孝行不倫
枕木きのこ
第1話
「——いいよ、続けて。見てるから」
最悪のタイミング、とはこの瞬間を呼ぶに相応しい。
僕の下に横たわるエリカは口を結んだまま虚空を眺めている。
寝室のドアの向こうから、廊下の灯りに照らされた静江のシルエットが、すっと腕を組んだのがわかった。裸のままの僕だけが、ただ滑稽にこの場の空気に沈んでいく。
□
「佐竹さんはいいよなあ、美人な奥さんいて。今日も帰ったらご飯作って待ってくれてるんでしょ?」
「そんな、普通ですよ。それにそれ、ハラスメントですよ」
「え、マジ?」
僕が言うと、慌てた様子で蓑原さんが頭を掻いた。肩から下げたビジネスバッグが隣の乗客にぶつかっているのが視界の隅に写る。満員——とは言わないまでもそれなりの乗車率の車内ではいかにも迷惑である。
二人で得意先を転々とした帰りだった。蓑原さんはこうした口の回転の速さを買われて他部署から営業に回ってきたばかりで、正直あまりなじみもなく、会話が続かない。数週前の自己紹介の折、独身を得意げに話して「男性は呑みを、女性はそれ以上でも全然いいですよ」と元気よく宣っただけあって、歩くハラスメントだったが、実際、嫁をいじられることが何ハラスメントに該当するのか、そもそもあるのかなどは知らない。適当な人間にはそれ相応の応対で済ませるのが、僕が営業に配属されて唯一学んだことだ。
ようやく降車駅に到着して、乗り込んでくる人波にもまれながら、蓑原さんを残しホームへ流れる。発車した車窓の向こうで、蓑原さんは隣人の肘鉄を食らいながら手を振っていた。
改札を抜け、すぐ近くのコンビニに立ち寄る。中で缶コーヒーを一本買い、それをおともに煙草をふかした。
順調と言える生活だろう。
慣れない営業とは言え、それなりにはこなしていける。敬いがないため後輩とも呼びづらいが、蓑原さんを従えて外回りを任される程度には仕事に信頼を置かれている。
嫁は方々で美人だとほめられ、事実僕もそう思う。飯はうまいし、気は回るし、きっと今日も当たり前の顔をして湯舟を作っていて、僕の好きな柑橘系のにおいのする入浴剤を入れてくれているのだろう。
ただ、不自由がないことがすなわち自由であるわけではない。
不服がないことがすなわち満足であるわけでは、ないのだ。
じっ、と音がして吸い込まれた息は、肺を通って灰を作る。
わざと濛々と煙を吐き出すと、一瞬白んだ世界の向こうに、見慣れない制服の女の子が立っていた。ただでさえ肩身の狭い喫煙者だ。僕は急いで手を仰いで、溜まった煙を霧散させる。それこそ、スモークハラスメントなんてものもある。きっと嫌な顔をしていることだろう——と思っていた。
その女子高生は、なぜか、にっこりと笑った。
それから僕の隣に並んで立つと、まるで連れ合いみたいにこちらを見ているのがわかる。
「——え、ごめん。え?」
少女の側から煙草を持ち替えて、意味を成さない問いかけを発すると、
「気にしないでください。ちょうどよかっただけなんで」
少女は小さい声で言ったが、まったくもって解答としては不十分だった。
少女のほうでもそう思ったのだろう、スマートフォンを取り出して得意そうに指を動かすとこちらに向ける。
「あそこの男がずっとついてきてて」
「待ち合わせしていたふりをしてほしい」
「——です」
「あ——、ああ。うん。確かに」
言われてみれば、ぎこちない顔をしている。
落ち着いて見てみれば——華奢な身体は寒さで縮こまっているのかと思っていたが、そうではないらしい。通りの向こうの電柱の近くで、全くの不自然さをかもした男が立っている。
営業としてそれなりに、などとは思っていたが、蓑原さんとの関係でもわかるように、特段誰とでもコミュニケーションが取れるわけではない。ましてや十は離れた異性である。別に会話をお願いされてはいなかったが、会話をしているように振舞うのにも戸惑ってしまう。
「ごめんなさい」それをすっかり見破られる。「コンビニに逃げる作戦はこの間失敗して……。さっきから自分本位で、ごめんなさい」
「いや。あーっと。こちらこそ」完全に巻き込まれているのに、上目遣いで見られて思わず謝り返していた。「どうせ急いで帰る必要もないから」
それで、口から出まかせにしても、なぜうそを吐いたのか。
静江に一切の不満はない。——などということは当然ない。結婚していようが結局のところは他人同士である。美人で気が回って、全く隙が無いからこそ、時折見えるどうでもいいところが気になってしまう。贅沢な不満だ。
でも、どんなに贅沢だとしても、些細だとしても、生まれたものは間違いなく不満であり、その程度如何に関しては僕にしか認知できない。理解できない。
簡単に言って、帰りたくなかった。
完璧な妻がいる家には。
「助かります」
ほっと両手に息を吹きかける。わずかに白くなる季節だ。つい、友人や家族に振舞うみたいにして、少しぬるくなった缶コーヒーを渡すと、少女はためらいもなくそれを一口飲んだ。
それが僕には、ひどく官能的に思えた。初心な少年が、淡い恋心を抱いているみたいに、胸が高鳴り、どぎまぎした。
「あ——」少女は缶を返してから、また、両手を口元にやった。それは恥ずかしさを隠しているように見えた。「手を温めろってことでしたよね。ごめんなさい」
「あ、いや……」それこそ何か犯罪めいた気分に陥り、受け取った缶をそのまま返して、「あげるよ。大変だね」
「ありがとうございます」
「少し煙草のにおいがついてるかもしれないけど」
「全然。大人の味です」
めまいがしそうだった。
静江を並べたら、全然静江のほうがきれいに違いない。そこらへんにいる、何度もすれ違う女子高生の内の一人にすぎない。そんな容姿なのに。
——これじゃああそこの男と変わりやしない。
少なからず、場当たり的に頼ってきたこの少女に申し訳が立たない。男がみんな不埒なことを考えている、なんて思わせるには、少女は無垢に見えた。穢れを知らない。きっとそういう少女なのだ。
それから僕は何本か煙草を消費した。普段なら一本で終わらせる習慣だ。
静江には、蓑原さんに呑みに誘われたとうそを吐いた。遅くなってもいい、そして事実確認の取れない、卑怯なうそだ。
少女の名前はエリカと言った。彼女は僕を佐竹さん、と呼んだ。
いくつかのことを話したが、エリカは昔からこういった経験が多かったらしい。明るそうで、純真そうで、流されやすそうで、不完全な彼女は、確かに男に好まれそうにも見えた。特に、大人の男だ。端的に言って、どうにでもできそうだった。
男はいつの間にかいなくなっていて、時計を確認するとすでに三十分は経っていた。たぶん僕も彼もお互いに、何をしてるんだと思ったに違いない。
「帰れそうだね」
惜しいと思う感情が生まれる前に、まだ戻れそうなこの瞬間に別れを切り出すのがベストだと感じた。たぶんこれ以上エリカを知ると、僕はこの駅に降りるたびにエリカを探してしまいそうだった。
「そうですね」
言ったものの、エリカは動き出すそぶりを見せなかった。
「帰らないの?」
見送られるのが苦手な僕は重ねて帰宅を促したが、
「一緒です」
と返される。
エリカは僕の指を、指輪を指さす。
「帰りたい家族じゃなくて」
あるいは悪魔は、純真な仮面を被るものである。
たったそれだけ。
たったそれだけと言われるだけの間柄だった僕たちは、出会ってからわずか一時間足らずで身体を重ねた。
不平。不満。不服。言葉はなんでもよかったが、この充足しない心を満たすためだけに。エリカはどうだったろうか。同じだろうか。それすらもどうでもいいと思えるほどに、僕たちは煙が溶けるように交じり合った。
連絡先は交換しなかった。行為の後、男はいろいろと考える時間がある。ほんの少しの快楽のために、どれほどの罪悪感が伴うか。これを当たり前の顔をして行っている人間が世の中に多くいるのかと思うと、不思議だったし、気持ち悪かった。
エリカのためにタクシーを呼んであげた。僕はとぼとぼと歩いて帰った。付着した特有のにおいを消すために何度も煙草を吸った。わざと吹きかけたりもしてみた。
コンビニで缶ビールを買って、公園で二本消化してから家に帰ると、静江は嬉しそうに出迎えてくれた。テレビも退屈で、読みたい本もなくて、話せる人が欲しくなったタイミングだったの——と笑っていた。私のことよくわかってるね、と。
決してそれだけではない。罪悪感だけで僕自身に変化があったわけではない。
蓑原さんのくだらない馬鹿話に付き合って、それなりに仕事をこなして、静江のために家事もやった。休日はドライブに出かけて、好きなものを買ってあげて、したいことを叶えてあげた。
理想の生活。には程遠いものの、充足した生活を送れた。それはもちろん、心身ともに、である。
要するに僕は静江との二人暮らしに慣れてしまっていたのだ。刺激がなかった。スパイスが足りなかった。それが、あの一度きりの不倫だった。静江にしてみたら、これ以上ないほど納得のいかない話だろう。当たり前だ。責められる要因しかない。
でも、結局、バレなければいいのだ。バレなければ、なかったのと同じだ。
へんに怯えず、へんに構えない生活をしていれば、——当たり前の顔をして、うそを吐き続ければ、本来僕とエリカの人生は交差するはずはなかったのだから、その薄い点が目に見えるわけもない。わかるはずもなかったのだ。
わかるはずも——。
エリカが僕を探していなければ。
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