第4話


4.


【第四グループの皆さんは6分間練習を開始して下さい】


 いよいよ迎えた男子ショート。

 ドローイングの結果、俺は第五グループの最終滑走になった。

 そして数奇なことに、翔馬が第五グループの5番滑走、つまり俺の前になった。

 少し離れたところに立っている翔馬を見ると、いつも通り落ち着いた様子だった。彼にとってこの全日本はあくまでオリンピック前の調整の場。決して代表枠を争うための大会ではない。

 だが、だからこそ、そこに油断も生じるだろう。大失敗をするようなことはまずないだろうが、あえて挑戦しようという気もないはず。

 ――そこに、ほんのわずかだが勝機があるかもしれない。

 扉が開いた瞬間、俺はグループの先陣を切ってリンクへと踏み出した。

『さぁ、この第五グループにはトップを争う二人がいます』

 軽く二回転のジャンプを決めた後。本命の四回転トウループ。公式練習ではなかなか決まらなかったこのジャンプを、まずは完璧に成功させる。朝までとは何かが変わっていた。

『オリンピックの代表枠はたったの一つ。それを兄弟が争います』

 あっという間に六分間練習が終わる。俺は確かな手ごたえを感じながらリンクを出た。裏に入って、体を冷やさないようにストレッチをしながら自分の番を待つ――


 ♪


「歩夢、そろそろだぞ」

 あっという間に自分の滑走順が近づいてくる。

 再びリンクサイドへ戻ると、ちょうど最終グループの4人目の選手の得点が出たところだった。

 そして、氷上には今日の主役がいる。


【28番。白河翔馬さん――】


 彼の名前がコールされた瞬間。

 この世は彼のものになった。

『この空気の中で、さぁ絶対王者の登場です』

 スターティングポジションに立った瞬間――彼は不敵に小さな笑みを浮かべた。

『さぁ、白河翔馬の演技。曲は“Art on ice”。フィギュアスケートそのものを表現します』

 凍てつく会場の空気。息苦しささえ感じる、そんな中。

 やがてヴァイオリンの旋律が厳かに鳴り響き、彼は滑り出す。

 最初のジャンプはもちろん四回転。一気にトップスピードに持っていき、そこからほとんど力みなく跳躍する。

『四回転のトウループ、三回転のトウループ』

『まずは四回転三回転!』

 これくらい朝飯前だ、というような、余裕たっぷりのジャンプだった。

『続いて』

『トリプルアクセル』

『高い!』

『流れも素晴らしかったと思います』

 危うげがない。それが彼の演技の最大の特徴だ。

 フィギュアスケーターは常にミスと隣り合わせ。一流の選手でもなお、ミスをしないということはありえない――普通は。

 だが、白河翔馬と言う男は絶対にミスをしない。少なくともこの4年間、彼は転倒したことがないのだ。

 彼が失敗をするところは誰も想像できない。常に完璧なのだ。

 ――スピンを二つこなし、演技は後半に入る。

 ここで彼は最後のジャンプを実行する。

『トリプルルッツ!』

『これも決めた! ジャンプは全て成功!』

『さぁ、至高の演技へ。ストレートラインステップシークエンス!』

 弦が線上を高速で行き来して奏でられる音符。その一つひとつをブレードでとらえていく。銀盤は彼の楽譜。真っ白な楽譜に、自らのブレード一本でメロディを書き記していく。

 いや、というよりは――音楽と彼のスケートがどこまでも融合した今、もはやメロディとは彼そのものだ。

 長辺を駆け抜けた後、最後のスピン。一切妥協無く彼の持てるすべての力を出し切った、超高速回転――

『凄まじい演技ッ! これがオリンピックを制した男の実力!』

 リンクは忘我の絶叫に包まれる。

 観客席から降り注ぐ無数の花束。フラワーガールたちが全員出動で拾い上げても、一向に片付かないほどの量だった。

 彼が四方の観客にお辞儀をするたび、身体がスピーカーのスイッチにでもなっているかのように、リンクはさらなる絶叫に包まれる。

 俺は一瞬雰囲気に飲まれて、次が自分の演技だということを忘れかけていた。

 ――あいつはあいつ。俺は俺の演技をすればいい。

 そうわかってはいるが、体は思うように動かなかった。

 翔馬が出るのと入れ替わりでリンクに入る。最後の調整。もう一度四回転の軌道を確認。だが、心は妙な浮遊感に包まれている。

 翔馬はプレゼントを手渡ししようとリンクサイドに詰めかける熱狂的な観客たちに応えてから、悠然とキスアンドクライの玉座に座る。

 自然と沸き起こる、高得点を求める拍手。

 そんな中、俺は一度リンクサイドに戻りコーチからペットボトルを受け取って水を一口飲む。

 そしてアナウンスされる点数に耳を傾ける。


【白河翔馬さんの得点】


 観客の期待は、すぐさま狂乱へと変わった。


【――101.01。現在の順位は、第一位です】


 やはりというべきか。

『なんと、自己最高記録の100点をさらに超えて、101点!! これが白河翔馬です!』

『いや……いったい彼はどこまでいってしまうんでしょうか……』

 これには、もはや笑うしかなかった。

 もうすぐ運命の演技が始まる。それなのに、翔馬の叩き出した点数が頭から離れない。

「なぁ、歩夢」

 と、コーチが語り掛けてきた。

「愛音が家に来たとき、どうしてお前にコーチを頼んだかわかるか」

 何を突然と思った。

「俺が練習しすぎなのと、あと就活の代わりなんじゃないの」

「それもあるが」

 コーチはニヤリとして言った。

「お前には、スケートの才能が一ミリもないからだよ」

 才能がない。

 そのことは誰よりも俺自身がわかっていた。

 だが、そのことをなぜ今さらになって言うのか。

「お前は、努力だけで天才たちと互角に渡り合える力をつけたんだ」

 ――確かに、俺は自分が凡才だとわかっていたからこそ努力してきた。

 普通の人が一日4時間しか練習しないところを、俺は8時間練習した。それくらいしなければ、俺ごときの才能では、四回転はおろかトリプルアクセルさえ跳べずに一生を終えていただろう。

「そして、才能がないからこそ、コーチの仕事が向いていると思ったんだ。コーチは生徒に才能を与えることはできない。でも努力の仕方を教えてやることはできるからな」

 それはコーチなりの激励だった。

「お前はこの世界で一番努力したスケーターだ。だからきっと大丈夫さ」

 才能がなくても、それでも大丈夫。

 ――お前は誰よりも努力をしてきたのだから。

 コーチはそう言って俺の背中を押してくれたのだ。


【29番、白河歩夢さん、千葉クリスタルパレスフィギュアスケートクラブ】


 いよいよ、俺の名前がコールされた。

 コーチとこぶしを突き合わせて踵を返す。

 大きな歓声。揺れる国旗。その中を俺は進んでいく。

『絶対王者、白河翔馬を脅かす存在が登場しました。兄の白河歩夢――』

 そして拍手が収まり、わずかばかりの静寂が訪れる。

 自分の心臓の鼓動だけが低く鳴り響く。

『冷酷な姫トゥーランドットと、彼女を求める王子カラフの物語』

 オーケストラの音が鳴り響き――俺の戦いが始まった。

『3つのジャンプはトゥーランドット姫が王子に課す3つの問いかけ。さぁ、まずは一つ目。四回転、三回転のコンビネーション』

 観客たちの期待の風船が膨らんで会場を圧迫する。

 勝負の分かれ目になる、四回転からのコンボ。頭の中にはしっかりとした成功のイメージがある。

 翔馬がリンクに残した熱狂の残滓。生ぬるいその空気の中を、二本のブレードを頼りにかき分けていく。

 ターン、そしてエッジを切り替えて跳び上がる。

 今朝までの不調が嘘のように、完璧なテイクオフ。

 その瞬間、成功を確信した。

 そして確信を裏付けるような完璧な空中姿勢。

 美しいな弧を描いて、俺の身体は再び氷へと戻ってくる――

 はずだった。

『――ステップアウトです』

 思考がホワイトアウトした。

 完璧だった。着氷の瞬間まで。

 だが、なぜか弾かれた。

『コンビネーションの予定でしたが単体になりました』

 ノーミスでも勝てやしないのに、いきなり失敗するなんて。

 クソッ。

 自分の弱さにはほとほと愛想が尽きる。

 意識とスケートがかい離していく。

 反復練習のおかげで身体は音楽さえあれば動く。そこにたとえ心がこもっていなかったとしても、演技は続くのだ。

 やけに観客の挙動が目についた。

 ああ、今一人が咳払いをした。

 あっちでは、カバンを漁る人がいた。

 大体の人はじっと俺の演技を見ている――中には、俺の名前が刻まれた旗を振ってくれている人もいる。しかも旗には“オリンピックへ”――そんな文字も書かれていた。

 ああ、意外と俺に期待してくれていた人もいたんだ。

 だがもう遅い。俺はそれを一瞬で台無しにしてしまったのだ。

 20年間、無駄な人生を歩んできた。

 ゆっくり、ゆっくり夢を見て歩いてきた――その結末がこれか――

 ――なんて。

 バカ野郎。

 そんな簡単に諦められるかよ。

 最後まで戦うって決めたんだ。

 だったら、ちょっとつまづいたくらいで諦められるか。

 一気に思考が加速した。

 ――だが、現実問題として、失敗は失敗。ここから逆転するにはどうすればいい?

 普通にやっていたら絶対に勝てない。

 じゃぁ普通じゃない方法で――

 自分の中で整理がつかないまま、次のジャンプの助走に入る。

 左足のアウトエッジに全体重を乗せて――

『トリプルアクセル!』

 ピッタリ。

 全てが完璧に噛み合った。自分でも会心の三回転半だった。

『ここは完璧に決めました!』

 そこから演技は後半へ。

 スローパートに入り、スピンコンビネーション。

 高速回転の中、逆転の方法を考える。

 基本的にフィギュアスケートは減点方式の性質が強い。大きな失敗をすれば、その失敗をなかったことにすることはできないのだ。

 でも。

 それでも。

 ここから逆転するとしたら。

 ――残りのジャンプを極限まで難しくするしかない。

 そう例えば――最後のジャンプで四回転を跳ぶ。

 それはとてつもなく無謀な案だ。試したことさえない。

 しかも、最初のジャンプでコンビネーションを跳べなかったらから、次はコンビネーションにしなければいけない。

 ということは、四回転+三回転。

 体力がある演技冒頭でだって難しいのに、それを演技の後半で。

 しかももう四回転トウループは使えないので、四回転サルコウとのコンボになる。冒頭飛ぶはずたったトウループ+トウループの4−3よりもさらに難しいジャンプだ。

 あまりに無謀すぎる。

 ――でも、逆転するにはそれしかない。

 あっという間に、最後のジャンプの軌道に入る。

 あまりに無謀な挑戦。しかし俺はなんの迷いもなく――

『最後のジャンプ、トリプルルッツ――いや、これは』

 勢いのまま、飛翔。

 バラそうな力を雑巾を絞るように、体の中心に巻き取って――

 ――そして次の瞬間、俺の右足は確かに氷を捉えていた。

 場内から上がったのは、歓声と言うよりはどよめき。

『四回転のサルコウ!』

 まるで天から降ってきたかように。

 だが、まだ終われない!

 そこから、全ての力で、もう一度宙へ舞う!

『――トリプルトウループ!』

 ――俺はその贈り物を確かに受け取った。

『なんと! ショートプログラムで二本目の四回転ッ! これは……驚きました!』

『これは……演技後半にまさか……。本当にすばらしいジャンプでした』

 自分でも信じられなかった。

 だが、右足は確かに氷を捉えている。

『ショートで2本目の四回転着氷は全日本初です!』

 まったく未知の感覚。

 自分のスケートがどこまで広がっていくような、そんな気になった。

『さぁ、ここからは――誰も寝てはならぬ!』

 タクトを振るうように自由自在に、旋律の一つひとつを軽やかに滑っていく。

『エッジに乗って、ターンに乗って、グランプリシリーズの時の倍くらい、本当に良い伸びのスケーティングです』

『さぁ、歴史的な演技を締めくくる、最後のスピン』

 バタフライからシットスピン。パンケーキ、キャノンボールでレベルを稼ぎ、チェンジエッジ。そして最後はスタンドスピンで高速回転――

 回転がほどけ、世界の輪郭がはっきり現れる。

『夜明けが、やってきました!』

 不思議と疲労は感じなかった。もしかしたら、高揚感が感覚を麻痺させているのかもしれない。

 ――とにかく、やり遂げたのだ。

『冷酷な銀盤の姫は、最後には白河歩夢に口づけをしました』

 二本の四回転とトリプルアクセル。そしてスピン・ステップも完璧。間違いなく白河歩夢史上最高の演技だった。

『前代未聞。ショートプログラムで二回の四回転。一度目の四回転でステップアウトしましたが、そこから圧倒的な演技を見せました』

 会場のすべての人が立ち上がり、俺の演技を称えていた。

 四方の客にお辞儀をした。すると、今まで受けたことがないほどの、とてつもなく大きな歓声が沸く。

 リンクに落ちた花束をいくらか拾い上げてからリンクを出る。迎えてくれたコーチはまず俺を強く抱きしめて。そしてそのまま耳元でこう言う。

「おいおい、誰にこんなことするって相談した? 二本の四回転なんて、練習でもやったことないだろ」

「試合途中で思いついたんだよ」

 キスアンドクライのソファーに座ると、コーチは俺の肩に手を回してカメラに満面の笑みを浮かべ、ガッツポーズを見せつける。

 それで観客たちはさらにもうひと盛り上がり。

 さぁ、あとは得点が出るのを待つ。


【白河歩夢さんの得点】

 

 場内に再び俺の名前がアナウンスされる。

 静まり返る会場。

 そして次の瞬間――


【――101.71!! なんと! 白河翔馬の得点を抜いて! 全日本記録を更新して! 一位に立ちました!】


 その得点を見て、俺とコーチはあんぐり口を開けて顔を見合わせた。

 まさかの100点越え。技術点はもちろん、演技構成点も今まででは考えられないほどの高得点だった。

「なんだよなんだよ、夢か? これは」

 コーチがここまで驚いているのは初めて見た。

 いや、そりゃそうか。

 ショートだけとはいえ、あの翔馬に勝ったのだから。

 それまで、見えるところにさえなかったオリンピックが急に目の前まで近づいてきたような気がした。

 もちろん、ショートは実力や実績よりも当日の勢いが結果に反映されやすい。実力者がショートで下位になってしまうのはよくある話だ。

 フリーはそうはいかない。このまま明日、俺が今日同じくらいの“素晴らしい”演技をしても翔馬に勝つことはできないだろう。

 ――だが、それでも。

 たった一度でも翔馬に勝つことができた。それは俺にとって十分な意味を持った。


 ♪


「歩夢さん!」

 演技後のインタビューを終えて、着替え終わった俺を、更衣室の外で待ち構えていた人間がいた。」

 長く流麗な金髪を棚引かせた女子高生。

 俺の――かつての弟子、月島愛音だ。

 愛音は東日本選手権のあと俺たちの元を去り、母親の指示で実家に戻り、横浜の鈴木コーチの元に移った。だからそれ以来の再会だった。

 俺は、愛音の母親にコーチをやめろと言われて、あっさりと手を引いた。それで愛音を失望させてしまい、それ以来ほとんど会話もないまま、東日本選手権を迎え、そのまま別れてしまったのだが。

「ショート、スゴかったです!」

 しかし愛音は、また以前のようにキラキラした目で俺のことを見てくれた。それで俺は心が幾分軽くなったのを感じた。

「ありがとう」

 彼女の笑顔をみて、俺は安らぎを感じた。俺が愛音の世話をしていたように見えて、実は俺の方が愛音に支えられていたのだ。

「今日は泊まり?」

 ここは大阪。愛音は横浜に住んでいるので、もし日帰りならすぐにここを出ないと終電に間に合わないので聞いておく。

「はい! 絵里子コーチと同じホテルです!」

 つまり俺と同じホテルだ。

 もともと、全日本の観戦チケットは一般購入ではまず手に入らない。コーチが愛音のことを気遣って、関係者として招待してくれたのだろう。

「じゃぁ、一緒に帰るか」

「はい!」

 俺たちはホテルに電話して車を出してもらう。少し待ってから、裏口へ向かい試合会場を出る。

 当然のように待ち構えていた報道陣たち――彼らが期待していたのは翔馬の登場だろうが。

 しかしお目当の人間ではなく、その兄が登場したにもかかわらず、記者たちほとんど脊髄反射的な動作で写真を撮りまくる。まるでパシャりという音を響かせるのが彼らの生きがいであるかのようだった。

 俺と愛音は彼らを無視して、そのまま用意された車に乗り込む。

 彼らの目的はあくまで翔馬のはず。なので俺たちのあとをしつこく追い回して来るようなことはなかった。そんなことをして、翔馬の写真を撮り損ねたら大変だろう。

「飯、食ってないよな」

 俺が聞くと、愛音は元気よく答えた。

「はい!」

「じゃぁ何か食いにいくか」

 ホテルにもレストランはある。だが、気晴らしに外を歩きたい気分だった。試合のあとで精神が興奮しっぱなしで、このままいくと絶対に寝られない。明日に響かない程度に体を動かしたい。

「行きましょう! どこにいきますか? HUBですか?」

「チャラいよ!? あんな出会い目的のチャラパブにJK連れて行ったらマジでギルティだからね……」

 僕はお酒飲みません、出会い目的でパブに行ったりもしません……

 もちろんJKにお酒を飲ませることもしません。

 俺たちは協議の結果、もつ鍋屋に向かうことになった。

 ……もつ鍋を所望するJKに驚きつつ、ネットで調べて評価が高かった店に入る。

「そういえば、最近テレビで愛音のことあんま見ないけど、どうしてんの」

 聞くと、愛音は鍋をつつきながら、

「芸能界のお仕事はセミリタイア、って決めたんです。スケート一本でやりたいので」

 その言葉を聞いて少し安心した。

 と同時に、一抹の羨ましさ。愛音は才能があるし、まだ16歳。芸能活動でお金もそれなりに貯まっているだろうから、自分自身の力でスケートを続けていくこともできるだろう。

 俺が持っていないものを全て持っているのだ。

 ――それから一通りコースを堪能して、店を出る。賑わう商店街を歩いてホテルへ向かっていく。

「あ、ちょっとあそこで飲み物買っていいですか?」

 と、愛音は露店のコーヒースタンドを指出す。なかなかにおしゃれな外観をしている。もしかしたら流行りの店なのかもしれない。

「いいけど、寝れなくならないか?」

「大丈夫です。デカフェもあるんです」

 そう言って、愛音はアイスコーヒーを買う。俺は特にコーヒーが好きというわけでもないので、遠慮しておいた。

 そして商店街を抜けてしばらく歩いていくと、ホテルが見えてくる。

 だが、中に入ろうとしたら――入り口の近くで声をかけられた。

「あの、すみません」

 茶色のコートに身を包んだ若い男。手にスマホを握りしめている。

「週刊PARのものなのですが、少しだけお話いいですか?」

 一体何事かと思ったが、どうやら記者のようだ。といっても、大手のテレビ局や新聞局ではなく、有名なネットメディアの人間だ。週刊PARといえば、過激で根も葉も無いことを書き連ねてアクセス数を稼ぐことで知られている。

「……すみません、疲れてるので……」

 相手にする気がないと意思表示をして歩き去ろうとしたが、彼は俺たちのいく手を遮るようにして立ちはだかった。

「3つだけ、お願いします」

 そう言われて俺は思わず妥協してしまった。押し問答をするより、さっさと答えてしまった方がいい気がしたのだ。

「今日の演技で、翔馬選手の上に立ちましたね。オリンピック代表入りの可能性が出てきたと思いますが、オリンピックに行きたいという気持ちはありますか?」

 なんて意味のわからない質問だろうと思った。行けるならば行きたいに決まってるじゃないか。

「そりゃ行きたいに決まっているでしょう」

 俺はそう答える。

 ……もしかしたら、以前の俺だったら、そう答えるのを躊躇したかもしれないが、今は心の底からそう答えることができた。

 だが、次の瞬間、記者は思いもよらないことを言い出す。

「五輪に出場できたとして、ベストな演技をできますか?」

 回答しようと口を開けたが、しかし言葉が出てこなかった。

 ――何を言っているんだ。

「昨年の世界選手権での演技について、メンタルの弱さを指摘する声もありますが? その点はいかがでしょうか?」

 そこでようやく飲み込めてきた。

 失礼なことを言って、こちらの失言を引き出そうとする記者はいくらでもいる。特に、フィギュアスケートのように国民的な人気があり注目度の高いスポーツとなればそれも仕方がないだろう。

 だが、ここまで直接的に煽ってきた記者は初めてだった。

「その時々、与えられた機会でベストを尽くすしかないと思いますが」

 俺はなんとか当たり障りない回答をひねり出す。

 だが記者は、ならばと言わんばかりに、さらに言葉を重ねた。

「去年の世界選手権で、代表枠を一つにしてしまったのは白河さんですよね? その点については」

 いよいよ露骨になってくる。もはや質問ではなく単なる悪口だった。

 この記者はスケートのことなんてこれっぽっちも興味がなくて、ただ俺を怒らせてそれを記事にしたいだけなのだ。

「これで五輪の代表に選ばれたら、自分で枠を減らして、翔馬さんを蹴落として、オリンピックに出場させないようにした、ってことになりますよね」

 ――答えるだけ無駄だ。

 いや、そもそもこの男は俺が答えることなど望んでいないのだ。

「私どものとった、“誰がオリンピックの代表にふさわしいか”というアンケートでは、100人中98人が、翔馬選手に日本の代表になって欲しいという回答結果でした。これについてはどう思われますか?」

 一刻も早くこの場を立ち去ろう。それで何か悪口を書かれたって仕方ない。どうせ何を言ったって悪口を書かれるのだから――

 と、俺が踵を返そうとした瞬間。

 グチャリ、とプラスチックの潰れる音がした。

 その半秒後、男の顔が歪んだ。

 ――男の茶髪と茶色のコートに、コーヒーがぶちまけられていた。

 俺も記者も唖然とする。

 ――愛音が、持っていたコーヒーを記者にぶちまけたのだ。

「いい加減にしてください。怒りますよ」

 冷たい飲み物をかけられたのは俺ではないが、急に思考がクリアになって、妙に俯瞰的になる。

 怒りますよって、もうブチギレててるじゃないか――

「歩夢さんは、世界でたった一人、本当にすごいスケーターです。誰がなんと言おうと、そんなの関係ないんです」

 鋭い視線を向けて、俺が出会ってから一番強い言葉でそう言い放つ。

 記者は突然のことに口を開けて呆然としていた。ネットでは罵詈雑言を達者にぶちまけている男も、突然の物理的攻撃には免疫がないようだった。

 そして愛音は俺の手を引っ張り歩き出してから言う。

「いきましょう」

 妙に冷静になった頭に、「いや、もう歩き出してるじゃん」という言葉が浮かぶ。

 俺たちはそのままホテルに入り、ロビーで鍵を受け取ってエレベーターに乗り込む。

「……あんなことして、大丈夫か? 明日、絶対記事になるぞ」

 俺が聞くと、それまで険しい表情を浮かべていた愛音は、少し間を開けて、そして笑顔を作った。

「わたし、芸能界からは引退することにしたんです。だからノープロブレムです。なに書かれたっていいんです」

 確かにそうかもしれないが、しかし芸能界を引退するなんて言っても、明日からいきなり無名になれるわけではない。

「それに、わたし携帯持ってないし、テレビも見なきゃいいだけなんで、もう何書かれても何言われても、全く問題ないです」

 ――愛音が練習試合のあと、海に携帯を投げ捨てたのを思い出す。

 確かに、そうかもしれないが……

 と、俺が難しい顔をしていると、俺が怒ったと思ったのか、彼女は突然ハッとして頭を下げてくる。

「……すみません。別にわたしが何か言われてるわけじゃないのに、勝手に怒って。あの記者、わたしだけじゃなくて、歩夢さんの悪口を言いふらしますよね」

「……いや、違うんだ。別に愛音に怒ってるわけじゃなくて……」

 そんなわけはなくて。

 ただ単に心配になっただけなのだ。

「……驚いたけど……嬉しかったよ」

 エレベーターは目的の階に着く。愛音の部屋も俺と同じフロアだったのでそのまま二人で降りる。

「あのさ……」

 俺はそこで立ち止まり、愛音に向き直った。

「俺、明日、翔馬に勝つよ」

 それは別に自分を鼓舞させるためのものではなくて――単なる誘いのための言葉だった。

「そうしたら――俺をまたお前のコーチにしてくれ」

 前はなりゆきで、請われるままに愛音のコーチになったが。

 今は違う。

 本心から、また愛音とスケートがしたいと思った。

 そうすることで、俺自身も成長できると思ったから。

 でも、彼女は世界一の才能を持つ少女だ。

 平凡な人間が磨いていい原石じゃない。

 だから俺は明日翔馬に勝つ。

 それが、俺が彼女を教えるにふさわしい人間だと証明する唯一の方法だから。

 俺が言うと、愛音はとびきりの笑顔で答えた。

「絶対勝ってくださいね!」


 ♪


 翌日。 

 俺はほのかな日の光を感じて目を覚ました。瞼を開け、少ししてからベッドを出る。

 頭はスッキリしていた。体も軽い。

 シャワーを浴びて身支度し朝食へ向かう。そして朝食を済ませた後、一度部屋に戻って歯磨きをしてから部屋を後にする。エレベーターで一階まで降りる。

 そこで待っていた絵里子コーチと合流し、会場へ向かうの車に乗り込む。

「コーチ、話があるんだ」

 俺が言うとコーチは前を向いたまま「どうした?」と答える。

 俺はフリーに向けての決意を語る。

「翔馬に絶対に勝ちたい」

 それは昨日、愛音と約束したこと。

 だが、それを言うだけなら誰でもできる。

 そして、このまま普通に“完璧な演技”をしたところで、翔馬には絶対に勝てっこない。

 ならどうするか。答えはたったひとつ。

 ――自分の限界を超えるしかない。

「だから俺は――」

 その作戦を言うと、コーチは俺の方を見て、驚愕の表情を浮かべた。

「……本気か?」

「もちろん」

 それは、今まで誰もできなかったこと。挑戦さえされなかったことだ。

 そしてこれはある意味不変の法則なのだが、“誰もやらないこと”には、それ相応の理由がある。

 やるほどの価値もないくだらないものか、あるいは――そもそも不可能か。俺がやろうとしているのはもちろん後者だ。

 でも、それでも俺はそれをやり遂げる強い覚悟を持っていた。

 万に一つでも、翔馬に勝てる可能性を作るには、それしかないのだ。

 と、俺の真剣な表情を見てコーチは、軽い気持ちで言っているではないと理解したらしい。

 そして、

「……そうだな。最後まで勝負しよう」


 ♪


 全日本選手権、男子フリースケーティング。

 第一、第二、第三グループと進む中、俺はゆっくりコンディションを整えていった。

 そして六分間練習もこなして、後は自分の演技を待つだけだ。

 俺は最終滑走。そして翔馬がそのひとつ前、五番滑走。

「第四滑走が終わった」

 裏で体を温めていた俺に、絵理子コーチがそう呼びかける。

「今いく」

 リンクサイドに出ると、既に翔馬は氷上にいた。その姿を見据えつつリンクサイドに佇む。

 前の選手の得点が出るが、それに対する興味は、正直なところほとんどの観客が持っていないだろう。観客が高いお金を払ってチケットを買ったのは、半分以上、白河翔馬の演技を見るためなのだから。


【――白河翔馬さん】


 大歓声の中、リンクの中央へ向かう翔馬。

『さぁ、白河翔馬の演技。曲はグラディエーター。命を賭して戦う剣闘士の物語です』

 絶対王者としてスケート界に君臨する彼が、今日は奴隷の身分に身を落とす。絶対的な皇帝を前に、屈することなく戦う剣闘士の演技だ。

 ――一体彼は何と戦っているのだろう。

 何が、彼を追い詰めるのだろう。

 どうして、そんなに鬼気迫る表情で演技に臨めるのだろう。

『さぁ四連覇をかけた戦いが始まります』

 その佇まいはまさに剣闘士そのものだった。生と死の境目で戦う男の背中。

 ――彼が滑り始めると、銀盤の景色が一変。リンクが一瞬でコロシアムに変わる。

 さぁ、昨日は完璧に決めて見せた四回転。当然今日も――

『四回転のトウループ』

 まるで空にかかる虹のように大きな弧を描いたジャンプ。そのあまりの美しさに、心を打ち砕かれそうになる。

『今日も決めたァ!』

『完璧なジャンプでした』

『さぁ、次も四回転。今度はコンビネーションです』

『四回転トウループ、三回転のトウループ』

『四回転、三回転! これも鮮やかに決めて見せました』

『入り方、高さ、流れ、隙がありません』

 やはり翔馬は決して失敗しない。これだけ難しい技をやっていて、それでも失敗しないのだ。

 シュートを絶対に外さないサッカー選手、ホームランしか打たない野球選手、絶対にサービスエースを決めるバレーボール選手。そんなやつは世の中にはいない。

 けれど最高難易度のジャンプを、絶対に成功させるフィギュアスケート選手がここにはいる。それが白河翔馬だ。

『そしてアクセルジャンプは――』

『トリプルアクセル。完璧です』

 まるで嵐のように高難度の技を連続で繰り出す冒頭から、音楽はさらに激しさを増す。

『さぁ、コレオシークエンス』

 リンクをめいっぱ使って、コロシアムの観衆を煽るようにステップを刻んでいく。

 たった一人の将軍が、次々に敵の剣闘士を切り捨てていくのだ。

 そして嵐が過ぎ去り、一転スローパート。

 だが、彼はここでも観客を魅了し、そして得点を稼いでいく。

『スピンのポジション、回転速度も素晴らしいです』

 一つひとつ丁寧に技をこなすが、決して小さくならない。ダイナミックさと繊細さ、その二つが彼の中には両立している。

『さぁ、ここから演技後半に入ります。まずは3本目の四回転』

 グランプリシリーズで見せた演技後半の四回転。そして翔馬はそれを今日も完璧に決めて見せる。

『四回転サルコウ!』

『今日も完璧に決めました!』

 ここまで高難易度のジャンプを組み込んで、ただの一度も失敗しないのは、やはり白河翔馬が白河翔馬たる所以。

 ――だが、ここで違和感に気が付く。次は本来ならトリプルアクセルからコンボの予定だった。

 だが翔馬が跳ぼうとしているジャンプは、明らかに予定していたアクセルではない。

『これは……』

 ありえない。

 あっていいはずがない。

 理性がそれを否定した。

『四回転のサルコウ! そしてダブルトウループ!!』

 でも現実だ。

『なんと、4本目の四回転ッ!』

『白河翔馬、三本目の四回転を演技後半に成功させましたッ!』

 ――バカな。

 俺は今日、四回転を4本、つまり翔馬より1本多く跳んで技術点を稼ぐことで翔馬に勝つ計画だった。

 だが、その計画はいとも簡単に崩れ去ってしまった。

『トリプルルッツ、ダブルトウループ、ダブルループのコンビネーション』

『三連続も決まるッ!』

 そこからも翔馬の演技は一切乱れなかった。

『トリプルフリップ』

『いったい、何が彼をここまで突き動かすのか!』

 ジャンプだけじゃない。スピンも、ステップも完璧にこなしていく。

『トリプルサルコウ』

『もう誰も彼を止めることはできません!』

 わずかな綻びさえない。すべての要素が、一本の川のように流れていく。

『さぁ、歴史を変える演技を締めくくる、ストレートラインステップシークエンス!』

 観客の大歓声と、それに負けないほど熱いステップが呼応して、リンクを激しく揺らす。

 最後の最後まで、拍手が鳴りやむことはなかった。

『我々は、フィギュアスケートの歴史の、新たな扉が開くのを目撃しましたッ』

 リンクに無数の花束が投げ込まれる。

 ――俺はエッジカバーを外し、翔馬がリンクを上がるのと入れ替わりに氷上に繰り出した。

 フラワーガールたちが必死に花束を回収する中、少しずつ体を動かす。

 身体が硬くなりすぎない程度の、適度な緊張感。

 フラワーガールがリンクから出ていったところで、俺は――ループジャンプの軌道を確認する。自分が跳躍しているそのイメージを確かなものにしていく。

 二回その動作を繰り返したところで、アナウンスが会場に流れた。


【白河翔馬さんの得点――】


 スコアが聞こえることはなかった。大歓声に上書きされてしまったからだ。

 だが、その得点がどれだけのものだったかは、実際の得点を聞くまでもなくわかってしまう。

『なんと、300点を超えてきました! 白河翔馬、全日本の歴史を塗り替えました!』

 国内大会とはいえ驚異の300点超え――だが。

 得点なんて関係ない。彼の演技はとてつもないものだった。

 歴史に残る演技。まさにそういう演技だった。

「すごいな演技だったな」

 恵理子コーチが、大きくも小さくもない声でそう言った。

「間違いない」

 俺も、それに同意した。

 翔馬の演技のすごさを素直に認めた。

 ――客観的に見れば、もうオリンピック選考会は終了したといっても差し支えない。

 四年間負けなしの男が、自分のベストを超える演技をしたのだ。勝負ありだ。

 だが――恐れや諦めはなかった。

 リンクは翔馬の生み出した熱気の中にある。観客たちは、次の選手の演技がまさか前の演技を超えるものであるはずがないと、無意識にそう思っているはずだ。

 だからこそ――熱い。身体から熱がどんどん出てくる。

 世界一のフィギュアスケーター、白河翔馬。それが完璧な演技をこなして見せた。

 でも、だからこそ。

「俺が勝つ」

 宣言する。自分を鼓舞するために、というよりは、心の底からそれが可能だと信じているからこそ。

 コーチはただ頷いて、こぶしを突き出した。

 俺はそれに自分のこぶしをトンとぶつけ、その反動で踵を返し、広大な銀盤に繰り出した。


【――24番、白河歩夢さん。千葉クリスタルパレス!】 


 歓声。それは白河翔馬に向けられたものの、一体何分の一だろうか。

 きっと、観客たちは余韻に浸っている。白河翔馬の圧倒的な演技に満足しきっている。

 だが、それは間違いだと、俺が証明してみせる。

 観客たちは、俺が白河翔馬に勝てるなんて思っちゃいない。だからこそ、俺がもし勝ったら、いったいどれだけのサプライズになるだろう。

 そして、その可能性はゼロじゃないのだ。

 俺が翔馬に勝つために用意した作戦。それは彼よりも多く四回転を跳ぶというものだった。

 だから今朝の時点では、サルコウとトウループを2回ずつ、合計4回の四回転に挑む予定だった。

 だが、翔馬も4回の四回転を跳んだ。

 だから――プラン変更だ。

 翔馬と同じジャンプを跳んだのでは、演技構成点の差で勝つことができない。

 ならどうする?

 単純な話じゃないか。

 ――さらに難易度をあげればいいのだ。

 驚くほどシンプルな答え。

 だが、俺が演技冒頭に組み込もうとしているのは、まだ誰も成功させたことがない技だ。

 練習でさえ演技に入れたことがないその技。

 そんな技、この土壇場で成功するわけがない。

 でも、それしかない。

 迷いはなかった。

『ショート一位、白河歩夢の登場です』

 もう待ったはなしだ。

 明日こそは翔馬に勝つと決めて滑ってきた。

 だが、それではだめなのだ。

『オリンピックへの切符はたった一つ。それを手に入れるにはスケート界のレジェンドを――白河翔馬を、倒さなければなりません』

 会場からは歓声。それは翔馬の時ほど大きいわけではない。

 それは観客たちの決めつけ。

 俺なんかが、白河翔馬に勝てるはずがないという。

 でも――


『歩夢さんならできるッ!!!』


 突然。

 氷点下のリンクに鳴り響いたその声。

 それは、愛音の――俺の一番弟子の声だった。

 俺のことを本気で信じてくれる少女。

 そうだ。

 スケートの神様に愛された、天才少女も俺のことを信じてくれている。

 絵里子コーチや、花子もそうだ。

 だから俺なら絶対にできる。

 無敗の男に勝つ。

 今こそその時。

 今日こそその日。

 明日でも、

 来週でも、

 来年でも、

 四年後でもなく。

 ――今日、翔馬に勝つ。

『思いを乗せたプログラム。“ジキル&ハイド”より』

 嵐の前の静けさ。

 鐘の音が、演技の開始を告げる。

 リンクを一周して加速。自分で生み出した風の心地よさに身をゆだねる。

 白河歩夢が、白河翔馬に勝つためのとっておきの秘策。

 それは、世界初への挑戦だ。

 普通に考えたら、この絶対に失敗が許されない大一番で、ぶっつけの技に挑むなんて無謀そのもの。

 だが、その無謀の先にしか勝利はないのだ。

 失うものは何もないからこその挑戦。

 スリーターンから遠心力を生み出し、体を沈めて反動も使う。全ての力を、ただ天へと向けて跳び上がる。

 確かな跳躍。

 意識さえ薄れてしまいそうになるほどのすさまじい遠心力。

 そして次の瞬間、絶望的なまでの衝撃。

 悲鳴をあげる。俺の右足が。

 だが。

 ――ブレードは深く、深く、氷を削っていった。

『よ、四回転!』

 ――右足はしっかり持ちこたえた。

『ループ! 四回転の! 四回転のループです!』

 完璧だった。自分でそう確信できるほど、非の打ちどころのないクワドラプル・ループ。

『これは、世界初のジャンプ! 白河歩夢、世界で初めて四回転ループを成功させました!』 

 これが俺の用意した作戦。

 翔馬よりも難しい演技構成にする。

 単純で、そしてものすごく難しい作戦。

 その最初の技が成功した。

 だが、まだここからだ。四回転一つではとても翔馬には勝てない。

 すぐさま、二本目のジャンプへの助走。四回転ループに勝るとも劣らないジャンプ。

 左足のエッジに重心を乗せる。その反動がそのまま跳躍に。同時に振り上げた右足のエッジが氷を撫でる。その動作から、体をひねって回転力に。

 すべての動作がわずか一秒に凝縮され、そして大きな旋風を巻き起こす。

『四回転のサルコウ!』

『さらに四回転ッ!』

 ――二つ目、成功。いつもならここでガッツポーズの一つでも飛び出るところだが、今日はそうはいかない。

 前半に残ったもう一つのジャンプも、やはり四回転――。

 今度は助走は短め、そして多少のステップを挟む――ターンから左足のトウをついて、

『四回転のトウループ!』

『三つめの四回転ッ!』

 三度四回転を降りて、初めて小さくガッツポーズ。

 ここからはスローパート。しばし、スケートを楽しんでいこう。

 まずはデスドロップからのシットスピン。キャノンボール、パンケーキとディフィカルトポジションの連続から、手の位置で回転に変化をつけていく。

 さらに、今度はキャメルスピン。努力の末会得した少々不格好なドーナツスピン。背中を沿って、指でトウをつかみ円を描く。チェンジエッジも忘れない。

 そして、全身でスケートを表現するコレオステップ。

 極限まで抵抗を少なく、大きく滑っていく。

『ずっと弟の翔馬選手の陰に隠れていました。しかし、今こそその時、今日こそその日。歌詞に込められたその思い。オリンピックへの思いを、今、演技にぶつけます』

 ここで演技は折り返し地点だが、密度は後半に行くにつれてどんどん上がっていく。

 まずは畳みかけるような怒涛の5連続ジャンプ。

 その一つ目は、おそらくプログラムで最後の難所となる。

 今回は本当にミスが許されない。わずかにでもグラつけば、とんでもない減点になる――

 だが、今なら。

 吸い込まれるようにターンして、左足のトウを氷に突き刺した。

 四回転、そして次の瞬間には俺の右足は再び氷をとらえる。だが、そこでは終わらない!

 もう一度体を引き絞って、ワンモアジャンプ!

『四回転のトウループからトリプルトウループ!』

『四本目の四回転、成功ッ!』

『基礎点14.6が1.1倍に。さらにGOEの加点が3点近くつきます!』

 これで四本の四回転は成功――

 だが、ジャンプはまだ四本もある。

 次は、四回転を上回る高得点――アクセルからのコンビネーション。

 トリプルアクセルは、四回転にも勝るとも劣らない難易度を誇るが、俺にとっては最も得意とするジャンプ。それゆえ、このジャンプを考えうる限り最も難しい組み合わせで跳ぶ。

 跳躍から三回転半、そして軸足が氷に付いた次の瞬間、すぐさま一回転とともに足を換える。そしてトウをついてもう一度三回転!

『トリプルアクセル、シングルループ、トリプルフリップの三連続』

『トリプルフリップとのシークエンス!』

 難しいアクセルからのコンボも軽く決まる。今ならどんなジャンプでも、100回やって100回成功させられる気がする。

 そして、高難度のジャンプを立て続けに成功させたことで、俺の中にさらなる挑戦心が生まれていた。

 世界で初めて四回転ループを成功させたのだ。もうアクセルもループも、失敗するはずがない。

 だから俺は、もう一つ、とんでもないコンボを入れることにした。

 おそらくこの技も、決まれば世界初――。練習でさえ挑戦したことのない技だが、今なら。

 アクセルジャンプの軌道から、再び高く跳び上がる。

 完璧な三回転半。右足に全ての体重が乗る。だが、そこで俺はフリーレッグを軸足から離すことなく、再び着氷した右足のバネだけを使って、ワンモアジャンプ。

 ――ファーストジャンプより高く跳び上がる。

 完璧な三回転!

『トリプルアクセル、トリプルループッ!』

 再び俺の右足が氷をとらえた瞬間、叫びだしたくなる衝動を抑えることができなかった。

『三回転半から三回転のループ! これもおそらく世界初の技です』

『凄まじいコンボの連続ッ!』

 休む間もなく、次のジャンプ。

 もはや助走はいらない。この高揚感だけで十分だ。

 ステップから直接、なんの躊躇もなく。

『トリプルルッツ!』

『ここまでノーミス! さぁ、ジャンプはあと一つ!』 

 もう恐れるものなんて、何もないッ!

『トリプルサルコウ』

『決まったぁッ!』

 ジャンプはすべて成功。だが演技はこれでは終わらない。

 体力的にはかなりキツイ。

 8本のジャンプを着氷した右足は悲鳴を上げている。

 けれど、そんなことはどうだっていい。

 今、この瞬間、最高のスケーティングができてる。

 だからもっと滑りたい!

『さぁ後は、この美しいメロディに乗せて、駆け抜けるだけ! ストレートラインステップシークエンスッ!』

 リンクの端に立ち、60メートル先を見据える。そこは近くて、けれども遠い。

 ここからあそこまで、ステップとターンをいくつもこなしながら進んでいかなければいけない。

 このストレートラインは、決してまっすぐな道のりではない。何度も遠回りして、転びそうになりながら、それでも進んでいく道だ。

 でも、それが俺にとってのフィギュアスケートだから。

 滴る汗を振り払うように、再び進み始める。

 ――音楽をとらえていく。もっと、もっと、もっと細かく。音符の一つひとつを。自分の足に付いた二つのブレードでメロディを奏でていく。

 一歩、一歩、深く、深く、エッジを傾けて。画家が筆を振るうように、これまで積み上げてきたものを、氷に刻みつける。

 そして、ステップの勢いを助走にして、最後のコンビネーションスピン。

 速く、極限まで速く。どんどん肢体を体の中心に引き付けて、脳がはちきれそうなくらいの速度で。

 そして曲の終焉とともに回転をほどき、まぶしい天へと手を伸ばした。

 ――もう俺を支えてくれたメロディはない。

 代わりに、歓声だけが降り注ぐ。

『前人未到! 四回転ループ、そして四分半の中に四本の四回転!』

『いやぁ……本当に……言葉がありません』

 手を下ろし、視線をスタンドに向けた。そこには総立ちになって揺れる観客。

 花束やぬいぐるみが次々とリンクに投げ込まれる。歓声は鳴りやまない。観客たちは隅から隅まで総立ちで俺に――この俺に拍手を送っている。

 恵理子コーチは、言葉もなく抱擁でもって俺を迎えた。彼女の胸にほとんど飛び込むように身を投げ入れる。

 しばらく――時間にして数秒かもしれないが――抱き留めてもらった後、なんとか体に力を入れてコーチから離れ、エッジカバーを受け取る。

 ブレードに付いた氷を払うことさえ億劫で。無造作にカバーをつけ、キスアンドクライへと向かった。

 ソファーに座り、カメラに手を一振りすると観客たちは凄まじい熱量を帯びた歓声を返してきた。

『暫定値ではありますが、技術点では断トツの一位。全ての要素に出来栄え面、GOEで大きな加点がついています』

『ジャンプだけではなく、スピン・ステップにも気迫がこもっていましたね』

 机の上に置かれたミネラルウォーターのフタを、残こされたわずかな力で開けて、一気に半分を飲み干す。

「最高だったよ」

 演技後、コーチが初めて口を開いた。

「ありがとう」

「アクセルとループのコンボなんて、見たことないぞ」

「俺もないよ。演技中に思いついたんだ」

 そもそも男子でも女子でもトリプルループをセカンドジャンプにつけることができる選手は多くない。

 まして、それをトリプルアクセルにくっつけるなんて。ループを得意とする俺にとってさえ無謀な挑戦だった。

 まぁ、それでも成功したから結果オーライだ。

「さぁ、どこまで点数が出るかな」

 今の自分にできる演技はした。その自負はあった。

 でも、翔馬の点数を超えられるか、それはまた別の問題だ。

『翔馬選手も今日はいつにもまして素晴らしい演技をしました。果たしてそれを超えられるか』

『ショートの点差もありますし、フリーの技術点は歩夢選手の勝ちです。後は、演技構成点がどこまで伸びるかですが……』

 翔馬を超えるには何点が必要か計算する気力はない。今さらそんなこと考えたって意味がないのだから、後は待つだけだ。

『夢を掴むのは、兄か、弟か。さぁ――得点が出ます』


【――白河歩夢さんの得点】


 会場は一気に静まり返る。

 心臓がギュッと収縮する。

 そしてすぐさま、機械的に点数が読み上げられて――

 ――会場は複雑な色の絶叫に包まれた。

 俺はソファーに脱力してもたれかかった。

 ――勝負が終わったと思ったら、勝負はまったくわからなくなった。


 ♪


 全日本選手権。

 ソチオリンピック日本代表選考会。

 男子シングルの最終結果。

「優勝……か」

 今年の全日本選手権の王者は――この俺、白河歩夢だ。

 一瞬その現実が理解ができず茫然としたが、スチールカメラの音がけたましく鳴り響くのを聞くうち、それが現実だとわかった。

 そしてコーチは俺をゆっくりと抱き寄せた。言葉はなかった。 

 しばらくそうしたのち、連盟の職員が近づいてきて俺たちに告げた。

「代表選考の結果は、一時間後に発表されます」

 ――そう。

 全日本選手権に優勝したからと言って、オリンピック代表になれるわけではない。

 オリンピック代表の選び方は毎回違うが、今年の基準はこうだ。

 ――全日本選手権の結果を重視して、総合的に判断する。

 代表枠が複数あるときは、全日本選手権の優勝者は自動的に代表になるのだが、今年は代表枠が一つ。そういう時、代表は全日本の成績だけでは決まらない。これは有力選手が全日本で力を出せなかったり、そもそも全日本を欠場したりした場合に備えての救済措置だ。

 代表は連盟の判断で決まることになる。

 四年間一度も負けなかったが、今日初めて負けた白河翔馬か。

 たった一度だけ、マグレで全日本の王者になった白河歩夢か。

 その選択を連盟がするのだ。


 ♪


 テレビの取材が終わった後、いったんシャワーを浴びて着替えを済ませた。

 スケート靴と衣装を脱いだ時、長い戦いが一旦終わったのだと強く実感した。

 荷物をカバンに詰め込んで更衣室を出ると、

「歩夢」

 この十年間を共に戦ってきたリンクメイト――高橋花子が待っていた。

 オリンピック出場を逃したフリーから一日。彼女がこの一日をいったいどういう風に過ごして、どういう風に気持ちの整理をつけたかはわからない。

 でも、少なくとも今は、その表情から絶望は感じられなかった。

「ずっと考えてたんだ。今年の全日本が終わった後、どうしようかって」

 フィギュアスケートの選手生命は長くない。

 女子の場合それは特に顕著だ。だいたい15、6才で身体能力がピークに達する。その後は基本的には下り坂だ。

 そして残酷なことに、オリンピックは四年に一度しかない。

 もし花子が次のオリンピックまでスケートを続ければ、その時25才。少なくとも近代において、25才ででオリンピックを制した女性は一人もいない。それどころか、オリンピックの金メダリストの多くは十代の選手だ。

 彼女が次の四年間を戦っても、オリンピックで金メダルと取るどころか、出場することさえ危ういだろう。

 だったら。21歳。オリンピックイヤー。今以上の引き際はないだろう。

 ――でも。

「やっぱり、次のオリンピックを目指そうと思う」

 花子はそう言い切った。

「歩夢の演技を見て、やっぱりスケートは何が起こるかわからないって思ったから」

 彼女は笑って、そして自分の――金属が支えているその右足をさすって言った。

「足はろくにいうこと聞いてくれないけど、それでもまだ滑れる。まだ上手くなれると思うんだ」

 そうだよな。

 次のオリンピックで金メダルを取れる可能性は低い。

 出れるかどうかだってわからない。

 それでも、俺たちは滑り続ける。滑れる限りは。

 だって――フィギュアスケートが好きなんだから。

 フィギュアスケートで一番になるって決めたんだから。

「俺も、やっぱりオリンピックで一番になるまでは諦めない」

 もしかしたら次のオリンピックにだっていけないかもしれない。

 でも、そうなったとしても、俺は絶対に諦めない。

 その覚悟が今は確かにあった。

 と、その時、

「白河さん」

 後ろから呼びかけられ、振り返ると、そこにはスケート連盟の職員がいた。

 どうやら――審判の時がやってきたらしい。

「選考の結果をお伝えします」

 そして、その口から、

 ――――――――

 ――――――

 ――――

 ――冷酷な現実が告げられる。


「――代表は、白河翔馬選手に決まりました」


 ♪


 夢破れたその翌日。俺は再びリンクに戻ってきた。

 メダリストオンアイス。全日本選手権の上位選手が滑るエキシビションだ。

 正直、オリンピックの夢を逃した今、観客の前で呑気に滑る気になど到底なれなかったが、しかしこれもチャンピオンの勤めだ。

 ――オリンピックには出られなかったが、それでも俺は全日本チャンピオンなのだ。胸を張ってリンクに立たなきゃいけない。

 会場に入り、更衣室へ向かう。事前のリハのためリンクに集合することになっていた。

 約束の時間よりかなり早めについた。ちょっと早すぎて、まだ誰も来ていないかと思ったが――更衣室に入ろうとすると、ちょうど部屋の扉が開いて人が出てきた。

 ――翔馬だった。

「ああ」

 試合の後、表彰式で顔を合わせただけで、その後は一言も喋ってはいない。

 なんて言っていいのか、わからなかった。

 おめでとう――それが言うべき言葉だろう。弟がオリンピックに行くのだから、家族ならば当然の言葉だ。

 だが――そんな言葉を言えるほど、悟りを開いてはいなかった。

 なんとか、何かを言わなければ――と、言葉を探していると、先に翔馬が口を開いた。

「僕、オリンピックの後――現役続けるから」

 ポーカーフェイスで、彼はそう言った。

 けれど、その言葉はどこか力強くて――

「僕は誰にも負けたくない」

 そう言って翔馬は俺の横を通り過ぎていった。

 ――男子シングルの選手たちが知ったら、さぞ残念がるだろう。もちろん俺もその一人だ。オリンピックが終わって翔馬が引退すれば、自分が新しい王者になれる。皆そう思っていたのに。

 この無敗の帝王は、無慈悲にもその専制の続行を宣言したのだ。

 でも、それなのに、気持ちが高ぶっている自分がいた。

 また翔馬と戦える。

 そうすれば、勝つことだってできる。

 考えただけでもワクワクすることだった。


 ♪


 全日本選手権が終わった四日後。俺は実家を訪れた。

 目的は、両親に協力をお願いすることだった。

「だから、しばらく応援してください」

 俺は父親の真正面に正座して、そして頭を下げた。

 四年後のオリンピックを目指して、スケートを続けたい。

 でも、四年後、俺はもう25才のいい大人だ。普通ならちゃんと自立していなければいけない。

 そしてフィギュアスケート選手はあくまでアマチュアの世界。それだけでお金を稼いで、自立して生きていくことはまず不可能だ。

 自立することを考えれば、プロに転向するという道もある。でもあくまで選手としてオリンピックを目指したいのだ。

 だから、俺は考えた。どうやったら自立して、かつ四年後のオリンピックを目指すことができるか。

 必死に考えた結果、出した結論。

 それはコーチをしながら、選手としての活動も続けるということだった。

 愛音以外の生徒も教えるプロのコーチになるのだ。もちろん二足の草鞋を履くことなるし、そもそもコーチになりたいと宣言したところで、いきなりなれるものでもない。

 だから、まずは絵理子コーチのお手伝いとして働かせてもらう。そして少しずつ経験を積んで、そのあと独り立ちする。

 もちろん、コーチ業だけで自分のスケートにかかる莫大なお金をすべて工面することはできない。だが、幸いなことに全日本選手権のあと、ある企業からスポンサーになってもらえるという話がきた。

 スポンサー料とコーチとしての収入を合わせれば、なんとか親に頼らずにスケートを続けることも可能だろう。

「今すぐには無理だけど、二年以内に自立します。だから、それまで、スケートを続けさせてください」

 考えてみると、親に対してお願いをしたことなんて、いままで一度もなかった。スケートを続けることは、俺にとっては当たり前のことだったから。お願いする必要なんてないと思っていた。

 でも、もう甘えていい年ではない。

 自分のことは自分で何とかする。そんな当たり前のことが、今の俺にはできないのだ。そのことをしっかり自覚したうえで、自立できるまでは応援してもらう必要がある。

「二足の草鞋を履いて、それで本当にやっていけるのか?」

 と、父はそう問いかけてきた。

 それは当然の疑問だろう。

「生徒を持つと、自分も頑張らなきゃってなるんだ。絶対に自分のスケートにプラスになるんだよ」

「大学を辞めたら、もう普通に就職するのは難しくなるぞ」

 これからは選手としての練習に加えて、コーチとして生徒に教えることになる。当然今までより時間がなくなる。

 優先順位が低い物は切り捨てなければいけない。だから、俺はスケートに専念するために、大学を辞める決意をしていた。

 大学三年生まで私立大学の高い学費を出させておいて、本当に今さら何を言ってるんだって話だろう。

 だが、それが今はベストな道だと思った。

 父さんは、黙り込んで、しばらく机の真ん中を見つめた。

 だが、やがてため息をついて、

「お前がそうしたいなら、そうしろ」

 明後日のほうを向きながら、そう言った。

「ありがとうございます」

 俺はもう一度、深く頭を下げる。

 ……これで、なんとかスケートを続けられる。

「真面目な話は終わりにしよう」

 と、父さんは立ち上がる。

「――全日本制覇のお祝いに――ケーキを買ってきたんだ。いまコーヒー淹れるからみんなで食べよう」

 父さんはキッチンのほうに行ってケトルの電源を入れるのだった。


 ♪


 ――3月。

 東京開催の世界選手権。

 オリンピックの熱狂冷めやらぬ中――しかし、その王者は不在の大会。

 翔馬は日本代表としてオリンピックに出場し、そして圧倒的な演技で二連覇を果たした。男子シングルでの連覇は66年ぶり、アジア人としては初の快挙だった。

 だが、そんな偉業を成し遂げた翔馬も、世界選手権には出場――できない。

 何故ならば、オリンピック・世界選手権の代表を決める全日本選手権で、俺に敗北したから。

 オリンピックの代表は翔馬になったが、代わりに世界選手権の代表は俺、白河歩夢になった。

 スケート連盟も、日本の代表枠を1に減少させた去年のことを考えれば、俺を代表に選び、再びたった一人で送り出すのには抵抗があっただろう。

 だが、それでもスケート連盟は俺に日本のスケートを任せてもいいと判断したのだ。その期待には答えなければならない。

 そして俺は昨日のショートを首位で折り返した。

 あとは今日のフリーに全てがかかる――



『来年の世界選手権の代表枠がかかった演技。白河歩夢の戦いが始まります』

 ただ一人佇むは広大な銀盤。

 俺はこの舞台に、ただ一人立っている。

 去年と同じように俺に来年の日本の代表枠がかかっている。

 ――氷は無慈悲だ。

 勇気のないものを拒絶し、零度の冷たさで試練を与える。

 けれど――

 今の俺は、その無慈悲さを乗り越えてここにいる。

『4年後のオリンピックに向けて――ここから白河歩夢の物語が再び始まります』

 さぁ、恐れるものなど何もない。

 これは、これまでの10年を乗せた、俺の新しい4年間ための――最初のジャンプ。

 ブレードから伝わってくる氷の硬さ、そして繊細さ。決して友達にはなれないけれど、だけど俺にとってはなくてはならない大事な存在。

 俺は銀盤に背中を押されるように――跳躍した。


(END)

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俺氏スケーター、パリピな芸能人JKのコーチになる。 アメカワ・リーチ@ラノベ作家 @tmnorwork

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