第6週 "幸せになってもいいんだ"(not applicable)
アメリカ・マサチューセッツ州ボストン――
「……ん? 何、宗からLINE? …………くそッ、リア充め。『そんなの知るか、こっちはシングルベルだぞ!』っと。クリスマス・イブ明け方の3時にのろけ話を聞かされる……なんだ、前世で何か悪いことでもしたのか、俺……寝なおそう……」
スマートフォンを放り投げて、もう一度ベットに潜り込む。氷点下になるボストンの冬が独り身に染みたとかどうかは、また別のお話。
日本・神奈川県大和市――
「あ、川上先生!」
気だるそうに病院の廊下を歩く川上を年配の看護師が呼び止める。
「なんです? 急に……僕、今日もう上がるんですけど」
「あの子ですよ、"ヒナちゃん"! クリスマスイブだってのに、一人でいたりしてませんかね……」
看護師は鼻息荒く川上に詰め寄る。
「ああ、あの患者さんか。 ……何だかやたらとご執心ですね」
「そりゃぁ、あんなに健気なのに身寄りもなくてとか聞くと……先生ほど素気なくはできませんよ」
バンバンと川上の腕を叩きながら、年配の看護師は答えを催促する。
「ははは。あーでも、まぁ大丈夫なんじゃないの? だって、ほらLINEも来てるし。皆さんの嫌いなあの男子から。『大森海岸付近で夜、二人で飯食えるところ教えてください』だって」
「アイツ、まだヒナちゃんに付きまとってるんですか!!」
川上の携帯の画面を見た看護師は怒って来た道を引き返していく。おそらく、これからナースステーションでこの事をあれこれと話すのだろう。途中でぶつぶつと何か言っているようだったが、そこまでは聞き取れなかった。
「おお、酷い言われよう……宗君も大変だなぁ……まぁそれはそれとして、『知るか。自分で探せ』っと。それじゃぁ、僕はtwitterで肌色RTでもしますかね」
川上はふうと息を吐いて携帯を白衣のポケットにしまうと、また気だるそうに歩き始めた。
第6週 "幸せになってもいいんだ"
一、
「……なんだあいつら、頼り甲斐ねー……」
「うん!? 何か言った?」
「あ、いや翠のことじゃ……なんでもないよ」
宗は吊革を持っていない方の手でスマートフォンを操作して、何かを調べている。あたしはスマートフォンを持ったことないから、それが何をしているところなのかよくわからないんだけど、その代わりというか、画面に興味がない分、宗の指が動く様子に注目してしまって、(宗ってこんなに指長かったんだ)とか本当に昨日まで気にもならなかったことを気にしてしまって――――ホント、何か自分でもどうしちゃんだろ、とか思う。
あ、こんなにまつ毛長いんだ。髪は日に透けるとちょっと茶色いんだな、とか。
「……翠? どうした?」
「ひゃぁいッ!? な、なんにもないよ!」
「? まぁそれならいいけど。そろそろ大森海岸に着くぞ。そこから10分くらい歩きになるみたいだ」
突然こちらを振り返られて、思わず変な返事で返す。どうしよう、絶対変な奴だと思われた――そう考えると、顔の周りが一気に熱くなる。
――――ホントどうしちゃんだろ、あたし。
京急を降りたあなたはあたしの少し前を歩いてる。12月の灰色よりももう少し黒に近い厚い雲と、目がチカチカしそうな赤と白と緑のクリスマス飾り。海が近いんだなという匂いがする冷たい風が吹いて、前よりも少しだけ伸びたあたしの前髪が揺れると、きっとあなたは振り返ってこう言うんだ。
「翠、大丈夫か? 寒くないか?」
ほらね。いっそ近くまで駆け寄って、その手を握ってしまえば、もっと暖かくなれるんだろうか――――そう思って伸ばしかけた右手の手首についた新しい傷を、あたしは彼に気づかれないようにさっと隠す。
きっと、まだ届かない。何となくそう思った。
二、
「……ここ、か。意外と……何というか……こじんまりというか……」
「むー……だから言ったじゃん、"子供っぽい"かもって」
頬を膨らませている翠を見て、素直に可愛いと思ってしまったのを自分でもびっくりして、誤魔化すように笑う。夜を溶かしたような艶のある黒い髪が水族館のすぐ脇に広がる勝島南運河からの湿った風で揺れる。耳にかかった髪を白く細い指がかき上げる。俺は翠の一つ一つの動きから視線を外せなくなっていた。
「……どうしたの、宗?」
しばらく黙ったままだった俺を心配して翠が声をかけてくる。20センチほど身長差があるせいで、見上げるようになりながら、こちらをのぞき込んだ翠と目が合う。黒縁眼鏡の奥にある幾分か色素の薄い瞳と、リップクリームでうるんだ朱色の唇。初めて会った小田急の車内やいつかの病院じゃないが、人を惹きつけるような、そんな翠の魅力に改めて気づく。
「い、いや……何でもない。ここは寒いし、早く中に入ろう」
そう言ってまた自分の気持ちを誤魔化す。そして同時に、「そうだね」とどこか儚げに笑うその笑顔に違和感を覚える。いっそ朝から何かを隠したままのその右手を取って、ここで問いかけてみればもっとお前に近づけるのだろうか――――そう思って伸ばしかけた手を、俺は川上さんや酒井の言葉を思い出して引っ込める。
きっと、まだ近づけない。何となくそう思った。
意外と水族館の中はしっかりとした造りになっていて――もう一つの品川の水族館とは違って――派手さはないものの、水槽の配置や説明書きに飼育員の愛情のようなものを感じられるような居心地のいい水族館だった。実際、多くの子供連れでにぎわっている。
『……お母さんがね、まだ元気だった頃に"最後に"行った場所……』
翠がそう言ってここに行きたかった理由も、今なら何となくわかる気もする。ここは家族を感じられる、そんな気がする場所だ。
「ねぇ! 宗! 見て、ペンギンいるよ!」
翠はペンギンの水槽できゃぁきゃぁと声を上げている。少しは元気が出たようにも見える。
「せっかくだから、ペンギンと一緒に写真撮ってやるよ。もう少しこっち側に立ってみな」
「え……あたし、写真撮られ慣れてないから……何か緊張する……」
そう言った翠は案の定、ガチガチのポーズでそれを映したスマフォの画面を見て俺は声を出して笑う。
「なッ! 何よ、何で笑うの!? 宗のバカ!」
恥ずかしさからか真っ赤になって怒る翠を、「ごめん、ごめん」となだめながら――笑いでもしなかったら、あまりの可愛さに真っ赤になってたのは俺の方だったなんて言えずいる。
そんなふうに、穏やかに時間が過ぎていった。
三、
「あっ」
そろそろすべてのエリアを回ったかというところで、翠が何かを見つける。
「何だ? ……真珠の取り出し体験? やってみたいのか?」
地下1階の隅にいかにも手作りのようなブースが設けてあり、説明書きを見たところ、どうも養殖アコヤ貝から真珠を取り出す体験ができるコーナーらしい。
「ううん、違うの。"お母さん"と来た時にもあったなって思って」
翠はさっきまでとは違う困ったような笑顔で返してくる。その瞬間、俺はずっと翠に感じていた違和感の正体をつかみ――――そして、あの五色ヶ丘高専で酒井の最後の言葉に自分が何と答えたのかを思い出す。
「あっ」
気づいたらあたしは声を出していた。何故か見覚えのある場所。他の水槽は――あの可愛らしいペンギンに至るまですっかり忘れていたのに、何故かこの場所は覚えている。
「何だ? ……真珠の取り出し体験? やってみたいのか?」
宗のその言葉で、まだあたしが『翠』じゃなかった頃の記憶がフラッシュバックする。この小さな看板の前で立ち止まって、食い入るように説明を読んでいたあたしに、お母さんが少し困ったようにいったその言葉。
『――――ちゃん、真珠だって。やってみる?』
「ううん、違うの。"お母さん"と来た時にもあったなって思って」
あたしはあの時と同じように、答える。宗はそんなあたしの顔をじっと見ている。なんだか見透かされているような、そんな気がした。
「……お姉さん、二人」
宗は受付の女性に千円札を二枚手渡す。
「ちょ、ちょっと、宗? あたし、やりたいとかそんなんじゃ……」
「いや、俺がやりたかったんだ。ちょっと付き合って」
宗はポンポンッと自分が座った丸椅子の隣を軽く叩く。あたしが促されるままに座ると、「ありがとう」と小さくつぶやく。
わけがわからないまま、あたしはインストラクターのお姉さんの説明通りに貝を開けて、中から淡い光沢をもった真珠を取り出す。
「本日、このままお持ち帰りもできますが、指輪やピアスなど加工される場合は別料金で、後日郵送になります」
「……それじゃぁ、両方ともこの"カゴ型ペンダント"ってやつで」
「えっ!? ちょっと、宗……結構高いよ? 宗!?」
あたしの声を「いいよ、俺が払うから」とさえぎって支払いと手続きを済ませると、宗は立ち上がって、「じゃぁ、帰ろうか」と歩き出す。
あたしは何が何なのかわからないまま、慌てて宗の後を追いかける。
「ちょっと、ねぇ! 宗! ……あたし、何か変なことした?」
「……してない」
「何か……怒ってるの!?」
「怒ってない」
「じゃぁ、何でさっきからそんな態度とるの!? 意味がわからないよ……ちゃんと、あたしの話聞いて!」
あたしの言葉に反応して、宗が立ち止まってこちらを振り返る。気づくととっくに水族館を出ていて、日が落ちて冷たくなった潮風が吹いている。
「話を聞けば、俺の質問にも答えるのか?」
宗は真剣な顔をして、あたしの目をじっと見ている。あたしが言葉もでないままたじろいでいると、宗はあたしに近寄って右手をつかむ。そして、あたしの服の袖をまくる。
「そ、宗!?」
「……この傷、どうした?」
「こ、これは……さっき電車でも言ったでしょ、ころんじゃって」
「学校のやつらにやられたんだろ? 違うか?」
「!!? ……な……んで……?」
宗が何を言っているのかわからずに――何で知っているのかわからずに混乱して、言葉が出ない。
「酒井って教員に呼び出されて、学校に行って、翠が授業を受けているところを見た。それに体の傷のことも…………黙ってて、すまん」
「え!!? …………なん……だよ……それ……ひ……どい……」
宗に――初めて好きになった人に自分の惨めで情けない姿を見られたのだと知って、あたしは恥ずかしさと悔しさで、上手く息ができずにいる。両目からはぼたぼたと涙が零れ落ちて、それを宗に見られたくなくて、下を向く。
きっとあたしはもう嫌われてしまったんだ――そう思ったのと同時に、「ああ、そうか。だから宗はあたしを憐れんでここに連れてきたんだな」と妙に納得してしまう。そして、そんな自分が惨めで悔しくて、あたしは涙を止められないでいる。
「えっ?」
次の瞬間、あたしの身体は何かに引き寄せられて暖かさに包まれる。あたしの背中には宗の手が回り、胸元がすぐ目の前に見える――――どうやらあたしは抱きしめられているようだった。身長差のせいで、かかとが浮いてつま先だちのような恰好になる。
「そ、宗!?」
宗はあたしを抱きしめたまま、何も言わずに呼吸の音だけが、あたしの耳のすぐ横で聞こえる。冬の夜風で冷えきっていた身体が宗の体温で元に戻っていく。
「……翠。俺はずっと違和感を感じていたんだ。こんなにも辛く苦しい境遇にいるのに、何で笑っていられるんだろうって。最初は翠は強いのだと思った。でも、それは違うって、さっき気づいたんだ……」
あたしは言葉を返すことなく、宗の言葉を待っている。
「翠――――お前は"幸せになってもいいんだ"。
お前が高専に入るときに、いや、もっと前から支援してくれた人たちも、あの酒井って教員だって、そして、お前の『お母さん』も――助けてやったんだから、助けられたお前は幸せそうにふるまってはいけない、健気にしていないといけない、不幸そうにしないといけないなんて、誰も、ほんの一つだってそうは思ってはいないんだよ、翠。
だから、俺の前でそんな風に、強くて健気な自分を装うのはやめてくれ。俺は、翠にフリではなくて、本当に幸せになってほしい。
――――好きだ、翠。心から」
あたしは震える両手を宗の背中に回して、しがみつくように自分からも宗を抱きしめる。そして、「うああああ」と大声をあげて泣いた。宗のコートの胸元があたしの涙で濡れてしまってシミのようになるまで、ずっと。
その涙の中であたしは、小さな病院ベットの上で痩せこけたお母さんの、最後の言葉を思い出してた。
『もうお母さんのために我慢はしないで、――――ちゃんは、幸せになってね』
ごめんね、宗。まだ本当の名前も教えられないような、こんなあたしでごめん。でも、あたしはずっと宗と一緒にいたい。お母さんに「あたしはちゃんと幸せだよ」って伝えられるように。
宗の顔が近づいてきて、そのまま唇が重なる。初めての時はもっと緊張するものなのかと思ってたけど、こんなに落ち着くものだとは知らなかった。しばらく見つめあった後で、宗から口を開く。
「……あーメシ、どうしよう。友人情報があてにならなかったんだけど」
「ぷっ、何それ。雰囲気台無し」
翠が思わず吹き出す。その声はまだ涙声で、涙も完全には乾いていない。
「仕方ないだろ。その辺のレストランにダメ元で当たってみるか」
「あたし、ケンタッキーフライドチキンがいい」
翠が鼻息荒く言う。そこにはいつもの遠慮のようなものはなくなっている。
「へっ!? いや、もっと高くてもいいんだぞ?」
「ううん、憧れだったんだよね。クリスマスに恋人とケンタ」
「なら急ぐか。混むの嫌だし」
「…………そ、そそ宗のおうちでとかダメ? あああたし、まだ、そのそそそそういうことはたぶんできないと思うんだけど」
翠は顔を真っ赤にしなかがらもじもじと消え入りそうな声で言う。
「あはははは! ああ、いいよ。鵠沼だからちょっと遠いけど。それに、翠にそういうの期待してないから」
一瞬呆気にとられた後で、すぐにおかしさがやってきて、俺は声を上げて笑う。
「なッなんだよ、それ!! もう知らない!」
昼にここに来た時と同じように翠が頬を膨らませて、今度は先に駅に向かって歩き出す。
数メートル歩いたところで、翠が振り返ってにこっと笑う。そこに、儚さのようになものはない。たぶん、初めてみる翠の純粋な笑顔。
「――――メリークリスマス、宗」
今週の論文:
Sui H and Soh S. "So happy together". Journal of Life. 2019 12:24-25
(つづく)
※今回だけは出てくる論文も架空です
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