第8週 "決まってるんじゃないの?"(Grippo RM et al, Current Biology 2020 ①)


 川上はいつものように自分にあてがわれた診察室の机の前で、次の患者を待っている。新年が開けてから1月にしては珍しく強い風の吹く日で、奥の窓がカタカタと揺れ、パタパタと一定のリズムを刻む看護師たちのスリッパの音が止まることなく響いている。



「――――さん、――――さん」


 次の患者を呼ぶ声がして、自分の診察室のスライド式の扉がおずおずと開く。現れたのは身長の低い、まだ女性と呼ぶにはどこかあどけなさの残る少女で、昨年末から何度か検査のために通院していて、面識のある年配の看護師が何か一言二言世間話のようなものを話している。


「…………今日はのだね」


 丸椅子に座った少女に向けて、川上は優しく声をかける。

「一緒? 誰とですか?」

 少女はきょとんとして答える。そこには単純に驚いていて、川上の言葉への疑問以外の感情はないように見える。その少女の様子を見て、ふうと一息吐いてから川上が続ける。

「今日は少し込み入った話になるから、ご家族と――――と先週の検査の時に言ったと思うのだけど」

「……あたしに"そういうの"居ないの、先生も知っているでしょ」

 川上の言葉を聞いた後で、少女は少しだけ困った顔をした後でそれに答える。



「君たちもまた"乗り越えられなかった"――――のかな」


 川上はさっきよりも大きく音を立てる窓を見ながら、誰に言うでもなくつぶやく。それをうまく聞き取れなかった少女が「えっ?」と聞き返した言葉に「何でもないよ」と淡々とした調子で返し、胸元のポケットに刺さっていたボールペンを一つ手に取って続ける。


「それじゃぁ、本題に入ろうか。実はこうやって何度か通院してもらって検査をして、少し気になることがあってね。結論から言うと、日當瀬さん、僕はあなたに此処よりも大きな病院での再検査を勧めます。


 おそらく君は――――――」




第8週 "決まってるんじゃないの?"




「…………あのさ、宗君。宗君の論文の打ち上げ 兼 新年会なんだから、嘘でもいいからちょっとは楽しそうにしてくれない?」


 駒場東大駅前にある数人が座ったらぎゅうぎゅうになるような小さな店で、まだ若い風貌の研究室の教授が、宗に向かって半分嫌味を込めて声をかける。それに対して宗が「……そんなんじゃないっすよ」とぶっきらぼうに返すと、「いや、まさに今の言葉がそうなんだけど」と教授がその返事に呆れる。



「あーだめですよ、のぞむさん。宗君、小田急でCell読んでる彼女にフラれちゃったみたいで」


 余計なことを――――そう思った瞬間にはもう遅くて、他の研究室のメンバーも加わってわいわいと自分と翠のことについて、思い思いのことを口にしだす。


「だいたい19歳って。歳若すぎですよ」

「ねー何歳差だよっていう」

「軽く犯罪ですよ、犯罪」

「しかも、電車でCell読んでたからって、『はぁ!?』ってなりますよね」

「それ、私も思いました。普通、『何だそれ!?』って思いますって」


「えっ!? ちょっと待って、何その『電車のなかでCell』って。聞いてない」

 一人だけ状況をあまり把握していない教授が研究員たちの話題に突っ込んでいく。それに対して、研究員たちは「いいんですよ、のぞむさんは知らなくて」と素っ気なく返している。


 はぁとアルコールの混じった息を短く吐く。それはつい最近まで続いていた論文のリバイス(修正稿の投稿)作業へのため息だったのか、それとも別の――――あの鵠沼海岸駅で聞いた『嘘つき』という言葉のあと、一度も会えていない暗い色をしたパーカーを着たアイツのせいなのか、自分でもよくわからないでいる。


「……宗さん、何かお疲れですね」

 何かを察したのか店のマスターが声をかけてくる。それでも説明する気がしない俺が「ちょっと色々とあって」とだけ返すと、それ以上の詮索はせずに次の料理の準備に戻る。

 店内も狭く、お世辞にも綺麗やおしゃれという雰囲気ではなく、店員もこのマスターしかいないという小さな居酒屋なのだが、近くにある自分たちの大学の学生や教員には人気で、今日も予約がようやく取れて久々の来店にもかかわらず、こういうさりげない感じのフォローが心地いい。


「最初のお酒と二番目のお酒どちらが良かったですか?」

 空いた日本酒のグラスを置くと、目の前に二つの新しいグラスを並べられてそこに少量の二種類の日本酒が注がれる。


「……あとの方かな。お願いします」


 不思議な店で、二種類の酒を少しだけ飲んでからどちらが良かったをマスターに告げて、飲む酒が決まっていく。次の杯の時にはまた違う酒がマスターによってチョイスされていく――――メニューというものが定まっていない。料理も同じで、こちらから止めるまでマスターがいいと思ったものがテーブルに並んでいく。

 横浜で『コーヒーショップライフテクノロジーズ』っていうふざけた名前のバイオベンチャーを立ち上げた工学部の先輩たちが、同じようなシステムの店が鶴見小野駅の狭い路地にあるって言っていたけど、そっちはいかつい女性店主がやっているとか何とか言っていたような気がする。いずれにしても、自分にとっては初めてみた注文システムの店で、最初は面食らったものの、慣れてしまえば新しい酒や料理に出会えるのも面白い。


 そんな風にぼんやりと眺めていると、新しい酒と料理が自分の前に置かれる。



「宗君、聞いたよ! 何で教えてくれなかったの!?」

 

 次の瞬間、そんなことを言いながら、きらきらと目を輝かせた教授が席を移って自分の隣に座ってくる。はっと他の研究室のメンバーの方に目をやると、にやにやとした目でこちらを見ている。

「……な、何も面白いことないですよ」

「何で、電車で『Cell』の論文読んでる女の子に話しかけるってだけで、もう面白いじゃん」

「……はぁ……まぁ、もうそれでいいです」

 もう一度ため息を吐いてみても、教授はもう止まる感じがしない。食い気味に次の質問をこちらにぶつけてくる。 


「――で、もうフラれちゃったんでしょ?」


 あいつら、洗いざらい喋って教授をこっちに振ったのかと、もう一度研究室のメンバーを見ると、さらににやにやとした様子でこちらの様子をうかがっている。


「…………フラれたのかどうかってのは……正直、わかんないです」

「え、でも最近一度も会えてないし、連絡先もわからないんでしょ? それ、"付き合ってる"って状態ではないよね」

 教授はズバズバと核心を突いてくる。若くして研究室の主宰者(Principal Investigator, PI)になるにはこのくらいの思い切りというか、ある種の図々しさが必要なのかもしれないなと妙に納得してしまう。

「まぁ、そうなのかもしれませんけど……それでも、論文の抄読会は続けたかったんですけどね」

 俺は新しい酒を口につけて答える。

「ふーん……で、どんな論文読むつもりだったの?」

 教授はそっちの話題にも興味があるように、またきらきらとした目で尋ねてくる。この人にとっては恋愛のどうのこうのも、面白い研究の話も等しく楽しくてしょうがないのだろう。ちょっと憧れる性格なのかもしれない。


「Grippo RMたちの"Dopamine Signaling in the Suprachiasmatic Nucleus Enables Weight Gain Associated with Hedonic Feeding"っていうCurrent Biologyの論文ですね。ほら、これ」


 スマートフォンで論文のページを開いて見せながら、続ける。


「タイトルは……視交叉上核のドーパミンシグナルが"快楽的な"食事と関連した体重増加を可能にするって感じですかね? この"Hedonic"って単語のイメージがあんまり掴めなくて、グラフィカルアブストラクト(論文の内容を1枚の模式図で示したもの)見てもハンバーガーと通常食をレタスで表してて、いまいちまとめ方がへたくそというか……要はここでは糖分や脂肪分の多い食事のことを示しているみたいです。だから――――」

「だから?」



「要は『深夜のラーメンが一番美味い』のは、視交叉上核のドーパミン(DA)とD1ドーパミンレセプター(Drd1)のシグナルの影響で、それがきっかけで体重が増える――みたいな論文ですかね」



 俺の言葉を聞いて、店内が静まり返る。少しだけ間をあけてから、ラボメンバーが「今、その話する?」とか「場所選べ……」とかひそひそと話している。

「あれ? 俺、何か変なこと言いました?」

 俺のその言葉を聞いて、今度は教授が大声で笑う。わけがわからずにおろおろとしていると、「い、いや大丈夫。何もおかしなところないから」と笑いをこらえきれないまま、教授が答える。

「宗さん……一応、ここ"ラーメン屋"なんですけど……その、研究の話は面白いんですが、ちょっと……」

 恰幅の良いマスターが顔を引きつらせているのを見て、ようやく自分の発言の"場違い"感に気がついて、「すみません……」と小さく答える。


「でも、面白そうな論文じゃん。ドーパミンシグナルがどうやって体重増加を引き起こすのかは興味あるかも」

 教授は自分の前に置かれた――俺のものとは違う銘柄の――日本酒を口にしながら言う。 


「まだ詳しくは読んでいませんけど、視交叉上核(SCN)って概日リズムに関係する領域で、その領域でのDA-Drd1シグナルが、食事と食事の間の"hedonic"な食事を抑制している機構を脱抑制することでイレギュラーな時間での糖分や脂肪分の多い食事――――間食とか、さっきの"深夜のラーメン"みたいなものを促進して、結果として過食(overeat)を引き起こして、体重が増加するって感じですかね。

 実験自体は、SCN領域でDrd1が全欠損(null 欠損)するタイプのコンディショナルノックアウトマウスを使って、そのノックアウトマウスで体重増加が抑えられたり、そのマウスのSCNにDrd1を導入すると、その抑えられた体重増加が元に戻ったり(レスキューされたり)……丁寧に見てる気がします」


「実験自体は……って言い方、少し気になるけど」

 教授は俺の言葉で引っかかった部分について、尋ねる。マスターはもう諦めたのか、俺たちの前からラボメンバーの方へと移動している。


「面白かったんで、このDrd1コンディショナルノックアウトマウスのことをちょっと調べてみたんですよね。それで、作られたのは2014年とかそのあたりにTonegawa研で作られたマウスみたいなんですけど……このマウス、任意のCreマウスと掛け合わせて、ほっとくと摂食障害で死んじゃうっていう……」


「うん?!? ちょっと待って。わけわからなくなってきた」

 教授が混乱した様子で、尋ね返す。


「本人たちもSTAR★Methods(Cell本誌、姉妹誌での方法のセクション)では『摂食障害で死んでしまうので、特殊な餌やりをした』と書いてるし、分与しているジャクソン研究所のページにも明記してあるのに、なぜか本文ではそのことに触れてなかったり――あと細かいところ言えば、このマウスはSTOCK系統と言って、バックグランド(遺伝背景)が不明なマウスなのに、コントロールをC57BL/6にしてたり、ちょっともやっとするところはあるんですけど、全体としては面白いし、詳しく読んでみたかったんですけど――――」


 一瞬、あのコロコロと表情の変わる灰色の Abercrombie & Fitchのパーカー姿が浮かぶ。


「――――"彼女"と一緒に読みたかった?」


 それを見逃さなずに教授が自分の杯を空けながら言い、「いえ、そんなわけじゃ」と俺が言っても、「顔に書いてあるよ」と笑う。



「でも、約束の電車にも来ない、連絡先はわからないって言うなら――――行くべきところはもう"決まってるんじゃないの?"」



 次の試飲のグラスを飲み比べながら、「まぁ、少しストーカーチックかもしれないけど」と教授が続ける。確かに彼氏彼女なのか微妙な関係のまま、あんなことがあった後でに行くのはおかしいのかもしれない。それに、またあの酒井に止められるかもしれない。



 でも、このまま誤解されたまま、翠と会えなくなるのは嫌だ――――そう思った。




今週の論文:

Grippo RM et al. Dopamine Signaling in the Suprachiasmatic Nucleus Enables Weight Gain Associated with Hedonic Feeding. Curr Biol. 2020 In Press.


(つづく)

※この物語に出てくる学校や駅名はすべて架空ですが、出てくる論文だけは本物です

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

俺の通勤電車にCellを読んでる女子が乗ってくるんだが トクロンティヌス @tokurontinus

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ