番外編 "フェアじゃない"(Regalado A, MIT Technology Review 2019)
※翠が倒れる少し前のお話
「あれ? ……宗? 今日、木曜日じゃないよね?」
開口一番、俺を見つけた濃い灰色のパーカーを着た背の小さな"Cellの君"はそう言う。車両がガタンと大きく揺れて、大和の駅から動きだす。
「ああ、ちょっと湘南台に用事あってな。翠こそちょっと遅いんじゃないか?」
「あー……まぁね。ちょっと体調悪くって」
確かにぱっとみただけでも、顔色が少し悪い気もする。
「そうか……俺がどうこう言うのもおかしな話かもだけど、無理するなよ」
「ううん、ありがとう……って、それ、何読んでるの?」
そう言って、翠は俺の手元のiPadを指さす。
「これ? ……ああ、一年くらい前かな、中国でCRISPR/Cas9でゲノム編集した双子の女の子が生まれたって話、ニュースになったの覚えてないか?」
「ああ! うん、覚えてる!」
さっきまでちょっとつらそうに吊革にしがみついていた翠の顔が、ぱっと変わる。
「あの著者たちが論文を提出していたんだけど――結局、どこにも掲載されなかったんだけど、その論文原稿をMIT Technology Reviewという科学雑誌が手に入れて、それを専門家チームに分析してもらった……という記事が出てな。その記事を読んでたってわけ」
「宗って、そっちが専門だっけ?」
「いや、違うけど……まぁ、分野外の記事読むのは英語の勉強でもあるしな」
「それはそれは殊勝なことで。そのくらいCellの論文も読み込んでくれるとあたしも話し甲斐あるんだけど」
にたりと翠は意地悪そうな顔をする。
「……はいはい、わかったわかった」
何度かこの小生意気な"Cellの君"とこの奇妙な論文読みを続けてきて、ちょっとだけ対応の仕方がわかって来た気もしている。この場合は適当に切り上げる、が正解。
「むー!! 何よ、その態度! ……で、そのMIT Technology Reviewって何なの? MIT(マサチューセッツ工科大学)の雑誌?」
ふくれっ面のまま、翠が尋ねる。
「1800年代の大昔はな。1998年に経営者が変わった時に、MITとの関係はかなり薄れてる。今は純粋な"民間の"科学雑誌だよ。日本版はKADOKAWAだしな」
「ふーん。でも、『専門家チームに解析依頼する』とか、そういうところは何か日本ではあんまりみない感じするけど」
「そうか? 前に日本での論文捏造事案の時に日経サイエンスとかもやってたぞ?」
俺は以前、何かの折に読んだ日経サイエンスの記事の話を思い出す。
「ふーん、そうなんだ。でも、あたしはその時まだ中学生だしね、お・じ・さ・ん」
「ちっ……ここで若さマウントか……ウザい」
得意気な表情でこちらを見上げる翠の顔が、途端に生意気に見えてくる。
「はは、もっと悔しがりなさい! ……で、どうなの? その記事」
「うーん、一言で言うと『まだ何もわからない』って段階だよ。せっかくの論文データがあるのに、専門家チームも倫理面ばかりの指摘で、踏み込んだ解析がまだできてないって感じなのがわかる」
「えっ、そうなの? ちょっと見せてよ」
そう言って、翠は俺のiPadを覗き込もうとする。
「あーダメだ。一応、有料の雑誌だからな。翠の学校で購読契約しているのかどうかわからない以上、見せることは無理」
「えー!? 宗、そういうところ、何か頑固だよね」
「……何とでも言え。ダメなもんはダメ」
「じゃぁ、宗が読んだ感想は? 感想ならいいでしょ?」
うーんと一寸考えこむ素振りをした後で、翠が尋ねる。
「それなら、まぁ……さっきも言ったけど、これはまだ『解析途中』という印象だが、それを踏まえて、あえて言うなら、これは――――"フェアじゃない"だな」
「えっ!? どういうこと??」
驚いたような顔で尋ねる翠の声が予想以上に大きかったのか、周囲の乗客も何事かとこちらを振り返る。
「まず、この記事の著者であるRegaladoは、この論文原稿の出どころを明らかにしていない。つまり、この論文原稿が実際に投稿されたものなのかそうじゃないのか、リバイスかかったものなのか、査読者(レフェリー)に回らずにリジェクトされたものなのか、あるいはリバイス後の修正稿なのか……一切、わからない状態なんだよ。
その前提で、著者たちが連絡とれない状況になっている今、この原稿について討論するのは、いわゆる『欠席裁判』のような感じがする。本来は著者たちに確認をとったのかどうかを書くべきだと思うんだけど、それは俺が読んだ範囲ではなかった……もちろん、俺が読み込めてない可能性はあるけど」
「記事の中身としてはどうなの?」
なるほど、とうなづいた後で、翠が続ける。
「倫理的なことは正直わからない。中国やアメリカ、それに日本国内の規制について詳しいわけじゃないからな。技術的には……」
「技術的には?」
翠が興味深々といった様子で俺の顔を覗き込んでくる。顔が近くて、どきっとしてしまう。こういうところが無防備なんだよな、コイツは。
「……そもそも図を一枚しか公開してないから、判断ができん」
「えーーー!!? 何それ」
さっきよりも大声で、周囲の乗客たちが何だ何だと声に出して訝しがる。
「もうちょっと静かに……さっきも言ったように、この記事自体はどちらかというと倫理的な面にフォーカスしているんだよ。技術面としてはHank Greelyという人やFydor Urnovというゲノム編集の専門家の意見が記事内にあるんだけど、彼らの言葉から想像するしかないんだよな。図が出てないんだから。
で、Greelyの意見でHIV感染への抵抗性を持つCCR5の32塩基欠損アレル(CCR5 Δ32)が著者たちの施術で出来ていなかったことが指摘されてるから、専門家チームの意見は『CCR5 Δ32が出来ていない以上、この施術の有効性はわからない』ってことになってる」
「宗も同じ意見?」
まっすぐな目で翠が尋ねる。
「いや、ちょっと違う。著者たちのゲノム編集で出来ていた別のタイプのCCR5改変アレルが本当にHIV感染への抵抗性がないのかどうかは、専門家チームも知らないはずだ。実際この実験をやったことないはずなんだし。だから、俺の意見は有効性が怪しいではなくて、『わからない』だよ。でも、例によって日本語のニュースサイトはこぞって、"虚偽"と書いていて、ちょっとうんざりする……というか、腹も立ってくる。だから、俺の感想は"フェアじゃない"に尽きる」
「フェアじゃない――か。うん、何か"宗らしい"」
翠は少しうつむいて、胸に手を当ててそうつぶやく。
「はは、何だよそれ。まぁ確かにJeanne O'Brienという専門家が、『彼らの論文のマテメソ(方法)に書かれてる体外受精のスケジュールは実施不可能ではないか』とか、技術的にクリティカルな指摘もあるのは間違いないけどな。でもだからと言って、日本語のニュースサイトで見る『いかにも実施したのが嘘だった』ととれる記事の書き方は明らかにミスリードだよ。そこは科学的に論じるべきところだ」
「何か、そういう宗の真面目なところ、あたし好きだな」
もう一度、俺の顔を覗き込んでしっかりと、まっすぐな目をして、翠がそう口にする。その最後の言葉を発する際のリップクリームで光沢がついた淡い朱色の唇が滑らかに動くシーンが、まるで映画のワンシーンのようにスローモーションになる。
「!? な、何を――――」
『まもなく五色ヶ丘、五色ヶ丘です。お出口は左側です。開く扉に手やお手荷物が引き込まれないようご注意ください。Next stop is ――――』
「あっ、降りないと。じゃぁ、また来週ね、宗!」
そう言い残すと、Abercrombie & Fitchの灰色のパーカーの後しろ姿が足早に駅のホームの奥へと消えていく。
「…………ったく、何で毎回意味深な言葉残して去るんだよ、アイツは」
『五色ヶ丘』という駅名の看板が水平に滑っていく車両の窓の向こうに、誰に言うでもなくつぶやいて、それに少し気恥しくなった俺は襟足を掻いた。
今週の論文:
Regalado A, China’s CRISPR babies: Read exclusive excerpts from the unseen original research. MIT Technology Review Dec 3, 2019.
(つづく)
※この物語に出てくる学校や駅名はすべて架空ですが、出てくる論文だけは本物です
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