第3週 "聞くことができなかった"(Stanway RR et al, Cell 2019 ①)
一、
最寄りの鶴間から20分くらい歩いて、着いた大和から小田急の快速急行に乗って、学校のある『五色ヶ丘』までの30分ちょっとの合計1時間の通学時間。
本当は鶴間から各停で中央林間まで出て、そこで乗り換えた方がいいんだろうけど、まだ高専に入りたての頃にそのルートで通学してお財布をなくしたこともあって、何かそれから習慣のようにこの通学路になったんだよね――うん、たぶん自分でもそれ以外の理由はわかんない。
まるで、今、目で見ている景色からAdobeのソフトを使って彩度を下げたような灰色の街と、銀色の箱にぎゅうぎゅうに押し込められる無表情な人たち。毎朝繰り返されるそれは、あたしが高専4年生になって、着ている服が制服から私服に切り替わっても、何も変わらない。
そういうものに飲み込まれたくなくて、学校でプリントアウトした学術論文を読もうと思ったのがそもそもの始まり――ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ"カッコつけたい"ってのもあったかも。
最初はどの論文読んでいいのかわからずに、ただ自分が好きな色の青いロゴに惹かれて『Cell』の論文を選んだような気がする。よく覚えてないけど、何か、そんな不純な感じだったかな。
誰もいない6畳一間の部屋とキッチンにユニットバスだけの小さなアパートに読んだ論文のプリントアウトが、一つ、一つとまるで賽の河原の小石みたいに積みあがっていくうちに――――ほんの少しだけ変化が現れた。
「お、ちゃんと今週も来たな……って、また寒そうな恰好して」
――――"彼"だ。
「……
「な、なまって…………あーもう、心配して損した気分になった」
ちょっとからかっただけで顔を真っ赤にして襟足を掻く、あたしよりもずいぶんと背の高いこの人のことを、あたしはまだ何も知らない。『宗』って名前と、大学院生だってことは知っているけど、どの大学かも知らない。着ている服も身に着けているものもどこかお洒落で――男の人の服なんてわからないけど――きっと"ちゃんとした"家庭で育ったんだろうなとか何となく思う。
「…………あたしとは違って」
「うん? 何か言ったか?」
「ううん、何も。それで、今週と来週は宗の番でしょ? どんな論文にしたの? 早くしないと五色ヶ丘着いちゃうよ」
何回かこのヘンテコな論文抄読会を重ねていくうちに、あたしたちのなかで自然とルールが出来上がっていった。
① 二週ずつ交互に担当になって、② 一週目は担当者が二人分の論文のプリントアウトを渡して概要を説明、お互いそのプリントアウトを持ち帰ってそれをじっくり読んで、③ 二週目でお互いが言いたい事を言う――――そんな感じ。
でも、相手にそれを強制しているわけではなくて、ゆるく、本当に何となくそんな感じになっているだけ。
「おう、そうだった。今回はこれにした……Stanway RRたちの、マラリア原虫の生活環(Life-stage)特異的な代謝経路を1300個以上のノックアウト(遺伝子欠損変異体)作って見つけ出したってやつ」
そう言ってバックから二部のプリントアウトされた論文を取り出して、そのうちの一部をあたしに手渡す。右手の指に
(……右手の薬指、か)
そんな論文とは全く関係ないことが一瞬頭をよぎったことに、何より自分自身が驚いてしまって、ぶんぶんと頭を振る。
「お、おい、何だよ急に」
「あ、ごめん。何でもない…………それよりノックアウトを1300個ってすごいね」
「だよな、マウスとかラットじゃぁ、とてもじゃないけど考えられない。
まずこの論文のセカンドオーサー(第二著者)であるBushellたちが、『PlasmoGEM』っていうマラリア研究のためのプロジェクトで、ウェルカム・トラスト・サンガー研究所が配布しているバーコード付きの遺伝子ターゲティング用ベクターを入手して、それを使って2017年に大量の――2500を超えるノックアウト個体を作りだして、そこから目的にあった1342系統のノックアウト個体に解析対象を絞ってる。これは別の論文ですでに発表されているんだけどな。
その仕事の続きとして、Stanwayたちはこの論文で、その1342個体の表現形を解析して、自分たちが見たかった現象について変化が起きているノックアウト個体をピックアップし、そのノックアウト個体が『どの遺伝子が変異していたか』を、ベクターが持っていたバーコード配列を読んで明らかにしている。
最初にノックアウト個体の表現形を見て、そこからその表現形にはどの遺伝子が重要だったのかを明らかにしていくっていう『表現形-driven』とか、順遺伝学(フォワードジェネティクス)って呼ばれるようなアプローチに近いかな。
俺は最初、彼らの言う"バーコード"って単語に少し引っかかったんだけど、ここでいう"バーコード"は、ポジショナルクローニング(対象となる表現形の責任遺伝子が染色体上のどこにあるかを検出する方法)のための、"タグ"って解釈でいいのかな? ちょっとまだ『PlasmoGEM』について調べきれてないのと、論文も完全には読み込んでないから、この辺は来週への宿題だな。
……というか、意外だったな。
「ははは、なにそれ。別にお金かけて網羅的に調べる論文が嫌いってわけじゃないよ。何かその論文にしかないような、凄く面白いアプローチしてる論文の方がより好きってだけ」
あたしがそう答えると、宗はにやりと笑う。
「それがな、あるんだよ。この論文にもそういう"面白いアプローチ"ってやつが」
「えっ何それ!? 知りたい!」
あたしはただ純粋にそう思って、尋ねる。そうだよ、これが"本当の"あたしのはずだ。さっき頭の中をよぎった、これまで感じたこともなかった感情なんて、あたしは知らない……知らなくてもいいはずなんだ。
「俺も原虫のことなんて学部の頃に少し習っただけですっかり忘れてたんだけど……マラリア原虫って、蚊の体内にいる時期と、蚊がヒトの血を吸うことでヒトの体内に侵入して、肝臓の細胞で増殖あるいは休眠する時期、そして、その後で形を変えて血液に移動する時期があって、この時期のヒトの血を吸った蚊がまた別のヒトの血を吸うことで伝播していくって生活環らしい。
で、ヒトに貧血とか重篤な病変起こすのは、このなかでも血液に原虫が移動しているステージだから、これまでのマラリア原虫に対する薬のターゲットは、この血液期にフォーカスされていたんだよ。ところが最近になって、さっきのBushellやAntonova-Kochって人たちが、『肝臓期の原虫をターゲットにした創薬』について報告し始めた」
「うん? "最近"? "報告"? ……宗、それだとこの論文はすでに行われていることの追試とか拡張で、"この論文が面白い"ってことにならなくない?」
「そう! そこなんだよ。このStanwayたちは、翠が言うように、すでに発表されていたスキームにのっとって、ただ肝臓期についてただぼんやり調べたってわけでは、もちろんない。
Stanwayは、『2-5日っていう短時間で、1000個もの娘細胞を作り出して、かつサイズも巨大になっていくという、様々に変化していくマラリア原虫の生活環のなかでも、特に特徴的な時期なのに、栄養源は血液期と同じく宿主であるヒト細胞からだけ供給されている。そうであれば、栄養供給側の違いというよりも、原虫側にきっとこの時期特異的な代謝経路があるに違いない』と考えて、代謝関連遺伝子を中心に調べてる。そして、実際に7つもの特異的な代謝経路を見つけてるんだ。
どうだ、これ凄く"面白い"だろ?」
「何それ! 『栄養源変わらないんだから、原虫側の代謝が時期特異的になってるはずだ』とか……うん、凄く面白い!!」
あたしは素直にそう口にする。
「だろ? 昨日さ、ラボの"友達"にも話したんだけど、二人で盛り上がってさ。 ……翠はこういう感じの話する相手、ラボにいないの? 何か前に論文の話することは少ないみたいなことは言ってたけど……」
「あ……うん……ちょっとね」
話が嫌な方向に進んでるなって感じると同時に、お腹のあたりが内側からぎゅうって掴まれたみたいに痛む。
「でも、高専って確か5年制だろ? 5年間も一緒にいるんだし、誰か一人くらいはいるんじゃないのか?」
――――きっと、宗にはわからないんだよね。
「……ん? おい、翠? 顔色悪くなってないか?」
5年間も一緒にいれば……ってことは、逆に言うと一度関係作りに失敗しちゃったら、5年間ずっと"独りぼっち"でいないといけないんだよ。きっと、宗にはわからない……ああ、嫌だな。何か本格的にお腹痛くなってきちゃった。
「おい、翠? 大丈夫か、おい――――――」
二、
「……あれ? どこだっけ、ここ」
知らない真っ白な天井に蛍光灯が光ってる。どうもあたしは横になってるみたいで、腕には点滴のチューブがつながってる。
「――――気がついたか? "
「えっ!? 宗? 何であたしの名前!」
突然すぐ近くから聞こえた宗の声に驚いて、本来なら『自分に何が起こったのか』とか聞かなくてはいけなかったはずなのに、そんなとんちんかんな言葉を投げかけてしまう。
「そこかよ……悪いとは思ったけどな。駅員と救急車のお兄さんと一緒にバックの中確認して、連絡先探させてもらった。……ったく、今どき携帯も何も持ってないみたいだからな、パスケースの中に入ってた学生証から五色ヶ丘高専に連絡した。多分、そろそろ電話に出た教員が到着するはずだ」
「…………何か……その、ごめん……」
あたしの消え入るような言葉を聞いて、宗はふうと一息だけ吐いてから応える。
「謝ることじゃない。突然体調悪くなることは誰にだってある。それにたまたまだったけど、この病院はラボの社会人博士の先輩が勤めてるからな、煩わしい感じのことは全部その人がやってくれた。ただ、こういうとっさのこともあるんだし、緊急の連絡手段と連絡先は持ってた方がいいだろうな。それと――――」
「……それと?」
「メシはちゃんと食え」
「っ!?」
タイミングよく――というか、悪く――ぐううっと大きな音がお腹からなって、顔の周りが一気に熱くなる。それを見た宗は、はぁとまた一つ大きなため息をつく。
「……どうやら到着したみたいだな」
パタパタという病院スリッパの足音が、だんだんとこちらに近づいてくる。それからちょっとだけ間をあけて、大きな音を立てて病室らしいこの部屋の扉が開く。
「ヒナちゃん!!」
飛び込んで来た長身のスーツ姿の女性は、ベットで横になっている私を見て、心配そうに声をかけてくる――――クラス担任の
「……えっと、電話で話した……サカイ先生でよろしかったですか?」
「あ、ああ、すみません。取り乱しちゃって……あなたが電話くれたソウさん?」
「ええ。さっき電話でも伝えましたが、"日當瀬さん"の詳しい状態や今後のことについては、この病院のスタッフに聞いて下さい。俺は先生が到着したことを担当の看護婦に伝えてから帰ります。あと、駅員があとで連絡が欲しいと言っていたので、そちらにも――」
宗がてきぱきと酒井先生に連絡事項を伝えていく。
その中で出てくる『日當瀬さん』という言葉は、あたしの名前のはずなのに、どこか遠く、とても冷たい言葉のように聞こえて、何故か今度は胸が締めつけられる。
「……それじゃぁ俺はそろそろ大学行かないといけないので、これで。何かあったら、この連絡先に連絡下さい」
そう言って紙切れを一枚、酒井先生に手渡した後で、宗は病室を出るために扉に近づいていく。そのまるで知らない誰かのような背中に向かって、あたしは……あたしは精一杯の声を振り絞る。
「あ、あのっ! 宗! ……あたし、この論文読みの続き……やりたい……」
振り返った宗は一瞬きょとんとしてから、「ああ、明日は少し忙しいから夕方になるけど、ついでにお見舞いに何かもってきてやるよ」といつもと同じ優しそうな顔で応えて、そのまま病室の外に消えていく。彼の足音が聞こえなくなってから、今度は酒井先生があたしに話しかけてくる。
「……へぇ、優しいそうな人じゃん。でも、ヒナちゃん、いつの間に彼氏できたの?」
――違う。あたしはそんなんじゃない。
「凄いよね、彼。東京大学大学院だって」
――違う。彼がどこの学生だとかそういうのが聞きたかったんじゃない。
「電話でもてきぱきとしてて、しっかり者というか……って、ヒナちゃん? どうしたの? まだ痛む!?」
あたしの両方の眼からは、ただぼたぼたと大粒の涙がこぼれ落ちていく――違う。あたしが本当に聞きたかったのはそんなことじゃない。あたしはどうしても"聞くことができなかった"んだ。
――――あなたは、私のことをどこまで知ってしまったの、と。
三、
中央林間の駅からタイミングよくやって来た新宿行きに乗り込んで、流石にこの時間には空いている座席に腰を下ろす。電車の発車ベルがなり、景色が水平に滑っていくと、俺はどことなく違和感を覚えていた。
12月の東京の灰色の空と、電車の中吊り広告に踊るクリスマスの文字。きっと客観的な状況は毎年のそれと何一つ変わっていないにも関わらず、木曜日のこの電車にしては"何か"が足りない、そんな風に感じてしまっている。
『まもなく五色ヶ丘、五色ヶ丘です。お出口は左側です。開く扉に手やお手荷物が引き込まれないようご注意ください。Next stop is ――――』
それはきっとこの駅で降りるはずだった、いつも『Cell』の論文をしかめっ面しながら読んでたあの女の子のことで、俺は自分のなかでアイツの存在がいつの間にかこんなにも大きなものになっていたことに少し驚いていた。
「…………何が『明日は少し忙しいから夕方になる』だよ」
そしてすぐに、自分がさっき
俺は、どうしてもアイツに"聞くことができなくて"、単に話を……涙を溜めた目を真っすぐに向けてくるアイツの視線を逸らしたかっただけなんだ。
――――その灰色のパーカーの下に隠くしてあった、思わず医者でさえ目を背けるようなおびただしい数の傷や痣のあとは何だ、と。
今週の論文:
Stanway RR et al. Genome-Scale Identification of Essential Metabolic Processes for Targeting the Plasmodium Liver Stage. Cell. 2019 179(5):1112-1128.e26.
(つづく)
※この物語に出てくる学校や駅名はすべて架空ですが、出てくる論文だけは本物です
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