第2話

 □


 佐竹静江。

 

 その名前を、何度も反芻する。

 彼と同棲を始めた時、彼宛の荷物を受け取るために「佐竹」と名前を書いたあの日、私はすごく心が弾んだのを今でも覚えている。もう、四年も前のこと。


 大学のサークルで出会ったころ、私は佐竹くんのことを全然覚えられなかった。在籍人数が多く全員が集まる機会が少なかったせいもあるけれど、顔が格好いいわけでもないし、お喋りが面白いわけでもないし、発言する立場でもなくたいてい隅のほうで賛同している人——いつも三番手か四番手に並んでいる、そんな印象だった。

 それが決定的に私の記憶に刻まれたのが、大学三年生の時だった。

 名ばかりの映画研究会でようやく自主映画を作ろうとなった際に、彼が監督に立候補した。脚本を考えてるんだ、思い描いている画があって、撮ってみたい。そう言って、私を主役に抜擢した。

 それまでほとんど話をしたことのなかった人だったから、すごく驚いたけれど、周りの推薦もあって、私はそれを受け入れた。


 学園祭で初お披露目となったその自主映画は、出来こそ素人レベルに違いなかったけれど、彼の脚本がうまいと小さな話題になった。一本の主軸があって、サイドストーリーがいくつか差し挟まれ、それによって何度も構成がひっくり返る——そういう話。

 彼は上手にうそを吐く人なのだ。

 私はその主軸の、ヒロインだった。純真無垢な少女に見え、かと思うと悪女に転がり、最終的に女ですらなく、そもそも本来見えない存在だった——と並び立てるとハチャメチャを極めるけれど、私自身が周囲から受けているイメージを逆手に取ったおかげで観たものは口をそろえて称賛した。


 小さいころ本当にわずかな期間、子役として芸能活動をしていたから演技経験が全くないわけではなかったけれど、評価の際、私の演技は二の次だった。とにかく佐竹くんが褒められて、持ち上げられた。

「すごいじゃん」

 ハイタッチをして喜びを伝えると、彼は照れくさそうに手を合わせてくれて、

「全部皆本さんのおかげだよ」

 と視線を逸らした。

「私なんて全然! 私がよく見えたんだったら、それこそ佐竹くんのおかげだよ」

「そう言ってもらえると嬉しいよ」それから彼はもっと照れくさそうにして、「言ったでしょ? 脚本が先なんだ、この話」

「どういうこと?」

「もともと、皆本さんで当て書きしたってこと。皆本さんと近づく口実だったんだよ」

 そしてようやく私の目を見たのである。


 そう、彼は上手にうそを吐く人だ。

 私にとってみれば、ここまでの映画製作すべてがひっくり返った、どんでん返しの瞬間だった。

 たぶん私は一般的に頭が回るほうではない。回すように努力をしているし、回っているように見えるような努力もしている。それでも物事を深く考える力がない。だから皮肉もなく、素直に、やられた! と喜んでしまった。


 その期間があってから、私の中で彼は一番手の人になった。

 もちろん彼の中でも、私をその位置にしてくれた。


 この人なら私をうまく作り上げてくれる。そう思える人だった。馬鹿な私を、そう見えないように一番うまく転がしてくれる。

 付き合ってからの彼もそうだった。料理を作ると喜んでくれて、手をつなぐと照れくさそうにしてくれて——あるいは、喜んだように見せてくれて、照れくさそうに見せてくれて、私が何をしているのが理想なのか、明らかにしてくれる。

 努力の方向がわかると、格段にやりやすかった。私はそうして完璧な彼女を演じていった。


 就職して、結婚して、彼のうそはへたくそになっていった。

 隠せなくなっていた。あるいはうそを吐いたり隠す必要がなくなったと言うべきか。そうなんだろうな——が、実際にそうだった。どんでん返しがなくなった。


 それから私は大学時代を思い出して、一つの心当たりを得るのだ。

 彼は隠すのがうまいのではなくて、隠し続けるのがうまいのだ。長い期間、うそを吐き続けるのが得意だった。それこそ映画製作の時なんて、ざっと四か月はうそつきだった。

 取り繕ってばかりのうそつきな私には、きっとうそつきな彼が似合う。

 もちろん今の彼にも不満はない。でも不満がないことと満足していることは別なのだ。

 でも、そんなことを彼に悟られてはいけない。

 刺激が足りないなんて。

 彼がそんなことを思っているわけがないのだから。


 ——と、思っていた。


 エリカ、という女の影が浮かんだのは、冬に差し掛かった肌寒い時期だった。

 最近急に会社の人と呑んでくることが増えたなと感じていたそんなとき。彼のために作った料理を一人で食べる気分にもならず、駅近くのコンビニに脚を伸ばした日。店先の灰皿のところに彼と、女子高生が並び立っていて、楽しそうに話をしていた。初対面——の雰囲気ではなかったけれど、女子高生に知り合いがいるような年齢や職業でもない。嫌な予感——はしなかった。不思議と私は、胸が高鳴ったのだ。

 彼は今、うそを吐いているんだ、と。

 どこまでの関係かはわからないけれど、少なからず呑みにいくとうそを吐いている。

 なんだ、やっぱりうそが上手なままだった。

 あの頃の彼のままだった。


 期待していたわけではないけれど、二人はそこでしばらく話し続けた後、どこに行くでもなく解散した。私は今しがた来たふりをして、彼に手を振って近寄った。慌てた様子はない。早かったね、と言うと、連絡しそびれたけど結局流れたんだ、とまたうそを吐いた。

 二人で手をつないで帰って、笑いあって肉じゃがをつついた。


 実際にしているのかしていないのか、私にはわからなかった。うっかりホテルのライターを使うなんてことはなかったし、女のにおいもしない。正直、どっちでもよかった。私のこの平坦な役に変化をつけてくれるなら。


 それなのに、彼は上手にうそを吐く。

 

 だから、全然、何も起きなかった。


 □


「こんにちは」

 少女に声を掛けると、不思議そうに首を傾げた。当然だ。私たちは見ず知らずの人間なのだから。

「こんにちは」

 それなのに挨拶を返してくれる。たぶん、いい子なんだろう。

「私、佐竹静江って言います」

 名乗ると、少女は身構えた。

「あ——」と口を開いて何かを言おうとして、結局止めた。

「お茶しない?」

 それから何も言わずに首肯して、ついてきた。


 私は「夫の不倫に気付いて静かに怒れる妻」を演じた。

 エリカ、と名乗った少女は最前の観客として最善の反応を見せてくれた。

 彼は流れでセックスをした後それっきりでいたけれど、助けてもらった恩とないまぜになって彼に恋をしたエリカのほうが彼を待ち伏せて何度もホテルに誘った——と、ひどくつっかえながらエリカは言った。本当に申し訳なさそうに、苦しそうに、泣き出しそうな顔で。

 仕方ない、と思う。そういうガス抜きをしないと円滑に夫婦生活を送れない人間は一定数いる。別に肯定はしないが、彼はそちら側だった、それだけだと思う。でも少なからず彼も、私との夫婦生活をどうにかしようと思ったわけではなさそうだ。今まで以上に尽くしてくれていたし、別に、何も問題なんてなかった。


 私は「夫の不倫に気付いたものの不憫な不倫相手を思う妻」を演じた。

「あなたを責めるつもりはないわ。責任があるのは彼なんだから。あなたこそ被害者とも言える。実際、ストーカーに助けられたらヒーローに思えると思う。悪いのはそれに甘んじた彼よ」

 

 エリカはそれでも「不倫相手に恋をする少女」だった。

「佐竹さんは悪くないんです。私が——」何度もそう言って謝った。「もう近づきません。何もしません」


 ——その時になってようやく、私は余計なことをしてしまったと気付いた。

 結局私は人の書いた脚本の上で演じているのが似合うのだ。

 こうして出しゃばってしまったばかりに、彼のうそがなくなってしまう。それどころか真実が露呈して別れることになるかも——。それじゃダメ。もっと彼にはうそを吐き続けていてもらわないと。私の愛した、あの彼になっていてもらわないと。


 エリカを家に誘ったのは、ひどいアドリブだったと思う。でも彼女はついてきた。ついてこざるを得ない立場だと思い込んでいる。いや、世間一般的にはもちろんそうなのだが、私はこの生娘の知らない領域の人間なのだ。こうしない選択肢ももちろんあった。


 家に招いたものの、どうしようか——。

 私と彼女が二人でいたら彼だって理解する。うそが終わる。せっかく作ってくれた刺激なのに。


「彼を殺して」

 包丁を手渡すと、エリカは何度もそれを落とした。渡しても渡しても、落としてしまう。

「できません」

 泣き顔で、震えた声だ。当然だ。私だって何をしているのかよくわかっていない。ただ、彼女がここにいるべき理由としては、もう一緒に死んで——とか、そう言うのが不倫物の定番だろう。

「やらなくていいの。ふりだけふりだけ」

 彼女も何をやらされているのかよくわかっていない。当然だ。私は脚本には向いていない。

 しかし始まったドラマは終わらなくてはならない。


 ——そうでしょ?

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