっていうのは、本来の在り方からずれてますね。私が言うのもなんですけど」

「お前、四百年以上純潔だったからな。どこまで子供の特権を振るうつもりだったんだ」

「分かってるから言わないでくださいよ!」


 妻の叫びに、オスカーは笑いながら蔦にまみれた階段に踏み出す。


 ――その時、暗い天井で空を切る音が鳴った。


 矢の如く飛来するそれらを、彼は咄嗟にアカーシアの一閃で斬り捨てる。人間離れした速度の応酬にティナーシャが目を丸くした。


「相変わらず貴方の反応速度、ちょっとおかしいですね……」

「なんだこれ。植物の棘か?」


 ぱらぱらと地面に落ちたものは、人の手のひらほどの長さの黒い棘だ。

 食らえば内臓まで達しそうな鋭いそれを、ティナーシャは爪先でつつく。


「罠ですね罠。貴方、精霊術士じゃないですから。もりもり罠が反応しそうです」

「聖域荒らしへの対策か。まあそれくらいは気にしない」

「ちょっとは気にした方がいいですよ」


 妻の言葉を無視して、オスカーは階段に足をかける。よく見ると、階段上に茂る蔦には踏みしだかれた痕があった。

 イリィが入っていった時のものだろう。狭い階段を彼は妻を背後に回して降り始める。


「その子供が中に入ったのが一週間前か。こんなところに一人で無事なんだろうな」

「おそらく。生きてるから異変が起きてるんでしょう」


 ティナーシャの言葉を証明するように、天井からふわりと白い花びらが落ちてくる。それはオスカーの目の高さで同じ色の羽毛に変わると、ふっと掻き消えた。

 不可思議な現象に、彼は小さく口笛を吹く。


「面白いな。どういう仕組みだ?」

「位階が揺らいでるみたいですね。私たちの視覚に捉えられないものが、近しいものに変換されて見えるんですよ」

「目に見えるものがその通りじゃない、ということか」


 すぐに階段の終わりが見えてくる。その先は何も見えない闇だ。ただむせ返るような緑の香りが立ち込めており、ひしひしと肌身に圧力を感じた。

 オスカーが最後の段を降りると、その手を魔女が取る。

 彼は何となく妻の姿を見下ろして……絶句した。


「ティナーシャ、縮んでるぞ」


 普段二十歳前の外見を取っている魔女は、今は十五かそこらの少女だ。

 出会った時よりも幼い姿は、か細すぎて頼りない。

 言われてティナーシャは、自分の体を見下ろした。


「えー? そう見えてるんですか? 私の目にはそのままに見えますけど」


 ティナーシャは魔法着の裾を摘まむ。身長も若干縮んで見えるのだが、これも別位階の干渉だろうか。オスカーは妻の体をべたべた触って確かめようか迷って、だが見た目の幼さにその考えを打ち消した。


「ここを出たら戻るか。さすがにその年齢のままだと守備範囲外だからな」

「いつものたわごとはいいんで、手を離さないでください。別位階のことってまだまだ分からないことだらけですからね。本当は触らないに越したことないんですけど、今回は仕方ないです」


 ティナーシャは彼の手を取って半歩先の暗闇を歩いていく。

 足元の感触からして、床には分厚い藻が生えているのだろう。オスカーは右手の方角に虹色の魚が泳いでいくのをちらりと見た。


「別位階って、お前ちょっと前に北の平原でその手の実験してなかったか? ドアンに作らせた報告書にあったぞ」

「ばれてる! 口止めしたのに!」

「お前がわざわざ外でやる実験なんて、確認するに決まってるだろ」

「うう……」


 ティナーシャはがっくりと首を垂れたが、そこで正確な報告書を作ってくる辺りがドアンだ。彼女は強引に話をまとめる。


「そんな感じで危ないので、さっさと彼女を見つけて戻りましょう」

「実験の件については、戻ったらもう少し詳しく聞くからな」

「お説教の予感!」


 叫びながらティナーシャは前に進んでいく。彼の手を引いて先に行くその背が、先ほどより更に縮んでいることにオスカーは気づいた。いつの間にか十歳ほどの子供の姿になっている魔女は、変わらず彼の手を掴んでいるままだ。


 にもかかわらず――彼女との距離はいつの間にか数歩分開いていた。


 オスカーは自分の手の中に、変わらず彼女の手があることを確認する。


「ティナーシャ、腕が伸びてないか?」

「今度はそんな風に見えてるんですか? もう目を閉じてたらどうです。貴方ならそれでも戦えるでしょう?」

「お前、俺を何だと思ってるんだ。一応視界にも頼ってるぞ」


 そんな会話をする間にも、彼女はどんどん子供になっていき、距離は広がっていく。

 そもそもこの地下室はどれくらいの広さがあるのか。かなり歩いている気がするのだが、一向に何にも辿りつかない。


 オスカーが訝しく思う間にも、妃である魔女はどんどん先へ歩いて行った。

 その姿が赤子ほどの大きさになり……そして遠く見えなくなるほどの距離が開く。

 オスカーは、それが幻覚だと理解しつつ、それでも彼女を呼んだ。


「ティナーシャ、さすがに小さすぎないか?」

「大丈夫ですってば。貴方が子供に見えるならちょっと見てみたいですけど」

「何だそれ」

「だって貴方の少年時代とか気になりますもん。……なんか思いついたらすっごく見てみたくなってきましたよ! 魔法で外見弄ってみてもいいですか!」

「時と場所を選べ」


 普段であれば妻が飛びついてくるところだが、今はさすがにそれどころではない。

 オスカーは、豆粒のように見えるティナーシャを追って一歩を踏み出そうとし――足が動かないことに気づいた。見ると両足首に蔦が何重にも絡みついている。


「何だこれ」

「オスカー?」


 ティナーシャの声が聞こえる。

 それと同時に繋いでいたはずの彼女の手の感触が、ふっとなくなった。

 代わりに彼の足を無数の蔦が這い登ってくる。ずるずると奇怪な音を立てて自らを絡めとろうとする蔦に、オスカーは舌打ちしたくなった。


「結局はぐれたか。後で怒られそうだな」


 ともかく、今はこの場を脱する方が先だ。彼はいつのまにか膝までが蔦に埋まった自身を見下ろす。

 そしてアカーシアを抜くと、自らの足元にその刃を突き立てた。

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