俺の通勤電車にCellを読んでる女子が乗ってくるんだが

トクロンティヌス

第1週 "Cellの君"(Li R et al, Cell 2019 ①)


「いつまで学生でいるつもりなの? ……私、もうわからなくなった」


 ――――確か、それが最後の言葉だったような気がする。


 地元の同じ高校、同じクラスになった二年生の文化祭の実行委員会で一緒に仕事をするようになって、なんとなく気になって俺の方から声をかけて付き合うようになってからだから、もう十年も一緒にいたことになる。


 それでも"終わり"は案外あっけなくやってきて、都内の四年制大学を卒業して、すぐにそれなりに名前の知れた民間企業で働きだした彼女は、最初の頃こそは「応援する」と言っていたものの、一年もしないうちにちょっとしたことで不機嫌になることが多くなって、しばらくしてほとんど会話も無くなり、ついにさっきの言葉と一緒に別れ話を切り出された。


 やはり高校の同級生である共通の友人によれば、すでに新しい"彼氏"がいるらしく、同じ会社の上司で、会社の中のテニスサークルで……と絵に描いたような展開だったらしい。まぁ、それも今となってはどうでもいいことの一つではある。



 彼女と一緒にもう何年も暮らしていた2DK家賃6万3千円のアパートは、元々俺の名義で契約していたのだから、そのまま住み続けることは出来たのだけれど、何と言うか、周りから飄々としているといわれているような自分でも、ありきたりな失恋話に存外心は傷ついていて――――何より、楽しかった頃のことを色々と思い出してしまいそうなあの部屋に居たくないというのがあって、引越しすることにした。


 数年ぶりの家探しは思いのほか難航して(主に高騰してしまった大学付近の家賃に驚いてしまって)、『いっそのこと隣の県から電車通勤にするか』と、藤沢の駅前でふらりと立ち寄った不動産業者の紹介で、鵠沼の海岸線が見えるアパートを紹介されると、特に意味もなく「景色がキレイだから」という適当な理由で決める。


 隣のバカップルが毎日ドタバタと賑やかなのも、一人で静かすぎる生活にはバックグランドノイズとしては、まぁあってもいいのかもしれない。


 よく考えれば大学院生活も後半戦になって、座学ももう無くなり、朝早く出てくる必要もなくなったのだから――と、鵠沼海岸から電車に乗って一時間半の通勤時間を、別れ話のごたごたで読めなくなっていた読書の時間に充てる。



 ――――これは、そんな生活を始めて二ヵ月が過ぎた頃の話。





(うん? ……あの子、また論文持ってるな)


 藤沢で相模大野行きから新宿線に乗り換える際、いつもただ何となく後らから二両目の車両に乗り込んでいると、いつからだろうか、大和で同じ車両に乗り込んでくる女子がいつも手にプリントアウトされた学術論文を持っていることに気づいた。


 ショートカットで黒縁の特徴的な眼鏡をかけ、いつも同じ大きな灰色のバックパックを背負っている。服装は――もうだいぶ寒くなってきたと思うのだけれど――だいたいデニムのショートパンツに暗い色のパーカーで、"垢ぬけた"というには少し地味な感じがするものの、それを補ってもあまりある目鼻立ちの良さで、周りの男性のみならず、女性たちも彼女が乗り込んでくると、思わず注目してしまっている。


(まるで、お姫様だな。いつもCellの論文読んでるから……さしずめ"Cellの君"ってとこか)


 彼女が手に持っている論文のヘッダー部分には、青色の四角に白抜きの文字で『Cell』と書かれている。


(いつも熱心なことで)


 そう思ったと同時に、大きなあくびを一つ、座席に座ったまま腕を組んで頭を下に向けて目をつむる。二ヵ月でこの一時間半の通勤電車にもだいぶ飽きてきた俺にとって、『Cellの君』は昨日の夜更かしの結果を補おうとすることよりも優先順位はだいぶ低くて、取るに足らないことの一つだったんだ――少なくとも、この頃までは。




 それから二週間が過ぎて、11月になったある寒い日。

 

 その日は明け方から降り始めた雨と、運悪く他の路線のダイヤが乱れていたせいで、この時間には珍しく車内が混雑していた。それは大和で相鉄線からの乗り換え客を乗せる段になっても続いていて、座席に座りながら(今日、立ったまま新宿まで行くのはつらいだろうな)と、駅員に車内に押し込められる乗客を眺める。


 すると、灰色のAbercrombie & Fitchのパーカーを着て、手には『Cell』の論文を持った、ある意味"見慣れた"姿が一つ、目の前に流れてくる。


 いつも通りの寒そうなショートパンツに眼鏡の"Cellの君"は、いつもと少し様子が違い、真っ赤な顔をして手元の論文をぎゅっと握っている。見ると、隣に立っている荷物をいくつも抱えた年配の女性の靴の踵が、彼女のスニーカーのつま先を踏んでいる。お婆さんはお婆さんで、荷物の重さに耐えるのが精いっぱいらしく、それに気づく様子はない。


 ますます上気していく"Cellの君"の顔を見て、俺は「はぁ」と短く息を吐いて数回襟足を掻いてから、座席を立ちあがる。


「よかったら、ここ、どうぞ」


 突然声をかけられたことに驚いた様子のお婆さんが「え、でもよろしいんですか?」と返す。

「荷物多くて大変でしょうし、俺は網棚に上げたバック一つですから。遠慮せずにどうぞ」

 そう言いながらお婆さんに座るようにすすめて、自分は吊革に手をかけると、隣から「はーッ」と安心したように大きく息を吐く音がする。その様子がいつもの"Cellの君"の凛とした雰囲気とはかけ離れていて、思わず「ふッ」と笑ってしまう。


「…………気づいていたんですね……あ、ありがとうございます……」


 まさかお礼を言われるとは思ってもいなかったので、思わずハッと"Cellの君"の方に顔を向けると、よっぽど痛かったのか、踏まれていた方のスニーカーをバタバタと何度も動かして、うーうーと唸っている。その様子がやっぱりおかしかったので、もう一度、笑ってしまう。


「……うー……何なんですか、ヒトのこと二度も笑って」

「ああ、ごめん。何かおかしくって」

 思わず素直に答えてしまう。

「なっ!? ……ヒトが大変な思いしてたのに、"おかしい"って……お兄さん、優しいのか、優しくないのかホント意味のわからないヒトですね……」

「ああ、まぁ……よく言われるよ」 

 実際、数ヵ月前の別れ話にも同じようなことを言われていたので、もう一度、素直に返すと、「何それ、変なヒト」と今度は彼女の方が笑いだしてしまう。その笑顔と笑い声は人を惹きつけてしまうような――ともかく、魅力的なものだった。



「……それ。いつも『Cell』の論文読んでるよな。学生さん?」

 もう少し話をしてみたいと思った俺は、手に握られていた論文に話題を振る。

「え? ああ、はい……っていうか、『Cell』がわかるってことはお兄さんも、生物学のヒトですよね?」

「まぁ、一応は……それ何だっけ、確か……Fibroblast(線維芽細胞)から胚盤胞みたいな構造作るって論文だっけ? ちゃんとは読んでないけど」

 予想通り話に乗って来たところで、うろ覚えの内容を口にすると、彼女の顔が曇る。

「…………何その雑な説明。お兄さん、ちゃんと読んだの?」

「専門外なんだよ、仕方ないだろ」

 言い方が気になった俺は、少しムッとなって答える。


「あはははは、何その言い訳。それ言うなら、あたしだって全然専門外だし、そもそも動物細胞すら使ってないんだけど。

 ……このRonghui Liたちの論文は、確かにお兄さんの言う通り、Fibroblastから誘導したExtended pluripotent stem cells……日本語では何ていうのかな? 拡張多能性幹細胞? EPS細胞でいいか。そのEPS細胞から胚盤胞様構造を作るための3D培養技術を開発したって論文だけど、もう一つ大事なのは、きっと"単一の細胞タイプであるEPS細胞から"ってことと、"着床前・着床後発生を再現できる"ってことだよね。本人たちも着床現象のモデルとしての活用についても言及してるし。

 それに二種類の幹細胞から胚盤胞様構造を作るって仕事自体はRivronたちが2018年に発表してるわけだし……むこうはNatureでちょっとあたしの趣味じゃないんだけど」


「ああ、その感覚はなんとなくわかる」

「え、お兄さんも!? いやぁ、何かインパクトだけってのと、次々に増えていくNatureナニナニって姉妹誌たちが何か気に食わないというか……まぁただの負け惜しみみたいなもんなんだけど」

 そう言って、彼女はにこっと笑う。ころころと変わる感情を顔に思いっきり出すその様子に、俺は思わずどきっとして顔を背ける。

「……そ、それでそのEPS細胞ってのはどうやって作るんだ? iPS細胞みたいなもんなのか」

 苦し紛れにどうでもいいような質問をぶつける。


「あきれた、ホントに何も読んでないんだね。STAR ★ METHODS(方法)のMETHOD DETAILSにちゃんとかいてあったでしょ。iPS細胞をN2B27<LCDM>培地で長期培養して誘導して作るんだよ……」


「だから、ちゃんとは読んでないって、最初から言ってるだろ」

 いちいちつっかかるような物言いに、もう一度、ムッとなって答える。

「はぁ……あたし、そろそろ最寄り駅だから降りるんだけど、来週は少し時間あるから、またこの時間の電車で抄読会ね。見かけたら、声かけるから。今度はちゃんと読んできてよね、お兄さん」

「いやいや、勝手に決めるなよ、――――」

 強引な展開に思わずそう口にした途端、彼女の目がきっと俺を鋭くにらみつける。



「翠(すい)――――、翠だよ。そんな風に誰でもないみたいな呼び方絶対やめて」



 その真剣な目に思わず「あ、ああすまなかった」とたじろぐ。


「……お兄さんは?」

「えっ」

「名前。お兄さんの名前は?」

「あ、ああ……宗(そう)だけど……」


「じゃぁ、宗。来週またこの時間の電車で。あのね、あたし、嬉しかったんだよ。足踏まれてたのを助けてくれたのもだけど、それよりももっと論文の話で盛り上がれたのが。学校の同級生だと、こんな話しても"不思議ちゃん"扱いされるだけだから」



『まもなく五色ヶ丘(ごしきがおか)、五色ヶ丘です。五色ヶ丘の次は――――』



「おっと、あたしはここだから」

 タイミングよく流れる車内アナウンスに翠が反応して、開いたドアから駅のホームに降りる。俺はそれを見送ろうとした瞬間にに気づく。

「……ちょっとまて、五色ヶ丘!? こんなところに"大学"なんてないはずじゃ――」

 俺の声にびっくりした様子で翠が振り返り、一瞬考える素振りをしてから、にっと笑う。



「ああ、私服だからわからなかったのか。私はね、高専生だよ。高専4年生。うらわかき19歳。じゃぁね、



 「おじさんって何だよ」という言葉は閉まるドアに遮られて、今では"綺麗"というよりも"小憎たらしい"の方がしっくりくるようなAbercrombie & Fitchの灰色のパーカーを着たその女の姿が水平にすべっていく。




 ――こうやって、俺と"Cellの君"との毎週木曜日の奇妙な論文抄読会が始まった。




今週の論文:

Li R, Zhong C et al. Generation of Blastocyst-like Structures from Mouse Embryonic and Adult Cell Cultures. Cell. 2019 Oct 17;179(3):687-702.e18.


(つづく)


※この物語に出てくる学校や駅名はすべて架空ですが、出てくる論文だけは本物です

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