第3話 魚

 三日が経った。

 俺はなんとか浄化隊クルセイダーと合流しようとしていたが、叶わずにいた。通信機器は防護服とともに酸に侵され使えなくなってしまったし、陸路を進もうにも異形化した植物が断崖のように立ちはだかり、上へと進めない。崖をよじ登ることまで検討に入れたが、防護服を失ってっている今、転落すれば今度こそ命はない。

 この海岸は、まさに陸の孤島だったのだ。

 唯一の脱出口は、海の中のトンネルを抜けた先にあるらしい。ここからでも入り口は目視できる。海岸から50メートルほどの岸壁に穴がある。中まで水が覆っており、息継ぎはできるが足はつけない。出口まで数百メートル、泳ぎ切る技術がなければ到達できない。

 実際に泳いでみてわかったが、思うほど進まない。独特の浮遊感は心地よいが、移動手段として考えた場合、波に戻されるのがもどかしい。人間の身体構造上、水中の活動に即した形状をしていないため、当然といえば当然ではあるが――

「かーいーとぉ!」

 俺の懊悩を打ち消すように、陽子の声が響き渡る。

 岸壁の洞穴から、黒い流線形が近づいてくる。ものすごい速度。両足で水を蹴るたびに爆撃でも受けたかのように波しぶきが爆ぜる。しかし流線形と化した体は驚くほど静かに水の中を縫うように滑り、瞬く間に岸にまでたどり着いた。

 濡れた髪をかきあげて、こちらに笑顔を見せる。息ひとつ乱れていない。

 こいつは、本当に俺と同じ人間なのだろうか。

 結局、彼女のこともわからずじまいだ。

 以前は母親と住んでいたが、死別してからは一人で住んでいるとのこと。

 平然と海を泳ぐ様子から異形化した人間かとも思ったが、ありえないことだ。異形生物ミュータントは瘴気に順応し異常進化した生物の成れの果て。苛烈な毒素を養分とするため、肥大化し、凶暴化する。人間が異形生物ミュータント化した例も聞いたことないし、仮にしていたとしても呑気にヘラヘラ笑う小柄な彼女の姿は異形生物ミュータントとは結び付かない。

「とってきたよ」

 そう言って、両手につかんだ銀色のモノを見せてくる。それは弾いたゴムのように、陽子の手の中から逃れようとビチビチうごめいている。

「……それが……」

「そう、魚。見たことないかな?」

 知識では知っている。たしか、水に自生する生物だ。多種多様な種類がいたが、汚染後は死滅した――はずだ。見たところ、異形化も逃れている。まさか通常生物がこんな辺境にいるなんて。というか――

「本当に食えるのか?」

「うん」

 あっさりと肯定した。

 にわかには信じがたいが、それでもほかに手はない。

 ちょうど今朝、携帯食料レーションが尽きた。防護肌コートスキンは体温を変換して発生させているため、本当に身動きが取れなくなる。食糧確保は急務だった。

「ちょっと待ってね」

 陽子は長い棒をつかみ、慣れた手つきで魚の口に突き刺す。そして、海に入る前に起こしていた焚火の横に立てた。生でも食えるらしいが、焼いてもうまい――らしい。

 昨日、陽子が摂取しているのを見た。

 魚の腹部に箇所へ食らいつき、引きちぎっていた。断面から触手のように無数に生えた細い骨と、砕けた白い肉が見えた。

 ぞっとする。

 知識では、人間も以前は他の生物を捕食していたことは知っている。だが、目の当たりにするとすさまじく野蛮な行為だと実感する。他の生物を取り込むなんて。主要な栄養物質を過不足なく配合した中央首府セントラルの合成食なら、補給効率、安全性ともに優れている。熱処理するとはいえ、原生生物が体内に有する有象無象の細菌類が死滅しきっているとは限らないし、異形生物ミュータント化していないとはいえ有害物質が混入していないとも限らないし――

 こうばしい香りが鼻をつく。

 ぐぅぅ。

 腹の音が鳴った。

「ほら、焼けたよ。おいしいよ」

 陽子が焼けた魚を持ってきた。茶色くなった胴体の表面に浮き出た脂がパチパチ音を鳴らし、白い煙が立ち上っている。

 匂いだけは、暴力的なほどかぐわしかった。

 直に肉を焼いた刺激的な香りは、中央首府セントラルの合成食にはありえないものだった。

 歯の裏側に唾液が沸いてくる。

「むぅ……」

 思い切って、かぶりついてみる。

 焦げかけた表皮の張りのある感触。すぐ下の白身がほろりと砕け、口の中に脂とともにとろける。口内から鼻孔へ芳醇な香りが吹き抜ける。受容体から得られた信号が脳で錯綜し、視覚野に雪崩れ込み目の前が白く弾けた。

「海斗?」

 声をかけられてはっとする。

 一瞬、気を失っていたのか。見ると、手にした魚はしっぽの先を残してなくなっていた。

 口の中に脂の甘みと苦味の余韻が残っている。歯間に刺さった小骨の雑感さえ、名残惜しい。

「おいしかった?」

「あ……ああ」

 生返事に、陽子は笑った。

「よかった。そう言ってくれると、取ったかいがあったよ」

 右手で宙を振りぬく動作。もしかして、泳ぎながら素手で魚を捕獲しているのか。二匹も。

「もっと取ってくるね。海斗も、自分でとれるようになるといいね」

 たぶんそれは無理。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る