第3話

「そのままでいいよ、続けて。見てるから」


 最悪のタイミング、とはこの瞬間を呼ぶに相応しい。

 僕の下に横たわるエリカは口を結んだまま虚空を眺めている。

 寝室のドアの向こうから、廊下の灯りに照らされた静江のシルエットが、すっと腕を組んだのがわかった。裸のままの僕だけが、ただ滑稽にこの場の空気に沈んでいく。


「なんで何も聞かないんだ」


 ——何なら僕が聞きたいのに。


 帰宅するなり、なぜか寝室にいたエリカがこちらに包丁を向けていた。

「何してるんだ——どうやって」

「おねがいします。私と一緒になれないなら、死んでください」

 それまでこんなに重い少女ではなかった。身体を重ねるたび、徐々に距離感は縮まってはいたけれど、嫁と別れろだとか、将来どうするんだと言った絵空事は何も言わず、少女は少女としての不倫を、割り切って楽しんでいるものだと思っていた。

 それがどうして家にいて、僕に包丁を向けているのだ。

 僕の求めている刺激はこれじゃない。


「とにかくそれ置いて」

 一定の距離を保ちつつ、カバンを放って、代わりにほどいたネクタイを握る。

「置けないんです!」エリカはキンと声を響かせた。「おねがいします。わかってください!」

「自棄になるなよ……」

 冷静さを欠いているのは目に見えているが、そのままでいられては困る。

 やはりこんな危ない橋を渡ってまで刺激などと言った茫洋としたものを掴むべきではない。死んだら元も子もない。


 エリカはハッとしたように顔を上げると、僕のほうへ突進してきた。幸い避けられたが、——人間、攻撃されると反射行動が出る。

 手に握っていたネクタイをエリカの首に回し——転げ落ちた包丁を手に取り——、


 自分でもこうもあっさりと人を殺せるとは思っていなかった。そして、それをこうもあっさりと許容できてしまうとは。

 とにかく、幸いにも静江は不在だった。彼女が帰ってくる前に死体の処理をしなければならない。


 ——そう思っていたところだったのだ。


「聞くとしたら——」


 静江は一歩ずつ確実に僕のほうへ近寄ってくる。

 恐怖、と感じるには妙に胸がざわついた。

 

「私は何をしたらいい?」




 完璧な嫁を横にして——僕はこれから、一生、世間にうそを吐き続ける覚悟を決めた。

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孝行不倫 枕木きのこ @orange344

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