咲かない桜なんて
いぬい。
咲かない桜なんて
その瞬間は刻一刻と迫っていた。
これで自分の将来が決まると思うと、緊張と不安で息が苦しくなる。気持ちを落ち着かせるために、コップに注いだ水を少しだけ口にした。
「そんな緊張しなくてもいいだろ。別に死ぬわけでもあるまいし」
新聞を広げながらお茶を飲む父親は、僕と目を合わせずに呟いた。
小中学校の9年間を地元の市立学校で過ごした僕にとって、受験は人生で初めての経験だった。
「あんた落ちたら今まで以上に勉強しなくちゃダメだからね? 大学まで私立に通わせるお金なんてないから」
父親と打って変わって母親はいつもそうだった。
言い返す気力もない僕は、リビングを出て自分の部屋に向かう。「本当に分かってんの?」という声が聞こえるが無視する。
自分の部屋に入りドアを閉める。スマートフォンで時間を確認するのもこれで何度目だろうか。今は8時50分。ーー合格発表まであと10分だった。
昔は合格発表のたびに受験生がこぞって受験校の校内掲示板に集まったらしいが、今じゃ高校のホームページでも発表が行われる。合格者は、高校で配られる「入学手続要項」を受け取らなくてはならないので、校内掲示板で合否を確認する人は多いのだが、僕が受験した高校は家から遠いのもあり、こうしてスマートフォンでの合格発表を待っている。
合格したら僕は地元を出て、全寮制の高校に通うことになる。全国でも有数のテニスの強豪校だ。中学最後の総体は部長という立場で出場し、十分に全国大会を狙える位置にいた。しかし、肝心なところでの凡ミスが響き、県大会で敗退となった。そんな僕にスポーツ推薦などはなかった。
合格発表が近づくにつれ、呼吸が荒くなる。受験勉強はしっかりしてきたつもりだったし、自己採点でも十分な点数を取れていた。普通であればここまで不安になることはなかっただろう。しかし、僕は大事なところでいつも失敗してきた。こうした成功体験の少なさが、自信のなさを助長させていた。
合格発表まで残り5分。そろそろかと思い高校のホームページを開いては、意味もなく更新ボタンを押す。何度か繰り返したところで、ふと思い立って、電話をかける。
「はいはい。何の用?」
「特に用があるわけじゃないんだけど。合格発表までの時間が辛くてね。親友のお前なら迷惑かけてもいいかなって思ってね」
「そういえば今日は公立高の合格発表だっけ。じゃあ午後は合格祝いにカラオケでも行くか?」
「まだ合格かどうか分からないって。いいよなぁ、推薦組は気楽で」
「事前課題が山ほどあるから、それほど気楽ではないぞ。それはそうと、合格したらあの子に告白するんだっけ?」
「あ、うん。地元離れることになるから、その前に伝えようかなと」
「それさ、付き合ったらデートとかどうするの? 大変じゃね?」
「たぶんフられると思うよ。可愛くて優しくて、気配りができて明るいあの子だから。もっといい人はいると思う」
「お前はもう少し自信を持った方がいいぞ。そろそろ合否が出る頃だろ? また何かあったら電話して」
そう言い残すと親友は電話を切った。
時間を確認する。ーー9時2分。告白のことはまた考えるとして、今は合否の確認が先決だった。
スマートフォンで学校のホームページを開く。そこから受験生用サイトに飛び、受験IDとパスワードを入力する。受験票と見比べながら何度もIDを確認する。そして汗ばんだ指先で、サイトの下部にある「進む」のボタンを押した。
僕はそこに書かれていた結果を何度も見た。それは瞬きを忘れるほど。何度も。何度も。
スクリーンショットで合否の画面を撮り、スマートフォンを充電器に繋げてから、僕はベッドに倒れこんだ。
中学校生活での思い出が蘇る。それはさながら走馬灯のように。
受験は辛かったが、部活は楽しかった。多くの友人に恵まれ、修学旅行で行った京都では初めて八ツ橋を食べた。
何事も大事なところで失敗したきた僕だ。悔しい思い、辛い思いは人一倍してきたと思う。だけど、こうした多くの温かな思い出に絆され、目頭が熱くなる。「最後はいい思い出で終わらせたい」そんな想いが僕を突き動かした。
制服に着替えてから部屋を出た僕は、リビングに置いてあった家の鍵を取る。「あんた合否どうだったの?」という母親の言葉に反応している余裕はなかった。
僕はこの想いをあの子に伝えなくてはならない。後悔はしたくなかった。「昼飯はいらないから」とだけ叫んで、僕は家から飛び出した。
不合格という結果で中学時代を終わらせたくなかった。
公立校の合格発表後、合格者は午前中、不合格者は午後から中学校の視聴覚室に集まることになっていた。
確信めいたものがあったわけではない。だけど、あの子なら大丈夫だと思いLINEを送る。
すぐに返ってきた「もう視聴覚室にいるよー」というメッセージに「正門前に来てほしい」とだけ送り、僕は歩いて10分ほどにある中学校目掛けて全速力で走り出した。
足が痛い。息が苦しい。体力には自信があったものの、今日に限って体が重かった。準備運動もせずにいきなり走ったからだろうか。だけど今の僕にはそんなことを考える暇なんてないはずだ。あの子への告白は会った時に考えよう。三月の冷たい風が僕の背中を押す。一秒でも早くあの子の待つ校門に辿り着くため、僕は鉛のような手足を必死に動かした。
「おはよ。大丈夫? 今日はいつもより寒いね」
校門の前で佇んでいた彼女は、僕を見つけるなり手を振ってくれた。
「僕から呼んだのに待たせちゃってごめん」
「視聴覚室も今日は人がたくさんいたから、むしろ抜け出せてよかったかな。私、人が多いところ苦手だから」
彼女は手を温める素ぶりを見せながら答える。きっとメッセージを見てからすぐ外に出たのだろう。手袋もマフラーも身につけていない彼女に、少しだけ申し訳ない気持ちになる。
「それで、私に何か用事かな?」
この言葉を僕は待っていたのだろう。
ーー伝えるなら今しかない。頭では理解しながらも、今更になって「フられたらどうしよう」「もう彼女と話すことができなくなるのか」そんなネガティブなことを考えてしまう。察してくれと言わんばかりに、彼女を見る。そこには、ブレザーの裾を握りながら僕を見つめる彼女がいた。
ちゃんと伝えなきゃ。僕は勇気を出して想いを告げた。
「好きです。小学生の頃から、9年間ずっと、好きです。大好きです。優しいところが好き。一度話すとおしゃべりが止まらないところが好き。たまに見せる可愛い仕草が好き。お料理が上手なところが好き。みんなと仲良くできるところが好き。そして、こうして急な呼び出しでも来てくれて、寒空の下でも僕の話を聞いてくれるところが好き。大好きです」
「僕と付き合ってください」
冷たい風が吹き込み、つぼみを付けた木々を揺らす。
後悔はなかった。顔を上げると、口元を抑え、涙を浮かべた彼女と目が合う。「えっ、えっ」と挙動不審になる僕を余所に、彼女は僕の手を握る。
「私も好き。ずっと好きでした。こちらこそ、よろしくお願いします」
この春の芽吹きを感じさせるような、温かな返事を僕は想定していなかった。言葉が出なかった僕は、握られた手を優しく握り返した。
それから僕たちは校門の近くのベンチで話をした。「視聴覚室に戻らなくていいの?」と聞いたが「目赤くなってるもん。絶対なんか言われる」と怒られてしまった。
「そういえば、春から全寮制の高校に行くんだっけ? こうして付き合えたのに、これから会えなくなるのは寂しいな」
彼女は握った僕の手を揺らしながら聞いてくる。
僕は「そういやまだ伝えてなかったね」と、半ば忘れ去ろうとしていた事実を伝える。
「高校落ちちゃったんだよね。だから、近くの私立高に通うことになるよ」
「それって……」
彼女の握る手が弱まる。聞いていけないことを聞いたかの反応だったが、僕はその手を強く握り返した。
「だからさ、これからたくさん思い出作ろうね」
校門付近の桜を見上げる。
つぼみをつけた桜も、再来週には開花するって先生が言っていた。「初デートはお花見かな?」っていう彼女に「その頃には卒業してるでしょ」と伝える。
「なら、卒業生として一緒にこようね」
そう言う彼女は桜のように愛しかった。
咲かない桜なんて いぬい。 @inui_s
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