第4週 "たとえそれが逃げだとしても"(Stanway RR et al, Cell 2019 ②)

一、


 スタッフや学生が一人、また一人と帰って、すっかり人の声がしなくなった研究室でパソコンに向かい、新しい論文の原稿を書いてる。それでも奥の教授室に行けば、たぶん先生はいるのだろうけど、院生部屋に来る気配はない。


 夜通し働き続ける研究機器と壁掛け時計のカチカチという音だけが響いている。


 下北沢から小田急を乗り継いで片瀬江ノ島行きでアパートのある鵠沼海岸へ帰る終電の23時36分まで、あと1時間弱――それはちょうど、と重なっていた。



 結局、翠とどう向き合っていいのかわからないまま、『論文書くのが忙しかったんだ』という言い訳に逃げてしまった俺は、せめて、その言葉を本物っぽくみせたいというちっぽけな自尊心からぎりぎりの時間まで残ろうと決めていた。


 音のほとんどしない研究室で、さっき自分で淹れた安物のインスタントコーヒーの香りだけがしている。外は雨が降っているようで、時折、風に煽られて窓にぶつかっている。その窓には、朝剃ってこれなかった顎のあたりのひげが青くなって、切るに切れなくて普段よりも伸びた髪の自分が映っている。その表情は少しやつれているようにも見える。


「……どんな顔して会えっていうんだよ」


 あの時、病室に出る前にしたように『僕は何も知りません』という顔でもしておけばいいのか……そんなことをぐるぐると考えながら、ぬるくなり始めたコーヒーカップを手にする。そのすぐそばには、あの日、翠に渡した論文のコピーのもう片方が置いてあって、俺はそれをもう片方の手で取る。


 アイツはこの論文を読みながら、あの狭い病室で今日一日ずっと俺を待っていたのだろうか――――そんなことをぼんやりと考えていた。




「あれ!? 人が居る? 宗君!? ……って、終電大丈夫!?」


 突然、ガチャリという音と一緒にスーツ姿の男性が院生部屋に入ってくる。

「川上さん!? あれ? 今日、の日ですか? ……って、もう10時ですけど」

 この研究室に社会人博士として在籍している川上さんは「まぁ当直明けで昼間寝てたからね」と笑いながら、自分のデスクにバックを置く。


「論文書きですか?」

 手にしていたコーヒーを一口すすってから何気なく尋ねる。

「あーそれもあるけど、ほら、来週のプログレス(進捗報告)、僕の番だからさ。その準備」

 川上さんはそう言って、広げたラップトップの画面を指さす。それから一言、二言何でもないような世間話をする。


「ああ、そう言えば"彼女"大丈夫だった? 僕はあの後はちょっと見に行けてないんだけど」

 川上さんはこちらを見ずに、パソコン画面を見ながらそう切り出してくる。何となくこういう鋭いところのある人だった。

「……ああ……その、俺もまだ行けてないです」

「ああ、そう。何かあった?」

「えっ、何でですか?」

「そういう顔してる」

 川上さんがいかにもという苦笑いをする。ひょっとして、今の俺は相当疲れた顔でもしているんだろうか。



「…………"あれ"、川上さんはどう思います?」


 少し間をあけて、俺は重苦しさを感じながら、その質問を口にする。


「"あれ"? ……ああ、傷痕の話か。十中八九、だろうね。それも……あれだけの数だ。ずいぶんと長い期間受け続けたように見える。宗君は気づいたかどうかわからないけど、彼女の足、両足とも植皮の痕がある。おそらくは火傷なんだろうけど」

 意外にもさらりと答える川上さんの言葉に面食らうと同時に、翠が足を布で覆うのが苦手と言っていたことを思い出す。


「……そんな……あるもんなんですか」

 絞り出した俺の言葉に川上さんは驚いたような顔をする。

「植皮が? それとも虐待が――ってこと?」

 俺はうつむいて視線を外したまま、「後者です」と答える。 


「……ふむ。平成30年の統計ではいわゆる『虐待』の通報件数は15万9850件とされている。一方で現在の15歳未満の児童数はおよそ1600万人――単純に計算してしまえば、実に100人に一人が虐待の経験があることになるね。もちろん、同じ児童に対して複数回通報があったり、その通報自体が該当しないものだったりはするのだろうから、実際にはもっと少ないのかもしれないけど」

「100人に一人……」

 俺はそれ以上の言葉を失ってしまう。

「さらに言えば、通報件数だけみれば2からね。それほど珍しい事案ではないということになるねぇ……もちろん良くない状況ではあるけど。確かにあそこまで酷いのは久しぶりに見たけど」


「そんなのって――」

「許せない? ……まぁ気持ちはわからないでもないけど」

「川上さんはアレを見て何も思わないんですか!」

 どこか他人事のように淡々と話す川上さんの態度に少し苛立ちを覚えて、思わず声を荒げる。

「……酷いとはもちろん思うけどね。じゃぁ聞くけど、あれを"許せない"として、君は――宗君はどうするのさ」

 川上さんはふうと大きく息を吐いたあとで、こちらの顔を覗き込む。

「それは! ……アイツが……翠が苦しんでいるなら支えてやりたい」

「ふーむ……支えてやりたい、ねぇ。 ……でも、君、まだ出会ったばかりって言ってなかったっけ?」

 もう一度ため息をついてから、自分のパソコンをカチカチと何度か操作しながら、今度は俺の顔を見ずにそう言う。

「それは……そう……ですけど」

 川上さんは俺の答えが弱々しくなったのを見逃さないように、じろりと振り返る。


「君の"支えたい"がどんなものなのかわからないけど、それは――――」

 川上さんは真剣な目をして、一拍、呼吸を置く。

「それは?」

 その間に込められた圧力に耐えきれなかった俺は問い返す。



「君の知っている彼女の名前が、――と知ってもかな?」



「えっ……本名じゃない……!?」

 一瞬、この人が何を言っているのか理解できずに言葉に詰まる。

「稀にあるケースでね。虐待を受けたことを本人が周囲に知られたくなかったり、元の家庭の再構築ができないと判断されたり……ともかく理由は様々あるけど、通名で生活することがあるんだ。その後、当該本人の申請を受けて、改名を許可されたケースも実際にある」

 真剣なままのその表情から、川上さんが冗談や脅しのつもりで言っているわけではないことが読み取れる。


 言葉が出ないまま、23時を過ぎた院生部屋に沈黙が流れる。


 

「…………川上さん……あんな若い女の子が本名以外の名前を使わないといけなくなる理由って……何なんですか……」

 沈黙の重さに耐えきれずにいた俺は、やっとの思いで言葉を絞り出す。


「さぁね。僕は彼女じゃないから知らないよ。それに知っていたとしても、守秘義務があるんでね――さっきのもだいぶヤバい橋渡ってるんだけど――これ以上、僕から宗君に教えることはできない。

 ただ、彼女の背負ってきた19年間というのは、きっと僕らの想像をはるかに超えた過酷なものだったのは確かだろう。それでもなお、君は出会ってたった数週間の彼女の受け入れて、かつ"支えられる"とはっきりと言えるのかな?」


「それは……正直わからないです……」

 普段見たこともないような真剣で、まるで俺の目をにらみつけているような川上さんの眼鏡の奥の眼光にたじろぎながら、そう答える。


「……なるほど。うん、いいね。いや、そこで『出来ます』って即答するほど頭に血が上ってるようなら、どうしようかと思ってたけど、君はちゃんと状況を把握しようと努めているのがわかる。

 彼女一人が突然通名で暮らしていこうと決めても、そんなことを許してくれるほどこの国の制度はよく出来ているわけではないからね。当然、周囲の多大な協力が必要で、彼女の学校だって最大限の配慮をしている。彼女のクラス担任だというあの女性教員も、彼女が一年生の頃からケアしていると話していたし。

 そういう彼女が今まで苦労して作り上げてきた環境を、君の突発的な"支えたい"が壊してしまうこともあるかもしれない――ってことはちゃんと理解しておくのがいいだろうね。しかし、それとは別に宗君にしかできないことは他にちゃんとあるんじゃないのかい? ……本当は予定だったんだろ?」


「え? どうしてそれを……」

 俺の返答に、今度は短くはぁと息を吐いてから、川上さんが続ける。


「担当している看護師さんたちに、きらきらした顔で『人を待ってる』って話していたみたいだよ。彼女、自分では気づいていないみたいだけど、周囲の人間を惹きつけて離さないような行動を取るんだよね。うちの――特に年配の看護師さんたちがもうメロメロになっていてねぇ。

 LINEで『どうなってるんですか!』って僕のところに来たってわけ……そして、今や君は約束をすっぽかして、あんな可愛い子に寂しい思いをさせた『世紀のクズ男』として有名になってるよ、あの病院で」


 今度はからからと笑う。


「……川上さん、もしかしてそれを伝えに?」

「まさか。さっきから言ってるでしょ、僕の目的は"プログレスの準備"だよ」

 そう言うと、川上さんはひょいひょいっと手を振って、『早く行け』というサインを出す。

「そうでしたね……でも、ありがとうございます。俺、川上さんのことtwitterで肌色面積の大きな画像をリツイートするだけの人だと思ってましたけど、なんかカッコよかったです」

「ははは、なんだそりゃ」

 俺の言葉に目を丸くした川上さんが声を出して笑う。

「それじゃぁ、俺、行きます」

 俺はそう言って、23時を少し回った研究室を後にする。



「…………さぁ走れ、走れ少年。きっと君たち二人の前に立ちふさがるのは、名前小さな問題なんかじゃなく、もっとはるかに大きなものだ。

 でも、二人一緒なら乗り越えられるっって漫画みたいな展開が、現実にもあるんだってところを、世の中にだいぶ疲れてきたこのおじさんたちに見せてくれ…………っと、この画像なかなか良いな。RT、RTっと」


 自分以外誰もいなくなった院生部屋で、自分の分のコーヒーカップを片手にスマフォを操作しながら、川上は誰に聞かせるわけでもなくつぶやく。さっきよりも強くなってきた雨と、休むことを知らない研究機器の音だけが響いていた。





二、


「知らなかった、"明日"って24時間以上先のことなんだね」


 病室のベットの上で上半身を起こした翠がこちらを見るなり言う。


「……翠まで言うか。さっき廊下で看護師に散々言われたのに……悪かったよ」

 俺は襟足を掻きながら、さっき年配の看護師に散々言われたことを思い出しながら、苦々しく言う。

「うそ、うそだよ。気にしてない。宗も忙しいんだものね」

 あははといつもと同じように、翠が大きく笑う。その後で、俺の左手の紙袋を指して、「何それ」と続ける。

「ああ、これ? 言っただろ、"おみやげ"買ってくるって。時々用事で湘南台に行くんだけど、そこでたまに買うんだよ。湘南ボードウォークっていう……っておい!」

「いいじゃん! おみやげなんでしょ? ……甘ッ」

 俺から無理矢理紙袋をはぎ取って、包みを開けて一粒口に放りこむ。

「……嫌いか?」

 俺は反応を確かめるように尋ねる。

「ううん、全然! 甘いものは……その……ちょっとだからさ」

「そっか……それは良かった」

 きっとその"しばらく"にも何かの意味や理由があるのだろうけど、俺は川上さんの言葉を思い出しながら、美味しそうに生チョコレートの粒をもう一つ頬張る翠を、ただ見ている。



「…………何も聞かないんだね」


 意外にも翠の方からそう切り出してくる。

「聞いてほしいのか?」

 自分のバックをベットの横のサイドテーブルに置いて、翠が破り捨てたままになっていた包み紙を片付けながら答える。


「ううん、全然」


 翠はそう言って、にこっと笑う。その笑顔はどこか儚げで――ちょうど雲の切れ間から差し込んだ冬の太陽の光で髪が紅く透けて、どこか消えてしまいそうな、そんな印象を受けてしまう。

「……じゃぁ、聞かない。いつか話したくなった時に話してくれればいいよ」

 俺は自分自身を納得させるようにゆっくりと応える。


「……宗は優しいね」

「そうか? 本当に優しいならもっと親身に話を聞いたりするもんだと思うけど」

「ふふ、あたしはちょっとそういうの苦手だからさ」

 翠はもう一度にっと笑う。

「そっか。まぁそれならそれで良かったよ」

 答えになっているような、なっていないような俺の返事に「なにそれ」とけらけらと笑ったあとで、翠は優しく微笑んだままじっと俺の目を見つめる。普段なら照れ臭くてすぐに「何だよ」と顔を背けるはずなのに、そのどこか真剣な眼差しに目が離せないでいる。




「宗――――あたしはね、宗のこと好きだよ。、好き」




 突然の言葉にハッとして言葉を失ったままの俺にもう一度優しく微笑んでから、胸に手を当てて翠が「今までこんな気持ちになったことがなかったから、ずっとこれが"好き"ってことなんだって気づかなかったんだけど」と続ける。


「俺は…………」

 翠の真剣な想いにどう答えていいのかわからずに、言葉が出ない。


「ううん、いいんだよ……きっと宗には"素敵な人"がいるんだろうなって思ってたし。ただ、なって思ってただけだから。あと、それから……できれば、論文抄読会は続けて欲しいって思ってるんだけど」

 翠はさっきまでの透き通るような笑顔とは違い、少し困ったように笑う。

「……ああ、わかったよ」

 その翠の純粋な感情に応えることも何もできないまま、そんな曖昧な答えだけを切り返す。川上さんの言う通り、まだ何も向き合えていない自分を感じる。それでも翠は「ありがとう」とありったけの強がりでまた微笑む。



 しばらく、無言のまま時間が過ぎる。だいぶ冷たくなった風が窓を叩いて、病室の扉の外では誰か子供が歌うクリスマスソングが流れている。



「あっ!! それはそうと、この論文――宗の話と全然印象違ったんだけど!」

 先に耐えきれなくなった翠が、大声を上げる。

「お、おう。突然だな」

 それに、いつもの小田急の車両のなかと同じように返事をする。


「全然"パワープレイ"なんかじゃない。本当にアプローチも面白い論文だった! DNAバーコードもちゃんとBarseqのデータとして使ってる」

 翠はふんっと鼻を鳴らして、書き込みでぐちゃぐちゃになった論文のコピーを突き出す。


「そうだな、俺は最初、この本来遺伝子があった場所に代わりに組み込まれて、遺伝子機能を破壊するバーコードを、単なる『遺伝子の場所』を示すためのタグだと思っていた。

 でもそうじゃなくて、彼らはそれぞれのノックアウト個体が、蚊の中にいる時期、ヒトの肝臓内にいる時期、ヒト血中にいる時期というそれぞれの生活環でどのくらい増えたり、減ったりするかを測るために、最初のノックアウト個体が持っていて、子孫に確実に伝えられる情報としてバーコード配列を使った。

 それで時期ごとにマラリア原虫のゲノムを回収して、その中に含まれているバーコードを次世代シークエンサーで読んで、その『量』を測ることで、その時期に原虫がどのくらいいたのかを推定する。だってことだからな。

 そうやって薬剤耐性が起きやすいヒト血中期ではなく、肝臓期に特異的な代謝経路を見つけて、次の創薬研究につなげていく……確かに賢い」


 終電で帰りながら、いつもよりも必死に読んできて思ったことを口にする。


「それを別に構築してたゲノムスケール代謝モデル(GEM)と組み合わせて、時期特異的に必須な代謝経路を見つけていく……正直このゲノムスケール代謝モデルって方法はいまいち理解はできなかったんだけど」


 翠が俺の言葉に続ける。


「日本にも研究してる先生が何人かいるみたいだな。近くで講演されるときに聞きにいけばいいさ」

「……高専生でも聞きにいけるかな?」

 首をかしげて俺の顔を覗き込む。

「聞けない理由がない。なんなら、俺が連れていく」

 今度は俺がにっと笑う。

「うん! 楽しみにしてる」

 そう言った翠の笑顔は、さっきの儚げなそれとも、困ったようなそれとも違う翠の笑顔だった。




 やっぱり宗は優しい。きっとあたしの身体のことも知ってしまったのに、何も聞かずにこうして論文読みを続けてくれる。それがたまらなく心地良い。あたしの想いは届かなかったけれど、それでもこう思ってしまったんだよ――――



 どう翠と接したらいいのかなんて、正直、まだわからない。それに翠の想いに応えることも、今の俺にはできない。でも、ラボで誰かと研究の話をしている時とは、何か違う心地良さを感じているのも事実だった。だから、俺はこう思ってしまったんだ――――

 



 『この一瞬がずっと続けばいいのに』




 ――――たとえ、それが逃げだとしても。




今週の論文:

Stanway RR et al. Genome-Scale Identification of Essential Metabolic Processes for Targeting the Plasmodium Liver Stage. Cell. 2019 179(5):1112-1128.e26.


(つづく)

※この物語に出てくる学校や駅名はすべて架空ですが、出てくる論文だけは本物です

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