第2週 "色々とあるんだよ"(Li R et al, Cell 2019 ②)


「おどろいた、本当に来たんだ」



「……何だそれ。来週にこの時間のこの車両でって言ったの、だろ」

 俺の顔を見るなり、きょとんとした顔をしたすいに対してやや呆れてそういう。


「……だから"それ"やめてって言ってるでしょ、そう。あたしは翠だって。ちゃんと名前で呼んで」

「お、おう……え、えっと、じゃぁ……えっと……す、翠」

「よろしい! ……うん? 何かおかしいこと言った、あたし?」

 よく知りもしない女子を初めて下の名前で呼ぶという緊張感よりも、翠のその勝ち誇ったような顔が、あまりにもおかしくて思わず吹き出してしまう。


「……いや、コロコロと表情変わって大変だなって思って」


「ああ、そういうこと。"また"変なことしちゃったのかと思った。 …………でもね、宗。感情って、ちゃんと定期的に"表"に出してあげないと、声の出し方とか表情の作り方とか、諸々のことを心が忘れてしまうんだよ」


 「うん」と最期にうなづいているのは、たぶん俺に聞かせるというよりも、何か自分に言い聞かせているようにも見える。ガタンッと大きく揺れて、青いラインの引かれた銀色の車両が大和の駅を発車する。俺はその揺れで「きゃぁ」と子供っぽい声を上げた"Cellの君"に、どさくさまぎれにもう一つ、気になっていたことを話す。


「なぁ……あのさ、もう11月ももう終わる頃だし、その……寒くないのか、それ」


 吊革を持っているのとは反対側の手で、翠の足を指さす。今日もまたAbercrombie & Fitchとロゴの書かれた暗い色のフリースパーカーの下はショートパンツでストッキングなどは履いていない。誰の目にも季節感がばらばらなのは、さすがに女物の洋服にうとい俺でもわかる。


「ああ、これか……やっぱり、かな?」


 そう言って、翠が細長い指ですそを少しめくる。すると、内側に隠れていたもう一段白い脚の付け根が見えてしまい、そのあまりの妖艶さにハッと顔を背ける。


「……い、いや、変というより、寒そうっての強い。最近、特に寒いし……その、風邪ひきそうで」


 また、あのきょとんとした顔でこちらを見ている。


「あははは! 心配してくれてありがとう。やっぱり優しいね、宗は……でも、ちょっとね、あたしは裾の長いのとかストッキングとかそういうのダメなんだよね」

「アレルギーとか?」

「アレルギー……うん、まぁそんなとこかな。

 ちょっとだけ言い方が気になったものの、それ以上聞き出すだけの話術を持ち合わせていない俺は「そうか」とだけ返す。それに「そうだよ」と苦笑いで返した翠の顔も、少しだけ引っかかる。



「……っと、早くしないと五色ヶ丘に着いちゃうね。ちゃんと読んで来た?」

 そう言うと、翠は灰色の身体のサイズに合ってない大き目のバックパックから青い四角の中に白抜き文字で『Cell』と書かれた論文を取り出す。ところどころに書き込みがしてあるのが見える。

「ああ、もちろん。今度はちゃんと読んで来たよ」


「……で、どうだった?」

 翠はその綺麗な顔の口元をゆがめて、にやりと意地の悪そうな顔をする。


「翠の言う通りだった。俺が先週言った"Fibroblast(線維芽細胞)から胚盤胞みたいな構造作る"って説明は雑すぎだったな。確かにFibroblastを初期化してiPS細胞を作って、そこから拡張多能性幹細胞――EPS細胞を作って、それを胚盤胞誘導するってのは彼らの重要な成果だけど、それは翠の言ってた"一部"でしかなかった。実際、それに相当する結果の図は最後のFig.7一枚しかないわけだしな」


「うん、うん! そうなんだよね! Liたちはすでに報告されてたEPS細胞株を使って、胚盤胞様構造――彼らがEPS-blastoidと呼んでる構造体が、受精卵から分化した胚盤胞と同等の能力を持つかどうかを本当に丁寧に、一つずつ検証してる。

 最初は3D培養系でのEPS-blastoidとの作製効率とか胚盤胞との大きさの比較から始まって、自然発生との極性とか細胞分化の類似性、EPS-blastoidにも三つの細胞系統が出現するかどうかの検討、胎盤に寄与するかどうか、体外培養系で胚盤胞培養と同じような構造体を作るかどうか、キメラマウスができるかどうか、子宮移植でちゃんと着床するかどうか――本当に丁寧に丁寧に、一つずつ検証してる。なんか『Cell』だなーって思うよね、こういうの。

 ……なんかさ、最近ブログとかでよく見る『この研究が凄い!』とか『凄い成果!』『応用に期待!!』とかあんな風な雑な感想、ちょっと苦手なんだよね」


 俺が「ああ、それ。俺もよく思う」というと、翠は「やっぱり!」とけらけらと笑う。こうして笑っている顔だけ見ると、たぶん――その年代の女子とあまり触れ合ったことがないので、あくまで想像だけれど――歳相応の印象を受ける。


「あのさ、この3D培養系って、ちょっとES細胞のアグリゲーションに似てるって思わない?」

「キメラマウス作るときの? ……ああ、言われてみれば確かに、マイクロウェル(極微小のくぼみ)で細胞塊作らせるって意味では似てるかな」


「ES細胞をこんな感じで培養したらどうなるのかな?」


「それはLiたちも書いてただろ? ES細胞から誘導したEPS細胞は、理由はわからないけど、逆に胚盤胞様構造の作製効率が落ちてる。それに本来8細胞期のコンパクションで必要なはずのZOタンパクが凝集塊作る前から発現してたり、栄養芽層(TE)形成時の活性化YAPの発現パターンも少しだけinterior――細胞塊の内側に乱雑に発現しているようにも見える。

 胚盤胞とEPS細胞から作ったEPS-blastoidはとてもよく似ているけど、"少しだけどこか違う"んだよな。それは本人たちも認めてるし、それより――――」


「それより――何?」


 翠がこちらの顔をのぞきこむ。タイミングよく列車が次の駅に到着して、車両大きく揺れて、一瞬、吐く息が当たるくらいの距離まで顔が近づく。

 それでも翠は、それがどうしたと言わんばかりに、まっすぐな好奇心の目をこちらに向けていて、ちょっとも動じる様子がない。きっと彼女の中で、俺が持っているはずの『年上の異性』とかいう属性はすべて消えてしまっているのだろう。


 そんな純粋さに俺も引き込まれて、まるで十年来の親友に共通の趣味の話を夜通ししているかのように――そう言えば、こんな気持ちで人と話すのはいつぶりだろうかと思いながら――活き活きと続きを話す。


「Fig.1で示しているように、Liたちは"たった一つの細胞由来"の胚盤胞様構造――それこそ受精卵が着床する前の胚盤胞になるような現象の再現には成功しているけど、彼らは"たった一つの細胞を出発点として"胚盤胞様構造を作ることには、まだ成功していないんだよ。

 つまり、EPS細胞はたった一つの細胞で胚盤胞になれるだけの能力自体は持っているけど、『細胞塊を作る段階では自分とは違う別の細胞が周りにいること』がまだ必要だってことだな。


 ――――それともう一つ。


 Fig.1からFig.6までのEPS細胞は8細胞期胚の割球由来のものを使っているんだけど、8細胞期胚の分化が始まったはずの割球由来細胞がEPS化で初期化されたはずなのに、さっきいったように8細胞期に発現するZOが出ていたり、細胞塊を作ると18時間という短い時間でコンパクションが起き始めるところとか……何となくだけど、EPS細胞って受精卵そのもののような特質というよりは、4なんじゃないかな?


 なんかさ、EPS細胞って、確かにLiたちの言うように着床前・着床後発生の研究ツールとしてかなり面白いんだけど、細胞塊作るごくごく初期――マイクロウェルに入れて18時間とかの段階でって思った」


「つけいり…………あはははは!! つけ入る隙って!」

 大笑いする翠に気恥ずかしくなった俺は「……何だよ、悪いか」とばつが悪そうに応える。

「ごめん、ごめん。でも、だって宗もこの論文は専門分野外なんでしょ? なのに"つけいる隙"って何か虎視眈々としてる感じが面白くって。うん、宗のそういうところ、


 翠の真っ白な顔のなかで一層際立つ朱い唇が滑らかに動いて、その単語を発するのを見て、一気に顔が上気して、思わず視線を逸らす。



『まもなく五色ヶ丘ごしきがおか、五色ヶ丘です。五色ヶ丘の次は――――』



 タイミングよくというべきか、車内に到着駅を知らせるアナウンスが流れる。それと同時に、何やら車両の反対側で大声があがる。


「何だ? 喧嘩??」


 どうやらサラリーマン同士のぶつかっただのぶつからないだののいざこざが始まったらしく、大声で『お前!』とか『この野郎!!』とかお互いが相手に向かって罵声を浴びせている。周りの乗客たちは二人から少し距離を取るように離れている。


 そして片方の相手が一層大声で『お前が』と言った瞬間――――俺の服の裾を真っ白な細い指がぎゅっと握る。


「っと! な、何だよ。す――――」


 振り返ると、うつむいたままの翠の姿が目に入る。サラリーマンたちの声が大きくなるたびに、服の裾を握った左手に力が入っていく。


(……震えてる?)


 よく見ると、Abercrombie & Fitchのパーカーがぶるぶるとわずかに震えているのがわかる。


「翠、どう――――」



『まもなく五色ヶ丘、五色ヶ丘です。お出口は左側です。開く扉に手やお手荷物が引き込まれないようご注意ください。Next stop is ――――』



 俺の言葉は駅についてガタンッともう一度大きく揺れた車体の音と、車内アナウンスの声にかき消される。翠はずっとうつむいたままで、何かぼそぼそとつぶやいているのだが、がやがやとした車内では聞き取れない。



「……ごめんね、宗。また、来週……会えたら嬉しい……それじゃぁ……」


 そう言って、翠はまるで何かから逃げるように開いたドアから駅の改札へと走り出す。身体に大きさが合ってないバックパックと短く切りそろえられた黒髪が、走り出す足の動きに合わせてはねる。何故か寂しげで、どこか儚さを感じてしまうような小さな背中が、プラットホームの奥へと消えていく。



 俺はそんな翠の後ろ姿を見送りながら、『色々とあるんだよ、あたしにも』――という、彼女の言葉を思い出していた。




今週の論文:

Li R, Zhong C et al. Generation of Blastocyst-like Structures from Mouse Embryonic and Adult Cell Cultures. Cell. 2019 Oct 17;179(3):687-702.e18.


(つづく)

※この物語に出てくる学校や駅名はすべて架空ですが、出てくる論文だけは本物です

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