第5週 "お前の行きたいところへ"(Chao CC et al, Cell 2019 ①)

一、


『まもなく五色ヶ丘、五色ヶ丘です。お出口は左側です。開く扉に手やお手荷物が引き込まれないようご注意ください。Next stop is ――――』


 ここ最近で聞きなれた名前の駅で俺は電車を降りる。電車の中からホームの屋根までのわずかな歩数の間に、風で舞った小さな雪の粒が一つ二つ、コートの肩を濡らす。それでも、五色ヶ丘の駅は平日の昼前だというのにガヤガヤと人であふれていて、その隙間をぬうように、もうすぐやってくるクリスマスを祝う歌が流れる。


 そんな誰もがどこか浮かれている駅のホームで俺は、『まだあの寒い恰好をしているのだろうか』と、心配とも不安とも言えない気持ちで空を見上げる。


 重苦しい灰色の雲と、粉雪というよりももう一回り小さな雪。


 俺はそんないつもの12月の東京を買ったばかりの冬用の革靴で歩いていく――翠の通う学校に向かうために。




 第5週 "お前の行きたいところへ"



「……ちゃんと来たのね」


 受付で教えてもらった准教授室と書かれた部屋に入るなり、前に病室で会った女性が声をかけてくる。女性にしてはやや低い声はどこか冷たく、その視線はこちらを値踏みしているかのようで、少なくとも好意的という感じは受けない。


「呼んだのはそちらでしょ? それに、"あいつ"について重要な話がある――なんて言い方されれば、そりゃ来るでしょ」

「あいつ……ねぇ。ずいぶんと馴れ馴れしい感じね」

 俺の言葉に反応して、酒井という目の前の教員の目つきが鋭くなる。

「彼女のことを何と呼ぼうが別にいいと思いますが……何か関係あるんですか?」

「じゃぁ"日當瀬ひなたせさん"でもいいでしょ」

 酒井は事務机にもたれかかったまま、腕を組んでこちらをにらみつけている。狭いこの准教授室とやらにも、一応、応接セットのようなローテーブルとソファーもあるのだが、それに座るように促されているわけでもなく、俺はその敵意のこもった視線を足ったまま受け止めている。


 わざわざ平日の昼間に呼びつけられているのにも関わらず――だ。


「はぁ……さっきから何なんですか。だいぶ病室で会ったときと違いますけど」

 ならば、とこちらも気をつかうのをやめて、ため息と一緒に吐き捨てる。

「君はうちの学生じゃないからね。私が丁寧に応対する理由、何かある?」

「なんだそりゃ。、いつもそんな風に初対面の他人に接するんですか? ちょっと意味がわからないんですけど」

 こちらもキッと睨みつける。なるべくなら世の中穏便に過ごしていきたいっていう自分のスタンスからはちょっと外れるものの、ここまで虚仮こけにされて「はい、そうですか」というのも違う気がする。


 しばらくの間、沈黙が流れる。



「……やっと本性現したってところかしら? 白砂しらさご そう君」

「本性っていうなら、そっちもでしょ……それで一体何なんですか、大事な話って。俺もそんなに暇ではないんでね」

 視線を酒井から一旦外し、腕時計で時間を確認する。実際、そんなに暇なわけじゃない。そんな俺の意図を察したのか何なのかわからないものの、酒井はふーっと大きく息を吐いたあとで続ける。


「あっそ。じゃぁ、担当直入に言うわ……これ以上、あの子に近づくのをやめて」


「……そんなこと、高専の先生が冗談で言うことではないよな?」

 冗談や酔狂で言ってないことは酒井の真剣な目を見ればわかる。俺は真意を確かめるために、そう返す。


「わかってる。普通に考えたら"頭おかしいようなこと"言ってるって自覚もある。でも、もう一回言うけど、これ以上あの子の生活を――彼女の『日常』を乱すようなことして欲しくない……」

 酒井の態度や表情がさっきまでと明らかに違う、どこか悔やんでいるようなものに変わる。


「……何故だって聞けば教えてくれるのか、その理由」


「君がヒナちゃんにもう会わないでくれるって言うなら」

 その苦悩に満ちた表情を見れば、酒井にも理由があってそう言っているのはすぐにわかる。


 でも、俺は――――


「……悪いけど、それは出来ない。俺は……俺はあいつを約束したんだ。木曜日の朝、あの小田急の電車で二人で論文を読む――って。あいつはそれを聞いて楽しそうに笑ったんだ。それを無下むげするなんて、俺にはできない」


 俺は声を荒げないように、ゆっくりと――それでいてはっきりと、まるで自分に言い聞かせるように告げる。それを聞いた酒井は黙ったままうつむく。


 また、重苦しい沈黙が続く。



「……それは、あの"服の下"のことが関係してるのか?」


 俺は思い切って翠が隠していたおびただしい数の傷のことを尋ねる。酒井は一瞬、ハッとしたような顔をして、またすぐに辛そうな顔に戻る。


「……そうか、君は見たんだったっけ」

「ああ。一緒に救急車に乗った時と、病院に運ばれてからの二度……見るつもりはなかったけど……」

 救急隊員の顔が一瞬で険しくなり、看護師や医師が思わず顔を背けたほどの数の傷があの小さな体の隅々まで散らばっていて、右の乳房の下から左の脇腹に向けて、特に大きな傷跡が残っていたことを思い出して、俺はぐっと両手の拳を握る。



「ちょっと来て」


 しばらくうつむいて考え込んでいた酒井が急に顔を上げ、俺をどこかに連れて行こうと左袖を引っ張る。


「ちょっ、何なんだ!?」

 訳がわからないまま、しばらく五色ヶ丘高専の古びた校舎の廊下を引きずられて歩く。酒井は「いいから!」と質問に答えようとしない。




「…………。学生に気づかれないように、静かにこの講義室のなかを見て」

 一つ階を上がった講義室らしい部屋の前で止まり、酒井はそう言う。俺は言われたままに講義室の後ろの扉の小窓から中をうかがう。教卓の前で話す教員らしき男と、私服の学生たちが机に座って講義を受けているいたって普通の――――



「……えっ!? ちょっと待て、なんだこれ……あれ……翠……なのか!?」



 一瞬、目の前に広がっている講義風景の"異様さ"に気がつかなかった。


 そこは講義室といっても階段式の備え付けの机と椅子がある大きな部屋ではなく、30-40人くらいが入ればいっぱいになるような小さな講義室で、私服の学生たちがパイプ机を並べて座っている。

 しかし、その机の配置は一定の配列ではなく、教卓の目の前に一つだけぽつんとあって、その周りを避けるように他の机が並んでいる。そして、その一つだけ離れた席には、見慣れた灰色のAbercrombie & Fitchのフードが見える。


「お、おい! あんた、これ!!」

 思わず声を上げて酒井の方を振り返る。

「しッ!! 大声を出すな。学生に気づかれる」

 その言葉にぐっと言いたいことを飲み込む。



「…………これは、私たちの"失敗"なのよ」


 酒井はうなだれたように下を向いたまま、ゆっくりと話し始める。


 その間、講義室の小窓の"向こう側"では、講義に飽きてきた学生たちがげらげらと笑いながら、丸めた紙きれのようなものを、翠のパーカーのフードにめがけて投げ入れて遊び始める。そのうちのいくつかが翠の黒い髪に当たっても、彼女はじっと耐えて必死に講義を受けている。


 俺は――――俺は、それを止めることもできずに、ただ、ただ見ていることしか出来ないでいる。握りしめた拳のなかで、血が滲むくらいに自分の爪が食い込む。


「ヒナちゃんがこの高専に入学するってだけでも、かなり大勢の人たちが本当にたくさんの支援してくれたの。もちろん、彼女の努力だって相当なものだったのは間違いないけどね。それ以上の善意の結果で、彼女はここにいる。

 それで、入学が決まった後で、私たち教員や学生支援課が彼女の生い立ちや生活――それにあの傷のことを支援者団体から聞いたときには、高専側も『相当注意深くケアしないといけない』ってことになって、私がその担当者になったの。学校としてもヒナちゃんほどの重いケースは初めてに近かったし、私も最大限努力した……したんだけど……」


「けど? けど、何があったんだ」

 俺は辛そうな顔をしている酒井に、さらに追い打ちをかけるように催促する。そうでもしないと、この小さな講義室のドアを蹴破ってしまいそうだった。


「……彼女がどんなつらい人生を生きてきたか、どんな生活をしているか、そんなこと中学生を卒業したばかりの15には、言葉は悪いかもしれないけど、"関係ない"のよ……私たちが彼女をケアしようと特別に扱えば扱うほど、それが同級生たちの目には贔屓ひいきのように映る――なぜ彼女だけ特別な対応なんだってね。

 ねぇ、知ってる? 高専って一般的には大学っぽいところだと思われてるけど、3年生まではね、ほんと高校みたいなところで、ちゃんと体育の授業があるのよ。でも、ヒナちゃんはあの傷のせいでみんなと一緒に着替えることができないから、特別な更衣室を用意したんだけど……それで『実は男なんじゃないか』って噂が広まってね。ほんと馬鹿みたいな話なんだけど、その部屋の隠し撮り事件があったりしてさ……」


「それで、あんたたちは何をしたんだ――


 最初の『私たちの失敗』という言葉に引っかかっていた俺は、拳を握りしめたまま、酒井に詰め寄る。


「…………私たちは……私たちは、彼女に『周りの同級生に理解してもらうためにも、自分の状況を説明してみてはどうか』と言ってしまった……もちろん彼女は嫌がったのだけれど、その説明の場まで用意してね……」


「なっ……なんでそんなことを……」

 俺は絶句する。


「その通りよ。周囲に説明して理解してもらえばきっと事態は好転する――という私たち大人の勝手な思い込みで……結果としては、彼女をさらに追い込んでしまった。

 傷のことや彼女の生い立ちを面白がった一部の学生たちのいじめはどんどんエスカレートしていって……それでも彼女は必死で『この学校に入るために支援してくれた人たちに悪いから』と、学校を休むことなく授業を受け続けたの。私たちにはいじめのことは何も言わず、必死に耐えながら」


 酒井の顔には後悔の念が滲み出ていて、「だから、これは言い訳だけど」と重苦しく吐き出した次の言葉も、誰かにわかってほしいというよりも、自分自身の懺悔のような印象を受ける。



「私たちは――いいえ、私はずっと気がつかなかった。彼女があんなに酷い目にあっていたことや、必死に耐えてきたこと、ましてやそれが自分たちが良かれと思ってやったことの結果だなんて…………旧校舎の裏で、噂を面白がった女子学生のグループに服を脱がされて、裸でうずくまって泣いてるヒナちゃんを見るまで」



 ――――言葉がでなかった。


 あんなにころころと表情を変化させて無邪気に笑ったり怒ったりする顔の下で、あいつはどんな過酷な現実と闘ってきたかと思うと、何も適切な言葉浮かばない。


 それと同時に俺は、自分の言った言葉を思い出す。



『翠はこういう感じの話する相手、ラボにいないの? 何か前に論文の話することは少ないみたいなことは言ってたけど……』


『でも、高専って確か5年制だろ? 5年間も一緒にいるんだし、誰か一人くらいはいるんじゃないのか?』



 結局、俺もこの酒井という教員と同じことしてしまっていたのではないか――そう考えるだけで目の前が真っ暗になっていく。


「…………これでも最近は落ち着いてきたの。四年生になって、着ている服が学生服から私服に変わったときも少しもめごとがあったのだけれどね。ヒナちゃんの――彼女の『日常』は私たちのそれとは違って、automatic自動的にに訪れるものではないのよ。必死で勝ち取ってやっと訪れた少しばかりの平穏、それが彼女の『日常』なの。

 だから――――こんなことを頼むのはおかしいのはわかってる。でも、君との話を嬉しそうに私に話しに来る彼女に対して、今、君が見ているような感じでまた嫌がらせのようなものが再開してしまったのは事実なの。だから――――どうか、彼女の『日常』を引っ掻き回すようなことは……しないで欲しい……」


「俺は――――――」


 その酒井の真剣な頼みにどんな言葉を返したかを、俺は覚えていない。




二、


「……そ……そう? 宗ってば! ちょっと聞いてるの!?」


「あ? あ、ああ……ごめん」

 翠はいつもの木曜日の電車の中で「何よ『ごめん』って! ちゃんと聞いててよね」とやっぱりいつも通り、表情豊かに怒る。そこには俺があの日みた光景を引きずっているような様子は何一つない。

「で、何だっけ?」

「だーかーらー!! これ! 今週と来週はあたしの番でしょ、これが論文」

 そう言うと、翠は『Cell』とロゴの書かれた論文のプリントアウトを一部、よこしてくる。一瞬、袖から手首が露わになって、そこにまだ新しい傷があるのが見える。

「翠、それ」

「えっ!? あ、ああ……ちょっと"ころんじゃって"……全然大丈夫だから」

 翠はさっと袖を下して、右手首を隠す。


「そ、それよりさ、今回の論文なんだけど、Chao CCって人たちの"Metabolic Control of Astrocyte Pathogenic Activity via cPLA2-MAVS"で、cPLA2-MAVS経路を介したアストロサイトの病的活性の代謝コントロール……であってる? 今回はまったく知らない分野の論文だから、ちょっと読むの苦労してるんだけど」


「あってるんじゃないか? アストロサイトの病的活性とか、cPLA2-MAVSってのが何かわからないけど」


 俺は渡された論文のタイトルを読んで答える。


「アストロサイトってのは神経細胞(neuron)を代謝とか構造維持とかで支持するグリア細胞(glial cell)の一つで、培養条件下では"星のようなastro"微細な突起状構造が維持できなかったり、生体内では観察が難しかったりで、ずっと何してるのかいまいちわかりきってなかったんだけど……最近になって、シナプス間隙で神経伝達物質の回収をしていたり、神経細胞のエネルギー代謝をバックアップしてたりがわかってきてるみたい。

 ――で、この人たちが言ってる『病的活性』っていうのは、"アストロサイトが炎症反応を誘起させて、神経変性が起こること"を指していて、それはこの研究グループの第4著者になっているMayo Lが前にNature Medicineに発表しているんだけど、アストロサイト内でβ-1,4-ガラクトシルトランスフェラーゼ6(B4GALT6)によって合成されたラクトシルセラミド(LacCer)っていうスフィンゴ脂質の一種が原因となるってことが示されているみたい。

 このLacCer由来の炎症と神経変性は、多発性硬化症と実験的自己免疫性脳脊髄炎(EAE)のマウスモデルで見られていて、この論文は2014年に発表されてるんだけど、180回以上引用されているし、この辺はわりとコンセンサス得られてるって感じかな」


「じゃぁ、今回のこのCellの論文は何をしたんだ?」

 俺は片手に吊革、もう片方の手に論文のプリントアウトをもって、論文の英文を目で追いながら、翠に尋ねる。


「今回はその炎症反応を起こすLacCerの代謝にどんな細胞内機構が関わっているのかを調べたって感じかな。それでさっき宗が言ってたcPLA2――細胞質ホスホリパーゼA2とか、MAVS――ミトコンドリア抗ウイルス性シグナルタンパクのCARDドメインってタンパクが関わってるのを見つけましたってのと、この分子をターゲットにゴーシェ病I型とかニーマン・ピック病の治療薬であるmiglustatって薬が、多発性硬化症にも適用拡大できるかも――ってのを見つけた論文」


「それは割と面白いんじゃないか?」

 率直な感想を伝える。

「結果……は、ね。確かに面白いと思うよ」

「……何か奥歯に物が挟まったような言い方だな」

「うー……とにかく英語が読みにくい! 長い名前の物質扱ってるから仕方がないのかもしれないけど……あと、結果が細かい棒グラフばっかりで飽きる」

 翠は頬を膨らませて言う。

「なんだそりゃ。じゃぁ何で選んだんだよ」

「仕方ないでしょ、配属されたラボのjournal clubでこの論文読むことになったんだから」

「おお!? そうなのか」

 初めて翠の口から五色ヶ丘高専での研究室の話が出てきたことにびっくりして、思わず素っ頓狂な声が漏れる。

「……うん? ちょっと待て。ということは、翠の課題に付き合わされていることになるんじゃないか、これ?」

「あはは、バレたか。まぁいいでしょ、メインで読むのはあたしなんだし」

 けらけらと翠は笑う。そのどこか儚げな笑顔が、今は本当に見ていて辛く感じてしまうようになっている。



「……なぁ、翠。研究室は楽しいか?」


「どうしたの、急に。楽しいよ。あたしと再来年で退官しちゃうおじいちゃんの教授一人しかいないんだけど、先生は丁寧に教えてくれるし……まぁ、退官前で科研費あんまりなくて実験はそんなにできないんだけどさ。うん、楽しいよ」

「そうか……」

 翠は俺の返事に「何だよ、それ」とまたけらけらと笑っている。なぁ、お前はその笑顔を作れるようになるまで、どのくらい"あの場所で"闘ってきたんだ――そんなことを考えた瞬間、車内アナウンスが流れる。



『まもなく相模大野、相模大野です。お出口は左側です。開く扉に手やお手荷物が引き込まれないようご注意ください。Next stop is ――――』



「えっ、ちょっと!? 宗!?」

 俺は翠の左手を引いて、そのまま閉まりかけていたドアからホームに降りる。

 発車ぎりぎりで降りた俺たちを奇異の目で見ている乗客もいたのだけど、それもすぐに電車が動き出すことで消え、ホームには何事もなかったかのように、今日のクリスマスを祝う音楽が流れる。


「えっ…………宗、一体何考えてるの!? 電車、行っちゃったじゃん!」

 翠は驚いた顔で声を荒げる。


「……もう冬休みのはずだ。今日は講義はないだろ?」

 俺はしっかりと翠の目をみながら話す。

「そ、それはそうだけど……でも、何で?」

 翠は戸惑ったように仄かに上気した顔でこちらを見上げる。その息は周りの12月終盤の空気で白くなっている。



「今日はクリスマスだろ? どこか……翠は行きたいところはないか?」


 翠は俺の言葉にもう一段びっくりしたような顔をしてから、すぐにうつむく。

「……それは……さすがに……"彼女さん"に悪いよ……」

 彼女? 何のことだと思って翠の視線を追うと俺の右手の薬指をじっと見ている。

「っぷははは、何だ、"これ"のことか」

 思わず吹き出してから、薬指にはまっていた古いリングを取り外す。それをそのまま、傍にあった『その他のゴミ』と書かれている箱の中に投げ入れる。

「えっ!? ちょっと、宗!!?」

「勘違いだよ、翠の。前の彼女と一緒に買ったものをずっとつけていた俺も悪かったけどな」

「で、でも……」

 翠は投げ入れたゴミ箱と俺の顔を交互に見ながら、はらはらとした様子でいる。

「そんなことより、ほら、どこか行きたいところはないのか?」

「……宗は、ないの? 行きたい場所」



「俺は――翠を連れて行きたい」



 俺を見上げる顔がさらに朱色に染まっていく。俺はそれ以上、言葉を続けない。



「…………それじゃぁ、"しながわ水族館"に行きたい」

 しばらくの間の後で、顔を真っ赤にしたまま、うつむいて普段とは違う消えるような声で翠がつぶやく。

「品川水族館? プリンスホテルだっけ?」

「ううん、じゃない。大森海岸の方……だめ……かな? 子供っぽい?」

「いや、そんなことない……何でそこなのか聞いてもいいか?」

 俺はまっすぐと翠の目を見ながら尋ねる。翠の目は少しだけ涙で潤んでいる。

「……お母さんがね、まだ元気だった頃に"最後に"行った場所……」

 詰まるような声で翠が答える。きっと今の俺には、を聞くことはできない。


「そっか…………京急だから、横浜まで相鉄で出て乗り換えるか」

 精一杯の強がりで何も気にしていないように装って、翠の手を取る。翠の手はすぐに折れてしまいそうに細くて、柔らかくて、温かかった。




 行こう――――"お前の行きたいところへ"





今週の論文:

Chao CC et al. Metabolic Control of Astrocyte Pathogenic Activity via cPLA2-MAVS.

Cell. 2019 179(7):1483-1498.e22.


(つづく)

※この物語に出てくる学校や駅名はすべて架空ですが、出てくる論文だけは本物です

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