第2話
2.
「とりあえず、もう関東大会にはエントリーしてるから」
愛音のコーチをやると決意したことを絵里子コーチに報告すると、そんな予想外のことを言われた。
「関東大会? まじで?」
関東大会は全日本選手権の地域予選だ。
関東大会までは2ヶ月を切ってる。
確かに愛音は、ジャンプの才能が他の選手より秀でているとはいえ、それ以外の部分はほぼゼロに等しい。
一応俺の真似事で、フリーを練習していたとはいえ、実際に試合で使えるレベルには程遠い。ジャンプ以外――スピン、ステップ、振り付け、スケーティングは、その辺の幼稚園児と同じレベルだ。
それなのにたった2ヶ月弱で関東大会に出るとは――
「一応言っておくが、参加賞狙いじゃないからな。もちろん本気で東日本、そして全日本出場を目標にやる」
コーチがそう言うと、横で聞いていた愛音が「はい、頑張ります!」と元気よく返事をした。
……頭が痛くなってくる。
他人を教えたことなんて一度もない素人コーチと、スピンもステップも幼稚園児レベルの生徒で、いきなり東日本選手権を目指すとは。
……不幸中の幸い、ちょっと前にルールが変わり、シニアでも関東大会はフリースケーティング1本勝負になった。なので、2ヶ月で作るプログラムは一つでいい。完成度は別にしてなんとか氷上に立つことはできるだろう。
「もちろん私も教えるぞ。三人四脚で頑張ろう」
コーチはそう言って満面の笑みを浮かべた。
♪
目標が関東大会と決まった以上、ゆっくりはしていられない。
なのでコーチをやると決めた翌日の午前から早速レッスンを開始することになった。
「まずは午前はジャンプの練習から始めよう」
愛音は現在女子では誰も跳ぶことができないトリプルアクセルを持っている。だが、それだけではフリーを滑ることはできない。
フィギュアスケートには六種類のジャンプがあるが、それらを全種類跳びこなさないと高得点が得られないルールになっているのだ。
事前に聞いたところ、彼女が跳べるのはアクセルとトウループのみらしい。
「あとはルッツ、フリップ、ループ、サルコウ。このうち最低でも1つ、高得点を目指すなら2つはトリプルでマスターしたい」
女子フリーでは7つのジャンプを跳ぶが、同じジャンプを繰り返すのに制限がある。得意のトリプルアクセルとトリプルトウループ、ダブルアクセルを2度繰り返すとしても、あと1つ足りないので、後一種類は跳べるようにならないといけないのだ。
「まずは、サルコウから練習しようか」
サルコウはトウループと並んで簡単なジャンプだ。しかし、トウループと違ってちょっと特殊な性質があるので、初心者には難しい。
「サルコウは、トウを使わずに左足だけで跳ぶんだけど」
ゆっくり跳ぶまでの軌道を示す。振り返って、左足に体重が乗ったところで右足を後ろに引いて、そしてそのまま前に振り上げる。その勢いで跳び上がり、ニ回転して右足で降りてくる。
「こんな感じ。じゃ、まずは俺の動きを見ながら、やってみようか」
今度は愛音の左側に立って、ゆっくりジャンプの軌道を見せる。愛音はそれを見よう見まねでコピーする。
だが、腑抜けた一回転をするのがやっとという状態だった。
まぁ、いきなりは無理だよな。流石に。
六種類のジャンプはそれぞれ飛び方が全く違う。オリンピックでメダルを取るような選手でも不得意なものがあるくらいだ。トリプルアクセルを跳べるから、トリプルサルコウも跳べるとは限らないのだ。
それから、愛音は10回分ほど挑戦するが、なかなかうまくいかない。
まぁ今日中にできるようになるなんて思っちゃいない。ジャンプの練習は気長にやるものだ。
だが、できない弟子の姿をただ見ているだけではコーチの意味がない。
「そうだなー。一つコツがあるとしたら、右足を振り上げる動作が、実はアクセルと似てるってことかな」
愛音の動きを見ていて、どうも動きの意味がわかっていないように見えた。形だけなぞろうとしているから、うまく力を伝えられないのだ。
だから、愛音が得意とするアクセルとの共通点を説明してあげれば、もしかしたらコツが掴めるかもしれないと思ったのだ。
俺は、動きながら説明する。
「右足を振り上げる。この時右半身が回転方向に振り上がる力をジャンプに利用するわけ」
俺の説明を聞いた愛音は、すぐさまそれを試してみる。
流石にいきなりはできない。
だが、一回、二回、三回繰り返したところで、突然、
「できた……っ!」
一回転サルコウだが、はたから見ても完璧な回転だった。
その感覚を忘れないうちにとばかりに、すぐさまもう一度跳ぶ。今度も完璧にいく。
そして、今度は少し勢いよく、二回転。なんと、これも軽々成功。
俺はその様子を唖然と見つめる。
だが、サプライズはそれだけでは終わらなかった。
さらに、今度はしっかりと助走をつけてスピードに乗って――
――トリプルサルコウ!!
「おいおい、まじかよ」
やや回転不足ではあったが、しかしそれでもちゃんと着氷した。
さっきまで一回転も跳べなかったのに、たった30分でトリプルサルコウを跳べるようになってしまったのだ。
こんなことってありえるのか。
愛音は単にトリプルアクセルが跳べるだけじゃない。彼女はフィギュアスケートの神様に愛されているのだ。
全くもって規格外。
すごいという賞賛を通り越して――脅威さえ感じてしまう。
今はまだ「俺に教わりたい」なんて言っているが、すぐに教わることなんてなくなってしまうだろう。
もしかしたら愛音は男子のトップ選手――例えば翔馬とさえ対等に戦えるような選手になってしまうかもしれない。
きっと俺なんてあっと言う間に追い越してしまうだろう。
そう思うと嫌な汗が流れた。
♪
「今日の練習はここまでにしよう」
1時間半の練習で、愛音はトリプルサルコウをすっかりマスターしてしまった。
全く持って末恐ろしい。
「ありがとうございました!」
気がつくと、予約した時間をオーバーしていた。俺たちが駆け足でリンク出ると、待ってましたとばかりに製氷機が入ってくる。
と、愛音が更衣室に向かったのと入れ替わりで、花子がリンクにやってくる。
この後は花子とそのほか何人かの生徒で合同でリンクを使う時間になっているのだ。
花子は準備運動を終え、スピンや振り付けの練習をする。
そして、体が温まってきたであろう頃、満を持してジャンプの練習に入る。
――半回転。いわゆるスリージャンプだ。
エレメンツ(構成要素)として認められず、点数もつかない。
運動神経がいい人なら、数時間の練習でマスターしてしまうような超基本の技だ。
だが、彼女は慎重にそのジャンプを跳ぶ。
なぜなら――それが今の限界だからだ。
――花子は、かつて世界一の選手だった。
彼女にしか跳べないトリプルアクセルを武器に、14歳でシニアに参戦すると瞬く間にGPファイナルと全日本を制し、翌年初参戦した世界選手権でも見事優勝を飾った。
その活躍に日本中が湧きたち、彼女は一躍シンデレラになった。
だが――その直後、悲劇が襲った。
2度の怪我。そして3度の手術。
結果、16才という、女子スケーターが最も輝く1年を棒に振った。
そしてなんとか氷に戻ったのが二週間前。
オリンピックは半年後。にもかかわらず、今の彼女はようやく半回転を跳ぶのが精一杯という状況だった。
幼い頃から誰よりも努力してきた天才少女の夢は突然失われ、オリンピックへの出場さえ叶わないのだ。
これほどの絶望はあるまい。
――だが、それでも彼女は滑り続けるのだ。
♪
愛音が家に来てから一ヶ月半。
九月も半ばに差しかかかるが、相変わらず猛暑日が続き、まだまだ夏は終わりをみせない。
だが、氷のシーズンは、着実に近づいている。
「よし、じゃぁ最後に通しで滑ってみるか」
俺が声をかけると、愛音は元気よく返事をした。
「はい!」
俺は音響に繋いだスマホを操作し、フリーで使う“ドンキホーテ”を流す。
愛音は、疲れた体に鞭を打ち滑り出す。
1時間半、かなり密度の濃い練習をした後なので、正直体力は残っていないだろうが、それでもジャンプを成功させていく。
スピンも、ステップも、そして振り付けも、なんとか形にはなっていた。
この一ヶ月半で愛音は、みるみるうちに上達していった。
最初はアクセルジャンプとトウループジャンプしか跳べなかったのに、今ではサルコウ、フリップ、ルッツを三回転でマスター。さらに、スピンもなんとかレベル2を取れそうなくらいには上達したし、拙いながらステップも踏めるようになった。
「普通の天才」たちが何年もかけて覚える内容を、たった一ヶ月でマスターしてしまったのだ。
「――うん、かなり上達したよ」
息を切らしながら戻ってきた愛音にそう声をかけると、彼女は満面の笑みを浮かべた。
「やった!」
「それじゃ、着替えて帰るか」
「はい!」
俺たちは更衣室の前で別れる。
シャワーを浴びて汗を流し、手早く着替えて、ロビーに向かう。少ししてから愛音も出てきた。
「お待たせしました!」
「おう」
俺たちは並んでリンクを出る。家まではほんの数分でたどり着く。
絵里子コーチは出張、花子は実家に帰っていたので、今日は愛音と二人での夕飯だった。
二人で食卓に並び、テレビをBGMに、コーチが作り置きしてくれたカレーをパクつく。
「そういえば歩夢さん」
「ん?」
「わたしたち、もう世間も公認のカップルになりましたね♪」
と、突然わけわからないことを言い始める。
「……なんのことだ?」
「これ見てくださいよ〜」
と、愛音は脇に置いていたカバンから一冊の雑誌を取り出した。
――よくクソみたいなゴシップが乗ってい女性週刊誌だった。見ると、今日発売のものである。
愛音はパッとあるページを開いて、俺の前に突きつけてきた。
「なになに……」
――月島愛音に熱愛報道!? お相手はあの白河翔馬の実兄!
「なんじゃこれ!?」
雑誌には、どこかのベッドに二人並んでいる俺と愛音の姿が映し出されている。
「これ、我が家(うち)の写真じゃないか!? なんで週刊誌にこんなのが載ってんだよ!?」
別にやましいことなどこれっぽちもないが、俺のプライベートがダダ漏れていることに悪寒がした。
だが次の瞬間、犯人が自白した。
「わたしがタレコミました!」
「自分から!?」
どこの世界に、自分で写真を撮って週刊誌に送りつけるJKがいるんだ!?
「これで週刊誌公認ですねぇ♪」
「いやいや絶対おかしいだろ!?」
だいたい、愛音は16歳。
俺は今年21になる成人だ。
万に一つでも手を出せば、お縄になるぞ。
「どうしてくれるんだよ!?」
ただでさえ、去年の世界選手権でメディアにバッシングを受けてるのに、こんな悪目立ちしたらまじで生きていけないけど!?
「諦めて、わたしと結婚すればいいんじゃないですか!?」
「そんな斬新な結婚の迫り方ある!?」
「わたしのコーチへの愛、伝わりました?」
「バカヤロウ!」
関東大会の後にはGPシリーズの初戦が始まるのだ。当然のごとく、メディアがわんさと押しかける。
「もうカメラの前に出られない……」
「そんなこと言わずに! 試合で優勝して、たくさんフラッシュを浴びてください」
……そういえば、次にフラッシュを浴びる瞬間は、自分の初戦、グランプリシリーズだとばかり思っていたが、よく考えてみると、その前に報道陣に相対する機会がある。
――実は愛音は5日後に初試合を予定しているのだ。
試合といっても、横浜のクラブと合同で行われる練習試合で、もちろんスケ連非公式大会だ。
だが、練習試合に出場する選手の多くが関東大会にも出てくる上に、形式も関東大会と全く同じ形で行われる。関東大会で入賞を目指す愛音にとって、最高の練習になるだろう。
♪
愛音との練習を終えても、俺の1日は終わらない。
そこから今度は自分の練習が始まる。
俺のシーズン初戦である、グランプリシリーズカナダ大会は関東大会の直後に行われる。
カナダ大会には翔馬も参加する。オリンピック選考会に直接の影響はないが、国際大会で好成績を残せれば、国内でのプレゼンスも上がり、高得点が出やすくなる。また、いい成績を残せないと世界ランキングが下がり、来年以降グランプリシリーズに出れなくなってしまう恐れもある。
なので俺にとっては極めて重要な大会だ。
そして俺はこの大会で今シーズンの“挑戦”を実行に移そうとしている。
それは、フリープログラムに3本の四回転を組み込むことだ。
四回転は1本でも成功させるのが難しい。それを3本となるとその難易度は想像を絶するものになる。世界王者の翔馬でさえフリーでは2本の四回転しか跳ばないのだから。
だが、だからこそ俺が3本跳べば逆転の目があるのだ。
そして、この1年、そのために練習を積んできた。
ここ数日、本番を意識したフリーの通し練習を中心にこなしている。
――今期のフリーに俺が選んだ曲は、ミュージカル、ジキル&ハイド。
アルベールビルオリンピックのテーマにもなった、This is the momentに乗せて、本番のプログラム通りに、3本の四回転を跳んでいく。
今年になってから練習を始めた四回転サルコウも含めて、確実に着氷していく。
――本番に向けて、かなり手応えを感じていた。
♪
――気がつくと夕方になっていた。1日を通してかなり激しい練習を続けたので、ふと気持ちが切れた瞬間、どっと疲れが押し寄せてきた。
リンクサイドに手を乗せて、息を整える。
――と、水を飲んでいると、アクリルのドアから、一人の少女がリンクに入ってきた。
一度は家に帰ったはずの愛音がだった。
見ると、何故か本番で使う衣装を着ている。
「どうした?」
聞くと、愛音が手のひらを合わせて言う。
「あの、お願いがあるんですが」
「なんだ?」
「最後に、自分でチェックしたくて。後、インスタにアップしたいんで、わたしの演技を動画で撮ってもらえませんか?」
インスタという言葉に思わず苦笑する。本当に芸能人らしい。
「はいはい。任せて」
携帯を受け取り、カメラを愛音に向ける。
愛音は音響のコントーラーで再生ボタンを押してから、リンクの中央へ滑っていく。
少ししてから、彼女がフリーで滑る“ドンキホーテ”が流れてきた。
相変わらず振り付けは下手くそだし、スピンやステップもまだまだ未熟だが、しかしなんとかエレメンツとしてギリギリ認定されるかな?というレベルにはなっていた。
たったの1ヶ月半でここまでこれたのは、やはり天才的だ。
この調子で成長していけば、来年には確実に全日本に出場できるだろう。
俺は確かな手応えを感じながら、ビデオを回し続けた。
やがて演技が終わり、息を切らしながら愛音が戻ってきた。
「……どうですか?」
「うん、いい感じだよ」
俺が言うと、愛音はぱぁっと明るい笑みを浮かべた。
「ほんとですか!?」
「ああ」
「やったぁ!」
無邪気に笑う愛音。
その姿を見ていると、コーチとしても嬉しい気持ちになる。
「ほい」
スマホを返すと、愛音はそれを受け取るなり、画面を操作して、撮ったばかりの動画を再生し始めた。
ドンキホーテの優雅なメロディが流れる。
だが、曲が進むにつれ……愛音の表情がどんどん暗くなっていく。愛音は基本的にいつでもハイテンションなので、そのギャップに驚いた。
動画が終わる頃には、すっかり血の気が引いたような表情になっていた。
「どうした?」
心配になって訊くと、ハッとした様子で顔を上げた。
「あ、いえ、あの」
愛音は珍しく言葉を詰まらせる。
「……大丈夫か?」
「いや、あ、大丈夫です。ただ単に……」
「……?」
「……よく考えたら、こんなに下手なのに、アップするなんてあり得ないなって」
――なるほど。理解した。
そういえば、愛音に自分自身の演技を見せたことはなかった。正直、まだそんなことをするレベルではないと思っていたのだ。
だから、今日、彼女は生まれて初めて自分の演技を客観的に見たのだ。
――気落ちするのも無理はない。
きっと愛音の頭の中では、軽快に、優雅に滑っているに違いない。だが、現実の彼女の演技はハッキリ言って、めちゃくちゃ未熟だ。多分、愛音自身が想像しているよりもはるかに。
しまったなと、思った。
明日試合という段階で、これを見せるんじゃなかった。迂闊だった。
「あ、でも、一ヶ月半でここまで来たのはめちゃクチャすごいぞ? それにジャンプは誰よりもすごいし」
俺は慌ててフォローする。
だが、愛音に俺の声は届いていない様子だった。
もはや手遅れなのは明白だ。
♪
翌朝。
俺は午前の練習を1時間で切り上げる。9時から横浜プリンセスFSCとの練習試合が始まるのだ。
8時を過ぎた頃ころ、練習試合に参加するスケーターたちが、リンクに続々と集まってきた。
「え! なんで! 月島愛音がいる!」
と、横浜から来た少年少女たちは、リンクの隅っこでストレッチをしていた愛音を見つけると、黄色い悲鳴をあげた。テレビでよく見る芸能人がリンクにいたらそりゃビックリするだろう。
「もしかしてロケか何か!?」
「ヤバ!」
「サインもらわなきゃ!」
特に小学生たちはもう遠慮なしに大騒ぎ。それを保護者やコーチたちがたしなめる。
「愛音、大人気だな」
俺が言うと、愛音は笑みを浮かべた。
――が、それはいつになくぎこちないものだった。
昨日からずっとこんな感じだ。
原因は簡単で、緊張しているのだ。
なにせフィギュアスケートはとんでもなく孤独な競技だ。30メートル×60メートルの広大な銀盤で、4分もの間一人きりで演技をする。そのプレッシャーたるや、10年スケーターをやっている俺でさえ慣れない。
まして愛音の場合は初めての試合。緊張しないわけがなかった。
こんな時、どう声をかけたらいいのか、未熟な俺は言葉を持っていなかった。「大丈夫さ」と言い聞かせたところで、なんの意味もないことは誰よりも俺自身が知っている。
こんな時、コーチってどんな言葉をかけたらいいんだろうな。
【――第一グループの選手の皆さんは、リンクで練習を始めてください】
試合が始まる前に、参加選手にはウォームアップする時間が与えられる。公式戦で言うところの“公式練習”に相当する時間だ。
今回の試合では、男女のノービスからジュニア、シニア全部合わせて5グループ、30人が滑る。
16歳の愛音は、ジュニアかシニアどちらかを選ぶことができたが、本人の希望でシニアを選択していた。
シニアは今回の練習試合では最終グループだった。
前の選手たちが練習をしている間、愛音は隅で振り付けの確認に時間を割いていた。その様子は直前まで粘る勝負への執念を感じる一方、やはり焦りが先行している印象は否めなかった。
そして、第四グループが終わりかけたところで、愛音はリンクサイドへ移動し、門のところで今か今かと待ち構える。
【――最終グループの選手の皆さんは、リンクで練習を始めてください】
アナウンスがあると、愛音は誰よりも先に、勢いよくリンクへと飛び出した。
いきなりかなりのスピードでリンクを周り、早速ジャンプの調整に入る。
まずは、彼女が武器とするアクセルジャンプ。
だが、焦りからか、タイミングがズレる。結果、一回転で降りてきてしまい、勢いよく尻餅をつく。会場から小さい悲鳴が上がった。
――ヤバイな。完全に緊張で硬くなっている。
それから立て直そうと、もう一度アクセルジャンプに挑むが、今度もパンク。
アクセルジャンプは無理だと気が付いたのか、代わりにトリプルトウループに挑む。アクセルに比べればはるかに簡単なジャンプ――だが、それもうまくいかない。回転が足らず、二回転半で前向きに降りてきてそのまま突っ伏すように転倒。
愛音の表情からどんどん生気が失せていく。
だが、止まることはなく、すぐに立ち上がり、不安を打ち消そうと、次のジャンプへと向かう。が、それも失敗。
「愛音!」
俺は見かねて呼びかけた。俺の声にびくりと反応する愛音。
「一旦ジャンプはそのくらいにしとけ。スピンの練習とかをしてから、ジャンプはまた終盤にやれ」
愛音は不安げな表情を浮かべているが、俺の指示にしたがって、一度ジャンプの練習をやめた。
そこからスピンとステップを入念に練習する――が。
愛音の緊張は、重症だった。練習ではできていたものが、ことごとくできない。場合によってはスピンを回っている途中で回転が解けてしまったり。
――これは、本気でヤバイやつだ。
♪
練習を終えると、愛音は息を切らしながらリンクサイドに戻ってきた。
通して練習したわけでもないのに息が上がっている理由は、緊張以外にない。
「大丈夫、まだ6分間練習がある。とりあえずシャワーでも浴びてこい」
「……はい」
演技への恐れ。
それはおそらくフィギュアスケートという競技をやるものであれば、多くの人間が通る道。
どうにかしてやりたいが、多分他人にはどうしようもできないものだ。
♪
試合はスケジュール通り淡々と進む。
今、第四グループの演技が終わり、氷上を製氷マシンが行き来していた。
この後いよいよ、最終グループ、愛音の順番だ。
製氷機がリンクを完璧に磨き終えた後、愛音を含めた選手たちが入り口のところに並んでその時を待つ。
【選手の皆さんは六分間練習を開始してください】
その言葉で、愛音たちが一斉にリンクに飛び出した。
演技前最後の練習時間がこの六分間練習。
愛音は軽く滑ったあと、早速ジャンプの確認に入る。
もちろん、確認するのはトリプルアクセル。
――だが。高さが足らずに二回転で転倒。
愛音は勢いよく立ち上がり、再び助走をつける。
もう一度、やはり同じアクセルジャンプに挑む。今度はしっかり踏み込んで――だが、タイミングが合わず、パンクして一回転に。
やはり、緊張はどうにもならないようだ。
そのあとも空回りを続けること5分――
「おい、愛音!」
近くを滑っていた愛音を呼び止める。
どうやら、すぐ後が自分の演技だということを忘れていたようだ。
愛音はグループの一番滑走。一番滑走の演技は六分間練習の直後に始まるので、6分のうち1分程度は時間を残して、体力の回復に当てるのが一般的だ。もちろん、そのことは事前に教えてあったが、緊張で忘れていたんだろう。
「最後のアドバイスだ」
俺の前に来た愛音の息は少し荒かった。
「ジャンプの高さは出てる。後は少しだけコントロールすることを意識すれば大丈夫だ」
だが、愛音にその言葉が届いていないのは明らかだった。
【選手の皆さんは、六分間練習を終了してください】
他の5人がリンクから撤収して、いよいよ愛音だけが白銀の世界に取り残される。
「ステップもスピンも前に比べたら格段にうまくなってる」
正直なところ、緊張している人間に対して、どんな言葉をかければよいのかはわからなかった。だからとりあえずポジティブな言葉をかける。
だけど、それで彼女の緊張がまぎれるなんてこれっぽちも思っちゃいない。そのことは、誰よりも俺自身が知っている。
【月島愛音さん、千葉クリスタルパレスフィギュアスケートクラブ】
いよいよ、愛音にとっての初めての演技が始まる。
「頑張ってこい」
俺はリンクの壁越しに、愛音の肩を叩く。愛音は「はい」と一言だけ言って、リンクの中央へ滑っていった。
スタート位置につき、刹那ののち曲が鳴り始める。
ドンキホーテ、パ・ド・ドゥ(見せ場)の冒頭で使われる優雅な調べに乗せて、愛音は滑り始めた。
だが、その表情は硬く、スケーティングにいつものような勢いはなかった。
まずはトリプルアクセル。今日は何度も失敗しているだけに、決して良い感覚は持っていないだろう。
スケーティングそのものにいつもの勢いがないからリズムも合わない。結果的に、いつもとまったく違う場所、タイミング、スピードでジャンプに向かう。
そしてそのことを彼女自身意識したのだろう。代わりにいつもより力を込めて跳び上がる。
だが、そんな何から何までいつもと違うジャンプが成功するはずもなく。
跳び上がる瞬間、彼女のエネルギーは突如として行き場を失い、わずかに一回転半だけして再び氷上に戻ってくる。
パンクは転倒よりも手痛い失敗だ。三回転した上での転倒ならマイナスで済むが、そもそも一回転しかできなかったとなると点数はないに等しい。
愛音の表情を見ると、露骨に焦りが見えた。
次は、トリプルフリップからダブルトウループの予定だったが、これもかみ合わず、最初のフリップが二回転に。
さらに次のトリプルも力みすぎて転倒。
冒頭3つのジャンプことごとく失敗して、演技はもう取り返しのつかない状態になっていた。
次のトリプルトウループはランディングがつまり気味だったが、何とか成功させてステップへ。
愛音は音楽を必死に聞き取って、予定していた振り付けに戻ろうとする。だが焦りから、スケーティングが浅く急ぎぎみになってしまい、曲とまったくかみ合わない――。
しかたがなく、振り付けをいくらか省略して、スピンコンビネーションに入る。だが、ここでもミスが出る。覚えたばかりのチェンジエッジが上手くいかず、軸が大きくぶれてよろけてしまう。なんとか回転を終えるが、大幅な減点は避けられない。
そんな中音楽が鳴りやみ、演技を強制終了させた。
ぽつぽつと、優しさから生まれた拍手が響く。
愛音は小さくお辞儀をして、すぐさまリンクを後にした。
「お疲れ」
そう声をかけるが、彼女は立ち止まることなくすれ違いざまに「すみません」とだけ言って、俺の横を通り過ぎていく。リンクの脇には即席のキスアンドクライが用意されていたが、彼女はそこを素通りして裏へと消えていった。
俺はそれを追いかけなかった。どうしようもない演技をした後の気持ちは、誰よりも知っているつもりだから。
♪
練習試合が終わるころになっても、愛音はリンクには帰ってこなかった。
俺と絵里子コーチは、携帯で「先に帰る」とメッセージを送ったが、既読はつかなかった。
一人になる時間も必要だろうと、探し回るようなことはせず、一旦コーチと二人で自宅に戻り、リビングで愛音の帰りを待つ。
「帰ってこないな」
コーチは時計を見ながら言った。時刻は夜の八時。そろそろ心配になってくる。
「どこにいるかわかるか?」
確証はないが、しかし心当たりはないでもなかった。
「もしかしたら……ちょっと俺探してきますね」
「ああ、頼んだ」
♪
家を出て、リンクの反対側、海方面へと向かう。
海岸に向かって10分ほど歩いていくと、公園が見えてくる。
かなり大きく、ほとんど何もない、コンクリートで覆われた平らな地面が広がっているだけの公園。
やはり愛音はそこにいた。
遠目にも彼女だとわかった。なぜなら、彼女はそこで“滑って”いたから。
タイヤがコンクリートを切りつける音が、暗がりのなかに響いていた。愛音は、ローラースケートで練習していたのだ。
近づいていくと、愛音も俺の存在に近づき、立ち止まる。
「やっぱここにいたか」
俺が聞くと、愛音は複雑な表情を浮かべた。
「……どうしてここってわかったんですか?」
「いつも練習してるもんな」
愛音が、リンクで練習できない時に、ここにきてローラースケートで練習をしているのは知っていた。
ずっと監視していたわけではないが、氷上練習以外にも、かなり長い時間こうして影で練習を積んでいたのだ。
「すみません、試合終わってないのに勝手に帰っちゃって」
と、愛音は頭を下げる。
「いや、別にいいよ。それより、試合後だし、練習はほどほどにしとけ」
俺が言うと、愛音は「はい」、と大人しくしたがって、靴を脱いだ。
「でも、もう少しだけ、風に当たってたいんですけどいいですか」
「ああ、もちろん」
俺たちはそのまま公園の端に行って、海辺のベンチに腰掛けた。
吹き付ける潮風は、今日は俺たちの味方な気がした。遠い対岸には工場の夜景が広がっている。
「歩夢さんは、SNSとかやらないですよね」
ふと、愛音はそんなことを言い出した。
「まぁ、やらないな」
時流に乗ってIDを作って見たこともあるが、特に呟きたいこともなかったので、すぐにやめてしまった。
「なんでみんなSNSやるかわかりますか」
「さぁ、なんでだろ。みんなやってるからかな」
「それもありますけど……」
と、そう言って少し間をあけて、愛音は答えを明かした。
「キラキラしてるって、思われたいんですよ」
「ああ、確かにそうなのかもな」
少なくとも彼女のような人間にとって、SNSはありのままの自分を投稿する場所でもなければ、愚痴を言うための場所でもない。
そうではなく、“キラキラした自分”をかき集めて、他人にそれを見せつける場所なのだ。
「……スケートをしてる自分は、もっとキラキラしてると思ってました」
なんともあるあるだ。自分の中では、優雅に、カッコよく、自由に滑っているつもりでも、現実はひどく不恰好。だいたいそんなもんだ。何も愛音だけが勘違いしているわけじゃない。
だが、愛音はその事実を冷静に、客観的に受け止めていた。
「キラキラ“したい”ならよかった。でも、そうじゃなくて、キラキラしてるって“思われたたかった”だけなんです」
なんとも、率直な告白。
けれど、それは俺にも心当たりがあることだった。
「誰かに負けたくないとか、誰かに追いつきたいとか、そういうのはいいんだけどさ。“誰でもない誰か”のことを考えちゃうと、ダメになるよな」
“翔馬に勝ちたい”って気持ちは、俺の原動力になっていた。
だけど、同時に、翔馬に負けてると“周りに”思われたくないって気持ちにもずっと囚われていたのだ。
俺はそれで何度も落ち込んで、何度も失敗してきた。
だから彼女の気持ちは少しだけわかった。
でも、共感以上に――弱い自分を客観視できる彼女の強さに俺は驚く。
技術的な弱ささえ認めるのは難しい。
なのに彼女は精神的な弱ささえ認めて、しかもそれを言葉にしてしまった。
――もしかしたら、彼女の1番の才能は、その精神的な強さなのではないか。
「――決めた」
愛音は唐突に立ち上がって、そして海の方へ歩いていった。そして柵の前で、突然ポケットから携帯を取り出す。
そして、ピッチャーのように両手を握ってから、スマホを持った右手を後ろに引いて――
次の瞬間、ジャンプの軌道のように携帯が放物線を描いた。
「おま――」
唖然としていると、ポチャンと海面に携帯が吸い込まれる音が、潮風の音の中で小さく鳴った。
「何してんだよ」
現代人にとって命の次に大事であろう携帯を、しかも事もあろうに女子高生の愛音が、海に捨てたのだ。
「わたしには必要ないものなんです」
清々しい笑みを浮かべて、愛音は言った。
唖然としている俺に向かって、さらに彼女は続けた。
「みんなのいいねもいらないんです。そんなものより、もっと大事なことがあるから」
そう言う彼女の顔は、本当にまっすぐだった。
――負けたくない。
――上手くなりたい。
そんな純粋な気持ちだけが、彼女の瞳からは感じられた。
「関東大会まで2週間。本気で頑張ります。だから、明日からもっとスケートを教えてください」
そんな風に言われたら――
一人のスケーターとして黙ってはいられない。
「……なら、俺のとっておきを教えてやる」
試合までたった2週間。果たしてどこまでできるかわからないが――もしかしたら彼女ならば。
♪
それからの2週間は、あっという間に過ぎ去った。
そして今日、いよいよ関東大会の当日を迎えたの。
愛音にとって幸運なことに、今年の関東大会の会場は、俺たちのホームリンクである、千葉クリスタルパレスだった。
いつも練習している氷で本番の演技ができるのは愛音にとってありがたい。
同じように見えて、氷の質はリンクによって千差万別。ホームリンク以外で滑るときは、現地の氷の特徴に合わせて滑りを変えなければいけない。その調整をしなくていいのは、愛音にとって大きいアドバンテージだ。
俺は愛音と一緒にリンクへと向かう。試合は朝9時からだったが、8時にはすでに多くの選手がリンクに集まっていた。
横浜プリンセスFSCとの練習試合の何倍も多くの人が集まっている。
そして、何より――
「カメラ、めちゃくちゃ来てますね」
いつもならもぬけの殻になっていることが多い、カメラマン用のスペースに、今日は各社のカメラマンが陣取っていた。
彼らは、リンクに入ってきた愛音を見つけると一斉にカメラを向けてシャッターを切った。
有力選手は関東大会への出場を免除されることが多いので、報道陣の注目度は高くない――のが普通だ。
だが、今回は特別だ。
第一に、“あの”月島愛音のデビュー戦であるということ。
そしてもう一つ――
「どう、調子は」
俺が声をかけたのは、すでにリンクサイドで準備運動を始めていた花子だった。
そう、今日の関東大会には花子も出場する。
かつての世界女王の、一年半ぶりの復帰戦が、この大会なのだ。
当然、メディアたちの注目度も高い。
「まぁまぁかな」
比較的リラックスした表情で花子は答えた。
彼女はまだ怪我の影響で、負荷をかけた練習ができていない。今月に入ってようやく二回転のジャンプを飛び始めたよう状況で、今回のフリーでも三回転ジャンプは予定していない。
だからこそ、あまり緊張していないのかもしれない。どうせ難しいジャンプは跳べないのだから。
「正直、二回転ジャンプだけで人前に出るのは恥ずかしいけどね」
と花子は自嘲気味に笑いながら言った。
かつて世界一のジャンパーと讃えられた花子にとって、試合で二回転を飛ぶなんて屈辱だろう。
だが、関東大会には有力選手が少ないから、花子が実力通りのスケーティングを発揮すれば、ジャンプ以外の要素と演技点で得点を稼ぎ、上位――おそらく1位か2位には食い込むはず。いずれにせよ東日本選手権への出場権を獲得することは容易だろう。
「あの!」
と、それまで黙っていた愛音が、花子に声をかけた。花子は怪訝な表情で愛音を見る。
「わたし、花子さんにも勝ちますから」
突然のライバル宣言。
花子は数秒の間面食らって硬直した。
「素人が何言ってんの」
愛音としては、ライバルに清々しく宣言しただけのことだろうが、花子からすればそれはきっと不快なものだっただろう。かつての世界女王相手に、スケートを始めて数ヶ月の少女が、勝ちますと言ったのだから。
だが今の愛音にはそれを宣言するだけの力がある――俺はそれを確信していた。
♪
試合は粛々と進んでいく。
関東ブロックは強豪選手が少なく、中部や東京に比べれば平均のレベルは決して高くない。だが、参加しているのは皆5年、10年とスケートを続けてきた選手たちだ。大小の失敗や粗はあれど、それなりの演技をする選手は多い。少なくとも、現時点で上位にいる選手たちの演技は、スケートを初めて数ヶ月の選手が簡単に抜かせるようなものではなかった。
――だが、愛音は彼女たちをなぎ倒して、勝つつもりだ。
前のグループの演技が終わり、リンクに製氷機が入る。そのタイミングで、ウォームアップをしていた愛音に声をかけた。
先週の練習試合の時は明らかに違う表情。
その表情に緊張は感じられなかった。
完全に勝負師のそれだ。
リンクサイドに着くと、愛音はそれまで纏っていたジャージを脱ぐ。
――まるでさなぎが孵化して羽を広げるように。
鮮烈な白色の衣装に目を奪われる。
その衣装は、特注品ではなくショップで購入した量産品だが、しかし愛音の魅力と掛け合わされば、その美しさは申し分なかった。
【選手の皆さんは六分間練習を――】
――演技直前の六分間練習がいよいよ始まる。
愛音はアナウンスを聞くなり、先頭を切って滑り出す。
自信の表れだろうか、最初にダブルアクセルを跳び、その後トリプルフリップを成功させると、その後ジャンプを跳ぶことはなかった。代わりにスピンやステップを念入りに確認する。
そして練習時間が終わる1分ほど前になると、こちらが声をかける前に壁際まで戻ってきて休憩をとる。
「水飲むか」
ペットボトルを差し出すと、彼女は無言でそれを受け取り少しだけ口をつけた。
そしてアナウンスが六分間練習の終了を告げ、他の五人がリンクから出ていく。
いよいよ愛音だけがリンクに取り残された。
【――13番、月島愛音さん、千葉クリスタルパレスFSC】
リンクのフェンス越しに、俺は愛音のコーチとして、最後の言葉をかける。
「ドンキホーテは、自分を騎士だと勘違いした狂人の物語だ。つまり道化の物語なんだ」
かつて俺も一年滑った曲。その曲に込められた意味を説明するのに、今以上のタイミングはない。
「だから、演技の見た目がどんなにかっこ悪くてもいい。いや、かっこ悪い方がいい。だってドンキホーテの見た目は道化なんだから。でも、心は騎士だ。だから、心さえ強くあれば、それでいい」
俺の言葉に愛音はしっかり頷いて、リンクへと大きな一歩を踏み出した。
愛音の登場を迎える拍手は小さめ。
それもそのはず。テレビのバラエティでは女王でも、スケーターとしてはなんの実績もないビギナーなのだから。
だが、観客たちは今日知ることになる。
月島愛音という天才スケーターのことを。
――愛音がスターティングポジションにつくと、刹那ののち曲が流れ始めた。
パ・ド・ドゥの序奏。
バレエにおいて、パ・ド・ドゥは演者が超絶技巧を見せつける最大の見せ場だ。
愛音はそれをジャンプという超絶技巧で表現する。
この会場の誰も、月島愛音という少女のことを知らない。
だが、今日知ることになる。
フィギュアスケートの歴史を変える、この少女のことを。
――歴史の始まり、その序章。
静寂の中、加速した愛音は、軽やかに、けれど力強く、羽ばたいた。
小さな体の一体どこからそんな跳躍が生まれるのか。何度見ても、驚嘆の一言。
そして、確実に、一回転、二回転、そして三回転と――――世界を驚かせる、半回転!
彼女の右足が再びリンクの氷を捉えた瞬間――けれど会場の反応は決して大きくはなかった。
俺と恵理子コーチだけが、大きな拍手を送る。
他の観客たちはその事実を現実として認識できていないのだ。
高橋花子という天才少女にしかできなかったトリプルアクセルを、こないだまでひな壇で陽気にトークをしていた芸能人が成功させて見せたのだから。もしかして、自分の見間違いなんじゃないか。そう思って、周りに意見を求める姿が散見された。
だが、観客が驚愕の事実を完璧に咀嚼する前に、愛音はさらに技をたたき込む。
再び、アクセルジャンプの軌道。この会場にいる誰もが、今この瞬間、月島愛音という一人の少女の跳躍を凝視する。
跳躍から三回転半! だが、ジャンプはそこでは終わらない。さらにダブルトウループ!
三回転半からのコンビネーション!
「よっしゃあッ!!」
着氷した瞬間、俺はこの会場の誰よりも大きな声を出した。
今度こそ、会場の全員が理解しただろう。
この少女が跳んだのはトリプルアクセル。そしてそれは決してマグレの成功ではないのだと。
――愛音は花子に勝ちますと言った。
言うまでもなく、それは不可能なことだ。
だが、もしわずかにでも不可能を可能に変えられる可能性があるとしたら。彼女の圧倒的なまでの才能を今この場で最大限引き出すしかない。
それは即ち――高難易度ジャンプを畳みかける!
まず最初の二本は成功した。だが、これで終わりではない。
ここまでも確かにすごい。だが、過去それを可能にした人間は、少ないながらもいた。人類にとって既知の世界だ。
そして、ここからはまったく未知。誰も成し遂げたことのない、フィギュアスケートの歴史を塗り変えるような挑戦。
実は、愛音自身もまだちゃんと成功させたことがない技だ。
だが、それでも彼女は今日その技に挑戦することを決めていた。
転んでも回りきればそれなりの点数になると言う目論見もあったが――それ以上に、勝つためにはこれを成功させるしかないと思ったのだ。
失敗は必至。だって練習でさえほとんど成功させたことがないのだから。
練習できないなら本番でもできない。
奇跡なんて起こらない。それが常識。
でも俺は祈った。
神様――どうかこの一本だけ。
たった一本だけでいいから、奇跡を――。
ストロークからターン。カーブを描き、鋭くトウを氷に突き刺す。
高みへと上っていく彼女に、会場の全ての人間の視線が吸い寄せられた。
美しい放物線は、確かに未来への架け橋のように――
彼女のか細い足は、けれど再び氷を捉えて、舞い戻る。
その瞬間、この世界に電撃のような衝撃が走った。
――四回転トウループ!!
世界で初めて! 女子が試合で四回転を成功させたのだ!
練習でもほとんど決まっていなかったのに、この土壇場でその成功をたぐり寄せたのだ。
それでようやく観客たちは気が付いた。
――このリンクで滑っているのが、本物のバケモノなのだと。
スケーターとしては無名の女子選手が、四回転と、二本の三回転半を跳んで見せた。天才、なんて平凡な言葉で捉えようとするのがおこがましいほどの、圧倒的な才能。
そう、それが月島愛音なのだ。
だが、これだけでは終わらない。さらに高難易度のジャンプを畳み掛ける。
少し長めの助走から、ターン、そして直後にトウをついて跳び上がる!
――トリプルフリップ! からの、ワンモアジャンプ! トリプルトウループ!
三回転+三回転!
超高難易度ジャンプの連続に、場内は茫然として拍手もまばら。人間は驚きすぎると、正しい反応ができなくなる。俺がつい一か月半前に体感したのと同じ驚きを、観客も追体験しているというわけだ。
さぁ、次はトリプル+ダブル+ダブルの三連続。
まずはトリプルループ。
だが、すぐに異変に気が付いた。
着氷した次の瞬間、右足のトウをつくのではなく――半回転で足を換える!
――ハーフループッ!
再び右足に体重が乗り、そこからサードジャンプはなんと――トリプルフリップ!
これはまったく予定していなかったコンボだった。
シークエンスの三番目にフリップを持ってくるのは、男子選手でもなかなかできない超高難易度の技。
彼女はこの過密スケジュールの中で、一体いつこんな大技を習得したというのだ。
――これが、真の天才の演技。彼女は俺の陳腐な想像なんて簡単に超えてくる。
そして演技は後半へ。
コーダなメロディに乗せて。
まるでEDMのように、だんだんとテンポが上がっていく。
体力的にはかなりきつそうだ。体力だけはこの短い練習期間ではどうしようもなかった。
でも、それでも懸命に滑る。
そのステップはつたない。けれど圧倒的な熱力をもって。
彼女がひとたび身を斬り返すたびに、氷のかけらが飛び散り低い音が残響する。
この会場のすべての目が今、月島愛音という少女の演技にくぎ付けになっていた。
――最後のスピン。ふらふらになりながらも、小さな身体中に残ったエネルギーをかき集めて、最高速度で回りきる――――――――――
――――――
――――。
曲が鳴りやんだ瞬間――光り輝くニュースターの誕生に会場は歓喜した。観客たちもようやく、天才少女がスケート界に現れた事実を認識したのだ。
愛音は疲れ切った様子で、形式的にお辞儀をして、リンクサイドに引き上げてきた。完璧な演技をしたという感慨に浸る余裕はないようだった。
「すげぇよ! まじで!!」
俺がいうと、愛音は少し照れたで笑った。
「ありがとうございます」
「だいたい、ジャンプシークエンスなんて、いつ練習したんだよ」
俺が聞くと愛音は息を整えながら笑みを浮かべた。
「先週からちょっと練習してました」
その言葉で改めて弟子の才能に驚く。
そうだった、彼女はフィギュアスケートの神様に愛されているんでした。
「あーヤバい、緊張するなぁ」
自分の演技の後よりも、はるかに緊張する。
主観的には、ブッチギリの一位だった。そりゃもう、どの選手よりも素晴らしい演技だった。
でも客観的に見れば穴はたくさんあった。スピンやステップはレベル4には程遠いし、振付の完成度も正直高いとは言えない。
そしてなにより、彼女には周りの選手と違って実績と言うものがないから、演技構成点で高い得点は望めない。
だから手ごたえとかい離した点数が出る可能性は十二分にある。
【――月島愛音さんの得点】
次の瞬間、具体的な点数が述べられる。
続いて、電光板にもその結果が表示される。
「おおお!」
――暫定一位!
愛音は最終グループで滑って、暫定一位に立ったのだ。
「まじか! おい! やったぞ!」
なんとなんと、ビックサプライズ。
技術点はブッチギリでトップ。やはり、演技構成点は低くつけられたが、それでも公式戦初出場であることを考えれば、十分な得点だった。
しかも、この大会の演技順はまったくのランダムなので、最終グループにトップ選手が集まっているというわけではない。既に今日の優勝候補たちも何人か滑っているが、それをなぎ倒しての暫定一位なのだ。
「メダル行けるんじゃないか」
後に五人も残っているわけだが、それでも俺はそんな言葉を口にしていた。
俺たちは安心感と、そして期待感を胸に、続く選手たちの演技を見守った。
【現在の順位は、第二位です】
愛音の後の少女たちも懸命に滑るが、一人、また一人と、優勝争いから脱落していく。
そして、四番滑走の選手が愛音を抜けなかった時点で、メダルが確定。
もうサプライズを通り越して奇跡だ。
だが、奇跡はそれでは終わらなかった。
五番滑走の選手、昨年全日本ノービスにも出場した優勝筆頭候補だが――彼女も愛音を抜けなかった。わずかに0.11の差で二位につける。
これでなんと、愛音の銀メダル以上が確定。
「夢を見てる気分だよ」
だが、まだ夢は終わらないかもしれない。
もしかしたら――いやそんなことはないとはわかっているが、でもどこかで期待してしまう。
【24番、高橋花子さん、千葉クリスタルパレスフィギュアスケートクラブ】
彼女の名前がコールされた瞬間、一斉にカメラの音が鳴り響いた。
情熱の赤色に染まった衣装。彼女が演じるのは、恋に生きた女、カルメン。
元世界女王の登場だ。当然ながらその注目度は極めて高い。観客たちが浮足出すのを感じる。
だが花子は、いつも通りの落ち着いた表情でリンクを滑る。
そして定位置についてしばらくして、怪しげなヴァイオリンの旋律が鳴り響く。
滑り出して、まず感じたのは――その圧倒的な速さ。リンクが小さくなったような錯覚。ひと蹴りで一気にスピードをあげ、そのあとは慣性の法則にしたがっていく。 怪我でジャンプの練習はできないが、元世界女王の基礎的なスケーティングスキルは健在。圧倒的なスケーティングスキルから生み出される演技のスピード感は群を抜いている。
だが――それはあくまで“周りとの比較において”だった。確かに今日滑ったどの選手と比べても速いのだが、“いつもの彼女”と比べると少々遅く感じられた。
――もしかして。
都合のいい邪推が頭をよぎった。
最初のフリップジャンプ――、回転数は二回転。これは難なく成功――俺は拍手を送った。
だが――会場は微妙な空気感に包まれていた。
かつての日本のエースの復帰戦。きっとファンたちは、その完全復活を期待しただろう。だが、今の彼女は完全復活なんかとは程遠い。その事実をまざまざと見せつけられたのだ。
――もちろん、今の花子に以前のように世界を席巻したジャンプは望めない。
だが、例えジャンプがなくとも、この関東大会でトップに立つには十分な力は残っている――ノーミスで滑り切れば。
さて次は、練習ではダブルルッツ+ダブルトウループ+ダブルトウループの三連続の予定だった。
だが、やけに慎重で、大ぶりな助走。
これはもしかして――
思った瞬間、彼女はターンをした。これはルッツの軌道では無い。
花子は左足のトウをつき、トウループでまいあがった。
その回転数は――トリプル!
練習でようやく取り組み始めた三回転ジャンプ。それをこの土壇場でプログラムに組み込んできたのだ。
――だが、次の瞬間。
場内から悲鳴が上がった。この転倒はおそらく誰も予想していなかった。
決して万全では無い花子の転倒に、怪我が悪化しないか心配になる。
だが、彼女は歴戦の選手らしく、すぐさま立ち上がって、滑り始めた。
続いて、もう一つのジャンプ。
今度はダブルサルコウ。練習でもほぼ完璧に成功できている簡単なジャンプ――だが。
会場から小さな悲鳴。着氷でよろけたのだ。
「愛音の演技、めちゃくちゃすごかったのかもな」
リンクに目線を向けたまま、隣の愛音に話しかけた。
もちろん、どんな選手でも――いや、一人だけ例外がいるけど――転倒をゼロにすることはできない。だから、今の花子の転倒だって、たまたま失敗しただけじゃないかと思う人もいるだろう。
だが、それは違うと断言できた。
彼女はあきらかに硬くなっているからだ。
演技を終了しさえすれば東日本出場はほぼ確定。そんな状況で彼女に緊張する理由があるとしたら――明らかに月島愛音という新たな天才を意識しているのだ。
愛音の演技を見て、おそらく花子ちゃんは今までに感じたことがないほどの脅威を感じただろう。
花子は、同世代の中でも群を抜いた才能を持っているし、人並み外れた努力もしてきた。
だが、怪我をして難しいジャンプが飛べなくなった所に、突然自分よりもはるかに才能に恵まれた少女が目の前に現れたのだ。きっとこう思うだろう。自分はどれだけ努力しても、この少女には勝てないのではないかと。
圧倒的な天才を前にしたとき、人はどうしようもない無力感に襲われる。今まで血のにじむような努力を重ねてきたのであれば、なおさらだ。
そして、そんな葛藤の中で滑っていれば、必然的に演技にほころびがでる。
曲とのわずかな不調和。ジャンプのわずかな力み。そうした小さな差が、転倒という大きな失敗へとつながってしまうのだ。
俺は今、愛音のコーチという立場だ。だから愛音の勝利を願っているが――
しかし、花子も10年来のリンクメイト。決して無様な演技をして欲しい訳では無い。
――ここから立て直して欲しい。
もう一度、ダブルルッツ――これは成功。
そして続いてダブルループ、これも成功。
その後も大きな失敗はなかった。
だが、いつもの彼女の演技を知っているだけに、精彩を欠いた印象は否めなかった。誰より彼女自身が信じられないという表情で、キスアンドクライに戻ってくる。
勝負は全くわからなくなった。
スケートは技術点と、演技構成点の合計で評価される。
技術点とは、全ての「技」の点数と出来栄えの加点減点を足し合わせた数値だ。これについては、高難易度のジャンプを連発した愛音の圧勝。しかも、花子はミスを何度か犯したから差は大きいだろう。
一方、演技構成点は当日の出来がどれだけ悪くても、大幅に下がることはない。もちろん、かつてのように9点台というわけにはいかないだろうが、急に4点台にはなるまい――が、ミスが目立ち、演技に精彩を欠いたことを考えると。
【高橋花子さんの得点――】
その点数が出た瞬間は、まだ理解できなかった。
だが、画面に表示された順位の一覧に、花子の名前が加えられた瞬間、俺たちは理解した。
「優勝だ!」
隣にいた愛音をおもいっきり抱き寄せた。
なんてこった。
初めて出場した公式大会で優勝。そんなことが起こるのか。
愛音は、目を丸くして画面に映った得点を見つめていた。まだ実感がわかないのだろう。
「優勝だぞ!」
俺はあらん限りの声でそう言った。
愛音は、俺の顔を見て、呟く。
「わたし、勝ったんだ――」
「ああ、優勝だ!」
愛音は心の底から出たという笑みを浮かべた。
「歩夢さん――!」
そしてそのまま俺に抱きついてくる。
今まで、選手としての喜びしか知らなかった。
だけど、俺は今日知った。自分が――わずかにでも――教えた生徒が試合で勝つことがこれほど嬉しいのだということを。
まるで、自分のことのように――いや、あるいはそれ以上の喜びだった。
♪
――表彰式。
関東大会のそれはリンクサイドの一角で行われ、記念撮影のついでといったくらいのものだ。
だが、一番高い台に乗った弟子の姿を見ると、とにかく誇らしい気分になった。
――一方。
その左隣には、銀メダルに終わった花子の姿もあった。
試合後、彼女はしばらく虚空を見つめていた。
銀メダルであれば、東日本選手権にはコマを進めることができる。なので金メダルだろうが、銀メダルだろうが、予選突破には変わらず、この後の選考にも影響しないので、ある意味では大したことはない敗北、ということもできる。
それに、復帰直後で万全の状態ではなかったのだ。これが一ヶ月後だったら、また結果は違ってきていただろう。
――なんて。そんなこと関係ない。
花子が抱いているのは、圧倒的な敗北感だ。
かつて花子は、現役女子としては唯一トリプルアクセルを飛びこなし“天才少女”と呼ばれていた。
だが怪我で全てを失い。
そして、今目の前に自分を超える才能と若さと健康を持った少女が現れたのだ。
天才に追い抜かれる天才。
その気持ちはきっと――ひどくみじめに違いない。
試合後、俺はまだ花子に話しかけてはいなかった。リンクメイトとして、幼馴染として、慰めるべきだと思う人間もいるだろう。でも――
――敗者には、一人で心を落ち着ける時間が必要なのだ。
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