第3話
3.
「高橋さんは、大学には行きたいと思ってる?」
放課後の教室。
私――高橋花子は、担任の先生と向かい合っていた。
先生と一対一の進路面接。
高校二年生の後期。普通なら、進路について真剣に考えなければいけない時期だ。
といっても、うちの高校ではほぼ全員が大学に進学する。それは、私のようにスポーツ推薦で入学した人間もしかりだ。
しかも2年時点で文系理系のコースに別れているので、多くの生徒たちにとって、この進路面談は“消化試合”に近い。
だが、私の場合は違った。
私は中一の時フィギュアスケートの実力を買われて入学し、そこから4年間授業にはほとんど通っていなかった。オリンピックチャンピオンになって、スケートだけで一生食べていくはずだった。その場合は、進路といっても、迷うのはどの大学に籍を置くか、というだけの話だった。推薦で受ければどんな大学でも入れたはずだ。もちろん大学で学問を修める気などサラサラなかった。
だが、怪我によって状況は一変した。
トップスケーターの座を失った私を、快く迎えてくれる大学はないだろう。
もし大学へ進むなら、受験勉強に真剣に取り組む必要があった。
でも、今まで勉強なんてしたことなかったし、やりたいとも思わなかった。
スケート以外のことに興味なんてなかった。
いや――もっというと。私はスケートにも多分興味がないのだ。
私が滑るのはただ単に――憧れの人に近づきたいだけなのだから。
「正直、迷ってます」
私は先生の問いに素直にそう答えた。
「そうだよね」
先生は、慎重に相槌を打った。
「興味ある学部とか、あるのかな?」
「……正直ないです」
「……そうか。花子さんは英語はできるから、そっちの方の大学にいくのも一つの選択肢ね」
確かに、数学に比べればまだ英語の方が見込みはある。海外遠征が多く自然と英語を使う機会は多かったから。
でも興味があるかといえば、NOだった。
私は言葉に詰まって黙り込む。
正直、先生からすれば怪我で10年間積み上げてきたものを失った生徒の進路なんて、なるべく触れたくはないというのが本音だろう。
「もし大学に興味がなければ、スケート関係の仕事に就く、言う道もあるのかな。スケートのコーチになるとかね。あと振付師とかっていうのもあるんでしょ?」
先生も「何か言わなくては」と思って、色々調べてきたんだろう。
確かに引退した選手にとって、プロのショースケーターになるか、コーチになるか、振付師になるかというのがメジャーな進路だ。
だが、どれも私に向いているとは思えなかった。
♪
面談を終えた私は、そのまま学校を出る。ぐるぐると頭の中で言葉にならないものが渦巻く。
気がつくと自宅の最寄りの駅についていた。
駅舎を出ると、秋の風が頰を撫でた。駅から家まではまっすぐ歩けば十分ほど。でも、私はなんとなく、わざと遠回りをすることにした。
商店街を通って歩く。寂れた商店が立ち並ぶそこは、けれどそれなりの人口に支えられて生きていた。
と、昔よく行っていた店が目に止まった。
個人経営のケーキ屋さん。
――懐かしいな。
別に特別おしゃれなわけでもなく、ありふれたケーキ屋さんだ。
小・中学生の頃、私や歩夢、当時現役スケーターだった絵里子コーチの誕生日になると、必ずこの店のケーキを買って食べていた。だが、ある時私が体重を気にし出したことで、周りが気を使い、その習慣もなくなってしまったのだが。
私は吸い寄せられるように、店に入った。
たまにはお土産に買って帰るのも悪くなかろう。
「いらっしゃいませ」
アルバイトの若い女性がにこやかに挨拶をしてくれた。
私はショーケースにあるケーキたちに目をやる。
真っ先に目についたのはモンブラン。歩夢はケーキを選ぶときは必ずモンブランにしていた。
「モンブラン2つ……」
自分の分もモンブランにした。別に私は特別好きなわけじゃなかったけど。昔もいつもそうしていた。
「あとはショートケーキを……2つ」
愛音の分は買わないでおこうか、なんて一瞬迷ったが、すんでのところで踏みとどまって、ちゃんと人数分注文した。
店員はケーキを手早く箱に詰めてくれる。進路のことを考えると憂鬱だったけれど、歩夢とケーキを食べることを想像したら、少しだけ気分も晴れた。小さかった頃の思い出に浸るのは悪くなかろう。
私は軽い足取りでケーキ屋さんを後にして、帰路に戻った。
家に着きドアノブをひねると、鍵は開いていた。家の中に入ると、リビングの方から愛音の声が聞こえてきた。
「どうですか、めちゃくちゃキレイでしょ?」
「ああ、すごいなこれ」
私は反射的に足音を小さくしていた。開いたリビングの扉から中を伺うと、歩夢と愛音がテーブルで何かを囲んでいた。
そして次の瞬間、それが何かを理解した。
――色とりどりのフルーツに彩られたフルーツタルトだ。
「本当に手作りしたのか?」
「ええ。もちろんです! 見た目もいいですけど味も美味しいですよ」
そんな会話が聞こえてきてどういう状況かわかった。どうやら、愛音が自分でケーキを焼いたらしい――それも、プロ級の腕前を発揮しているのは、遠目にもわかってしまった。
急に、息苦しさを感じた。
「あ、花子さん、お帰りなさいです」
都合の悪いことにそしてドアの前で立ち止まっていた私に愛音が気がつく。
「ちょうどよかった、ケーキを焼いたので、食べようとしてたんですよ」
愛音は満面の笑みでそう言う。
「……あ、うん、私はいい」
次の瞬間、私は反射的にそれだけ言って、そのまま階段に向かっていた。そのまままっすぐ自分の部屋に入る。そして反射的に鍵をかける。
重たいケーキの箱から手を離す。ケーキの箱は、ボトンと重力に引っ張られて床に落ちた。
そのまま私はベッドも倒れこむ。
本当に間が悪い。これまで私の意思でケーキを買って帰ったことなど一度もなかった。17年間やらなかったことをやったら、そのまさに今日、同居人がケーキを焼いていたなんて。
どうしてこんなに間が悪いのだろう。
――今思えば怪我もそうだ。
どうしてオリンピックの前なのだ。
オリンピックが終わった後なら、怪我くらいどうってことない。
オリンピックが終わった後なら、一生歩けなくなったってどうってことなかった。
歩夢と一緒にオリンピックに出た後なら――――別に死んだってよかった。
100年もある人生の中で――どうしてよりにもよってオリンピックの前に怪我をしてしまったんだ。
「バカで、根暗で、料理もできなくて、しかも……スケートもできない子じゃ……やっぱりダメなの?」
私は枕に向かってそう呟いた。
♪
弟子の初試合を終えて一息つきたいところだったが、翌週の水曜、俺はカナダへ向かっていた。
俺のシーズン初戦、グランプリシリーズカナダ大会に参加するためだ。
グランプリシリーズは、国際大会の中では世界選手権・グランプリファイナル・四大陸・欧州選手権につぐ権威のある大会。
グランプリシリーズの成績は、オリンピック代表選考には直接的な影響を与えないことになっている。だが、グランプリシリーズはスケート界での立ち位置を決める、一つのペンチマークの役目を果たす。ここで好成績を残せば、他の大会で高得点を出してもらいやすいなくなる、というわけだ。
特に、国際大会で全く実績のない俺は、是が非でもメダルを狙いたい。
――もちろん、簡単なことではない。
なにせこの大会には世界レベルのトップ選手が参加しているのだから。
そしてその筆頭はいうまでもなく――
「久しぶり、だな」
公式練習。
その場で、俺は去年の年末以来、10ヶ月ぶりに彼に会った。
フィギュアスケート界の頂点に君臨する、絶対王者――白河翔馬。
すらりとした肢体はバレエダンサーのように美しく、その肌は積もりたての雪のごとくきめ細かい白さを放つ。切れ長な目が印象的な整った顔立ちは、中性的な印象を与える。
史上最年少の15歳でオリンピック男子シングルを制覇し、今まで参加した全ての国際大会で優勝し続けている、まさしく生ける伝説。
――彼こそが俺の実弟、白河翔馬なのだ。
「久しぶり」
5年ほど前から翔馬はカナダに拠点を置いている。彼が試合以外で日本に帰ってくる機会はほとんどなく、仮に彼が実家に帰っても、俺が実家に寄り付かないので、こうして同じ試合にでなければ俺たち兄弟が会うことはほとんどないのだ。
「元気?」
兄らしい言葉を探して、でてきたのがそのたった二文字だった。
それに対して、翔馬は「うん」と二文字で返事をする。
家族なのだから、少しくらいは会話をしよう――と思ったが、なんの言葉もでてこないことに気がつき、そして俺はその努力を放棄した。
「まぁ、試合頑張ろう」
俺はそれだけ言って、その場を立ち去る。
♪
【――Representing Japan, Ayumu Shirakawa!】
過去最高のショートプログラムを披露した昨晩。
それから一夜明け、2位で迎えたフリースケーティング。
俺は11番滑走でこの演技に臨む。後には最終滑走の翔馬が演技を控えているので、ここで俺が最高の演技をすれば、プレッシャーをかけられるはずだ。
『グランプリシリーズ初の表彰台へ、白河歩夢の演技が始まります――』
コンディションは昨日に引き続き万全。
――翔馬に勝つために用意した“秘策”を披露する絶好の機会だ。
『事前に提出されたフリーの構成表には“4”の数字が3つ。2種類3度の四回転に挑みます』
そう、俺が用意したのは、一度のプログラムで3回四回転に挑む構成。
四回転を一度に3つも跳ぶのは、翔馬でさえやったことがない挑戦だ。これを成功させられれば、翔馬に勝つことも不可能ではないだろう。
もちろんリスクはある。だが、昨年から練習を始めて四回転サルコウの熟練度が上がってきたことで、成功の可能性はかなり出てきているはずだ。
今の状態なら――
『フリー、曲は“ジキル&ハイド”より』
静寂の中に鐘の音が鳴り響き、厳かに演技が始まる。
すっと氷を蹴ると、ブレードが氷をわずかに削り――景色が加速していく。
『さぁ、まずは四回転、三回転』
長音符に乗って滑り、切れ目なくターン、重心を右足に移す。
左足で添えるようにトウを突いた。
跳躍は刹那――
音楽は相変わらず穏やか――しかし俺の視界だけが加速し――
『四回転トウループ!』
右足に衝撃、エッジが氷を鋭く斬りつける。そこからもう一度左のトウを突く。
『三回転のトウループ!』
ショートと同じように、四回転+三回転のコンボを完璧に成功させる。
『完璧な四回転+三回転!』
『素晴らしいジャンプでした』
だが、まだまだ。
俺はコンボの余韻を、そのまま加速にして、次なるジャンプへと向かう。
『さぁすぐさま次の大技――今度はサルコウです』
簡単なターンから、右足を後ろに引いて、そのままエッジが氷を撫でるように振り下ろす。
遠心力が、そのまま45度の跳躍へと繋がり――
『四回転サルコウ!』
『2回目の四回転ッ!』
このプログラムの肝とも言える、四回転サルコウを完璧に決め、ガッツポーズ。
続いて、ステップからトリプルルッツを軽々決めて、その勢いのままスピンとステップシークエンス。
そして演技は折り返しへ。
『白河歩夢、ここまでは完璧な出来。さぁ、演技後半にもう一つ大技』
1度目の成功、そのイメージをしっかりと体が覚えている。だからなんの不安もない。
2度目は吸い寄せられるように――
『四回転のトウループ!』
『3回目の四回転! 完璧に決めてみせました!』
挑戦は成功――
緊張なんて既にない。高揚感に乗せられて、残りの三回転を跳ぶ。
『トリプルアクセル、シングルループ、トリプルサルコウ!』
さらに!
『トリプルアクセル!』
『2回目の三回転半も決まるッ!』
そこからは――ただただ滑っていくだけ。
『今こそその時、今日こそその時。さぁ、メダルへ向けて、最後のジャンプ』
『トリプルフリップ! ダブルループ!』
最後のエレメンツ、コレオシークエンス。
リンクの端。振り返った先には、60メートルの広大な銀盤。
完璧な演技を締めくくるスケーティング。
体は空気を求めた。
乳酸が全身に重くのしかかった。
だが、それでもこの身はどこまでも軽かった――
『白河翔馬、完璧な演技ッ!! 革新的な演技をやり抜きました』
曲が鳴り終わった――はずだった。
だが、演技の境目は、割れんばかりの歓声によってかき消された。
『いや……これは……驚きました』
『白河歩夢、とんでもないことをしてくれました』
自分でも信じられない。
3つの四回転を含めて、全てのジャンプが完璧に決まった。しかも、スピンやステップも練習以上の出来で、まるで自分ではないのではと思うくらいの演技だった。
「すごい!」
そんなボキャ貧な賛辞で、絵里子コーチは俺のことを迎えてくれた。単なる笑顔、というわけではなく、信じられないという驚きを多分に含んでいる表情だった。
「自分でも信じられないくらいうまくいった」
それが素直な感想だった。
力は出し切った、どころか、自分が持っていない力まで発揮できた気がした。
観客たちも興奮した様子で、高得点を期待する拍手が起きるほどだった。
【The marks for Ayumu Shirakawa――】
――出てきた点数に、カナダのリンクがどよめいた。
なんとなんと、驚異の290点越え。
【which brings him currently in the 1st place.】
『なんと、290.78点! 当然パーソナルベストを大きく更新! 11人滑って、ダントツでトップに立ちました!』
俺は王者の気分でキスアンドクライのソファーにもたれ、天井を仰ぐ。
これはもしかして、翔馬に勝てるんじゃないか?
翔馬のベストは290点強。ベストを出せれば彼の方が上に立つ。
だが、いかに失敗しない彼といえど、高難易度の技全てに加点をもらうのは簡単ではない。何より、彼は四回転トウループしか持っていないので、四回転は2度しか跳べない。技術点は俺の勝ちだろう――
俺は期待感に胸を膨らませて、翔馬の演技を見る。
『さぁ、白河翔馬の演技。兄が完璧な演技をした、その直後で滑ります』
――だが、彼の表情をみて、急に背筋が凍るような錯覚に陥った。
……なんだ、この尋常じゃない殺気は。
視線の合ったものを誰でも斬り殺す――そんな鋭い眼光。
『鋭い視線の先に、勝利は見えるか――グラディエーターの演技です』
彼が滑り出した瞬間、景色が一変する。
会場が、銀盤のリンクではなく、石の積み上がったコロッセオになる。
そこで滑るのは、一人の剣闘士(グラディエーター)。
手負いの剣士が、今、反逆に出る。
『まずは四回転三回転』
いつも確実に決めているジャンプ。
それを彼は今日も――
『四回転のトウループ、三回転のトウループ』
『まず一つ目の四回転!完璧に決めました。さぁ、兄は3本決めました。四回転2本の成功は勝利への絶対条件――』
『四回転のトウループ!』
『これも決めた!』
立て続けに四回転を成功させる。全く隙がない。これが王者の風格。
そこからトリプルアクセルも成功させ、激しいステップを挟んで演技は後半へ。
『さぁ、ここからは演技後半――まずは』
『トリプルアクセル、ダブルトウループ、ダブルループ』
『2回目の三回転半。これも見事に成功』
――予定していた大技は全て成功。
これで一安心――のはずなのだが。
今日の彼はどこかがおかしかった。
まるでまだ戦いは終わっていない――そんな表情をしている。
そして、その理由はすぐにわかった。
ここは本来トリプルルッツのはずだった。だが彼は、スリーターンからトウをつかずに踏み切ったのだ。
『――四回転のサルコウ!!!』
『なんと! 3回目の四回転! これは予定にはなかった技です!』
――バカな。
翔馬も四回転サルコウを習得していたのか!?
だが、事前の公式練習や6分間練習では、それを跳ぶな気配はこれっぽっちも見せていなかった。
全くもって突然、それをプログラムに組み込んできたのだ。
おそらく俺が四回転を3本跳んだのを見て、それで土壇場で彼もそれを真似してきたのだ。
――なんてやつだ。
彼に勝てるかもしれないというのは、単なる幻想だったのだ。
『これが絶対王者の演技ッ!』
会場は総立ち。ほぼ狂乱のような絶叫に包まれる。
白河翔馬という絶対王者が、さらにまた大きく進化を遂げた瞬間だった。
俺は本能的に敗北を悟った。
この大会での敗北ではない。
――スケーターとしての敗北だ。
俺は間違いなく今回の演技で、自分の才能の全てを出し切った。だが勝てなかったのだ。
♪
メダリストのために用意された記者会見。
ここは異国の地カナダだが、日本人の記者の数もかなり多かった。日本のスケート人気の高さを伺わせる。
「翔馬選手、優勝おめでとうございます。オリンピックイヤー、初めての試合を振り返っていかがでしたか」
まずは優勝した翔馬にマイクが向けられる。
「オリンピックに向けて準備してきました。それが今日のフリーでは皆様に一足先にお見せできたかなと思います」
「ご自身が持つワールドレコードを大幅に更新しました。そのことについては?」
「今までにしたベストな演技を、さらに超える演技をする。それ以外の自分は逆にかっこ悪いかなと思っています」
「ありがとうございます。最後に翔馬選手。オリンピックに向けて、抱負を」
記者のその質問には、きっと悪意などなかったはずだ。
事実を事実として捉えているだけ。
だが、その言葉は、俺を含めた、他の全ての日本人スケーターを否定している。
あくまで全日本選手権がオリンピック代表選考会。それが終わるまでは、代表の座は決まっていない。だが、記者は、翔馬がオリンピックにいく前提で、話を進めているのだ。
――そして、それに対して翔馬は当然のように、疑問を呈することもなく答える。
「オリンピックは集大成になります。これ以上の演技はない、僕が持っている全てを出し切った、最高で――最後の演技になるでしょう」
その言葉が出てきた直後、会場にスチールカメラの乾いた音が鳴り響いた。自分に向けられている訳ではないその光に、頭がクラクラする。
「それは今シーズン限りで引退するということでしょうか!?」
記者のその質問に、翔馬はすかさず答える。
「はい。オリンピックが僕にとっての集大成になります」
……引退?
翔馬はまだ19才だ。
女子ならわからないでもないが、男子ならまだまだ伸び盛り。次のオリンピックの時でも23歳。十二分に頂点を狙える年齢のはずだ。
なのに、彼はキッパリそう言い切った。
「19歳での引退は少し早いようにも思えますが?」
そんなおそらく世界中の声を代弁するような記者の質問。だが翔馬とて、思いつきで引退を宣言したわけではないのだろう。
彼は落ち着いた口調で答える。
「前回のオリンピックの後――一番になった後、何をすべきか考えました。そして、答えはたった一つだと気がつきました。――自分自身を超えることだと。自分にできることは全てやりきる。そう決めて今日まで練習してきました」
その言葉の意味するところは――
彼の敵は彼だけ。
白河翔馬を超えられるのは、白河翔馬だけなのだ。
だから彼は次のオリンピックで、彼自身の限界を超える。
他の人間など到底及ばない高みへと登る。
そうすればもう敵などどこにもいなくなる。
競うべき人間がいなくなるのだ。
そうなれば、彼に残された道は引退の二文字のみ。
全く持って当然の帰結。彼の実力と実績からすれば、当然の論理だ。
――いつかは翔馬に勝てる。そう思ってきた。だが、それが幻想だとわかった。俺は、はなっから相手だなんて思われちゃいないのだ。彼の敵はあくまでも彼だけ。それは、おそらく、この世界の誰も否定することはできないだろう。
♪
試合を終え、帰国した俺を愛音が出迎えてくれる。
そして愛音は、銀メダルのお祝いを言った後、あることを切り出してきた。
「あの、歩夢さん……実は、明日なんですけど……」
「どうしたんだ」
「うちのお母さんが、歩夢さんにお会いしたいと言っているんです」
「……お母さんが?」
「はい」
いつも陽気な愛音の表情が、今日は暗かった。
単に“挨拶”のための訪問ならば、愛音はこんな顔はしないだろう。
「話をするのはいいけど……でも、絵里子コーチは明日はまだ帰ってこないんだけどな」
絵里子コーチは振付師として、海外の選手の指導もしている。カナダにも振り付けを提供している選手がおり、俺の試合でカナダに来たついでに、その生徒に指導をしているのだ。
「絵里子コーチにはまた別に話すからいいと。それより、わたしのコーチである歩夢さんにお話があるって」
「俺に……か?」
「実は……」
と愛音は言いにくそうに口を開いた。
「わたしを、横浜の鈴木コーチの元で学ばせたいって言ってるんです」
♪
「こんにちは」
月島愛音の母親と聞いて、さぞ派手な人なのだろうと勝手に決めつけていたが。実際に家に現れた愛音の母親は、グレーのスーツをビシっと着こなした、やり手のキャリアウーマン――という見た目の女性だった。濃いめの化粧と相まって、つけ入るスキがない印象を与えている。娘とは正反対だ。
「どうぞ上がってください」
恵理子コーチがいないので、俺一人で全ての応対をしなければいけない。
一人で家に“偉い人”を招いた経験など皆無だからとにかく緊張する。
リビングに通すと、そこで娘が母を待っていた。
「久しぶり。元気にしてる?」
「うん……」
と、愛音はぎこちなく言った。
俺は冷蔵庫から緑茶のペットボトルを取り出して用意してあったグラスに注ぎ、二人の前に出す。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
俺は愛音の母親の対面に膝をそろえて座った。
「改めて、娘が大変にお世話になっております」
愛音のお母さんは浅くはなく、けれど深くもない角度で頭を下げた。
「いや、こちらこそ……」
「そして今日はお時間を取っていただいてありがとうございます」
愛音のお母さんは俺の出したお茶を一口だけ飲む。そしてグラスを置いて一息ついてから、こう切り出した。
「今日お時間をいただいたのは、娘の今後のことをお話しておきたかったからです」
俺は黙って言葉を待つ。
「結論から申しますと――愛音は横浜の鈴木コーチのもとで学ばせたいと思っています」
――鈴木コーチといえば、スケート界一の名伯楽。今まで何人もの世界チャンピオン、オリンピックメダリストを育ててきた。
昨年には指導者としての功績が認められ、アジア人男性として初めてフィギュアスケートの殿堂入りを果たした。指導力は折り紙付きだ。
つまり、愛音の母親はこう言いたいわけだ。
――お前では頼りないから、もっといい先生に娘を教えさせる。
俺は何も言うことができず、口が半開きにならないように力を込めるのが精いっぱいだった。
愛音のお母さんのいうことは、全くもって道理が通っている。愛音はおそらくこれまでのどのオリンピックチャンピオンよりも才能に恵まれている。そんな人間が、俺みたいな三流の選手の下で教わっていることが、本人のためになるはずがない。
「わたしは、他の人に教わる気はないの!」
と、愛音はそう声を張り上げた。
その怒気に驚いた。普段、愛音は怒ることなどほとんどないからだ。
だが母は娘の叫びを無視して続ける。
「愛音が歩夢さんにコーチをお願いしたいと思っていることは知っています。しかし、やはり娘の人生がかかっていることですから、できる限り最高の環境で練習をさせてあげたいのです」
――それは、ある意味当然のことだった。
才能に恵まれて、やる気もある娘の人生を、“白河歩夢に”預けるわけがない。
「だから、わたしは他の人には教わらないって」
愛音はさらに声を張り上げて言うが、母は娘の言葉など聞こえていないかのようにふるまう。
「白河さん」
鋭い目で見据えられて、俺は身動き一つできなかった。
「もし娘を預けたら、必ず世界一にできますか」
その質問で俺は観念した。
愛音の才能は本物だ。きっと誰に教わっても、世界チャンピオンくらいにはなるだろう。
だから「愛音が世界一になるか」、そう聞かれれば自信をもって頷くだろう。
だが、主語が変わった瞬間。
白河歩夢が。
他の誰でもない、白河歩夢が、愛音を世界一にできるのか。
問いかけがそう変わった途端、俺は言葉を失う。聞かれているのはほとんど同じことなのに。それなのに答えることができない。
「なんとか言ってよ」
愛音が珍しく見せたすがるような表情。
けれど、質問に対する答えは変わらない。
論理的に考えれば、俺は自信をもって断言すればいい。愛音を必ず世界チャンピオンにしますと。愛音の才能は本物なのだから。俺が教えても、世界一の選手になると。
でも、一体なぜ俺に断言できるというのだ。
「親御さんの方針に口を挟むつもりはありません」
俺が言うと、愛音の母親は小さく息を吐いた。
「白河さんには本当に感謝しています。白河さんのおかげで娘は本当にやりたいことを見つけることができたんですから」
そういう母親の口調は、それまでより少しだけ優しさを含んでいた。だから、それは本音なのだとわかった。
「それでは、今日はお時間をいただいてありがとうございました。失礼します」
そう言って、母親は立ち上がる。
「ちょっと!」
愛音が話は終わっていないと呼びかけるが、やはり母親は意に介さない。
そして愛音も――それまでの人生の中で意味がないと学んでいるのだろう――母親を追いかけることはしなかった。
部屋に二人残される。
「どうして、答えてくれないんですか。わたしを世界一にしますって」
彼女が初めて見せた、本気の非難。
「……世界一なんて、俺に語る資格があるわけないじゃないか。オリンピックにも出たことがないのに」
声が震えるのを止めることはできなかった。
「オリンピックに出ればいいじゃないですか!」
オリンピックという言葉を彼女が口にした瞬間。
「勝手なこと言うなよ!」
俺は思わず、声を張り上げた。
しまった。
何してんだ。
すぐにそう思ったが、それでも言わずにはいられなかった。
「俺なんかがオリンピックに行けるわけないだろ!」
そこまで言って、彼女のことも、自分自身の過去も未来もすべてを否定して。
それで、俺はようやく少しだけ冷静になり、同時に虚無感に襲われた。
愛音を見ると、まるで見捨てられた子犬のような表情を浮かべていた。
「なんでよ」
たった四文字。それは抗議ではなく、単なる失望だった。
♪
午前の練習を終えシャワーを浴びる。いつもなら昼食後もまた練習に戻るのだが、今日はこれで練習を切り上げなければいけない。
――親から、実家への召喚命令が下ったからだ。
実家はリンクから電車で一時間のところにある。帰ろうと思えばいつでも帰れる距離だ。
だが、この半年間一度も帰っていなかった。
半年間実家に帰らなかったのは、なにも忙しかったからじゃない。単純に親に会いたくなったのだ。
今回、召喚命令が下った理由も「親元を離れて生活している息子の顔を見たいという親心」では決してない。実家に行っても暖かく迎えられるなんてことはないのだ。
ものすごく久しぶりに下り方面の電車に乗る。平日の昼間なので電車にはほとんど客が乗ってなくて、余裕で座ることができた。
反対側の車窓を眺め、景色が流れていくのをなんとなく見つめる。
やたら時間の流れが遅かった。けれども、本でも読もうかという気分にもなれず、電車がただジリジリと実家に近づいていくのに身をゆだねる。
十分ほどで地元の駅に着く。そこからほんの5、6分歩くと実家が見えてきた。
久しぶりに見た我が家。だが実家に帰ってきたという安心感は皆無だった。
ドアの前まで来たところで、カバンのポケットを開き――そこで実家の鍵を忘れたことに気がついた。仕方がなく柵の外まで戻ってベルを鳴らす。
すると「はーい」という母さんの声がインターホン越しに聞こえた。「ああ、俺」と言うと、20秒ほどで扉が開く。
「おかえりなさい」
母さんは暖かい表情で俺を迎えてくれた。
「ただいま」
そう言ってから、靴を脱ごうと足元に目線をやると真っ黒な革靴が目に入った。靴を脱ぎながら「父さんいんの」そう聞くと母さんは「半休とったの」と答えた。
心の中で大きくため息をつきながら、自分の靴をキレイにそろえる。いつもは靴なんてほったらかしなんだけど。
そして玄関の横にある自分の部屋の扉を開けた。荷物をベッドに降ろして、はぁと大きくため息をつく。
父さんが既に帰ってきているというのはちょっと予想外だった。てっきりもう一時間くらいは猶予があると思っていたのだ。
――リビングに行けば“尋問”が待っている。
こんなにも気が重いのは一体いつぶりだろうか。
もう一度ため息をつく。そして俺はそのまま部屋を出て、いったんトイレに逃げ込んだ。便座に座り込み時間を稼ぐ。
そして2、3分経ったところで、もう一度大きなため息をついてから、水を流しトイレを出て階段を上った。
リビングに顔を出すと、ソファーに座っていた父さんと目が合った。
「おかえり。久しぶりだな」
その言葉は、威圧的というほどではなかったけれど、かといって優しさにあふれるという感じでは決してなかった。
「ああ久しぶり」
俺は一瞬迷った末、父さんの対面は避け、テーブルの横の面に腰を下ろした。
「元気にしてるか」
「まぁね」
そこから会話が弾むことはなかった。
母さんがお茶を入れてくれたので、それを飲む。
そしてそのあと、父が喋り始めた。
「さっそく本題だが……就活のことは考えたか?」
俺はその言葉に黙り込む。それが今日の本題。
「……今はシーズン中だから」
俺がそう言うと、父さんは少し語気を強めて言った。
「就活の解禁は4月っていうけど、どの企業もその前に選考は始めてるんだ。年明けには本格的に選考が始まるんだぞ」
……就職する気なんてないんだと、そう言ってやりたかった。
もちろんそんなことは口が裂けても言えないが。
今俺がスケートに専念できるのは、この人がスケートに必要な大金を黙って出しているからだ。
フィギュアスケートはものすごくお金がかかる競技。我が弟、白河翔馬のように超一流の実績を上げ、かつ世間からも人気がある選手なら話は別だが、ほとんどの選手は両親のお金に頼って競技を続けている。
つまり、親が金を出さないと言ったら、その瞬間引退を余儀なくされるのだ。
それはスケーターにとって最悪の事態――
そして、まさに今日、それが現実となった。
「年内いっぱいでスケートには区切りをつけて、就活に集中しろ」
俺はいきなりの言葉に驚き、しばらく口を開けて呆然とした。
そしてようやく言葉を返す。
「……年内?」
「何も今すぐに辞めろとは言わない。全日本を区切りにすればいい」
フィギュアスケートのシーズンは3月まで続く。
2月にはオリンピック、3月には世界選手権がある。
それなのに、年内を区切りにしろと。
つまり、父さんはこう言いたいのだ。どうせオリンピックや世界選手権に行くことはできはしない。だから、12月でキレイに引退できるだろと。
怒りで手が震えた。
でも、それなのに何も言い返すことができなかった。
世界選手権に行ける。オリンピックにも行ける。一生スケートで食べていける――そう言い切ることができなかった。
それが意味するのはつまり、俺の選手生命はあと一か月しかないということだ。
♪
【それでは、東日本選手権、シニアの部の表彰式を始めます】
全日本選手権への出場権をかけた東日本選手権。
もともと会場になる予定だったリンクで機材事故があったため、関東大会と同じく、俺たちのホームリンクである千葉クリスタルパレスが急遽東日本選手権の舞台となった。
特別強化選手の俺は出場を免除されていたが、それでも会場にいた。
――愛音のコーチとして、彼女と戦う最後の試合だったのだ。
この大会が終わったら、愛音は実家に帰り、横浜の鈴木コーチに師事する予定だった。
――そして。
俺が指導しての最後の試合の結果は――第14位。
愛音はベストな演技をしたが、しかし全日本選手権への切符を掴むことはできなかった。
関東大会の金メダリストとして東日本に来た愛音だったが、やはり東日本大会は層が厚い。東京や仙台には、全日本で上位を狙える選手がゴロゴロいて、彼女たちの壁を破ることはできなかったのだ。
――いずれにせよ、俺と愛音の師弟関係は今日で終わりだ。
♪
私、高橋花子は、東日本選手権をギリギリ5位で通過し、全日本の出場権を掴み取った。
関東大会では、花子の演技に――花子という天才少女の存在に動揺し、無様な演技を見せてしまった。
だが、今日は、なんとか今自分にできる最高の演技はできた。
――だからどうした、って話だけど。
ギリギリ全日本に出られるか、なんてそんなレベルの演技に、一体何の意味があるのか。全日本に出られて嬉しい、なんて気持ちは皆無だ。
私は使い慣れたロッカーで手早く着替えを済ませて、リンクサイドに向かった。
表彰式を眺めていた歩夢を見つけた。近くに愛音の姿はなかった。
「全日本出場、おめでとう」
歩夢は、少し遠慮がちにそう言ってきた。
かつて予選を免除されて、無条件で全日本にでて、優勝するのが当たり前だった私が、“全日本出場”なんていう“参加賞”に喜んでいるわけがないとわかっていたのだろう。
「ありがとう」
「とりあえず、帰るか」
「うん」
私は一瞬、愛音はどこに行ったのか、と思ったが、でもあえて歩夢の前で彼女の言葉を口にするのがためらわれた。
正直なところ、歩夢が愛音のコーチを辞めると聞いて、私は安心した。
私と歩夢の関係性は変わらない。でも。歩夢と私以上に仲のいい人がいなくなれば、それは私にとってはプラスも同然だ――なんて、そんな思考をする自分にはいい加減うんざりだった。
私たちは、並んで自宅へ向かう。
その間、会話はなかった。無言のまま自宅に着くと、コーチが夕飯を用意していた。
「愛音は?」
コーチが尋ねてきた。それに対して、歩夢が“多分夕飯はいらないと思う”と微妙にズレた回答をした。
――愛音は、これが歩夢との最後の試合で、しかも全日本への出場を逃したのだ。だから一人になる時間が必要で、そしてそのことを歩夢はわざわざ口にする必要もないと思っているのだろう。
「じゃぁ先に食べるか」
コーチもそれを了解して、食器を運ぶのを再開した。
♪
夕飯を食べ終えた後、私は早々に自分の部屋に引き上げた。
ベッドに倒れこむ。試合の後で疲れてはいた。けれど、気持ちはどこか燃焼しきれていなかった。
以前なら、試合のあとは勝っても負けても燃え尽きたという感じがあった。でも、今はいうことを聞かない体のことを気にかけながら、だましだまし演技を続けている。だからやりきったという気持ちになれないのだ。
――いや、フィジカルな問題だけじゃない。
もっと大きな原因がある。
――目標がないのだ。
前はオリンピックという明確な目標があった。それが今はない。だから滑っていても、生の実感がないのだ。
――こんな状態でスケートを続けることに、一体どれくらいの意味があるのだろうか。
いや、考えたところで答えは出ない。今の私には、スケートを辞める勇気もなければ、続ける勇気もないのだ。
気を紛らわせるために、机の上に置いてあったタブレットに手を伸ばした。こんな時は、好きな映画でも見ようと思ったのだ。
だが、運の悪いことに電池が切れていた。今から充電ケーブルに繋いでもすぐには使えない。
私はしぶしぶカバンをたぐりよせて、中に入っていた携帯で動画を見ようとした。だが、ポケットを漁っても携帯が見つからない。
「あれ、もしかして」
そこでロッカーに携帯を忘れたことに気が付いた。そういえば演技の後、カバンではなくロッカーの棚に置いて、そのままにしていた。
「あーしまったなぁ」
別にスマホがなくても何も困らない――が、少し思案して取りに行く事にした。
目覚ましのアラームがロッカーの中で鳴ったらうるさいだろうし、バイブのせいでスマホが棚から落ちる可能性もある。こないだ買ったばかりの最新機種なので、画面が割れたらショックだ。
私は立ち上がって、部屋を出る。
「ちょっとリンクに忘れ物したから取りに行ってくる」
絵里子コーチにそう伝えて、リンクへ向かった。
夜風は冷たくなっていたが、まだ心地よさを感じられる季節だった。
リンクにつくと、銀盤では数名の男子選手が練習をしていた。昼間は大会のせいで練習できなかったので、この時間は貴重な練習時間なのだろう。
彼らを横目にロッカーに向かい、携帯を回収する。ほんの少しの安堵。そのまますぐにロッカーを後にし、リンクを出た。
――このまま左に行けば、自宅。だが、今はなぜかもっと夜風に当たっていたいと思った。
ちょっと散歩をするのも悪くないかな。
私は自宅ではなく、海の方を目指した。東京湾の潮風なんて何かに汚染されていそうなものだが、実際には案外に悪くない。
長かった夏が終わりを告げ、セミの代わりにキリギリスだか、スズムシだかが鳴いていた。海に近づくにつれて、波の音が大きくなってくる。どの音も、ブレードが氷を削る音よりは、心地よく聞こえる気がした。
――だが、私はその中に、何か違う音が混ざっている事に気がつく。
そして、月明かりの下に、音の正体を見る。
――愛音がアスファルトの上で滑っていた。ローラースケート用の靴を履いて、広場を包むように立っている街灯だけを観客にして。
音楽はないし、振り付けは相変わらずひどく不格好だったけれど、でもドンキホーテのそれだとわかった。
フィギュアスケートは、ワンシーズンごとに曲を変えていく。
なので東日本選手権で敗北した未央が、ドンキホーテを再び人前で披露する機会はない。
それなのに、そんなことを全く感じさせないほどの懸命さで、彼女は滑っていた。
試合をこなした――そして敗北したその日の夜に。
一体、なんの意味がある?
もう彼女のシーズンは終わりだ。
次の試合は十ヶ月も先。
今日練習したってなんの意味もないじゃないか。
なのに。
彼女は懸命に滑っていた。
あんなに下手くそなのに。
なんの意味もないのに。
――いや、意味とか、そんなんじゃないか。
負けたら悔しい。
負けたらどこにも行き場のないものがたまる。
それを明日への力と見るか、それともそのままにしておくか。
彼女は力と見た。だから練習をしている。
負けて悔しいから練習する。
当たり前すぎることで、けれど今の私が失っているもの。
あんなスケートを初めてたった数ヶ月の素人が持っているそれを、私は失っていたのだ。
私はもう使い物にならないポンコツだ。
かつての栄光は取り戻せない。
才能も失ってしまった。
でも――思い出した。
確かに、悔しいと言う気持ちだけは残っていた。
スケートを辞められないのはどうしてだ?
このままじゃ後悔が残るからだ。
じゃぁ、そうならないようにするにはどうすればいい?
現実問題、今から何をしたってオリンピックには出れないだろう。
でも――今日勝てないなら、明日もきっと勝てない。
せっかく全日本に出れるんだ。
愛音と違って――かつての私と違って、もうトリプルアクセルは飛べない。
でも、だからってなんだ。
かつての自分がどうした。
全日本に出る他の奴だってトリプルアクセルなんて飛べないんだ。
だったら戦うことはできるじゃないか。
またゼロから始めればいい。
全日本まではたったの二週間しかなくて、二回転半がやっとの私だけれど、やっぱり――
――スケーターでいることを諦めたくない。
♪
全日本選手権開幕――
男子シングルは明日からだが、俺は公式練習に参加するために今日から現地入りした。
俺がリンクに着くと、同じ時間に練習する選手たちはすでにリンクに集まっていた。
――その中には翔馬の姿もあった。彼はすでにイヤホンをして自分の世界に入り込んでいた。俺は声をかけることはせず、自分の準備に集中する。
やがて前の組が練習を終えた。入れ替わりで俺たちがリンクに入ると――ブレードが氷を削る音に混じってカメラの音も響く。見なくてもわかるが、記者たちが翔馬の練習姿を激写しているのだ。
観客席には有料でチケットを購入して練習を見ている客の姿もたくさんある。スポーツはたくさんあるが、練習の“観戦チケット”が有料で販売され、選手の挙動がいちいち報道されるスポーツはフィギュアスケートくらいなものだろう。
だが、注目を集めているのは翔馬だけ。俺を含めた他の選手には一切関係のない話だ。
しばらく身体を温めたあと、早速ジャンプの練習に入る。
勝負を分ける四回転――だが、どうにもタイミングが合わず、転倒を繰り返す。
この二週間、ジャンプの調子がものすごく悪い。数日で元に戻るだろうと思っていたが、結局、今日までスランプは続いてしまった。
「ジャンプはそれくらいにしよう」
コーチの命令でしぶしぶジャンプの練習を諦める。
ダメな時はいくら練習してもダメだ。逆にどんどん悪くなることだってある。だから割り切って本番に賭けよう、という判断だろう。
――不安は募るばかりだが。
それからはスピンやステップ、演技全体の流れを確認する時間に当てる。
そしてあっという間に時間が過ぎ去ってしまった。身体にまとわりついた汗をぬぐいながら、リンクを後にする。
♪
公式練習の後一旦ホテルに戻って昼食を済ませてから、女子シングルのフリーを観戦するために再び会場に向かう。
昨日のショート、花子はなんとショートプログラムで6位に入り、最終グループに残っていた。
もっとも、中堅選手数人が揃って失敗したというだけで、花子がオリンピック代表に近づいた訳ではない。事実、上位陣との差は歴然で、3位との点差は15点以上ある。ジャンプが少ないショートでさえこの点差だ。フリーになればもっと点差は開くだろう。
怪我からの復帰戦と考えれば“大健闘”という評価もできる。
だが、オリンピック代表を狙っての演技と考えると、ショートで白黒ついたと言うのが妥当だろう。
――どうあがいても奇跡は起こらない。
だから別に期待をしているわけではないが……
結末だけは見届けなければと思った。
観客席に、選手たちのために用意された一角がある。そこで最低限の拍手をしながら、序盤の選手たちの演技をぼうっと見る。
第一、第二、第三グループ――ここに属している彼女たちは、オリンピックとは無関係。その演技を見ながら――それを自分に重ね合わせて――一体、何のために滑っているのだろうと考えた。
そして――いよいよ最終グループ。
六分間練習の開始が告げられ、まっさきにリンクへと飛び出したのは花子だった。
鮮烈な赤の衣装をまとって、勢いよく滑るその姿はかつての全日本女王にふさわしいものだった。
だが以前と違うのは、トリプルアクセルや三回転三回転といった高難度のジャンプを一切跳ばないということだ。三回転さえも跳ばない。一回転のジャンプで軌道を確認するだけだ。
ジャンプの確認をしたいのは山々だろうが、彼女には練習でジャンプを飛ぶほどの体力がない。本番で7本のジャンプを跳ぶのが精一杯なのだ。
――6分間はあっという間に過ぎ去る。残り2分ほどというとき、花子はリンクサイドに戻ってきた。
第一滑走の彼女は6分間の最後の時間を体力の回復に充てる必要があるが、それにしても休憩に入るのが少し早い。
やはり、練習量が制限されている以上、体力不足というのはどうしてもあるのだろう。
【選手の皆さんは、六分間練習を終了してください】
他の選手が全員引き揚げ、花子だけが銀盤に残される。
【19番。高橋花子さん、千葉クリスタルパレス!】
――大声援。演技後ならともかく、演技の前からこの大きさはちょっと珍しい。それだけファンの花子への期待が大きいということだ。
『さぁ、元世界女王、高橋花子の登場です。かつてオリンピック金メダルの最有力候補と目されていましたが、2年間で3度のケガがありました。今でも彼女の足には三本のボルトが入っています。代名詞だったトリプルアクセルを跳ぶことは、もうできません』
この試合でいい演技をしようが、どれだけ失敗しようが、彼女の人生には多分なんの影響もない。
だが、その表情からは――前回のオリンピックの大舞台で戦った時と同じように――人生を賭けて滑るというような気迫が感じられた。
『10月の時点では一回転を跳ぶのがやっとでした。それでも関東大会に出場。そして東日本大会では三回転を成功させて、この全日本の舞台に戻ってきました』
かつて天才少女と言われた彼女だが、今は凡人でも軽々跳ぶジャンプにさえ苦戦している。そんな状態で、しかし彼女はこの舞台に立った。それは――
『――オリンピックを諦めてたくない。そして、オリンピックの金メダルを諦めたくない。高橋選手はそう言いました』
オリンピックはそんなに甘くない。
この全日本にも、天才少女がゴロゴロいる。最終グループに残った他の5人全員が、世界選手権のメダルを狙えるほどの実力者だ。ケガ人が勝てる世界じゃない。
『客観的に見れば、オリンピックははるか遠くにかすんで見えます。しかしショートでは、元世界女王の意地を見せ、この最終グループに残りました』
――リンクの中央に立った瞬間、高橋花子は艶めかしいジプシーの女に生まれ変わる。
『最後は夢に殺されたとしても、それでも踊り続ける。逆転のカルメンです』
オリンピックイヤーにとっておいた、とっておきの一曲。
恋に生き、そして死んだ女性。
圧倒的な情熱の象徴。
紅蓮の美女カルメンは、まさに彼女のフィギュアスケートに対する想いを体現する。
今日は黒のアイシャドウが印象的なその瞳。そのまっすぐな視線が見つめる先は――
怪しげな旋律から物語は始まる。
――私だけを見ていればいい。
全ての男を虜にする美女のハバネラから。
『さぁ、最初のジャンプは――』
『――トリプルループ!』
『新たな三回転! ショートよりも難易度をあげてきました』
かつて、トリプルアクセルを跳びこなした少女が、演技の冒頭、とっておきのジャンプとして用意したのはトリプルループ。得点はトリプルアクセルの半分程度だ。
けれど、会場からは割れんばかりの大きな拍手。
『続いて』
『トリプルサルコウ! ダブルのトウループ!』
『コンビネーションも決まる!』
つい数か月前まで、一回転もまともに跳べなかった。そんな絶望的な状態から、彼女は全力で這い上がってきたのだ。
『トリプルトウループ、ダブルトウループ』
決して難易度の高いジャンプではないけれど、それでも彼女のジャンプはどこまでも力強かった。
オリンピックへの思い。それは誰よりも強いのだと。
『チェンジフットコンビネーションスピン。ポジションの変化もチェンジエッジも良いです』
『さぁ、ここから、彼女の見せ場』
演技中盤のコレオシークエンス。
一歩がとにかく伸びる。スケーティングに無駄がないから、抵抗がどこまでも小さくなる。“漕ぐ”ということをまったくしないのに、どんどん加速していく。
花子と言えばジャンプというイメージが強いだろう。だが彼女は、何もジャンプだけで世界女王に上り詰めたのではない。
卓越したスケーティングスキル。それが彼女の土台にあるのだ。
そして、それはケガをした後でも健在だった。いや、むしろさらに磨きがかかっている。
『オリンピックを絶対に諦めたくない。彼女はそう語りました』
どうして彼女のスケーティングは、これほどまでに強く、美しく、そして迷いがないのか。
どうあがいても彼女がオリンピックに行ける可能性はない。
――だが、そんな絶望的な状況で、それでも彼女は諦めていないのだ。
『たとえ最後は殺されたとしても、熱く、どこまでも熱く踊り続ける、それがカルメンです』
恋に生きた女、カルメン。
彼女に人生を狂わされたドン・ホセ。
今の花子は、オリンピックという美女に人生を狂わされたドン・ホセにも、最後までオリンピックの夢という恋に生きたカルメンにも重なった。
だからこそ、その演技はどこまでも美しく。
『ダブルアクセル、シングルループ、ダブルサルコウの三連続』
彼女の物語はどんどん加速していく。
『フライングチェンジフットコンビネーションスピン』
『ああ、既に泣いている観客が、会場にいます』
大きなケガをして、もう二度と滑れないかもしれない。そんな状況でも彼女がもがいてきたその苦しさは、俺にはわからない。
でも、こうしてこの舞台に戻って来た彼女の演技を見れば、昔との差は一目瞭然だった。
どこまでも深くスケーティングと向き合う。まるでひと蹴りひと蹴りが、氷との対話であるかのように。
パーカッションの一つひとつを、深く、深く、深く、どこまでも深く氷に刻み付けていく。
『――ここまで帰ってきました。さぁ、最後のジャンプ』
『ダブルアクセル』
『やりきりました!』
そのジャンプから、観客たちの拍手が鳴りやむことはなかった。
――最後のストレートラインステップ。
規定では、リンクの長辺をまっすぐ進めばそれでいい。
だが、彼女はそうしない。
なんども曲がって左右にステップを刻んで、時には逆戻りして、しかし全力で駆け抜けて――
『ここまでの道のりは、決してまっすぐではありませんでした』
それが彼女のフィギュアスケート。
『さぁカルメンの最期――ナイフでもって、自らに恋に終焉をもたらします――』
彼女が氷に膝をつき、曲が鳴りやんだその瞬間――
とうの昔に観客は総立ちだった。
無数の旗が揺れる。
無数の花束が舞う。
零度のリンクの上に立つ少女に、観客たちはどこまでも温かい歓声を送る。
『以前のように難しいジャンプは跳べません。しかし、見てください。この会場を』
――戦うということ。
これが、まさに戦うということなのだ。
ふつふつと何かが、心の奥底から湧き出てきた。幼い頃から一緒に滑ってきた仲間に、ものすごい演技を見せつけられた。
だから、居ても立っても居られない。
自分も、彼女を超えるような演技がしたい。
そんな原始的な衝動。
『高橋選手と言えば、ジャンプというイメージが強かったと思うんですが、今日はスケーティング、それに表現力。素晴らしかったと思います』
『難しいジャンプが跳べない中、いまは演技全体の完成度。そこにこだわっていきたいと話しました、高橋。今日はそれを見事にやりきりました』
もしかして。もしかすると。そんなことを期待させる――期待させてさえしまう、演技だった。
花子も、観客も――俺だって、祈るように得点の表示される画面を見つめる。
さぁ――得点が出る。
『ショート、フリーを足し合わせて現在の順位は――――6位!』
だが、それが現実だった。
プログラムの質をどれだけ高めていっても、高度なジャンプなしではオリンピックには届かない。
それは、きっと花子自身もわかっていただろう。
『オリンピックには……届きませんでした。しかし、素晴らしい演技を見せてくれました』
でも、それでも、諦めずに戦った。
絶対に勝てないとわかっていても、それでも戦ったのだ。
そして彼女は本当に素晴らしい演技をした。だから観客たちは惜しみない拍手を送る。
――画面に映った花子のその表情は、1割の納得と、そして9割の悲壮が浮かんでいた。花子は次の選手の演技が始まるまでしばらくキスアンドクライに座り込んでいたが、やがて立ち上がってリンクの裏に消えていった。
俺はそれを見て観客席から立ち上がり、彼女を追いかける。
下のフロアで花子を見つけた時、俺が声をかけるより先に花子がこちらに気がついた。
「金メダル、逃しちゃった」
涙はなかった。けれど彼女の瞳は確かに赤かった。
幼いころから、ただひたすらフィギュアスケートにだけ打ち込んできた少女。
周囲からも、絶対にオリンピックチャンピオンになると期待されきたこの少女が、今、その夢を絶たれた。
その絶望感たるや、想像を絶する。
――でも、オリンピックとはそういうものなのかもしれない。
多くのものを魅了する。けれど、その女神に選ばれるのはほんのわずかな人間だけ。それ以外の人間に待っているのは、ただの絶望だ。
その気持ちは痛いほどわかった。
だが――彼女は最後まで戦い抜いた。
本当に最後の瞬間まで、絶対にオリンピックに行くのだという決意とともに戦い抜いた。
――今の俺は彼女にかける言葉は持っていない。その物語の終焉を受け入れるのは、きっと花子自身にしかできない。
でも、彼女の物語は俺の物語を変えた。
――俺も最後まで戦おう。例え無理だとわかっていても、それでも最後の瞬間まで戦うのだ。
どんなに完璧な演技をしたって、翔馬に勝つことはできないかもしれない。
翔馬の強大さは凡人の想像を簡単に超えてくる。どれだけ強い決意を固めても、彼の演技を前にすれば圧倒されてしまう。
それでも戦おう。
やっぱり勝ちたいから。
俺は白河翔馬に勝ちたいのだ。
♪
「高橋選手、お疲れ様でした」
演技後に必ずあるテレビ局のインタビュー。
「ありがとうごさいます」
「フリースケーティングを終えていかがですか」
「そうですね……ちょっと不思議な気持ちです」
小さい頃から、ずっとオリンピックに行くんだと思って、頑張ってきた。
だが、今日、その夢が明確に絶たれた。
「オリンピックへの道は絶たれました。でも、……そうですね……」
私がオリンピックに行きたかった理由は一つ。
演技で思いを伝えたかっただけなのだ。
だから、
「私の演技が――大好きな人に伝わっていればそれでいいのかなと思っています」
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