第5話 深淵
翌朝。
俺たちは海の洞窟に向けて出発する。
距離は200メートルといったところ。波にもまれながら、慎重に泳いでいく。陽子なら一分で到達するが、参考にならないので今は考えないでおく。
陽子は先に洞窟内の様子を見に行った。時間とともに海流が変わるとのことで、先行してもらった。さすがに、彼女が戻るまでに溺れることはしない。
変わらぬ曇天の空と、灰色の海原が広がる。
波音の中を黙々と泳ぐと、海と一体になっているような感覚が湧いてくる。数日前まで汚濁の象徴だと思っていた海だが、慣れてしまえばなんてことはない。
ただ、いまだに足がつかない感覚には慣れない。
単に、溺れてしまう不安だけではない。
何も見えない深淵。
その暗がりに身をさらしている今の状態が、緊張を覚える。
――余計なことを考えるのは、やめよう。
前に視線を移せば、もうじき洞窟に差し掛かることに気付いた。
陽子とも合流して、すぐに仲間とも――
視界が白く染まる。
白いしぶきの中から、空と海とが交互に見えた。
水滴の一つ一つを数えられるほど、動きが遅い。代わりに、自分の体も動かせない。空と、海。海が、遠い。飛び散ったしぶきの中から、黒い巨体がせりあがる。
思考がクリアになる。こいつに衝突され、空中にかちあげられたのだ。気付くと同時に、視界に速度が戻った。
俺はなすすべなく再び水面へ叩きつけられる。
バラバラになりそうな衝撃を耐える。動けない。ぶつけられた瞬間が記憶にない。一瞬、気を失ったのか。
泡の中から、
水棲生物然とした弾頭形の体と、無数の触手。シャチとイカを混ぜたような姿だ。
とがった頭がぱっくりと十字に分かれ、こちらに向かって広げる。
赤黒い口内に、無数の牙が屹立していた。
――くそ。
視界いっぱいに牙が迫った瞬間、
ボゴッという音が俺の全身に衝撃となって聞こえる。
空気の抜けた風船のように
陽子だ。固く握った右拳を突き出している。
俺のほうに、笑顔。
余裕か。
黒い影が走り、陽子の姿が、かき消えた。
俺の体も水圧に揺さぶられる。
戻ってきた
そう思ったが、陽子はいつの間にか下に動いていた。
弧を描いて戻ってきた
それを陽子は水中で急旋回してよける。何もないはずの水中で地面でも蹴ったかのように加速。体のしなりと超人的な脚力で推力を生み出しているのか。
その直線的な突進を陽子は、円軌道でよける。
背中をそらせると同時にそろえた両足をキック。上半身をねじらせ、螺旋状にするりと動く。
俺のほうにまですさまじい水圧が激流となってあおられるのに、陽子の動きはそれを感じさせない。いや、水圧さえも利用して、自分の推力に変えているのか。
突然、陽子が息を吐きだす。
呼吸が限界に達したのだ。
陽子が吐き出した泡を切り、
陽子の体が弾き飛ばされ、鈍い音が水中に響く。
水が、赤く染まり、彼女の姿を隠してしまう。
――陽子!
とっさに、彼女のもとに向かおうとする。が、海中は水面以上に動きが悪い。もがけばもがくほど、遠ざかってしまう。
俺の腕に、固いものがぶつかった。
断面から赤く糸引く液体を伸ばしながら漂う――ちぎれた白い腕。
――ッ!
思わず息を吐きだす。
同時に、言いようのない苦しさを覚える。必死に水面のほうへと向かう。
「――ぶはっ」
海上の明るさにまぶしさを覚える。
何度か呼吸を繰り返すと、正常な思考が戻ってきた。
すぐに、陽子の姿を探す。そして、一瞬だけ見えた、ちぎれた腕も。
海の上は不気味なほど静かだ。海中の激しい攻防戦の痕跡なんて、すべて呑み込んでしまったみたいだ。
「陽子!」
答えるものはない。
かわりに、大きな黒い塊が水中から浮上してきた。
さっきの
動かない。
波に押されて回転すると、その腹部に大きくえぐれた痕があった。紫色の肉片が見え、どす黒い体液を垂れ流している。
「大丈夫だった?」
背後からの声に、叫びそうになった。
首をめぐらすと、いつもの気が抜けた笑顔の陽子がいた。
すぐに言葉が出てこない。
「いやー、ごめんね。あいつ、たまに見かけてたんだけど、岸まではこないから気にしないでいたんだ。まさか襲ってくるなんてね。ぶつけられたとこ、痛くない?」
「お、おま、お前のほうこそっ!」
とっさに肩を揺さぶる。俺の剣幕に、陽子は目を丸くして、両手をあげる。
両手が、ある。
「あ、れ?」
「お、お前、腕は? ちぎれてなかったか?」
「えぇ? あたしの?」
首をかしげながら、両手をひらひらさせる。
出血した痕跡すらない。
急に、自分が見たものに自信がなくなってきた。低酸素状態で見た幻だったのだろうか。
ばつが悪くなって、話題を変える。
「どうやってあいつを倒したんだよ。ナイフでも持ってたのか?」
「スピードがあったからね。固いモノをぶつければ、勝手に引き裂かれちゃうんだよ」
「固いモノ?」
右腕の肘を突き出す。
「肘とかね。ここ、骨が出てるからけっこう固いんだよ」
ふと。
彼女の右腕の肘から先が、少し色が変わっているようにも見えた。
「とりあえず、早くここを離れたほうがいいよ。血の匂いにつられて、ほかのもくるかもしれないから」
そういって陽子は洞窟内へ泳いで行ってしまう。
しかたなく、俺もそのあとを追った。
最後に、もう
もうそこに巨大な亡骸はなかった。
ちぎれた腕も。
俺のかすかな疑問さえ。
すべて、この深淵が呑み込んでしまったのか。
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