あひる、跳ぶ!

 白鳥を夢みる。

 童話のあれ。

 醜いアヒルの子がある日、美しい白鳥になって空に舞い上がる。白くひかる優雅な翼を広げ、円を描いて天へ天へとのぼっていく。

 蒼いそらの先、雲が切れて星が輝く!

 次の瞬間。

 あたしは、自分のぼってりした翼に気づく。灰色のもこもこだ。

 で、一気に墜落する。

 あのお腹のあたりをぎゅっと絞られたような感覚につかまれて、みる間に地上へ近づいて、激突する寸前に「ああ、これは夢だ」。

 で、場面転換。

 夢って便利。

 


「そりゃ、明晰夢じゃね」

 みゆきちゃんは弁当箱にふたをしながら、うなずいた。

「また心理学? あたし、そういうの嫌いなんだ。“自分は何者か知りたい”って、とことんムダな学問じゃない」

「おう、おう。でたね、“ムダな学問”」

 みゆきちゃんとは同じクラスになったことがない。漫研で一緒になって、時々一緒に円形校舎の屋上でお昼を食べる。どこか巫女みたいな奴で、パーマさえはねつける超ストレートを胸まで伸ばし、ゴムが落ちるかからと結んでもいない。いわゆる貞子ヘアで、くっきり額を出している。

「心理学って統計だよ。最近では行動神経内分泌学なんていう脳やホルモンからも、つまり学問の領域をまたいだ研究も進んでいる」

「でー」

「近い未来には、人のココロも、ひとつの臓物と化すのであーる!」

「はいはい」

「だって、胃が弱い奴は胃弱だし、腸の弱い奴はまあそんな感じで、なんでココロだけ特別なのか、あたし、ほんとにわっかんないんだよね」

 みゆきちゃんの弁当箱は、ニモだ。あのニモだよ。あたしは、その方がわからない。

「だってさ、うちの親なんか飛ぶ夢見るしか見たことないっていうんだよ。飛びたいって思えば飛べるはずだって」

 ちっちっちっと、みゆきちゃんは指を振る。

「人間は考える葦なんかじゃない。ただのケモノだ。それを忘れるからいかんのだよ、人間は」

「はいはい、考える臓物ね」

 『千と千尋』のブタになった親がつまんだ、風船みたいなぐにょぐにょの中華料理が浮かぶ。

「あたし、臓物なんかなりたくないよ」

「最初から、臓物じゃん」

 あたしは、がっくりと肩を落とした。

「だからあ、カエデぇ。卒業したら、あたしと新興宗教やろうよう。信者二十人ゲットすれば、儲かるんだっていうしさあ」

「あんたが教祖様やるならね。あたしコピックで曼荼羅と不動明王描いて飾ってあげる」

「だからあ、それだけはありえねー」

 いつもの決めゼリフを待つ。みゆきちゃんは、いつものように中指を立てた。

「宗教オタクっていうのはね、信仰心のないエンタメ野郎なんだよ」

 そうして納豆巻+卵焼きを、ひとくちで飲み込んだ。



 エンターテイナーにヒマはない。

 あたしは、葦か臓物か検証するため、今日も実験を続ける。



「で、俺たちを集めたってんだな」

「文句ある?」

 古い円形校舎の屋上だ。別名ムシボシ・テラスでは、春になると上半身裸で日サロする奴らがいる。一階は部室棟、二階と三階は図書館だ。

 今日はそいつらを追い払って、我が漫画研究同好会の三年男子三人を呼び出した。

 これを便宜上、猿、雉、犬と呼ぶ。

 猿は、まさにサルっぽい。雉は、うるさく鳴く。犬は、うっとおしい。

 この三ゲートリオは、我が神聖なる漫画研究同好会を私物化し、ゲーマー同好会にしつつある。

「で、なにすりゃいい」と、猿。

「昼メシまだだから、用ないなら帰るからなー」と、雉。

「テルワ・オンライン、第三章行ったよお」と、犬。

「え。第三章入ったの?」

「うん。桃太郎の破魂鬼退治スーツ手に入ったしぃ」

「ええええええええっ!!!」

 部室でいつも、スイッチと昼寝しているのが犬だ。犬は犬でも和犬じゃない。ラブラドールがレトリバーか、妙にひとなつっこい洋犬だ。今日もにこにこと笑いながら、見えない尻尾を左右に大きく振って、「ほめて」と言わんばかりに上半身を左右に揺らしている。

 うっとおしい。

 あたしは両足をふんばって、応援団みたいに手を後ろで組んで言った。

「きみたちにお願いがある」

「へー。カエデ様がお願いね」猿。

「お願いって、あとで何か返せっていうのか」雉。

「うん、なに?」と、犬。

 あたしはできる限り、ためて言った。

「そこから、

 ムシボシ・テラスの向こうを指した。一斉に三人が振り返る。

 見えるのはグラウンドだ。万年西都予選三回戦コールド負けの野球部が、かくかくとレゴみたいに動いている。その周りでサッカー部がシュート練習。そんな都立なんて、うちの学校ぐらいだ。ムダに校庭が広い分、スポーツは弱い。環境と結果に因果関係はない。そう確信するに至った実例だ。

 ともあれ、一瞬沈黙がおりた。

「なんて言った」猿。

「……」雉。

「カエデさん、どうしたの」と、犬。

 結果。

 

「第二十期実験、終わり」

 あたしは口のなかでつぶやくと、三ゲートリオへ手を振って、さっさと梯子を降りた。ついでに外す。

 背後でぎゃーぎゃーわめいていたが、じきに誰かが気づくだろう。

 あたしは、スキップしながら校門へ向かった。校舎を背中にテニスコートとバスケコートとバレーコート三面ずつ。ムダに広い校庭を横目に、まっすぐ続く桜並木を通り抜け、校門の向こうの「かどや」へ入った。ケースの中のいつものを指差す。

「おばさん、シベリアちょうだい」

 そしてあたしは、餡子とカステラを押し込みながら、公園でみゆきちゃんへLineする。

「今日もケモノはケモノだった」

『はあ? またやったの?』

 あたしは、さっきの実験について説明する。

「ムシボシ・テラスだよ。柵ないんだよ。なのに、飛び降りろって言ったら、三バカ全員そっちを振り返った」

『で?』

「なーんにも考えてない。疑わない。だから、みゆきちゃんの言うように、やっぱりひとは臓物だと思った」

『はあ。で?』

「それで、いまシベリア食べて、自分のケモノさに浸っている。うん、とことん臓物だ」

 歯にしみるような甘さは、頬ばるうちに何も感じなくなる。ただ、餡子の塊りを飲み込む喉の心地よさばかりになって、あー、脳が充足。

『で、落ち着いたかね、カエデ嬢』

「うん」

 あたしは目を閉じて、サーモスに残った最後のお茶を飲み干した。

「臓物って、しあわせかもだ」

『切るよ』

「しあわせだー」

『うるさい』

「またねー」

『帰れ』

 ゲンコツ・スタンプを消して、あたしは線路沿いを歩き始めた。所沢方面へ。

 明日は誰にしよう。

 二十一回目の対象者を脳内で物色しながら、足取り軽く歩き出す。

 人類の未来を賭けた壮大な実験は、まだまだ続くのである。






(了)



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短篇集 昊の滴 濱口 佳和 @hamakawa

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