円周の日没
「おはよう、マギー」
『おはようございます、
「ありがとう」
『では、またのちほど。よい一日を、中尉』
「よい一日を、マギー」
私は通信を切って、寝台の上で手足を伸ばした。
窓から地球の影が見える。太陽光を受けて、ごついダイヤモンドの指輪のように、一瞬光が闇を制した。そして、また闇。絶対零度の宇宙空間に、いつものように静かに青い地球が浮かんでいた。
私はしばしその光景に見入り、微笑んだ。
さあ、今日も一日が始まる。
まずは寝台の整頓だ。シーツのしわを伸ばし、丁寧に角を立てて折り込む。毛布の端と端を合わせて士官学校で習った通りに丁寧に、手早く整えた。枕の形を直し、すべてが平行ないしは直角になるよう配置した。
出来栄えを検分する。
美しい。
私は寝台へむかって敬礼し、歯磨きにかかった。
洗面を終えて、カフェテリアへ向かう。当直は自分ひとりだ。無人のカフェテリアで、いつものメニューを選んだ。フレンチトーストにベリージャムを添えて、コーヒーはブラックだ。焼き具合はミディアムレア。なんて冗談を口にしながら、受け取り口で待つ。
ほかほかと湯気のたつフレンチトーストを口に運ぶ。今朝のトッピングは、蜂蜜にした。明日は、ホイップクリームにしよう。
一日のなかで、朝のこの時間が一番好きだった。誰にも邪魔されず、静寂だ。宇宙にひとり、浮かんでいる。砂をまき散らしたような星の海だ。ひとりなのに、“ひとりではない”──なぜかそう思える。
あのひとつひとつの恒星系にはなにがあるのだろう。すでに死んでしまった星々なのか、我々のように、なにかしらの文明が栄えていたのか。想像もできないような形状の生物が繁栄し、いま、私がこうして宇宙空間に浮かんで夢想しているように、
携帯端末のアラームが鳴った。
ベリーソースを最後の一切れでなめとって口へ放り込んだ。
無人のスペースを眺め渡す。
軽い、ごく軽い設備が立てるかすかな音。
波のたたない海辺にでもいるようだ。時が止まり、砂時計のこぼれ落ちる音だけが聞こえてくる。時はめぐるが、自分はそこから動かない。動けないのか。ただ、浮遊しながらおのれを俯瞰しているような、そんな妙な感覚につかまれることがある。
透明になって誰にも気づいてもらえずに、大勢のなかに立ち尽くし、徐々に薄く消えていってしまう──そんな十代の頃に戻ったような感傷だ。
誰にも。
私は残ったコーヒーを一気に流し込み、明日はやはりラ・テにしようと思った。
「なにか変わったことはあったかい、マギー」
『マクルーア中尉、艦橋任務に入ります。記録。標準時三月三十一日、〇六四五時』
当直記録が入る。
『いいえ、特に。先ほどお伝えしたように、
「すべて
『了解しました、中尉』
私は、メインデッキの中央にある自分の席に着いた。認証を済ませて、前方の巨大なスクリーンを見上げた。
今日も美しい。太陽系で唯一の青と緑の星。暗闇に浮かんでいると、より美しさが増す。早く帰りたい。帰って、地上の酸素を胸いっぱいに吸って、太陽を素肌に浴びて砂浜に寝転んで、午後いっぱい自堕落に過ごしたい。あいつの重みを隣に感じながら寝て、起きて、コーヒーの香りと子どもたちの声と、頬のやわらかさと、卵とベーコンが焼ける音。「待っているから」と、あいつはいつも言った。いってらっしゃいでも、気をつけて、でもなく。
「すぐ帰るよ」
『なにかおっしゃいましたか』
「ひとりごとだ」
小さくため息をついて、私はいつものようにステーションの設備チェックを始めた。定められた手順でひとつずつ、端末に呼び出しては、アリの巣へ水を注ぐように潰していく。退屈な作業だ。
「マギー、第四区の第三倉庫へ行ってくる」
『了解しました』
ダウンロードした物資リストを呼び出し、記録と実際の物資とを付き合わせる。単調でつまらない業務だが、管理には必要な手順だ。第一区のモジュールから抜き打ち検査を始め、ようやく七つある区画の半分ほどを終えた。全体が終われば、また、第一区へと戻る。そうして常に、なにもかも完全に把握しておくことが、いまの私の任務だった。
『中尉、一四〇〇時、定期交信を終了します』
「地上に変わったことはないか」
『ありません。相変わらず、ブライスは不機嫌でした』
「おまえが陽気なんだよ、マギー」
『そうでしょうか。明日の天候予測は良好です。定時交信を予定します』
「頼む」
ランチは、ミートボール・サンドだ。いつもおまかせでセットしている。不足した栄養素を補うために、前一週間の食生活から算出されたデータをもとに軽食を出してくれる。
私は手早くランチを済ませ、また倉庫モジュールへ戻った。一四〇〇時にマギーの報告を受け、さらに三時間続け、定時で退勤した。
『中尉、また明日お会いしましょう』
「おやすみ、マギー」
『おやすみなさい、中尉』
ログアウトした。
「おはよう、マギー」
『おはようございます、
「ありがとう」
『では、またのちほど。よい一日を、中尉』
「よい一日を、マギー」
私は通信を切って、ベッドの上で手足を伸ばした。窓から地球の影から見える。私はしばしその美しい光景を眺め、微笑んだ。
さあ、今日も一日が始まる。
寝台を整え、洗面を終えてからカフェテリアへ向かう。フレンチトーストに蜂蜜とホイップクリームをかけ、ブラックではなく、ラテにした。
当直記録を入れてから、今日も倉庫モジュールで物資の確認を始めた。
何度目の確認だろうか。有人作業などしなくても、マギーが教えてくれるリストで十分足りるのに。
しかし、これは任務だ。そして、私は任務を放り出すつもりはなかった。
その日、私はあるはずもないものに遭遇した。
幾度目かの、第一倉庫モジュールの確認中だった。監視カメラ映像にちょっとした異変を見つけたのだ。
アラートが鳴り、あわててモニターを見ると、なにかが視界を横切った。
ほんの一瞬だ。
私は、センサーの誤認だろうと思いながらも、録画を再生した。
右下だ。
再生する。ゆっくり。
視認できる大きさのものが、ほんの一瞬、こちらを見た。
(ネズミ)
あの動き。
(ハツカネズミだ)
医療区画から、逃げ出したのだろうか。今まで、なぜ気がつかなかったのだろう。どうやって生きてきたのか。
私の頭は、瞬時に疑問で一杯になった。医療区画の実験動物は、すでに処分した。リストと付き合わせ、完璧に確認したはずだった。
私は凍りついたまま、記録映像を穴があくほど見つめた。何度も、何度も再生した。
「なぜだ」
退直後も、コピーしたその映像を、自室で見続けた。見間違いではないだろうかと、フレームごとに確認する。
不自然な作為はない。
作為があったとして、誰がやるのだ。
ほんの一瞬だった。三秒もないだろう。カメラの前を横切り、取って返しては後ろ足で立ち、こちらを見る。小さなピンクの鼻をうごめかし、細い糸ほどの髭が呼吸にあわせて揺れている。ゴミほどの爪がついた手を前にそろえて立つと、そのやわらかな腹が上下していた。
(ばかな)
生体反応を見逃すはずもない。しかも、昆虫ではなく哺乳類だ。あり得ない現実に、心が波立つ。日々のルーティーンが破られ、驚きよりも軽い怒りを感じていた。
立ち上がった小さな、白い腹。やわらかく呼吸に波打つ。
まさか。
あり得ない。
だが。
(明日、第一倉庫に罠を仕掛けよう)
(鼠取りなどあったか)
(獲ってどうする)
(殺すのか)
まぶたの裏で小さなピンクの鼻がうごめている。
(まさか)
まさかと思い、ふと腑に落ちた。
──これは、幻覚なのではないだろうか。
頭を振った。もしそうならば、私自身、任務を果たせなくなる。確率で言えば、ネズミが生きていることよりも、私に不具合がある確率の方が高い。
(明日だ)
明日、医療区画で確かめよう。処分記録とともに、私自身も
(そうだ)
それがいい。
それで、はっきりするはずだ。
そのうち、
明日もまた、明日が始まる。なに一つ変わらない一日が。
「おはよう、マギー」
『おはようございます、
「ありがとう」
『では、またのちほど。よい一日を、中尉』
「よい一日を、マギー」
窓から地球の影から見える。太陽光を受けてダイヤモンドの指輪のように一瞬、光と闇の境目が交わる。あとは漆黒の闇。絶対零度の宇宙空間に、かつて青く美しかった地球が枯れ果てて浮かぶ。
私は、しばし目を閉じた。
さあ、今日が始まる。
(了)
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