俺氏スケーター、パリピな芸能人JKのコーチになる。
アメカワ・リーチ@ラノベ作家
第1話
1.
『オリンピックの代表枠がかかった演技。白河歩夢の戦いが始まります』
ただ一人佇むは広大な銀盤。
その冷たさに直接触れているわけではない――少なくとも今この瞬間は。
だが空気から伝わる冷たさは確かに俺の体力を奪う。
――この冷たさで冷静になれたらどれだけいいだろう。
アリーナを埋め尽くす観衆。彼らの視線もまた冷たかった。そりゃそうだ。彼らがプレミアの付くチケットを買ったのは、何も俺の演技を見るためじゃないんだから。
『歩夢選手にとって初めての世界選手権。弟の翔馬選手とともに兄弟で挑む予定だった本大会。翔馬選手は、世界選手権四連覇がかかっていましたが、インフルエンザで欠場』
そう。この会場にいる人々の目当ては俺ではなく、弟の白河翔馬だ。
白河翔馬。
オリンピックチャンピオン。
世界選手権、グランプリファイナル、全日本選手権、全てで三連覇。
前回のオリンピックから無敗。
まさにフィギュアスケート史上最強のスケーター。
それが俺の弟、白河翔馬だ。
だが、あの憎たらしい最強の男はこの世界選手権をインフルエンザで欠場。
『日本がオリンピックの出場枠を二つ以上獲得できるか、全ては兄の歩夢選手にかかっています』
この世界選手権においての俺の成績次第で、来年行われるオリンピックの日本の代表枠数が決まる。
そして、制度上、俺がこれからどんなにひどい演技をしても、日本の代表枠が一つ以下になることはない。つまり、常勝無敗の白河翔馬がオリンピックに行くためのチケットだけは既に確保されているのだ。
では俺の演技には何がかかっているか。
それは、俺自身がオリンピックに行く可能性。
日本代表の一人目は確実に白河翔馬だ。なぜなら彼は今まで一度も負けたことがないから。例え代表選考会である全日本に出場しなくても、翔馬は確実に代表に選ばれるだろう。
であれば、俺がオリンピックに行くには、二つ目の代表枠が必要。
そしてその二つ目の代表枠を獲得するには、この大会で最低でも10位に入らないといけない。
『自分らしい演技がしたい、そう語っていた白河歩夢』
リンクは静寂に包まれる。
自分のブレードが氷を削る音だけが甲高く響く。そしてその残響が残るうちにヴァイオリンの旋律が鳴り始め、演技は始まった。
曲は王道の“ドンキホーテ”。
『さぁ最初のジャンプはもちろん四回転』
人類の限界点――クワドラプルジャンプ。
限界を超えられる人間だけが勝者になれるフィギュアスケートにおいて、四回転は避けては通れない。
公式練習では、六本中一本しか決まらなかったが――
俺は、氷の冷たさから逃げるように跳び上がった。
刹那の跳躍。全てが線となりスパイラル――
絶望的な遠心力。肢体がバラバラになってしまわないように身体の芯に全てを引き付ける。
その瞬間だけは、俺が俺でいられる瞬間だった。
だが、その逃飛行は、あっという間に終わりを告げる――零度の冷たさとともに。
『四回転のトウループ……転倒です』
観客からため息が漏れたのがよく聞こえた。
『一つ目の四回転は転倒。ここから巻き返したい』
実質的には“減点方式”の性質が強いフィギュアスケートで、転倒は取り返しがたい失敗だ。
だが、まだ一つ目。俺にはもう一度挑戦する権利がある。次を決めれば、オリンピックへの可能性はまだ残る。
『予定ではこの後にもう一つ四回転』
さっきは力みすぎた。今回はその反省を踏まえてスピードは抑え目で、慎重に――
――だが、今度は全力の跳躍さえ許されなかった。
『四回転の予定が、二回転になりました』
『うーん、二つ目の四回転も失敗』
――終わった。
十五年間夢見てきたオリンピック。
見えるところまで来ていたその大舞台が、いまこの瞬間に目の前から消えた。
いや、消えたというか、俺が勝手に転がり落ちて見えなくなっただけか。
――――――――
――――――
――――
――気が付くと、演技が終わっていた。
リンクも観客も消えていた。
真っ暗な空間だけが残った。
そこには光はおろか、氷の冷たささえなかった。
そして突然、暗闇の中に弟の姿が浮かび上がる。
彼の足元には、まるで落ち葉のようにメダルが散乱していた。あれは今年の全日本選手権、そっちは一昨年の世界選手権、そして三年前のオリンピックのやつも――全て無造作に捨て置かれていた。他の選手にたちが一生かけても手に入らない“一番”という勲章も、彼にとってはまったく意味がないものなのだ。
翔馬は、俺を一瞥する。彼の視線はまるでスケート靴のブレードのように鋭かった。
「もしかして“いつかは勝てる”なんて思ってたか?」
――図星。
翔馬は歴史上最も優れたスケーターだ。
だけど、それでも、いつかは勝てると思っていた。
だが、それはとんでもない幻だったのだ。
彼に勝つために、一番になるために、スケートを続けてきた。だが、“いつか”は一向にやってくる気配がない。
「オリンピックにもいけないくせに、何のために演技するんだ?」
その言葉は圧倒的な重さと速さを持って、俺の心をえぐっていった。
「お前がスケートをやる意味なんてな――
――つんざくようなアラームの音。
弟の残像が残るまぶたを開けると、朝の光が少しばかり入ってくる。
目覚ましに手を伸ばして、俺を暗闇から救い出してくれたその不快な音を止めた。
――悪い夢を見ていた。
でも、目覚めた今でも「夢だったのだ」という安心感はなかった。
夢というよりはもはや記憶に近い。
なにせ、オリンピックの代表枠をかけて戦ったのも本当なら、ボロボロの演技をして日本の代表枠をたった一つにしてしまったのも本当なのだから。
「はぁー」
わざとらしく息を吐く。
早起きには慣れている。でも、気持ちよく起きられる日と、そうでない日の違いはある。言うまでもなく今日の目覚めは最悪だ。
ゆっくりと上体を起こして、壁際においやられてクシャクシャになったブランケットをぼうと見つめた。
ベット脇に置いてあった水筒から水を飲む。口の中に蔓延した気だるい唾液を無理やり押し込んで。
一日の始まりが、やる気に満ちていることなどない。動く前からやる気が出ないことはよくわかっていた。だからあえて「よいしょ」と口にして、言葉の勢いで立ち上がって、部屋を出る。そのままシャワー室に向かって汗を洗い流すまでがルーティン。
シャワーを浴び終えた俺は一階のリビングへと向かう。
と、ソファーに先客がいた。
同居人の少女。
ぱっと見の印象は決して華やかではないがよく見ると端正な顔立ち。その上に乗った黒縁の大きなメガネが印象的。流行りだからではなく、小学生のころから一貫してあのメガネだった。
まっすぐに肩に向かって流れるような長い黒髪も、よく見るとキメが細かくて美しい。
とにかく全体的に整っている容姿なのだが、なぜか不思議なことに地味な印象が拭えない。
その少女の名前は、おそらくフィギュアスケートに詳しくない人でも知っているであろう。
高橋花子。
俺と同じ神崎絵里子コーチに師事し、コーチの家に下宿して一緒に暮らしているリンクメイトである。
――元世界女王という輝かしい経歴を持つ。スケートにさほど興味のない人でもその存在は知っているだろう。
彼女以外に誰も跳べないトリプルアクセルを武器に、グランプリファイナル、全日本選手権、四大陸選手権、世界選手権を制覇。
次期オリンピック金メダルの最有力候補――だった。
――そう1年半までは。
彼女を襲ったのは2度の怪我と、3度の手術。
それを乗り越え、なんとか氷に戻ってきたのが、2週間前。
かつて天才ジャンパーと言われた頃の面影はなく、一回転ジャンプが精一杯というのが彼女の現状だった。
オリンピック代表選考は3ヶ月後の全日本で行われるが、花子が代表のチケットを掴むのは絶望的だ。
それは誰よりもフィギュアスケートを愛し、誰よりもフィギュアスケートに愛された少女には、あまりにも残酷な現実だろう。
「おはよう」
声をかけると、花子が視線をあげてぶっきらぼうに返事をした。
「おはよう」
かつての花子は練習の鬼だったが、今は怪我の影響で練習量が制限されてしまっている。なので、以前に比べると早起きをしなくなったのだが、今日は珍しく例外だった。
「土曜なのに早いな」
俺が言うと、花子は「テストがあるから」と答える。
そういえば花子は一応高校生だった。かつては練習漬けで、高校にはほとんど通っていなかったが、怪我をしてからは真面目に通うようになったのだ。
「なるほど」
俺はキッチンに行き、自分のパンをトースターに突っ込む。そしてすでにコーチが入れてくれたコーヒーをコップに注ぐ。パンが焼けると、リビングに戻って花子の反対側に座った。
「ところで、なんかカッコつけた服を買ってたみたいだけど」
と花子が急にそんなことを言ってくる。
「ああ、ジャケットのこと?」
確かに昨日、私服用のジャケットをデパートで買ってきた。そういえば、リビングに袋ごと置きっ放しだった。
「よそ行き用の服を持ってなかったから」
俺が言うと、花子は「大学生があんなのどこで使うのよ」と聞いてくる。
確かに購入したジャケットは、私服用ではあったが、普通に大学の授業に着ていくには、カッコつけすぎ感がある。
だが、わざわざ高い買い物をしたのにはちゃんと理由がある。
「合コンに誘われたんだよね」
俺が言うと、花子は手に花瓶を持っていたら、ストンと床に落としたであろう表情を浮かべた。
「合……コン……? あ……あの合コン?」
「ああ。そうだよ」
「合コン……」
その言葉にガチでショックを受けた様子で、言葉を詰まらせる花子。
「別に大学生だし普通だろ?」
俺が言う、と、花子は冷たい声で言う。
「……合法ロリコン」
「ちげぇよ!? なんだよ合法ロリコンって!?」
「合法の二文字をつければなんでも許されると思ってるの?」
「もともとロリコンは合法だろ!? だいたい普通のコンパだよ!?」
「こ、コンパ……」
さらにショックを受けた様子の花子。
そう、花子は見た目の「清楚さ」(言い換えると地味さ)に比例して、「パリピ」とか「リア充」とか「チャラ男」とか、そういうものが大嫌いなのだ。だから、ちょっとでもそういう成分を含んだ単語には過敏に反応する。
「コンパ…… なんていかがわしい……」
今時コンパくらいでこれだけ騒ぐ人間も珍しい。
「普通に大学の女の子たちと行くだけだって。全然いかがわしくないよ」
「……お菓子で小学生集めてコンパと称するわけじゃないの?」
「俺はなんだと思われてんだよ……」
「だって、歩夢みたいな身長159センチのチビを、大人が相手にするわけないじゃない」
「チビ言うな!?」
確かに俺は男としては身長低めだけど!
「テッキリ、自分より身長の低い小学生に狙いを定めたのかと」
「そんな訳ないだろ!?」
だいたい、低身長な男が、低身長な女の子を好きとは限らないんだぜ。
「だいたい、歩夢は合コンに来るような女に興味があるの?」
「いや、そりゃぁ、あんまりにも肉食的なのはちょっとだけど……でもほら、友達に無理やり連れてこられた、おとなし目の子で、いい感じの子がいるかも……しれないじゃん?」
「バカね。合コンなんて、身体目当ての男と、金目当ての女しかいないに決まってるでしょ?」
「すげぇ決めつけだな」
普通に会話楽しみたいとか、出会いのきっかけになればとか、もうちょっと健全なのもあると思うが……。
「だいたい、歩夢みたいな童貞が、合コンなんていう魔境に立ち入って、タダで帰れると思ってるの?」
童貞に対して、合コンについての講釈を垂れる処女という図である。
「魔境って、大げさだろ」
花子がパリピ嫌いなのはわかるが、何も全部の合コンがチャラチャラしている訳じゃないはずだ。
「いい? メス豚どもは男の色々な部分をチェックしてくるのよ」
確かに、それは一理あるかもしれない。
「まず、最初はお店選びから、厳しい批評あるからね」
「それは大丈夫。おしゃれーな店をバッチリ下調べしたから。銀座のイタリアン的な」
「……バカね。あんまりにも分不相応なお店にしたら、それはそれで笑われるのよ。チビだけに、背伸びしすぎってね」
「だからチビは関係ねぇだろ!?」
まったく、チビをバカにしやがって……自分がちょっと女子としては身長高いからって。
「まぁ、でも確かに、大学生同士のコンパで銀座のイタリアンとか行ってもな……ちょっと気取りすぎだったか。やっぱり行きつけの店にするか」
「そうね。いきつけの店くらいがちょうどいいでしょう……。それで、いざ店に行ってからも大変なんだから」
「いや、でも俺、結構、会話得意だから」
「じゃぁ、ちょっとシミュレーションしてみましょう。はい、じゃぁお店に着いたところからスタート」
唐突にリビングが合コン会場になる。
「お店選んでくれてありがと〜」
完全にバカにした感じのぶりっこで言う花子。
こいつ、パリピもぶりっこも大嫌いなんだなというのがめちゃくちゃ伝わってくる名演技ぶりだった。
「ここ、いつも来る店なの?」
「ああ、まぁね。えっと、花子さん、とりあえずビールでいい?」
「うん。お腹減っちゃった。料理も先に頼んじゃおうか?」
「そうだね。じゃぁ、俺は、これとこれください」
「私も同じの〜、えっと、あ、私、つゆだくで」
「吉牛だったの!?」
「だって行きつけの店っていうから。違うの?」
「俺はなんのだと思われてるの!?」
「合コンの会場に牛丼屋を選んじゃう童貞。はい、減点30点」
「言われのない減点だけど!?」
「はい、じゃぁ次に、お互いに自己紹介しましたってところからね。ここで次に服装チェックがあるから」
場所の次はファッションか。……しかし、これは抜かりない。バッチリだ。女子受け抜群のキレイめコーデでまとめていく予定だ。
「歩夢くん、靴、変わってるね〜」
「ん? そうかな」
「なんか米津玄師みたいだね」
「ん、米津玄師?」
「歩きにくくない?」
「ん、歩きにくい?」
「私もよく履くけど、靴擦れとかしちゃうもんなぁ。ヒール」
「俺ヒールはいてたの!?」
「チビを誤魔化そうとしてるんでしょ?」
「そんなわけないでしょ!? ごまかすならせめてシークレットブーツとかにするけど!?」
「合コンにヒールを履いてくる変態、服装で減点30点」
「だからいわれのない減点だって!?」
「……どう? 合コンなんて歩夢には無理でしょ?」
「いや、だからいわれのない減点を食らってるって……」
「とにかく。歩夢に合コンなんて無理なんだから。諦めてちゃんとスケートの練習しなさい」
……。
別に合コンにものすごく行きたいわけじゃないが、そこまでネガティブなことを言われると、ちょっとためらいも生まれる。
「合コン行くのやめるかは置いておいて……とりあえず練習行ってくるわ」
♪
「おい、時間だぞ」
銀盤の世界に、突然声が響いた。俺はビクッとして立ち止まり、リンクサイドを振り返る。
声の主は黒いジャージに身を包んだ小柄な美女――俺のコーチである神崎絵里子だった。
ハッとしてコーチの頭上の壁を見上げると、時計はすでに9時を示していた。
朝7時から滑っているので、もう2時間もぶっ続けで練習していたことになる。
過ぎた時間を意識したことで、俺の身体は急激に感覚を取り戻し、身体の疲れを感じた。
フィギュアスケートは華やかな見た目とは裏腹に過酷な競技だ。4分の演技で、3キロを全力疾走するのと同じくらいの体力がいる、と言われている。それを1時間半も続ければ、体力なんて残っているはずがない。
だが身体が例え動かなくとも、心は少しでも長く練習したがっていた。
――オリンピックは目の前なのだから。
いくら練習しても足らない。
……翔馬に勝つには、もっともっと練習しなければいけないんだ。
だが、スケートリンクは俺一人のためのものではない。俺が朝予約しているのは2時間だけで、この後は別の選手がリンクを使うことになっている。
俺はリンクサイドへゆっくり滑っていく。コーチがスポーツドリンクの入った水筒を手渡してくれた。
「ありがとう」
氷の上に上がり、一番近くのベンチに座り込む。だくだくの汗を拭い息を整えてから、スケート靴を脱ぎ、軽くストレッチをして体をクールダウンさせる。
と、俺はある違和感に気がつく。
日本はリンクが少ない。しかも選手が練習できるのは一般開放されていない時間帯だけだから、選手同士で練習場所の取り合いになる。
それなのに、今リンクにいるのは俺とコーチだけ。次のコマを取っている選手がいるはずなのだが、その姿が見当たらない。
「あれ、次の人は?」
貴重な練習時間に現れないというのは、何かトラブルがあったのではと思ったのだ。
――だが、それは杞憂だったらしい。
「ああ、ちょうど今来たよ」
コーチが指差す――透明なアクリルの扉の向こう側を。
ちょうど誰かがリンクに入ってきた。
――俺は思わず息を飲む。
ストレートの金髪をたなびかせる女性。
黒くて大きなサングラスがその目を覆う。
――そして、首から下に目を向けると、彼女が着ていたのはリンクにふさわしいスケートの衣装ではなく、真っ黒なビキニだった。
背丈は小さく、手足も細いが、胸にははっきりとした谷間。
水着の女性は、俺の方に向かって颯爽と歩いてきた。
そして目の前まで来たところで、女性は優雅にサングラスをとる。
現れた素顔を見て、驚く。
少女だった。
それも、よく知っている。
――月島愛音(まお)。
芸能人だ。
しかも、そんなにテレビを見ない俺でも知ってるくらいの。
元々はモデルだったのだが、今はギャル系のパリピキャラでよくバラエティに出演している。
「やばい、バイブスぶち上がる!」
テレビの画面越しによく見る人間が、突然目の前にやって来たかと思うと、彼女は俺の手をとりブンブンと勢いよく振った。
もちろんいい香りがした。ついでに両手を前に出している関係で、ただでさえくっきりしている胸の谷間がさらに強調される。
そう、繰り返すがこのJK、ビキニである。
「わたし、歩夢さんの大ファンなんです!」
彼女の細いながら柔らかい手は相変わらず俺の手をぎっちり握っていた。
状況が飲み込めなくて、言葉なんて何にも出てこない。
だが、そんな俺のことはおかまいなしで、愛音はキラキラした目を俺に見せる。
「それで、超いきなりなんですけど!」
何も飲み込めない状況で、愛音はトドメのような一言を放った。
「わたしのトリプルアクセルをみてくださいッ!」
――1から10まで何も理解できない。
だが、その一言は度を超えていた。
彼女は俺でも知っているような芸能人。普段はテレビの向こう側で、ひな壇に座ったり、クイズに答えたり、あるいは雑誌の表紙でポーズを決めたり、写真集を出したり、そんなことをしている人間だ。
そんな彼女が、おそらく彼女から最も遠いであろう言葉――トリプルアクセルという言葉を口にしたのだ。
――トリプルアクセル。数あるフィギュアスケートの技の中でも、その代名詞とも言える大技。
幼い頃から練習を重ねてきた、才能のあるスケーターにのみ許される技だ。
それを、スケーターでもなんでもない、“ただの芸能人”にすぎない彼女が、あろうことか、わたしのトリプルアクセル」などと言ったのだ。
そこで、彼女はようやく俺の手を離した。
そして俺は気がつく。彼女は足にスケート用のシューズを履いていたのだ。
まさか、本当に、トリプルアクセルをやろうとしているのか?
いや、もちろんそんなことできるわけがない。
トリプルアクセルは、別名三回転半ジャンプ。
訓練を積んでいない人間は二回転さえできないだろうし、まして愛音は女子だ。三回転半を飛べる女子は、今この世界には存在しないはず。
歴史上、トリプルアクセルを成功させた女子選手は、片手で数えるほどしかいないのだ。
だが、彼女は俺の困惑などおかまいなしに、広大な銀盤の世界へと足を踏み入れた。
意外なことに、愛音の滑りはしっかりしていた。完璧にバランスを取っていて安定感がある。滑り慣れているのは間違いなさそうだった。
「いきまーす!」
と彼女は演技を始める体操選手のように片手をピンとあげ、そしておもむろに滑りだす。
最初の数歩は前向きに滑っていたが、やがてバックスケーティングで加速をつける。
その姿は、まさにスケーターのそれだった。
まさか、あの月島愛音はこんなに上手く滑れるのか――と驚いていると。
彼女は突然漕ぐのをやめ、右足一本に全ての体重を乗せた。両手をわずかに開きバランスを整える。
その仕草はまさにアクセルジャンプの助走。
俺は息をすることさえ忘れて、その姿に見入った。
彼女は勢いよく振り向き、急ブレーキをかけるように左足のエッジを横にして踏み込む。進行方向へのエネルギーが、縦のエネルギーに代わり、彼は跳躍した。
最初の半回転でとんでもない高さが出た。
そこから一回転、まだまだ飛んでいる。
さらに一回転! 勢いは落ちず。
まさか――
最後の一回転を終え、なお高さは余り、彼女はまるでパラシュートが落ちるようにストンと氷上に舞い降りた。
バカな、と口にすることさえできなかった。
それくらいバカげていた。
これほど美しいトリプルアクセルを跳ぶ少女がこの世界にいるなんて。
しかも、それを成功させたのは、ビキニの金髪モデルなのだ。
――一体、何が起きているんだ。
ドッキリか何かなのだろうか。自力でトリプルアクセルを跳んだように見えて、実は見えないワイヤーか何かで吊るされていたとか。
「どうですか!」
と、愛音は俺の方へ勢いよく滑ってきて、評価を求めた。
だが、何か言おうとしても、うまく言葉がまとまらない。頭の中で言葉にならない驚きが渦巻いていた。
「わたし、才能ありますか!?」
才能、なんて。そんな陳腐な言葉では表しきれない。トリプルアクセルは、現世界女王でも跳べない技。それを跳べる時点で、現役選手の中で唯一無二の存在なのだ。
しかし問題は、これほど才能を持っている選手が、なぜスケート選手として認知されていないのか、と言うことだ。
月島愛音がスケーターだったなんて、そんなの聞いたことがないぞ。
「いつからスケート習ってたんだ? てか誰に習ってる?」
ようやく出てきた言葉がそれだった。
それに対して、愛音は躊躇なく答える。
「2ヶ月前にはじめました! まだ一人で練習してます」
俺は気を失いそうになった。倒れそうになるが、すんでのところで踏ん張る。
「に、2ヶ月?」
「はい。もしかして……2ヶ月で三回転半じゃ才能ないですか?」
馬鹿言うな。
普通の女の子は、20年かかったって、トリプルアクセルを跳ぶことはできないのだ。
それなのに、彼女はたったの2ヶ月でトリプルアクセルをマスターしたっていうのか?
しかも、彼女が跳んで見せたのは、男子の世界チャンピオンのそれにも負けるとも劣らないような完成度の高いトリプルアクセルだ。
もし、2ヵ月でマスターしたというのが本当ならば……彼女はフィギュアスケートの歴史を変えるほどの人間だということになる。
規格外なんて、そんな陳腐な言葉じゃ測りきれない才能だった。
「あの、わたし、歩夢さんにめちゃくちゃ憧れてて! だから――」
と、彼女はまた俺の手をグッと掴んで、そして、その大きな瞳でまっすぐ俺の目を見つめて――
「わたしのコーチになってください!」
そんな言葉を口にした。
…………え?
今なんて言った。
「え、コーチ?」
「はい! 歩夢さんじゃないとダメなんです!」
ダメだ全然理解できない。
あのテレビで毎日見る月島愛音が、トリプルアクセルを跳んで、そんでもって、俺にコーチになって欲しいって?
夢か? やっぱり夢なのか?
それくらい荒唐無稽な話だった。
だが、彼女の手から伝わる暖かさ、そのリアルさ
が、これは現実だと告げていた。
「……俺にコーチになってほしい?」
思わずそう聞いてしまう。
自分で言うのも情けない話だが、俺は平凡なスケート選手だ。去年の世界選手権では15位という成績で、世界ではまったく通用しなかった。そんな俺に、彼女はコーチをしてほしいと言っている。正直、何かの間違いじゃないか、としか思えなかった。
だが、愛音はまっすぐ俺を見つめる。
「歩夢さんじゃないとダメなんです!」
その目は本当にキラキラしていて、ありきたりな表現だけれど――吸い込まれそうだった。
だけど、だからこそ、俺に適当な返事を許されない。
「悪いけど、コーチにはなれない」
俺が言うと、愛音は絶望の表情を浮かべる。
「わたし、見込みないですか?」
「いや、そう言うわけじゃない」
彼女の才能はおそらく世界一だ。指導者が誰でも、彼女は世界一の選手になる。
そんな才能の持ち主を弟子にできるチャンスだ。世界中のコーチたちにとって、喉から手が出るほどの機会だろう。
だが――俺に、他人の面倒を見ている時間はないのだ。
「俺は平凡なやつだけど、これでもオリンピック目指してんだ」
半年後にはオリンピックがある。
これまで10年以上夢見て来た舞台だ。
出場は絶望的な状況だが、それでも最後まで諦めるつもりはなかった。
「悪い。俺は自分のことで精一杯なんだ」
俺が言うと、愛音は絶望の表情を浮かべた。
先ほどまで期待に満ちた表情を浮かべていただけに、そのギャップに胸が痛む。
「まぁ、そう早く結論を出すな」
と、それまで黙っていた絵里子コーチが間に入ってくる。
「コーチ、俺は引退する気なんてサラサラないですよ」
そう言うと、コーチは首を横に振る。
「何も引退しろと言っているわけじゃない。空いてる時間で愛音を教えてやることはできるだろ」
「いや、でもそんなの聞いたことないですよ……」
たまに、現役の選手が、他の選手の振り付けを手がけるようなことはある。だが、誰かのコーチになったなんて話、聞いたことがない。
「まぁ、続きは家で話そうじゃないか」
と、コーチは俺と愛音の肩をたたいてそう言った。
「家で?」
俺が聞き返すと、コーチは頷く。
「今日から愛音はうちの生徒だ。うちで一緒に暮らすからな」
「……え?」
あの超有名人の月島愛音が、我が家で暮らす……?
「マジで?」
聞き返すとコーチは「大マジだ」と返した。
「ええぇぇえ!?」
「何驚いてる。お前も花子も、下宿の身だろ。下宿の生徒が増えることもあるさ」
サッカーや野球と違って、練習場所が限られているスケート界では、親元を離れてコーチのもとで下宿生活を送ることも決して珍しくはない。確かに、俺も花子もコーチの家に下宿している身なのだ。
だが、あの超有名人の月島愛音がその一員として加わるなんて、青天の霹靂だった。
「よろしくお願いしますッ!」
めちゃくちゃいい笑顔でそう言う愛音。
だが、俺の心は完全に置いてけぼりだ。
「でも、今までスケートを習ったこともないのに、いきなり住み込みで?」
俺が聞くとコーチは笑って答える。
「実はな、ご両親がしばらく長期の海外出張で家を開けるんだ。芸能人の女子高生を、一人で家に残すわけにはいかないだろ? だから11月までうちで面倒をみるって話になったんだよ」
まじか……。事情はよくわかったが、やはり唐突なことには変わりない。
「とりあえず、ここにいても寒いし、家に帰ろうか?」
と、コーチが実にまともなこと言う。なにせ、愛音は水着。氷の上に立つにはあまりに過酷だ。
……ってか、こいつが何で水着で現れたのかさっぱりわからん。
絵里子コーチが歩き出し、俺はそれに追随する。
「ちょっと待って」
と、愛音は、
「リンクなう♪」
とスマホを掲げ、ピースサインをほっぺたにくっつけて、インカメでパシャり。なんとも典型的な自撮りというやつだ。そして、愛音はスマホの画面上で素早く指を動かす。多分、SNSにアップロードしたのだろう。
……この光景を見たら、花子は発狂するだろうな。
自撮りなんて、花子が一番嫌いなパリピの、一番典型的な行動だ。
しかも水着姿の自撮りなんて……
うちに来たら……絶対花子とバトルになるな。
めちゃくちゃギャルでパリピな愛音と、パリピ嫌いで根暗な花子。
果たして一つ屋根の下でうまくやれるのだろうか。めちゃくちゃ心配だった。
♪
「……なぜ月島愛音が……」
コーチと三人で家に帰ると、リビングにいた花子が愛音の姿を見て呆然とした。
俺同様、花子も事前にコーチから何も聞いていなかったのだ。
「今日から一緒に暮らすことになった」
コーチは簡潔に説明する。
「……へ? 月島愛音と? なんで?」
花子は口をあんぐりあけて驚く。
だがコーチはおかまいなしで、勝手に話を進め知恵区。
「高橋花子さんですよね。わたし、月島愛音です。これからよろしく♪」
と愛音はまるで知り合いだったようなノリで花子にウィンクを飛ばす。花子の表情が露骨に歪んだ。だが、愛音は全く気にした風はなかった。
「え、冗談じゃないの?」
「ガチですよ〜。わたし、歩夢さんにスケートは教えてもらうんです!」
と、無邪気に愛音がそう言うと、花子の表情が突然険しくなった。
「え、ごめん、どういうこと?」
愛音ではなく、俺をキッと睨みつける花子。
「いや、俺は教える気はないんだけど……」
俺が言うと、花子は俺をもうひとにらみしてから、愛音に向き直った。
「私、おバカなギャルは嫌いなの」
なんとも直球な悪口だった。
まぁ、確かに愛音は金髪だし、口調も軽いし、おバカキャラに見えるのは否めないが。しかし初対面でいきなりバカ呼ばわりするとは……。
やはり、パリピ嫌いな花子と、パリピを極めた愛音とは、水と油だったようだ。
「え〜、でも、わたしの嗅覚が、花子さんもわたしと同類なんじゃないか〜って言ってます」
と、愛音はにこやかな笑みを浮かべながら、しかし間接的に花子がバカだと言い放った。
そして、その嗅覚はめちゃくちゃ正しい。
実は花子はこう見えて、おバカだ。メガネをかけているからといって頭がいいとは限らない、という典型例である。
なにせスケート一筋で生きてきたから、中学も高校もまともに通っていない。
「なっ。私がバカだっていうの?」
と露骨に反応する花子。もうこのこの時点で自分がバカだと自覚しているのが露呈してしまっていてバカだ。
「わ、私は偏差値70もある、あの千葉県一の進学校、新宿教育学園幕張に通ってんのよ! 東大合格者がめっちゃいるんだから」
と、謎の自慢をするが、
「いや、お前はスポーツ推薦だろうが」
思わずツッコミを入れてしまう。
「バカ! それは言わないでよ!」
慌てて俺の肩を叩く花子。
と、自分はバカではないとアピールする花子に対して、愛音はこんな提案をする。
「それじゃぁ、どっちが賢いか勝負しましょう」
ガールズバトル勃発である。
いきなり宣戦布告された花子は、その挑戦を鼻で笑う。
「はっ! 私に挑むなんて、100億光年早いわ!」
……いきなりバカが露呈する。
ああ、光年が、時間の単位だと思っちゃっただろうな……。
「じゃぁ、英語力を競う、アルファベットしりとりで勝負しましょう」
愛音がそんな提案をする。
「私は何度も海外遠征の行ってるのよ? 英語は得意中の得意よ」
……何とも盛大な死亡フラグを立てる花子。
「ルールは簡単。最初は ENGLISH(イングリッシュ)のHからで、語尾はなんでもOK。別に“N”終わりも有りと言うことで。」
「いいでしょう!」
「じゃぁ、わたしから。“ヒール”(HEEL)。靴ですね」
それに対して、花子は……
「る……る……る……る……“ルビー”!」
瞬殺だった。
「はい、愛音の勝ち〜♪ ヒールはLで終わるけど、ルビーは“RUBY”でRから始まりますからね」
「……そ、そうなの……?」
キョトンとして、俺の方を見てくる花子。
ダメだこいつ。
確かに花子は海外で多少英語を話す。でも学校の勉強は真面目にやってないから、つづりはわからないのだ……。
自分の力を過信しすぎだ。
「……も、もう一回ッ!」
と、なんのプライドもなく再度の対戦を要求する花子。
「仕方ないなぁ〜。負け犬にもうワンチャンだけあげちゃおうかな」
愛音は意地悪な笑みを浮かべながら、指の内側を口元に当ててクシシと笑いながら上から目線で言う。
「ぐぬぬ……」
顔を真っ赤にして愛音を睨みつける花子。
「じゃぁ、“RUBY”の“Y”からですね。応援の“YELL“」
その愛音の言葉を聞いた瞬間、花子はドヤ顔を浮かべて叫ぶ。
「“エール”は”E”からでしょ!? 私の勝ち♪」
ダメだコイツ。まじでバカだ……
「花子さん、エールの一文字目は“Y”ですよ」
「エなのにワイから始まるの!? そんなのありえる!?」
バカ、お前はYEARをどうやってつづるんだ……まさかEEARとかか?
「さぁ続行です。花子さん、続きをどうぞ」
花子は自分の答えを言う前から劣勢だ。
「る……る……る……“ルール”!!」
……成長が見られねぇ……。
「花子さん……。ルールは“R”からはじまりますよ……」
あまりにも花子が雑魚すぎるので、愛音はもはや引き気味だった。
「ぐ、ぐぬぬ……も、もう一回だけチャンスをください!」
……なぜさっさと負けを認めないんだ。コイツ、ギャンブルとかFXとかは絶対にやっちゃダメなやつだな。負けたら取り返さないと気が済まないタイプなのだ。
「じゃぁ、ラストチャンスですね…… “RULE”の“E”からなので、“EVIL(邪悪な)”でどうですか。」
「くッ……やるわね。でもあなたの作戦はわかってんのよ。毎回“る”で終わら続けて単語切れを狙う作戦ね」
バカ、それが有効なのは日本語のしりとりの時だけだ。
「る……る……る……ルーズ!」
“R”を回避した。もちろんつづりがわかってたわけではあるまい。単なる奇跡だ。
てかさっきからコイツ、完全にアルファベットしりとりなの忘れて、ひらがなでしりとりしてないか……。
「もうめんどくさくなってきました。……“EVEN”」
先程までの“R”で終わらせる戦略を放棄して、適当に答えを返す愛音。
それに対して、花子は……
「“ん”……。あれ、反則……じゃない。アルファベットだから“N”か……」
と独り言を言ってから、そして――
「ナイフ!」
……ダメだこりゃ。
「花子さん、ナイフは“K”始まりですよ」
試合終了だった。
「…………そうなの?」
俺に聞いてくる花子。ダメだこいつ。
「当たり前だろ……。KNOWとか、 KNIGHTとかKを読まない単語は色々あるだろ……」
俺が教えてやると、花子はガクッとうなだれる。
「……愛音、こいつバカだけど仲良くしてやってな?」
俺が言うと、愛音は「はい!」と元気よく返事をした。
♪
翌朝、いつものように起床して、いつものようにシャワーを浴びてから、いつものようにリビングに降りていくと、いつもと違う光景が広がっていた。
ドリップしたコーヒーと、トーストが焼けるいい匂い。嗅覚から得られる情報はいつも通り。
だが、他は何もかもが違っていた。
まず、キッチンに立って朝食の準備をしていたのは、絵里子コーチではなく、テレビで見たことある超有名モデル……月島愛音だった。
そうだった。昨日から我が家には、あの月島愛音がやって来たのだった。
愛音は、携帯からゴリゴリのEDM(エレクトロ・ダンス・ミュージック)を流していた。シンセサイザーがギュルギュル鳴って、リズムは倍々で速くなり、そしてある時ズーンと落ちる。
「おはようございます」
と、俺を見つけると愛音はものすごくいい笑顔を浮かべた。
「あ、おはよう」
声をかけられてハッとし、いそいそとソファーに座る。
「朝ごはん、すぐに用意しますから待ってくださいね」
「あ、ああ、ありがとう」
いつもご飯を用意してくれるのは絵里子コーチなので、自分より若い女の子がそれをやってくれるのはなんだか奇妙な感じがした。絵里子コーチもいうて28歳で、若い女性なのだが、元から男勝りなので、料理をしていても初々しさは皆無。それと比べると、愛音はどこか新妻感があった。
ちなみに花子は料理とかできない。っていうか家事もできない。
眠気まなこを擦りながら、そんなことを考えていると、すぐに愛音が朝食を持ってきてくれる。
目の前に出された皿を見ると、なにやらカラフルだった。
トーストの脇にトマトとベビーリーフ、ベーコン。そして、これは何かな……ポーチドエッグってやつでしょうか……。
それぞれの具材は、いつも冷蔵庫にあるものなんだけど、プレートへの盛り付け方が、なんともおしゃれだった。早い話、SNS映えするのだ。
……さすがSNSで大人気の芸能人である……
「はい、どうぞ」
「あ、ありがとう」
それからすぐに愛音も自分の皿を持ってきて、すぐ隣に腰掛けた。
テーブルはさほど大きくないので、隣り合って座ると、ちょっと狭い。なのでちょっと腕を動かすとぶつかるくらいの距離感だった。コーヒーの匂いに混ざって、ベルガモットのいい香りがした。
「いただきます」
愛音やコーチと対面で食事をするのは日常だが、それ以外の人間が隣にいて朝食を食べるというのは俺にとってはかなり非日常だった。
「あの、絵里子コーチに聞いたんですけど、歩夢さん今日は午後テストで東京に行くんですよね」
「ああ、うん」
実は大学は絶賛テスト週間。と言っても、文学部の三年生ともなれば履修している授業は自分の選考の必修授業ばかりで、テストはさほど多くない。俺が上期に受けるのは先週受けた1科目と、今日受ける1科目だけだ。
それが終われば晴れて夏休み。完璧にスケートに集中できるというわけだ。
「じゃぁ、テスト終わったら、ちょっとだけ買い物に付き合ってくれませんか?」
「買い物?」
一瞬身構える。パリピな愛音の「買い物」となれば、きっとデパートとかアウトレットに服を買いに行くとかそういうことだと思ったのだが。
だが、彼女の目的は確かに服だったが、普通のそれではなかった。
「衣装を買いに行きたいんです」
「衣装? スケートの?」
「はい。馬場にいい店があるんですよね」
確かに、馬場には俺が行きつけの店がある。うちのリンクにも衣装の販売コーナーはあるが、生徒に小さい子が多いこともあって、置いてあるのはほとんど子供向けのものだった。馬場の店なら大学近くということもあって、愛音が着れるものもたくさん置いてあるだろう。
「全然いいけど」
「やった。じゃぁあとでまた連絡しますね!」
「衣装買うってことは、もう滑る曲も決めてるの?」
聞くと、愛音は拳を握りならが答える。
「もちろんです! バイブスぶち上がる曲ですよ」
その言葉を聞いて、俺は一瞬スケートに全く似合わないバリバリのクラブ音楽を想像した。
「……ちなみになんて曲?」
「“ドンキホーテ”です!」
「バリバリの古典やんけ!?」
パリピとは180度対極にある、ゴリゴリの古典である。
「去年の歩夢さんのフリーをみてスケートを始めたいって思ったんです! だから最初の曲はドンキホーテ以外ありません!」
「お、おう……」
そう言えば、愛音は一応単にスケートを習いたいんじゃなくて、「俺に」を習いたいんだったな。
コーチをやる気は全くないが、俺の演技をみて憧れてスケートを始めてくれたというのは、スケーター冥利に尽きる。
♪
朝の練習を終え、家に帰ってくる。花子と愛音は高校に行っているので、今はコーチと二人だ。
だが、これからある人間が家にやってくる。
――ハッキリ言って気が重い。
午後のテストよりもはるかに気が重い。
と、インターホンの音ががリビングに鳴り響く。
コーチはそのまま玄関に向かい、“客人”を招き入れる。
「こんにちは。今日はよろしくお願いします」
「こちらこそ」
そしてリビングに現れたのは、
「……久しぶりだな」
俺の父だった。
もうじき50歳になる。髪の毛の本数は健在だが、銀髪はかなり増えてきた。
スーツに身を包んでおり、なんとも典型的なサラリーマンと言った感じ。実際、超有名企業で本部長を務めている。もうじき執行役員まじかで典型的なエリートである。
それなりに多忙なはずだが、なんでも、今日はわざわざ有給をとって来たらしい。
「うん、久しぶり」
親父と話すのは半年ぶりくらいだろうか。久しく実家にも帰っていなかった。
さて、今日親父がわざわざ俺の下宿先に現れたのは、何も久々に息子との交友を深めたいからではない。
それならコーチと“三者面談”をすることはない。
今日の主題は――俺の進路だ。
「お前ももう大学三年生だ。そろそろ真剣に進路を考えないといけない」
それは、多くのスポーツ選手が迎える終焉。
大抵の場合、スポーツというのは金にならない。
当然、フィギュアスケートの例外ではない。テレビでよく見る“競技”としてのスケートをやるのは、基本的にアマチュアの選手だ。
オリンピックチャンピオンで、世界選手権3連覇、歴史上最強の選手と言われる俺の弟白河翔馬もアマチュア選手なのだ。
試合に勝てば少なくない賞金が出るのは事実だが、それらはスケートを続けるためのお金に比べれば圧倒的に小さい。
翔馬みたいに、何本もテレビCMをこなしたり、大企業のスポンサーを得ることができれば話は別だが、そんな選手は世界中を見渡しても片手で数える程しかいない。
多くの選手は大赤字で、親の脛をかじりながら、スケート競技を続けているのだ。
……俺ももちろん例外ではない。
父親が必死に働いた金を貪りながら、スケートを続けている。
だが、それも大学を出るまでの話だ。
世のスポーツマンたちは――世界で戦うような高いレベルにある人たちも含めて――大人になれば、普通に就職したり、指導者になったりして、競技を引退するものなのだ。
それは避けられない。
そんなことはわかっている。
今の俺にスケート選手として食っていく力はない。
オリンピックにさえ出れないような選手に、全日本でさえ1位になれないような選手に、金を出す企業があるはずがないのだから。
そしてあと1年と半分もすれば、大学も卒業して、社会にでる時期だ。
「就職はどういう方向で考えてるんだ?」
父は俺に問いかける。
その問いに対する答えを、俺は持っていなかった。
「……コーチになりたい」
愛音のコーチになって欲しいという願いを断った口が、今は「コーチになりたい」なんて言う。
――もちろん本心じゃない。
単純に、「普通の企業に就職する」と言いたくないだけなのだ。
就職するとなれば、すぐに就活をする必要がある。そうしたら、俺は今年限りで引退しなきゃいけなくなる。
それは絶対に嫌だった。
スケート関係の仕事をすることにすれば、少なくともあと一年半はスケートを続けられる。
だが、親父は俺のそんな言葉を鼻から信用しない。
「コーチってのは、なりたいと思ったからって、はいなります、ってなれるもの何ですか」
ここで親父は、俺にではなく、絵里子コーチに問いかけた。
「……もちろん、名乗るだけならば誰にでもできます。それで食べていけるかは別問題ですが」
コーチは至極まっとうな答えを出す。
だが、続けて、こんなことを言う。
「ですが、歩夢くんには、コーチの才能があると思います」
「……」
「別にお世辞で言ってるわけじゃありません。私が見てきた中では歩夢くんは、多分一番指導者むきだと思います。それは、彼の練習を見ていればわかります」
一瞬、コーチは俺を助けるために――俺があと少しの間現役生活を続けることができるように嘘をついてくれているのかと思った。だが、すぐに違うとわかった。
「しかし、生徒さんが“歩夢に教わりたい”と思うかどうかは別問題では?」
「実は、今も歩夢に教わりたいと言う生徒さんはいるんですよ。昨日からうちで面倒を見る子になった子がいるんですが、その子は歩夢に教えて欲しいからと、わざわざうちに下宿することになったんです」
「……なるほど」
「ひとまず、歩夢がコーチになる方向で考えているというのはわかりました。でも、本当にコーチになりたいと思ってるのかよく考えろ」
「……うん、考えてみるよ」
そういって父親は立ち上がる。
「それでは、失礼します」
「ええ。またいつでもいらしてください」
そう言って俺たちは家を出ていく親父を扉まで見送る。
扉が完全に閉まったあと、コーチは俺に向き直った。
「……歩夢。一つ勘違いして欲しくないのは、私は何もお前に引退しろって言いたいわけじゃないんだ。ただ、お前は練習しすぎたと思うんだ。それが心配なんだよ」
……練習しすぎなのは自分でも自覚していた。
多分、トップ選手の平均と比較しても、倍は練習していると思う。実際、それが果たして効率いいのかはわからない。今までは幸い大きな怪我もなかったが、これからはどうなるかわからない。
「集中力があるのは結構だが、お前の場合は周りが見えないくらい入り込んじゃってる。だから、強制的に周りに目を向けるのは決して悪い影響はないと思うんだ」
それは確かに一理ある気もする。
強制的に他のことを考えるのは確かに悪くない。
だが……認めるのは苦しいが、俺は世界では何の実績もない。去年ようやくワールドに出場できた程度で、その結果は……ご存知の通り悲惨なものだった。まだ主要な国際大会では一度も頂点を取ってない。
そんな俺が人を教えるなんて。
しかも、相手はおそらくフィギュアスケートの歴史上最も才能のある少女だ。
日本だけでなく、フィギュアスケート界全体にとって、宝のような人間を、俺みたいな人間が教えて、果たしてよいものか。
「……とりあえず、テスト行ってくるわ」
♪
「やめ。鉛筆をおいてください」
教授の言葉で、俺はフゥと息をついて鉛筆を手放した。
これでテスト期間は終了。勉強してなさすぎて厳しい戦いが続いたが、もはやどうにもならないので、一旦は解放だ。
「歩夢、どうだったよ」
後ろから友達が声をかけてきた。あまり大学に真面目に通っていない俺の、数少ない友人である。
「まぁ、正直やばかったよね」
「俺も普通にヤバかったわ。でも、まぁ言うて留年しそうになったら教授に泣きつけばOKっしょ」
彼は体育会のアイスホッケー部に所属していて、スポーツ漬けと言う意味では俺と同じ状況だ。だから、学業への取り組み方も成績も似たり寄ったりである。
「とにかく終わってよかったわ」
「それな」
と笑いながら、友達はペンを片付ける。その姿を見て、俺は気になっていたことを聞く。
「ところで、なんでスーツ来てんの?」
そう、大学は私服が基本だが、今日の彼は没個性な黒いリクルートスーツを着ていたのだ。バイトは居酒屋のはずだが。
と、友達は笑いながら答える。
「いや、これからインターンの面接なんだよ」
思ってもいなかった言葉に驚く。
「マジで、インターンとか行くの」
「ああ。一応、来年就活じゃん? 成績悪いし、なんかカバーするもの用意した方がいいかなって」
その言葉に、俺はなんて反応していいのかわからず、黙り込んでしまった。
「じゃぁ、俺面接いくから」
「ああ、そうか。頑張ってな」
「また今度飲みに行こうぜ」
そう言い残して、友人は足早に教室を出て行く。そのスーツ姿の背中を俺は呆然と眺めた。
そして次の教室に次のコマの人たちが入って来たので、俺も慌てて筆記用具をカバンに押し込み、立ち上がった。
トボトボと廊下を歩き、校舎を出る。
そうか。世間的には就職を本気で考えないといけない時期なんだよな。そりゃそうだよな。
それが大人になるってもんだもんだ……。
校舎の前に、人だかりができていた。
そして、その中心にいる少女を見て俺は驚く。
と、同時に、その少女と目があう。
「あ、歩夢さん〜!」
人だかりの中心にいたのは月島愛音だった。
俺を見つけると、金髪を揺らし、手を頭上に掲げて大きく振る。すると、愛音を取り囲んでいた学生たちの視線が一気に俺に集まった。
リンクで人に見られるのは慣れているが、校舎の前で変な注目を浴びるのには全く慣れていない。
俺は急に行き場を失ってそこに立ち尽くす。だが、愛音はそんな俺のことなどおかまいなしで、俺の方に近づいてくる。人だかりがモーセが海を割ったようにざっとひらけていった。
「なんでこんなとこで、大学生に囲まれてんだ?」
聞くと、愛音は笑いながら答える。
「そこで待ってたら、バレちゃって。それでファンサービスしてたんです♪」
……さすがは芸能人。
うちの大学は首都圏の有名私立の中でも最も地味な雰囲気なので、こんな金髪で、タイトなミニスカート履いたJKがいたら目立つのは仕方ない。
「いや、てか、そもそもなぜ大学に……」
「デートの時間が待ちきれなくて♪」
その瞬間にわかに周りがざわついた。一気に冷や汗が流れる。
「いや、デートって衣装買いに行くだけで」
誰に言い訳をしているのかわからないが……
「だいたい、俺が授業受けてる校舎がここってなんでわかったんだよ」
「wiki見たら歩夢さんが文学部ってのはわかって。で、受付の人に聞いたら文学部の校舎はここだって言うので」
その情報だけを頼りにしてたのか……
「文学部でも他のところでも授業あるんだぞ」
「まぁ会えたしいいじゃないですか。会えなかったらそれはそれで会いたくて震えるって感じ」
ちょっとポジティブすぎるカナ?
「え、愛音さん、その人とどーゆー関係なんすか!?」
野次馬の中の一人が、愛音にそんな疑問を投げかけた。超有名なモデルが、こんな冴えない大学生と話してれば、そんな疑問も生まれるだろう。
俺がSNSで調べた結果、愛音がスケートを始めるということは、まだ世間一般には全く知られていない。当然、この冴えない大学生と一つ屋根の下だなんて誰も知らないのだ。
その辺りをゼロから説明するのはめんどくさいし、何よりプライベートなことだし……
などと考えていると、愛音は高らかに、なんの迷いもなく言う。
「歩夢さんは、わたしの好きぴです!」
悲鳴が上がった。
その中に俺のものも混じっていた。
「えぇ〜 付き合ってんの!?」
と別の女生徒が興奮気味に言う。
「いや! 付き合うとかはまだ! 単にわたしの片思いって言うか!」
それを聞いた大学生たちは、各々さらなる悲鳴をあげる。
「違う違う。全部違うから!」
と、俺は周りに言って聞かせるが、その場にいる誰も聞く気は無い。
だめだもう、この場は収拾困難だ。
「とにかく、行こう」
俺は混乱した頭で、その場からの逃走を選ぶ。愛音の手首を引っ張り、校門に向かって駆け足で歩き出す。
幸い、野次馬たちが後を追ってくるようなことはなかった。流石に分別ある大学生、と言ったところか。
「え〜 もしかしてこれは駆け落ちですか」
と愛音はそんな馬鹿げたことを言う。
「こんな真っ昼間に落ちるやつがどこにいるんだ」
♪
大学から電車に乗られることわずか2分。駅の東口から10分ほど歩いていくと、古びたビルにたどり着く。狭いエレベーターに乗って3階へ向かう。
俺がいつもお世話になっているスケートショップだ。
ちょうど店長が店頭で衣装の整理をしていた。
50代で接客の時はいつも微笑んでいる気のいいおっちゃんだ。
「おう、歩夢くん、ブレードの調子はどうだ」
店長は体調の代わりにブレードの調子を聞いてくる。
彼は職人で、ブレードの調整までやってくれる。普段はにこやかだが、ブレードを研いでいる時は、何千人と斬ってきた武士のような眼光を浮かべる。その腕前は関東一だ。
「今使ってるのはかなりいい感じです。だいぶ馴染んできた」
「そうか、それはよかった……って、え!?」
と、俺の後ろにいた愛音の顔を見て店長は仰天した。
「もしかして……テレビによく出てる」
「あ、月島愛音です〜」
「やっぱり!? もしかしてテレビの取材!?」
と、店長が急に背筋を伸ばし、ない髪を整えようとし始める。
「いやいや、違いますよ。わたし、スケート始めたんです〜。で、試合に出る衣装を買いに来たんです」
「え!? スケートやるの!?」
「そうなんですよ!」
本当に腰を抜かしそうな勢いで驚く店長。まさか超有名な芸能人が、いきなりスケートを始めると言い出せば、無理もない反応だ。
「今日は衣装を買いに来ました」
「そうかそうか……」
店長は奥に引っ込んでいいのかわからず、レジのところでオロオロしていた。
愛音は吊るされた服を眺めながら聞いてくる。
「歩夢さん、衣装選ぶ時ってルールとかあるんですか?」
「昔は女はスカートじゃなきゃダメとかあったけど、今はそう言う規定はないかな。あとは滑る曲と合うかどうかだけど、どのプログラムでも、これじゃなきゃいけないってのはないから。変なカラーリングのものじゃなければ、自由に好きなのを選んでいいと思うよ」
「じゃぁ良さげなのを選びます!」
衣装はリンクでも販売しているが、あちらは小学生くらいの子供向けのものが多い。ここは近くに大学があることもあって、大人向けの服が充実している。
愛音はしばらく物色してお気に入りのものを見つけたようだった。
「これ試着して見ていいですか?」
愛音は衣装を持って来て店長に尋ねる。
「どうぞどうぞ。試着室はそっちね」
踵を返して、試着室に入る愛音。だが、カーテンを締める前にこちらに振り向く。
「あ、歩夢さん、覗きます?」
「誰が覗くかバカ」
俺が言うと、笑いながらカーテンを閉めた。布が擦れるわずかな音だけが室内に響く。
そして、少ししてからカーテンが開く。
俺は思わず息を飲んだ。
ウェディングドレスのような純白さをたたえた衣装。
金髪のパリピギャルに純白は似合わないと思っていたが、そんなことはなかった。
既製品なので作りはシンプルだが、逆にそれが愛音の素の魅力を引き出している気がした。
「どうですか?」
「……ああ……いいんじゃないか?」
「じゃぁ、わたしと結婚してくれます?」
「……バカ言え」
「なんだ」
と、愛音は一度カーテンを閉め、少ししてから元の服に着替えて出て来た。
「これ買います」
「はい、毎度〜」
♪
俺たち電車に揺られて地元へと向かう。
ちなみに、愛音は店を出るとすぐにサングラスをかけた。そのまんま電車に乗ったりしたらまた囲まれるのは必然だろう。
1時間弱電車に揺られ、地元の駅に着く。
俺は夜の練習があるので、このままリンクへ向かうつもりだった。なので愛音とはここで一度別れる――はずだった。
だが、駅から出てすぐ、愛音は立ち止まり、俺に向き直った。
「あの、歩夢さん。今からちょっとだけ時間をいただけないですか」
「ん?」
いつもにこやかな笑みを浮かべている愛音の、いつになく真剣な表情。
そして彼女の口から出て来たのは――
「わたしの演技を見て欲しいんです。それでコーチになるか判断して欲しい」
なるほど。熱意はフィギュアスケートで証明する、ということか。
彼女の大きな瞳が、まっすぐ俺を捉える。
「……いいよ」
正直楽観している部分もあった。いくら、トリプルアクセルを2か月で跳べるようになったとしても、それだけではフィギュアスケートはできない。ジャンプというのは、フィギュアスケートという競技の一要素に過ぎないからだ。
エレメンツだけでもジャンプ以外にスピンステップがあるし、加えて振り付けやスケーティングだって評価の対象になる。
そしてそれらすべてをたった2か月で習得することは不可能だ。
だから、彼女がベストを尽くしたとしても、それでも俺の答えは変わらない。
♪
リンクへと向かい、更衣室の前で別れた。
練習着に着替えてから練習着に着替えると、愛音も少し遅れてやって来た。
先ほど買ったばかりの、ウェディングドレスのごとき純白の衣装に身を包んでいる。
「曲は持ってる?」
俺が聞くと「スマホにあります」と答えた。
「これで」
彼女はスマホを取り出して、音楽の再生アプリを立ち上げ、プレイリストに1つだけ表示されている曲を示した。
昨季、俺がフリーで滑った曲だ。
女子のフリーは本来4分だが、プレイリストにある曲の長さは4分30秒。
ということはもしかして――
彼女は銀盤に上がって軽くウォーミングアップをした。
「じゃぁ、お願いします」
彼女そう言ってからリンクの中央に向い、スタートのポーズをとった。
――やっぱり。それはよく知っているポーズだった。
彼女は俺の去年のフリーをコピーしようとしているのだ。
「お手並み拝見といこうじゃないか」
ドンキホーテ、弦楽器の軽快な音色から演技は始まる。
まずはジャンプ。当然最初のジャンプは彼女にできる最高の技――即ち、女子にとってはもっとも難しく得点が高いエレメンツであるトリプルアクセル。
左足でバランスを取るその姿はさすがに頼もしい。
跳躍。その小さな体が宙を舞う。完璧な回転から再び氷に舞い戻る――その姿はやっぱり美しかった。これだけ美しく、かつ大きなジャンプが、あの小さな体から生まれることが信じられない。
そこから短い助走ののち、トリプルトウループ、ダブルトウループのコンビネーション。
「コンボもできるのか」
さらにもう一つ、トリプルフリップとたたみかける。これらは難しい技ではないが、その完成度は同世代の他の選手と比べても見劣りしない。
やはり、彼女は生まれながらのジャンパーなのだ。その才能はもしかしたら、スケート史上最強の男、白河翔馬さえも凌ぐかもしれない。
――だが。
ジャンプ以外の部分はものすごくつたない。それっぽく真似しようとしているが、まったく形になっていないのだ。
ここまで30秒ほどの滑りだが、彼女の実力を測るには十分だった。
ステップ、スピンと中盤から後半の要素をこなしていくが、これはもう技として成立していない。
そしてエレメンツの未熟さ以上に、フィギュアスケートの演技として致命的なのが――足元だ。フィギュアスケートはダンスではない。振付やジャンプというのは一要素であって本質ではない。
あくまで一番大事なのはスケーティング。つまり、ステップやターン、ディープなエッジ使いを織り交ぜながら技をこなすことがなによりも大事なのだ。
愛音の場合、本当にただ滑っているだけ、回っているだけ。そこには難しいターンやステップはまったく織り込まれていない。これではフィギュアスケートとは言えない。
まったくもって素人のそれだ。とても一か月半後に大会で好成績をあげるなんて不可能なだ。
今どきの小学生は大人顔負けの成熟した演技をすることが多い。彼女たちと比べるとその差は一目瞭然。
まったく話にならない。
――でも。
どれだけつたなくても、どれだけ失敗したとしても、心に響く演技というものがある。
今の彼女の演技がまさにそれだった。
全然下手くそだ。話にならない。褒められるのはジャンプだけで、他は幼稚園児レベルだ。
それなのに、どうしてここまで彼女の滑りは胸を打つんだろう。
最後の見せ場、ステップシークエンス。
男子でもキツいフリーの演技後半。まだ16歳の彼女に、それを滑りきる体力が残されているはずもない。
体は全く音楽に乗っていない。振り付けもむちゃくちゃで、エッジワークなんてありもしない。
でもそれでも、振り絞るようなそのステップには、心を奪われた。
こんな下手くそな演技に、どうして心が動かされる?
いや、答えはわかっている。
――熱量だ。演技に対する熱量。言葉にしてしまうと陳腐な言葉だが、つまりそれなのだ。
他の誰でもない、俺への――俺の演技へのリスペクト。その熱い思い。リンクの氷をすべて溶かしてしまうんじゃないかというくらいの圧倒的な熱量が、彼女の滑りにはあった。
どこまでも純粋に滑る、その瞬間、瞬間が、観る者(オレ)の心に届く。
曲は鳴りやんでいた。気が付くと、もう4分30秒が経っていた。
愛音はしばしの余韻を残したあと、こちらに向かって滑ってきた。
息を切らし、滝のように汗を流しながら、しかしその大きな瞳をこちらにまっすぐ向けている。
「コーチ、やってやるよ」
ほとんど無意識にそう言っていた。
そして次の瞬間、バカ言うなと自分に突っ込みたくなった。
シーズン中の大事な時期に、他人にスケートを教えているような時間があるはずがない。
しかも、今年はオリンピックイヤー。ただでさえ自分の練習に集中しなければいけないのに、他人のために時間を割いている余裕なんてない。
でも。
それでもだ。
そんなことはわかっていても、この気持ちに、答えないでいることは絶対にできなかった。
「よろしくお願いします」
愛音は、深く俺に頭を下げた。
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