第7週 "引っかき回すため"(Chao CC et al, Cell 2019 ②)
一、
「えっ!? 若どり手羽元100gで52円!? 安い!! …………って、あれ? ……どこだっけ、ここ」
見知らないきれいな部屋。床はあたしの住んでる畳一間の部屋とキッチンにユニットバスだけの小さなアパートとは違って、真新しいフローロングになっていて、ガラスのローテーブルとシングルのベットに、大きなテレビが一台。その脇にパソコンデスクがあって、見たことのある英語の教科書がいくつか並んでる。
あたしは床にひかれた布団の上にいて、そこにあった毛布を手に取って顔をうずめる――――宗の匂いがする。
「一体、なんていう夢みてんだよ、"お前"…………」
奥の部屋からコーヒーカップを二つ手にした宗が半分呆れたような顔でやってくる。部屋着とはいえ、もうしっかりと身支度していて、あたしよりもだいぶ早く起きたみたいだ。対して、あたしはまだぼさぼさのままの髪を手で少し整えてから、ローテーブルの上に丁寧に置いてあった――たぶん宗が置いてくれたのだろうけど――自分の眼鏡をかける。
「あははは……いや、たぶん昨日みたマルエツのチラシかな。印象に残ってて」
われながら間抜けな寝言に対して、これまたどうしようもない返事をする。宗は「だからと言って夢にまで見るか?」とやっぱり呆れ顔で、ほんの少しだけ笑った後で自分のコーヒーカップに口をつける。
その宗の仕草を見た後で、昨日のしながわ水族館のことを思い出して、あたしは口元が緩むのこらえきれずに、視線を甘い匂いのするコーヒーカップに移す。
本当はきっと何でもない時間なんだろうけど、それがたまらなく嬉しい。何かそんな気がする。
「……そういえば、翠、『お前』とか呼び方に反応しなくなったな」
宗が思い出したように言う。
「あ、そう言えばそうかも」
あたしも、まるで何事もなかったかのようにそんな風に返す。
「……嫌だったんじゃないのか?」
「そうだけど……なんか宗が言うのは違う気がする。"あの人"とは違うって」
その瞬間――クレヨンで顔を真っ黒く塗りつぶした写真や閉じ込められた納戸、真っ赤になったあたしの両足を見て泣いてるお母さん、右手で光った裁ちばさみ、くるくる回る赤色灯――そんなものが頭のなかで次々と浮かんでは消えて、右胸からお腹の中心のあたりが熱くなって、冷や汗のようなものが滲んでくる。
あたしはそれを、目の前で心配そうな顔でおろおろとしながら見ているこのヒトは違う、大丈夫だからと自分に言い聞かせるように必死で抑え込む。
「……宗はお休みの日でも早起きなんだね。まだ8時だよね?」
やっと落ち着いたところで、話を逸らすように関係のない話題を口にする。
「よくぞ聞いてくれましたね、翠さん。では、こちらからも質問です。あなたが昨日寝たのはどこでしたか?」
すると、宗は口元を引きつらせて、わざとらしい口調に変わる。あれ? これはちょっと変な方向に行っちゃった?
「え、えっと……あのベット……かな?」
あたしはおそるおそるベットを指さす。
「正解。では、私が寝た場所は?」
「え……えっと……床にお布団を引いて寝てました……?」
「これまた、正解。では、今日あなたがマルエツのチラシの夢を見て飛び起きた場所は?」
「……お……お布団です……」
あたしは何となく思い出して、恥ずかしさから、うつむいて答える。
「ったく、夜中の二時に突然"翠が降って"来たかと思ったら、そのあとも大暴れして……どんな寝相してるんだよ、いつも」
そう言って笑った後で、宗は「じゃぁメシの準備してくるから、顔洗ってこい」と台所に向かっていく。
「……なんかいい匂いがする」
あたしのアパートとは違って広く取られたキッチンスペースに立つ宗の後ろ姿に向かって言う。
「ちゃんと顔洗ったか? もうすぐできるから。食べ終わったら、駅まで送るよ」
宗は振り返らずに答える。
「これ、何作ってるの?」
あたしは宗の脇から鍋をのぞき込んで尋ねる。
「昨日の残りのフライドチキンをほぐして、うすくち醤油と顆粒出汁で衣がぐずぐずになるまで煮てから、これまた昨日炊いて結局使わなかった冷ご飯を入れて5分くらい煮たら、卵を溶き入れてっと――――残り物で作った鶏雑炊」
宗はコンロの火を止める。
「へぇー! 宗はいつもこうしてるの?」
「まさか。昨日、『そんなに食べきれない』って言ってるのに"誰かさん"が欲張って買い込んだのをどうしようかなって思って即興で考えたんだよ。さすがに二食連続でフライドチキンをそのまま食べるのはきついし」
「……何か、宗、あたしへの嫌味が増えた気がする」
「昨日も言っただろ? 翠が強がらなくてもいいってことは、俺も翠に対して変に遠慮しないってことだからな……おっと、忘れてたネギ、ネギっと」
宗は真新しいキッチンに似合わない半分に切ったペットボトルに生えてる万能ねぎの先をハサミでちょきちょきと切る。何かそのギャップがおかしくて笑ってしまうと、宗はそれを嬉しそうに見ている。
「何か……ちゃんとしたご飯だ」
ローテーブルに並んだ二人分のご飯を見て、素直にそう思ってしまう。
「なんだよ、ちゃんとしたご飯って。コンソメスープは時間なかったし、インスタントだけどな」
「ううん、ホント何か……久しぶりに見たちゃんとしたご飯って感じがする」
同じ残り物だとしても、いつものバイト先の残り物とは全然違う気がする。
「……そっか。じゃぁ、早く食べてしまおうぜ。冷めると美味しくない」
「うんっ!」
何年ぶりかの誰かと一緒に食べる朝ごはん。そのことが嬉しくて、あたしの口元はまた緩みっぱなしのままになっていた。
「……ついでと言っては何だけど。変な時間に起きたから、この論文読んでみたんだけど……確かに読みづらいな……」
先に食べ終わった宗があたしが渡した論文のコピーを手にしながらつぶやく。
「でしょ!? やっぱりあんまりなじみのないタンパク質名とかが羅列されてる論文って読みにくいよね」
「まぁでも実験も丁寧にしてあるし、全体的にはやっぱり印象はいいけどな」
宗がフォローするように応える。
「うーん……そうかな? 何かマウスの実験でもn数(ここでは個体数)少ないし、今はゲノム編集で簡単にノックアウト(遺伝子破壊)できるはずなのにshRNA使ってノックダウン(遺伝子機能減衰)で実験してたり……ちょっと荒くないかなって思ったんだけど」
あたしはこのChaoたちの論文に対して思ってたことをそのまま口にする。
「それは翠の認識が間違ってる。
この著者たちが多発性硬化症の実験モデルとして使っているEAE――実験的自己免疫性脳髄膜炎モデルマウスは非肥満糖尿病モデルマウス(NODマウス)を使って作るんだけど、このNODマウスは取り扱いが難しいマウスだからな。繁殖が極端に難しかったり、胚盤胞期受精卵からES細胞を樹立するのも難しいし、もっと言えば受精卵の取り扱いも"普通の"ICRマウスやC57BL/6マウスとは比べ物にならないくらいに難しい。
というわけで、現時点ではこの系統を使ってゲノム編集で何かをしようとすると、かなり大がかりな実験系になることが知られているし、この著者たちが……実際にはこの論文の前のNature MedicineのMayoたちがレンチウイルスベクターで生体内(in vivo)でのノックダウンの系を立ち上げただけでもかなりの苦労だったと思うよ」
宗ははっきりと指摘してくれる。あたしがまだ実験とかできないからわからないだけなのかもしれないけど、こういうところがこの二人だけの抄読会の好きなところだったりする。
「一方で確かにどうかなって思うところももちろんあって、彼らは――前のMayoの論文からだけど――Fig.1で元々ミエリン形成に重要だと知られていたB6GALT6酵素とその生成物であるLacCer(ラクトシルセラミド)に着目して、その細胞内での生合成経路を今回調べてみたと言っている。でも、実はその生合成系に必要なタンパク質であるCer3については調べていなかったり、しかもこれについては、単に1文だけ"中枢神経系には発現少ないから"と言ってるだけだし。
実際、同じFig.1で明らかになることなんだけど、セラミド合成を行うCer1からCer6までのタンパクのEAEにおける反応性は、同じ合成系のタンパクであるにも関わらず全然異なってるんだよ。だとしたら、Cer3を調べなかったのは片手落ちだし、何で調べなかったのかって逆に勘ぐってしまうくらい奇妙だ。
それにグルコシルセラミド(GluCer)をLacCerに変換するB6GALT6がノックダウンした時の効果が大きいということで、その後の検討を絞っていくんだけど、彼らのいうクリニカルスコアってやつで見る限り、Cer5とB6GALT6には差があるようには見えないんだよね。データはすごく"
宗があたしの分の食器も重ねて片付けながら、丁寧に説明する。
「ふーん……あ、あたしも片付け手伝うよ。でも、何でこんな機構――LacCer-cPLA2-MAVSってのがあるのかな? 何か疾患のためだけにある系みたいに見えるんだけど」
あたしの単なる思い付きの疑問を聞くと、宗は嬉しそうににこっと笑う。
「いいね、その質問。実は著者たちもそのことについてFig.5で触れてる。アストロサイトの重要な働きである『ニューロンへの乳酸の供給』についてのところだな。このあたりを読むと、この多発性硬化症の発症メカニズムがLacCerによるオーバーヒートとそれによって引き起こされる炎症による"恒常性(ホメオスタシス)の破綻"なんだって思えてすごく面白い」
「え、面白そう。もっと詳しく教えてよ」
「だめ。この論文、翠の課題だろ? ちゃんと自分で読め」
「ええ!! ケチ!」
「何と言われようとだめなものはだめ。宿題はちゃんと自分でしなさい」
そんなことをわいわい言いながら、広めのキッチンで二人ならんで食器を洗って片付ける。いつもは自分ひとりでしている何でもない作業も、なんだかとても楽しい。
二、
――――ピンポーン、と玄関のチャイムが鳴る。
宗は心当たりなさそうに「誰だろ、休みの日なのにこんな朝早く」と首をかしげる。先に片付けを終わらせていたあたしは「ちょっと行ってくるよ」と何も考えなしに玄関に向かう。
もう一度鳴ったチャイムの後で、「はーい、今、ちょっと宗は手が離せなくて」と玄関のドアを開ける。
開けなければよかった。
宗の言うことを聞いて、ちょっと待ってればよかった。今、思い返してみればそんなことを思ってしまう。でも、この時のあたしは前の日からの出来事に浮かれすぎていてそんなこと思いもつかなかったんだ。
――――ドアの前には綺麗な女のヒトが立っていた。あたしとは違う、すらりと背が高くて、胸のあたりまで伸びた髪、切れ長の目はアイシャドウできれいにしてあって、着ている服も高そうな――――何から何まであたしとは違うモデルのような女のヒト。
「…………誰、アンタ」
上から威圧するように降ってくるハスキーボイスで、あたしが身動き取れずにいると、その女のヒトは続ける。
「誰って聞いてるんだけど? ……ここ、"宗"のアパートよね? 何でアンタみたいなのがいるの?」
知らない人から聞こえてくる宗の名前にあたしは怖くなって、ますます声が出なくなっていく。奥から宗の「ちょっと待てって言ってるだろ」という宗の声と近づく足音が聞こえてくる。
「――――!?」
その先の宗の言葉はよく聞き取れなかった。知らない女のヒトの名前を読んで、その人は嬉しそうに返事をする。何カ月ぶりだとかなんとかそんな感じの言葉があたしの頭の上を飛んでいく。宗がどんなことを言ってたのかとか、どんな顔をしてたのかとか、そういうのは怖くて確認できなかった。
でも、そのきれいな人が「ところで、誰、これ」とあたしのことを指さしたところで、あたしは急いで部屋のなかに引き返して自分の荷物を取ると、履き潰してボロボロになったスニーカーで外に出る。靴を履く一瞬だけ見えたそのヒトの高そうなショートブーツを見て、走らないとダメだと何故だか思った。
途中、追いついてきた宗に何かを言われた気がするのだけれど、あたしはそれにどんな顔をして、どんな声で、どんな風に答えたのか覚えていない。
――――でも、きっとみっともなく泣いていたんだと思う。
「翠!? ちょっと待て――くそッ! …………
俺は突然飛び出した翠を追いかけるために急いで靴を履きながら、苦々しく吐き出す。
「せっかく久しぶりに訪ねてきてあげたのに、何だか冷たいのね」
その女は――――あっさりと他の男を作って出て行った彼女だったその女は、そう言ってにやりと意地悪そうに笑う。
「突然出て行って関係終わらせたのはそっちだろ。もう俺がどうしていようとお前には関係ない。それに、この部屋は教えていないはずだ」
こちらが睨みつけてもどこか余裕のある態度で、ふんと鼻を鳴らす。
「……いいの? そんなに睨みつけてる時間ないと思うけど」
くそッと吐き捨てて、俺は誤解したままの翠を追いかける。玄関の外に追い出された沙紀がにやにやと不気味な笑みを浮かべたままだったのが気にはなったものの、駅に向かって全力で走る。
鵠沼海岸駅手前の細い路地、ドラッグストアの前で見慣れた灰色のパーカーを見かけて、息を切らしたまま声をかける。ちゃんと「誤解だ」と伝えるために。
振り返った翠は、ぬぐうこともせずに涙を零していて、たった一言だけつぶやいて駅のホームに消えていく。
「――――嘘つき」
俺は何故かそれ以上追いかけられなくなって、ただ12月の終わりのその場所でただ立ち尽くしていた。一日遅れの雪が暗くて重たい雲からちらちらと落ちてくる。寒い、本当に寒い日の朝だった。
「……ダメだよ、宗。あなた一人だけ"幸せ"になるなんて。そんなのは、この私が許さない」
女は元恋人の姿が見えなくなった路地を見つめながら、何かを思い出したようにもう一度にやりと笑う。
「ふふ、"何しにきたんだ"のかですって? そんなの決まってるじゃない――――」
あなたの幸せそうな顔を、"引っかき回すため"よ
今週の論文:
Chao CC et al. Metabolic Control of Astrocyte Pathogenic Activity via cPLA2-MAVS.
Cell. 2019 179(7):1483-1498.e22.
(つづく)
※この物語に出てくる学校や駅名はすべて架空ですが、出てくる論文だけは本物です
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